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ジプシー=ダンス

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第一章


第一章

                 ジプシー=ダンス
 スペインの港町セビーリア。ここはフラメンコが生まれた音楽の街だ。
 俺は今この街に来ていた。理由はない。ただ何となくだ。
 日本が面白くなくなったわけじゃない。彼女に振られたからでも気分転換でもない。旅行するなら何処がいいのかと思ったらたまたまここが目に入ったからだ。
「スペインなんだ」
 行く前に彼女に言われた。
「行くか?」
「ううん、どうしようかしら」
 俺の彼女は旅行があまり好きじゃない。この時もさして面白い顔はしなかった。それを見て俺はこの旅行は一人で行くことになるだろうと思った。
 その通りになった。パスポートの話になって彼女は言った。
「私やっぱりいいわ」
「行かないのかい?」
「お土産だけ頂戴」
「土産って言われてもよ」
 今一つピンと来なかった。スペインといえば闘牛にフラメンコ、あとは料理にワインだ。何でもオペラ歌手にいいのが一杯いるそうだがそれはあまり興味がない。
「何がいいんだよ」
「土産話でもいいわ」
「じゃあそれだな」
 それなら幾らでもありそうだった。俺は快く頷いた。
「それでいいな」
「闘牛聞かせて」
「それだけでいいのかい?」
「バルセロナのことも」
「ああ、そりゃ駄目だ」
「何で?」
「俺が行くのはセビーリアだからな」
「スペインなんでしょ、それでも」
「スペインでも広いぜ」
 俺はこう返した。
「バルセロナって確かスペインの右端の方だぜ」
「そうなの」
「それでセビーリアは南の方にあるんだよ。ほらな」
 地図を広げてわざわざ説明した。
「ここがバルセロナで」
「ええ」
「ここが俺が行くセビーリアだよ。なっ、滅茶苦茶離れてるだろ」
「そうね、確かに」
「まあ闘牛はあるだろうけれどな」
「じゃあその話聞かせて」
「わかったよ」
 土産はこれで決まった。
「ついでにパエリアも食べて来るぜ」
「ガスパチョもでしょ」
「いいな、それも」
 スペイン料理は好きだ。あの少しワイルドな感じがいい。鰻が多いのも俺の好みだ。そこに赤ワインがあれば言うことはなしだ。
「じゃあ楽しんで来てよ」
「折角だから来ればいいのによ」
 もう一回誘ったが結果は同じだった。
「やっぱりいいわ」
「そうかよ。それじゃあな」
「ええ」
 こうして俺は一人でスペインに行くことになった。旅行会社に紹介されたガイドさんと一緒にセビーリアの街を歩いていた。
「この辺りですかね」
 口髭を生やした陽気なガイドさんが俺にお喋りな口調で話してくれる。
「フィガロがアルマヴィーヴァ伯爵と会ったのは」
「ええと、フィガロの結婚の話でしたっけ」
「いえ、これはセビーリアの理髪師の話です」
「そうでしたか」
「そうです。登場人物は同じですけれどね」
「何か話がこんがらがりますね」
「そうですか?」
 オペラの話に詳しくない俺はどうもしどろもどろであったがガイドさんは違った。朗らかな様子で街を速い足取りで進んで俺に話してくれる。
「さっきから何か色々とオペラの話が出て」
「ここは多くの作品の舞台になっているんですよ」
「それは日本で聞いてましたが」
 それでも俺のオペラへの関心と比べてあまりにも多い量だったので覚え切れてはいないのが実状だ。
「まさかこんなに」
「驚かれました?」
「カルメンしか知りませんでしたから」
 知っていると言っても名前だけだ。流石にこれは知っていた。
「ほう、カルメンですか」
「この街が舞台ですよね」
「その通りです。けれど今はカルメンはいませんよ」
「そうですか?」
 見たところ街行く女は皆小柄で黒く波打つ髪を持つあだっぽい女ばかりだった。赤や黄色のロングスカートと黒いシャツがやけによく似合う。
「カルメンみたいな女の子は一杯います」
「成程」
「そしてオレンジもね」
 見れば至る所にオレンジの木がある。まるで柿の木がそこいらにあるみたいだった。それを考えるとここではオレンジが日本の柿にあたるのだろうか。
「多いですね、確かに」
「どうですか、これから」
 ガイドさんはニコリと笑って俺に提案してきた。
「オレンジでも」
「オレンジだけですか?」
「むっ、そういえば」
 言われて何かを気付いたようであった。
「もうお昼ですね」
「はい」
「それではシェスタ前に」
 ガイドさんは提案してきた。
「昼食といきましょう」
「いい店御存知なんですか?」
「何を仰るお客さん」
 妙に愛嬌のある言葉が返って来た。
「スペインですよ」
「はい」
「しかもセビーリア。何が言いたいかわかりますか?」
「いい店があると」
「そう、それも何処にでも」
 彼は誇らしげに述べた。
「その中でもね」
「ええ」
 自然と話に引き込まれてしまっていた。
「パエリアとステーキが美味い店がすぐ側に」
「じゃあそこに」
「しかも安い」
「いいことばかりですね」
「スペインはいい国ですよ」
 また誇らしげに言ってくれたがやはり嫌味なところはない。ここがスペインの不思議なところだった。
「美人も多いですし」
「じゃあ夜はその美人を教えてもらいますか」
「いいですよ。ただ今は」
「食事を」
「行きましょう。期待は裏切りません」
「では」
 こうして俺はパエリアとステーキ、そしてワインを楽しんだ。ガイドさんの紹介してくれた店は確かに美味かった。それで本当に安かった。もうフランス料理なぞ馬鹿馬鹿しくなる程だった。何とガイドさんもそれを俺に聞いてきたのだ。

 
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