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ハングリー=アイズ

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ハングリー=アイズ

            ハングリー=アイズ
 アメリカサンフランシスコ。アメリカの中でも有数の港街だ。港には船が途絶えることなく入って来る。今も汽笛が夜の闇の中に聞こえる。
 闇の中に時折光が見える。船と灯台の灯りだ。遠くからの光だがよく見える。まるで宝石みたいだ。そう、本当に宝石によく似ている。色とりどりで綺麗だ。いつもはそれを見て癒されるのに今は憎らしくて仕方がない。
「チッ」
 俺は懐にあるその宝石を取り出して舌打ちした。オニキスだ。彼女の誕生石だった。そう、だった。
 俺は今港にいた。前には海が広がり暗闇の中に波の音だけが聞こえる。横には倉庫が立ち並んでいる。サンフランシスコだけあって馬鹿でかい倉庫だ。だが今の俺にはそんなことはどうでもいい。
 今の俺にとってはあいつだけが全てだった。やっと貯めた金をはたいて買ったこのオニキスもあいつの為だった。何もかもあいつの為だった。
 しかしそれはもう終わった。終わっちまった。俺とあいつは今日終わった。それも突然にだ。
 夕方まで働いてグリースにまみれた作業服のままでオニキスを買いあいつの部屋に向かった。だがそこには誰もいなかった。代わりに不審に思う俺にあいつの隣の部屋の女が声をかけてきた。何をしているのか知らないがやけに派手な格好の女だ。バーでホステスをしているのかとは思っているが。違うかも知れない。その女が俺に声をかけてきた。
「あんたね」
「何かあったのか?」
 俺は女にそう尋ねた。
「ああ」
 女は沈んだ声でそう答えた。いつもは図々しい程明るい態度なのに今は違っていた。俺はそれを聞いて胸騒ぎが起こった。それはあっという間に俺の胸を覆っちまった。
「病院に行ってあげな」
「病院!?何があったんだよ」
 その時の俺の声はかなり焦ったものだったのだろう。胸騒ぎが胸から飛び出そうだった。
「教えろよ、何が」
「ああ」
 俺に肩を掴まれて問われ女は頷いた。そして答えた。
 話を聞き終え俺はバイクに飛び乗った。自慢のナナハンだ。日本のバイクらしい。カワサキかホンダかは知らねえ。だがアメリカのバイクより乗り易い。俺はこっちの方が気に入っている。それのエンジンにキーを入れた。だが上手く入らない。それを見てまた焦った。
「くそっ」
 いつもは入る筈なのに入らない。何か手が上手く動かない。それを見てまた焦る。焦りが止まらなかった。
 やっとバイクのアクセルをふかし走りはじめても焦りは止まらなかった。いや、胸騒ぎと一緒にでかくなる一方だった。俺は信号も何もかも無視してそのまま進んだ。女に教えてもらった病院に向かって。
 何処をどう言ったのかまったく覚えちゃいねえ。気がついた時には病院に着いていた。バイクから飛び降りてそのままあいつの部屋に向かう。ここも女に教えてもらった。
 部屋に来るとドアを開けて飛び込んだ。目に西の日差しが入る。夕方なのをその時に思い出した。
「貴方は」
 部屋の中に立っていた白衣の眼鏡の中年の男が俺に声をかけてきた。どうやら医者らしい。
「俺ですか」
「はい」 
 俺の問いに答えてくれた。
「ご家族ですか」
「え、いや」
 俺はそう問われて落ち着きを少し取り戻した。そして一息ついてから答えた。
「友達です。知り合いでして」
「そうですか」
 医者はそれを聞いて沈んだ顔になった。
「よく来られました」
「ええ」
「本当に」
「本当にって」
 話をしていて不安が増していく。医者の態度がおかしい。おかしいとしか思えない。
「何でそう勿体ぶるんですか。どうしたんですか」
「お話は聞いていますね」
「ええ」
 女からの話だ。アパートの前に轢き逃げにあったって話だ。よくある話だが聞きたくもないし信じたくもねえ話だ。少なくともあいつに関してはそうだ。
「それではおわかりですね」
「何が言いたいんですか」
 俺はそう言って医者を睨みつけた。
「俺にもわかり易いように言って欲しいんですけれど」
 自慢じゃないが俺は頭が悪い。学校じゃいつもビリの方だった。ハイスクールまで何とか卒業できたがそれも学校からのお情みたいなものだった。馬鹿なのはわかっている。
「では言います」 
 医者は観念したのかそう答えた。
「残念ですが」
「・・・・・・・・・」
 俺はそれを聞いて沈黙した。わかっていたがいざ聞いてみると黙るしかなかった。
 そこではじめて部屋を見る。医者の前にベッドが一つあった。そこにあいつがいた。
「貴方はこの方のお友達でしたね」
「ええ」
「お名前は」
「はい」
 俺はそこで自分の名前を言った。医者はそれを聞いて表情を消したまま頷いた。
「そうですか、貴方が」
「俺のことで何かあったんですか!?」
「はい」
 医者はここで一枚の紙を俺に取り出した。そこには紅のルージュでこう書かれていた。
『サヨナラ』
 と。それだけだった。
「・・・・・・・・・」
 また黙ってしまった。何て言えばいいかわからない。俺はそのルージュの字を見て呆然と立ちすくんでしまった。
「最後まで貴方のことを言っておられましたよ」
「そしてこの字ですか」
「はい。最後にこれを見せて欲しいと。それを書いて亡くなられました」
「そうですか」
 涙は出ない。だが言葉も出なかった。言葉を忘れちまったんじゃないかと自分でも思う程だった。それ程この時の俺は呆然としちまっていた。
「これからどうしますか?」
「これからですか」
「はい」 
 医者はまた頷いた。
「この方のご家族に連絡をとりたいのですけれど」
「こいつには家族はいませんよ」
「そうなのですか」
「何でもカナダからの移民でね」
 こいつはそう言ってはいた。だがそれは嘘だと思っていた。カナダから来たにしては言葉にカナダ訛りがないし何処かアジア系の顔をしていた。多分ネィティブの血が混じっていたのだろう。ネィティブは居留地から出る時家族と縁を切ったりすることがあるらしい。それでここに来たのだろう。シスコに。詳しい生まれは知らねえ。白人の血が混じるのもよくあることだ。そこまで考えるつもりは俺にはなかった。目が青いがそうしたアジア系が入った顔なのが俺の好みに合っていた。それだけで最初は声をかけた。
「家族もいないそうなんですよ。天涯孤独らしくて」
「そうなのですか」
 とりあえずはそう答えた。こいつもそれでいいと思っているだろう。
「それでは親しいお知り合いは貴方だけでしょうか」
「そうなりますね」 
 俺はそれに対してそう答えた。
「一応友達ですから」
 余計なことは言わなかった。それだけで充分だと思った。
「わかりました」
 医者は本当のことを知っているみたいだったが詳しくは聞こうとはしなかった。事務的に俺にそう答えた。
「それでは身元の確認やそういったことをお願いしますね」
「はい」
「後は・・・・・・」
 こうして話を続けた。一通り終えた時にはもう日が暮れていた。夜になっていた。 
 その日は病院に泊まることにした。明日の仕事は電話をして休みをもらった。まだ色々とやることがあるからだ。
 だが時間ができた。それで俺は今ここにいる。サンフランシスコの港に。バイクでここまで来た。
 潮風が前から来る。それが俺のくわえている煙草の火を揺らした。俺はそれを見ながら考えていた。
「一人になっちまったか」
 それが最初に浮かんだことであった。
「・・・・・・馬鹿が」
 そして一人そう呟いた。
「馬鹿だったな、最後の最後まで」
 罵るしかできなかった。もういないのはわかっているのに罵ることしかできなかった。それが俺の心をさらにささくれだったものにした。
 俺はこのシスコのスラムに生まれた。スラムというとニューヨークのサウスブロンクスが有名だがここにもある。アメリカの大きな街には何処にでもある。ピカピカなだけがアメリカじゃねえ。すさんだ反吐が出るような世界もアメリカだった。そして俺はその反吐が出そうな場所に生まれた。
 親父もお袋も朝早くから夜遅くまで働いていた。俺は兄貴や姉貴、そして弟や妹達と一緒に遊んだりバイトをしたりして
生きていた。ここじゃガキでも働かなくちゃやっていけねえ。そうでもしねえと学校にも行けねえし食い物もねえ。金が
なけりゃ何にもできねえのは何処でも同じことだ。
 兄貴達も姉貴達もハイスクールを卒業するとどっかへ行っちまった。何処へ行ったのかわかりゃしねえ。ただ一つ言えることはこのスラムから出て行ったことだけだ。夏には猫よりでけえ鼠がドブの底を這い回り冬にはベッドの中で凍え死ぬ奴がいる。朝起きたら頭を銃で撃ち抜かれてくたばっちまってる。俺と同じ歳の奴がクスリやったりウリをやったりしている。酒ばかり飲んでもう壊れちまってる奴もいる。どうしようもない荒んだ世界だった。俺が生きてきたのはそんな世界だった。それがスラムだった。
 俺も兄貴や姉貴達と同じでハイスクールを卒業するとさっさとスラムを出た。もうこんなところには一秒でもいたくはなかった。学校をさぼって働いて貯めた金を持ってスラムを出た。親父にもお袋にも弟や妹にも何も言わなかった。言うつもりもなかった。向こうもさよならなんて言って欲しくはないだろう。それがスラムだった。俺はその反吐が出る世界を後にした。だがその先にいいものがあるなんてこれっぽっちも思っちゃいなかった。どうせスラムから出て来た青臭いガキだ。死ぬまでこき使われて野垂れ死にすると思っていた。
 実際にそうだった。朝から晩まで働いた。借りた安い今にも崩れ落ちそうなボロアパートでシャワーだけ浴びて寝る。こうした生活だった。何時までもそうやって生きて死ぬとばかり思っていた。あいつに会うまでは。
 俺があいつと会ったのは夜の街だった。仕事が終わり安い酔いだけ異常に回る酒をあおりながら歩いていた。そしてそのまま道の上で寝転がった。轢き殺すのならそうしてくれと思っていた。俺みてえなクズは死んでも何も変わりはしねえし誰も悲しんだりはしねえ。そう思って道端に寝転がった。そこで女の声がした。
「ちょっと」
「ん!?」
 俺はそれを聞いて酔いの回った目を開けた。あまりよくは見えなかった。そこにあいつがいたがその時はよくわからなかった。まるでその時の俺の心の目のようだった。
「何こんなところで寝ているのよ」
「いいじゃねえか」
 俺はめんどくさそうにそう言葉を返した。
「俺が何処で寝ようと御前に関係あるのかよ」
「あるって言ったら?」
「ふん」
 俺は鼻で笑った。
「御前は他人だろうが。他人が何言ってやがる」
「他人でも迷惑ってのがあるのよ」
「しらねえな」
 そんなこと俺の知ったことじゃなかった。
「他の奴がどうなろうとな。俺だってそうだよ」
「死んでもかまわないの?」
「そうさ」
 酔いながら心にあることをそのまま吐き出してやった。
「どうせ死ぬんだ。それなら野垂れ死んでもいいだろうが」
「何馬鹿なこと言ってるのよ」
「そうさ、俺は馬鹿なんだよ」
 その時今までのことが頭に浮かんだ。スラムでの何もねえ生活ばかりだった。思い出したくもねえ記憶ばかりだ。俺の思い出も夢もそんなのばかりだった。ろくでもねえ、そんなことばかりだった。それでどうやって他人がどうとか言えるんだか、自分のことすらどうでもよかった。
「馬鹿だからな、どうなってもいいんだ」
「じゃあここで死んだら?」
「車でも来たらそうなっちまうな」
 これは事実だった。
「それでいいさ。それで何もかも終わるってのならな」
「どうやら本当に馬鹿みたいだね」
「悪いかよ」
 あいつは心の底から呆れた声を漏らした。
「立ちなさいよ、とにかく」
「嫌だね」
「じゃあ引き摺ってやるわ」
「えっ!?」
 俺は最初あいつが何を言ったのかわからなかった。だが気付いた時には本当に引き摺られていた。ズルズルとまるで映画の死体を処理する時みたいに俺は道の端に引き摺られた。
「これで大丈夫ね」
「余計なことしやがる」
 俺はそう悪態をついてやった。
「何でこんなことするんだよ」
「迷惑だからさ」
 あいつはそう答えた。
「さっきも言っただろ、俺は他の奴のことなんか知ったことじゃねえんだ」
「あんたいつもそうやって生きているの?」
「ああ、そうさ」
 俺は答えた。これも本当のことだ。
「それが悪いのかよ」
「あんたさあ、そんなことでいいの?そんなどうしようもないことばかりで」
「別に」
 そんなことは全然構わなかった。
「どうでもいいことだからな、俺のことも」
「じゃあこれからどうなってもいいんだね?」
「まあな」
「あたしの部屋に来ても」
「このまま引き摺ってくれるのかい?」
「まさか。乗せてやるよ」
 あいつはニヤリと俺を見下ろしてそう言った。
「バイクでね。あんたバイクは乗るかい?」
「一応な」
 その時はレストアした安物に乗っていた。これも何時潰れてもおかしくはなかった。そんなオンボロのバイクだった。
「俺に相応しいとんでもねえのだぜ」
「あんたは本当にどうしようもない奴だね」
「悪いのかよ」
「ああ、悪いさ。だからきな」
「へっ」
 そんな話をしている間に俺はバイクの後ろに乗せられた。辿り着いたのは俺のアパートから少し離れた場所にあるアパートだった。少なくとも俺がその時住んでいたところよりはずっといい場所だった。
「どう、いいとこだろ」
「まあな」
 少し酔いが醒めてきた。俺はそこではじめてあいつの顔をしっかりと見た。
 見れば少し感じが違っていた。少なくともシスコによくあるような顔じゃなかった。黒人でもなければヒスパニックでもなかった。どっちかといえばアジア系に近い顔だった。金髪に少し黒が入っていて肌も完全に白くはなかった。だが日本人や中国人の肌とは少し違っていた。
「ネィティブか?」
 俺はふとそう思った。ネィティブならスラムにも一人いた。まじない師をして暮らしている妙な婆さんだった。何かよくわからなかったば怖い婆さんだったのを覚えている。
 そういえばあの婆さんも赤い肌をしていた。あいつの肌は少し赤味があった。それでそう思ったのだ。
「入りな」
「あ、ああ」
 そう言われて中に入った。中は案外こじんまりとしていた。質素だが一通りある部屋だった。少なくともベットと他に少し身の周りのものがある程度の俺の部屋とは全然違っていた。
「そこ、あいてるよ」
「わかった」
 俺はソファーに寝転がった。そのまま寝ちまおうと思ったが止めた。あいつに対して言った。
「何で俺を部屋に入れてくれたんだ?」
「あたしに似てたからさ」
「あんたにか」
「ああ」
 あいつは今度はにこりと笑った。
「あたしはね、最近このサンフランシスコに来たんだ」
「何だ、余所者か」
「まあね。あんたはどうなんだい?」
「俺はここの生まれだ」
 俺は寝そべったままそう答えた。
「スラムのな」
「そうだったの」
 特に驚いた様子もなかった。俺はその様子が気になってまた問うた。
「おかしかねえのかよ」
「何が?」
「俺がスラム出身でよ。何も思わねえのかよ」
「どうしてそんなこと思うんだい?」
「えっ!?」
 逆に俺が驚きの言葉を漏らしちまった。今となっちゃ笑い話だ。
「あんたの過去なんてどうでもいいんだよ、あたしにはね」
「どうでもいいのかよ」
「そうさ。問題はこれからだ」
「月並みな台詞だな、おい」
 こう言っても奇麗事だ。所詮人間てのは過去やみてくれとかしか見ない。それは俺がスラムで生きてきて嫌という程知ったことだ。だから今もろくでもない仕事をして壊れそうなボロアパートに住んでいる。違うと言えるのなら言ってみやがれ、いつもそう思っていた。
「けれどそうじゃないのかい?」
「そうかな」
 嘘だ、とはこの時は言わなかった。
「そうさ。昔のことなんて変えられはしないだろう?」
「ああ」
 今更何を言ってやがる、答えながらそう思っていた。
「それならこれからが大事じゃないか。違うのかい?」
「それは奇麗事じゃねえか」
 俺は遂にそう反論した。
「奇麗事で世の中渡っていけるのかよ。そんなことを言っても俺のスラムから出たって事実は変わりはしねえよ」
「だから何でそうスラムを気にするのさ」
「気にしちゃいねえよ」
 これは嘘だった。嘘なのは俺が一番わかっていた。
「そのまんま本当のことさ。俺はスラムから出て来たクズだ。それ以外の何者でもねえよ」
「じゃあそこから何にも変わるつもりもないんだね」
「変われる筈がねえだろ」
 段々イライラしてきた。酒の酔いも醒めてきた。
「俺がスラム出である限りな。反吐が出るような場所だったんだ」
「けれど今何とか生きているじゃない」
「生きてはいるがな」
 それが何になるっていうんだ、そう言いそうになった。だがあいつがそれより前に言った。
「あたしはねえ」
「ああ」
「今日生きていられるだけで幸せだと思うけれど。違うのかい?」
「そういう考え方もあるかもな」
 悪態をつこうと思ったが止めた。気紛れでそう言ってやった。この時何でこんなことを口にしたのか今でもわからねえ。ひょっとするとこれが運命ってやつだったかもしれない。
「じゃあ今日からそうしたら?」
「今日からかよ」
「そう思ったらすぐにやった方がいいだろ」
「そりゃそうだけれどな」
「決まりだね。まあ今日は泊まっていきな。そして頑張ればいいさ」
「頑張るか」
 聞いたことのない言葉だった。何の目的もなくただ生きていただけの俺にとってそんな言葉は全く縁のない言葉だったからだ。聞いてみるとやけに新鮮だった。
 その日は寝てすぐに職場に向かった。そしてとりあえずは仕事を止めた。そして別の真っ当な仕事を見つけた。工場の仕事だ。バイクや自転車を扱っていた。
 そしてアパートもボロアパートから普通のアパートに入った。そしてそこで普通の生活をはじめた。俺もとりあえずは人並みの生活を送ることにした。
 その間ずっとあいつと会って話をしていた。いつも俺に親身になって話をしてくれた。何時の間にか俺はあいつがいなくちゃどうにも寂しい程になっていた。
「何だよ、また来たのかい」
「ああ」
 こんな感じで俺はいつもあいつのアパートに入った。酒や食い物を持って来てだ。
「どうだ」
「ビーフジャーキーかい」
「好きか?」
「牛はね」
 あいつはそう言ってくすりと笑った。
「バイソンも食べてきたしな」
「バイソンもか?」
「ああ。匂いが強いけれどね」
 俺は食べたことがなかった。聞いた話だと保護されているらしくて滅多に食べられないらしい。俺がこいつはネィティブの血を引いているのかと思ったのはこの時もだった。
「慣れれば美味しいよ。干してもいけるしね」
「そうなのか」
「それをビールでやるんだ。最高だよ」
「ビールならあるぜ」
 俺はここでこう言ってビールを差し出した。
「黒だ。どうだい?」
「いいね」
 あいつは酒が好きだった。俺が持って来た酒をいつも旨そうに飲んでいた。
「頂くよ。あたしも持ってるよ」
「バーボンか?」
「いや、ウイスキーさ。いいのがあるんだけど」
「もらおうか」
 そして俺は氷の割れる音を聞きながらその酒を飲む。きつい感触が口と胃の中を支配する。ウイスキーを飲んでいるという実感が沸いた。
「旨いな」
「そうだろ、あたしの故郷の酒なんだ」
「何処のだったっけ」
「ええと」
 あいつはこういう時いつも一瞬戸惑った。
「カナダのだよ。いつも言ってるね」
「まあな」
 それが嘘だからいつも尋ねているのは暗黙の了解だった。カナダの酒じゃないのはわかっていた。俺はウイスキーはあまり詳しくはないがそれ位はわかる。
「カナダの酒ってのは強いな」
「寒いからね」
 騙されてやる。あいつもそれに乗る。
「どうしても強くなるんだよ」
「そういうものか」
「けれどいい酒だろ」
「そうだな」
 これは事実だった。このウイスキーは本当に美味かった。
「一度飲むとな。病み付きになりそうだ」
「そうかい。じゃあもう一杯いくか?」
「ああ」 
 そしてまたまもらう。俺達は飲みながら話をした。
「なあ」
「何だよ」
 話し掛けるのはいつもあいつだった。
「あんた、いい目をするようになったね」
「そうか」
 そんなことを言われてもわかる筈もなかった。
「そんなことは思わねえがな」
「いや、いい目をしてるよ。何か光が出て来たよ」
「光かよ」
 それを聞くとおかしくて仕方がなかった。
「じゃあ最初に会った時の俺の目はどんなのだったんだよ」
「死んでたね」
「へっ」
 笑わずにはいられなかった。
「死んでたか。そうかもな」
 あの時の生き方を思い出すとそうかも知れない。それはわかるつもりだ。
「けれどね、本当に変わったね」
「目が」
「目でわかるんだよ。あんた本当によくなったよ」
「よくなったかね、本当に」
 とりあえず真っ当にやってはいる。ただそれだけのことだったが。
「その目のままでいなよ。そうすればいけるから」
「何処に行くんだろ」
「そう言われてもね」
 あいつもそう問われてかえって困ってしまった。しかしそれは一瞬のことだった。
「とりあえず何か目標持ったらどうかな」
「何に持つんだよ」
 それを聞いて思わず苦笑しちまった。
「何でもいいんだよ」
「何でもか」
「ああ」
 あいつはそう言って頷いた。
「何でも目標を持てばいいんだよ。そうすれば頑張れるだろ」
「そういうものかな」
 俺にはよくわからないことだった。
「よくわからねえが」
「そういうもんだよ。あたしだってそうだったんだ」
「御前が?」
「そうさ。ここに来て暮らそうと思ったんだ」
「アメリカにか」
「まあね」
 そう言って照れ臭そうに笑った。
「あたしはね、アメリカに憧れていたんだ」
「こんな国にかよ」
 俺にとっちゃあアメリカはスラムだった。それ以外の何でもなかった。反吐が出る、腐った世界だった。
「面白いことを言うな」
「あんたは中にいるからそう言えるんだよ」
「そういうものか」
「そうさ。あたしみたいな人間にとっちゃあね。アメリカは眩しいんだよ」
「わからねえな」
 本当にわからなかった。眩しいものなんかアメリカにあるものかと聞きながら思った。
「こんな国が眩しいのかよ」
「ああ」
 あいつはまた答えた。
「だからここに来たんだ」
「そしてどうするつもりなんだい?その夢を適えるのか」
「まあね」
 うっすらと笑って頷いた。
「ささやかな夢だけれどね。あたしにとっちゃでっかい夢なんだ」
「どんな夢なんだ?」
 今度は俺が尋ねた。
「そんなに大事にしてるなんて」
「今は勘弁してくれないかい」
「言えねえのかよ」
「御免な。そのうち言うから。それでいいだろ」
「じゃあそれでいいさ」
 深く聞く気も必要もなかった。俺はそれ以上は聞かないことにした。だがその夢って言葉がやけに心に残った。こんなこともはじめてだった。俺はまた聞かずにはいられなかった。
「なあ」
「何だい」
「俺も夢を持てるのか」
「当たり前じゃないか」
 笑って答えたそれが答えだった。
「誰でも持てるんだよ。持っていいんだよ」
「そうか」
 言われても今一つ実感が湧かない。
「じゃあ俺も持ってみるか。何でもいいんだな」
「ああ。とりあえず真っ当なものならね」
「わかった。じゃあ今からそれを探すぜ。いいな」
「応援してやるよ」
「ありがとな」
 こうして俺はその夢を探すようになった。それが何なのか最初はまるでわからなかった。寝てる時に見るあれかと思ったが
どうもそれでもないらしい。
「何なんだ」
 俺は次第にわからなくなってきた。夢が何なのかを。
「何が夢なんだ」
 考えながら生きていった。考えているうちに少しずつわかってきた気がした。その間に俺とあいつは次第に仲が深まり付き合うようになった。所謂恋人ってやつだ。
「なあ」
 俺は今度は俺のアパートであいつに聞いた。テレビを囲んで話をしていた。
「何だい」
 あいつはテレビから俺に顔を向けてきた。テレビではスターウォーズのエピソード2をやっていた。丁度ダースベイダーがルークと戦っていた。
「折角いいところなのに」
「けれどそこは何度も観ただろう」
「まあね」
 あいつはそう答えてにやりと笑った。この映画はもう誰でも何度でも観ている。俺も飽きるまで観た。台詞を全部言える程だ。特にダースベイダーが好きだ。
「だったらいいじぇねえか。それでな」
「ああ」
 あいつは完全に俺に顔を向けてきた。
「この前の話だけどな」
「夢のことかい?」
「ああ。それって結局何かをしてえっていう目標のことか」
「難しく言うとそうなるだろうね」
「難しくかよ」
「そうさ。簡単に夢って言うだろ、普通は」
「そういうものか」
「普通はそうだろ。違うのかい?」
「いや、そう言われてもな」
 俺にはとんと見当のつかないことだった。
「よくわからねえや」
「まあいいさ」
 あいつはそれを聞いたうえで俺に対してそう言った。
「そうしな。それでいいから」
「そうなのか」
「ああ。夢を持つんだよ、いいね」
「わかったぜ」
「よし」
 こうして俺はとにかく目標を持つことにした。同時に本当にあいつが好きになってきた。一緒にいたいと思うようになってきた。惚れちまったわけだ。
 何となく目標が見えてきた。とりあえず俺は金を貯めることにした。
 仕事を増やした。バイトをはじめた。そして好きだった酒を止めた。煙草も止めた。
「何かあったのかい?」
「別に」
 俺はぶっきらぼうにそう返した。
「ただな。夢を持ったんだよ」
「やっとかい」
 あいつはそれを聞いて顔を明るくさせた。
「そうさ、今その夢の為に頑張ってるんだ。どうだい」
「それだよ」
 あいつは俺を励ますようにそう言ってくれた。
「そうやって夢を持ってるとね、いいんだよ。そうしたらやれるだろ」
「ああ」
 その夢が誰なのかはあえて言わないでおいた。
「やってみるぜ、応援してくれよ」
「勿論さ、それが適ったら二人で飲もうな」
「約束だぜ」
「おう」
 そして俺はただひたすらがむしゃらに頑張った。遂に金が貯まった。俺はあいつの誕生石であるオニキスを買った。あいつの誕生日にそれを渡すつもりだった。それから言うつもりだった。つもりだった。
「ケッ」
 俺は今港にいる。あいつとのことが頭にどんどん浮かんできた。それだけで嫌になる。
「こんなことになっちまうなんてよ。何でだよ」
 俺の青い目に何かが出て来た。涙だった。
「くそっ」
 それだけでさらに嫌な気持ちになった。無生に辺りに怒鳴り散らしたくなる。だが誰もいない。
 手の中にオニキスがあるだけだ。俺はそれを海へめがけ投げ込んだ。もう必要のないものだからだ。
「こんなもん」
 もういらない。渡す相手のねえ宝石なんざゴミと一緒だ。同時に俺の夢も投げそうになった。だがそれを何かが止めた。俺の手が止まった。
「いや」
 それを投げるわけにはいかなかった。投げたらまたあの荒んだ生活に戻ると思った。それだけはやっちゃ駄目だとわかっていた。それは踏み止まった。
 オニキスだけが海に沈んだ。水の中に落ちる音が暗闇の中に聞こえた。それだけで全部わかった。見えないが見えていた。この意味も今やっとわかった。
 オイルとグリースまみれの服と身体に夜の寒さが滲みる。まるで俺の心にまで染み入ってくるようだった。こんな寒さははじめてだった。
 その寒さに耐え切れなかった。俺は病院に戻ることにした。こんな俺でもいてやったらあいつが喜ぶだろうと思った。
 朝日に海が浮かぶ。汚れた海だ。だがその中には夢が眠ることになった。
 俺はその夢を忘れはしない。あいつはいなくなったが。それが夢というものなら俺は何時までも持っていてやる。あいつがそう教えてくれたからだ。餓えた何も知らない俺の目を夢で満たしてくれたのだから。


ハングリー=アイズ   完


               2005・6・28 
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