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浮橋

作者:斉藤
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前編

 
前書き
未来捏造
 
 
  

 
 進藤は、北斗杯が終わって十数日経った頃、囲碁サロンへ顔を出した。たまたま自分も来ていて、自動ドアの向こうからその姿を表した時、少し驚いた。約束も無く来た彼は、しかし市河さんに軽く挨拶すると、まっすぐ僕の元へ来て、
「ん」
 茶封筒をこちらに差し出した。A4程度の茶封筒。
「何だ?これは」
「棋譜」
 彼の声はそっけなかったが、その顔つきは、その声ほど柔らかくはなかった。彼と今しがた手渡された茶封筒とを見比べている間、それ以上何も言わないものだから、糊も貼られていないその封を開けようとした。
「こんなところであけんな」
「だから、いったい何なんだ」
「絶対誰にも見せんなよ。渡したからな」
 用件はそれだけだったらしく、彼はすぐさま囲碁サロンを後にした。
 彼はまるで不貞腐れているかのように見えた。自分が普段知る彼は、感情を表す以外の事を知らなそうだったから、たまに見せる、そうした生真面目な顔つきが珍しい。真剣な彼の思いを託されたであろう茶封筒は、しかしひどく軽かった。きっと、一枚しか入っていない。
 これが事の始まりだった。
 週末、特に決まった時間でなく、進藤は茶封筒を持ち、囲碁サロンへ来るらしかった。というのは、僕がいない時は、あの茶封筒を市河さんへ預けてしまうからだ。中に入っている棋譜は最初こそ一枚だけだったが、入っている棋譜の枚数に、決まりはなかった。時には数十枚も入っていた事がある。市河さんに預けるとき、セロハンテープが封筒へバッテンを描くように貼って、封されており、毎度ながら呆れる。同年代の社会人として心配だ。と、ぼんやりと冗談を思う。彼から受け取るこの封筒を、切って開ける気にはなれなくて、こんな時は、いつも綺麗に剥がすよう苦心する。
 中に入っている棋譜に、期日や対戦者など、親切な記述は皆無だった。何手目なのかの記述すら無い場合もある。石の形を見れば手の分かる対戦に顕著だったため、不精でそうしたのだろう事が手に取るように分かった。その不精は怠惰で無く、焦りのようだった。
 鉛筆で走り書きし、ボールペンで一手一手を追って清書し、微塵も下書きを消すつもりが無い、彼。
 茶封筒を持たない進藤は、北斗杯以前と変わりなかった。あの対戦で得た成長は、声を張り上げながらしていた検討に終止符を打たせていたが、進藤は相変わらず快活で無遠慮な態度だった。そんな彼に、茶封筒について言及する事はしなかった。僕には、彼の意図を読み違えていない自信があった。
 僕が一人暮らしを決めた時、進藤は第一口に住所を教えろと言い放った。あんまりそれが当然のように思えたので、皮肉一つ言わず住所を書いた紙を渡してしまった。それからは、郵便受けから茶封筒を取り出す事が、僕の、週の日課となった。たまに封は閉じられていない事もあるが(近くによる用があったのだろうが、不思議と鉢合わせる事は無い)、茶封筒は丁寧に糊付けされるようになった。おかげで、ペーパーナイフが使い物にならない事が多い。切手が斜めになっていたり、宛名の字が頼りなかったり、彼は相変わらずのようだ。
 自分でも甲斐甲斐しいと苦笑してしまうが、僕はこの棋譜を保存するために、事務用品のカタログをチェックまでして、書類ケースを購入してしまった。悔しいので、後々、機会があれば、彼へ料金を請求しようかと考えている。
 整理といえば、封筒に受け取った日時を記し、引き出しの中へ重ねて入れる程度であり、管理といえば、引き出しの錠を落とし、その鍵をキーケースへ入れ、持ち歩く程度だった。簡易金庫を購入し、そこへ鍵を仕舞うぐらいで事は足りたのだろうが、あの棋譜に関連する全てを家に置き去りにしては忍びなかった。持ち歩いているのは、いわばお守りだ。この鍵を落としたとて、僕は慌てもしなかっただろう。その程度の鍵だった。家に足を踏み入れた誰かがふと、目に触れるような事を防ぐ程度であれば良い。
 茶封筒は、進藤がうっかりでもしない限り、周期を保って引き出しを埋めた。「二人」はどのぐらい対戦を重ねていたのだろう。引き出しの容量が心配だ。僕はもう一台同じ書類ケースを購入した。また、これを機に、居間の片隅に置いていた書類ケースを書斎へ移動する事にした。以前購入した際に確認した大きさを忘れていたが、今や両方を横に並べ、幅140、奥行37、高さ120cmだった。随分部屋の幅を取るが、上を棚代わりにして物を置く気にはなれない。本棚やデスクなど、家具は木製で揃えていたので、部屋に、書類ケースの、スチールのフォルムはそぐわないように見えた。
 かれこれ数年経ち、お互い忙しい身となり、顔を合わせる機会は少なくなった。しかし時代は進み、棋譜のデジタル化も進んでいる今、ソーシャルネットワークは発達して、お互いの活動を気軽に確認できるようになっていた。それでも、依然として茶封筒は郵便受けに届けられる。今や、その周期は一ヶ月に一度だ。
その月、とうとう茶封筒は届かず、訝しんでいると、ソーシャルネットワークを通してメッセージが届いている事に気付いた。届いている日付は二日前である。月の終わる一日前に出してくれていたらしい。
『このサイト見つけた時にゃ感動した!!全部目ぇ通せよ。』
 文面に呆れつつ、記されたURLをクリックする。そのサイトはシンプルな体裁をしていて、上部には大きくタイトルが掲げられていた。「saiデータベース」。
 僕はこのサイトを知っていた。僕が見つけたのは、進藤から茶封筒を渡されるようになって、一年経つぐらいだったろう。このサイトは、saiに魅せられた1人の人物が立ち上げたのが事の始まり。それから不特定多数の人の手によって次々と対戦記録が持ち寄られ、自由に棋譜が見れるようになっていた。棋譜によっては、対戦者本人のコメントや管理人の考察が載っている。棋譜ばかりでなく掲示板やチャットが設置されており、logとして交わした議論の内容なども整理しているようだ。生憎、僕は棋譜に目を通し終えると閉じてしまって、ネット上でどんな見解が繰り広げられているのかは疎い。
 しばらく見ない間に見やすくなっていた。追加されていた棋譜に気付き開いてみたが、内容を目で追う前に、思い直してすぐ閉じた。進藤に返事を書く。「そのサイトはすでに目を通してある」
 最近送られる棋譜は、紙がよれている。きっと、随分前に書いていたのだろう。そんな棋譜が届けられると同時に、見慣れた打ち手の1人は影を潜めた。その空いた席を埋める対戦者は、棋譜ごとに違う。今まで継続して見てきた棋譜は、脈々と続く一筋の道を感ずるところがあり、一言で言うと壮絶だったが、これらの棋譜は、心が踊る。特に、ある二枚の棋譜は斬新だった。一枚目は中押しで終わり、二枚目になって、中押しとなった盤上を、劣勢だったはずの側が逆転していた。どうしてそんな打ち方をしたのか想像できなかったものの、たったこの二枚で、使用する石を交代したその様が分かり、さぞやこの対戦者は驚いただろうと、思わず笑みが零れた。
 茶封筒が届かなくなった一ヶ月後、進藤は僕の家に訪れた。今まで送った棋譜を改めて見たいというのだ。棋譜を見届けた感想を言おうと、僕が口を開きかけた時、彼は慌てて言った。
「悪い!まだ聞きたくないんだ。まだ、先なんだ」
「・・・そうか」
 謝罪の言葉を述べようとして、しかしまた彼は声を被せる。
「いやさ、本当はもう話すべきだし。・・・俺だってこれを始めた時は、全部送り終わったらって思ってたんだ。けど、なんだか上手く言える自信がなくなってきて・・・」
やっぱ、ちゃんと学校に通って、国語を人並みできるようになるべきだったな。そんな冗談を彼は言う。
「ごめんな。勝手に月一にして長引かせたりもしちゃったし」
「そんな事はいい。君のおかげで、忍耐には自信がある」
「嫌味かよ!」
 会話もそこそこにし、彼が棋譜を見るのに没頭し始める前に、居間で待っている旨を伝えて、書斎を後にする。
 正直、とうとう真実を知れるものと期待していたのが本音だ。一体いつまで待たせるつもりなんだ、あの馬鹿は。思い馳せると、もうすぐ五年が経つ頃だ。来たるべき日は過ぎた。進藤のやった事は正しい。自信をもて。あらゆる憶測も、あらゆる妄想も、あの棋譜の前ではなす術がなかった。最早、手立ては、進藤の口から語られる真実のみだ。もう何も残されていない。
 何だか随分ぐったりしてしまって、僕はソファへ寝そべった。思った以上に、この日について緊張していたようだ。
 体が揺さぶられた。自分を呼ぶ声が聞こえる。瞼を開いて、ああ眠ってしまっていたと気付いた。
「家の主が寝てんなよな」
 夕暮れの日差しが、何の遮りもなく部屋に入り込んでいる。
「暗いな、電気をつけてくれても構わなかったが」
「スイッチどこだよ」
 僕はぼんやりとした心地のまま、壁に掛けてあるリモコンまで歩いて、そのボタンを押す。やや点滅をした後に照明が部屋を照らし、眠気眼にその明るさがしみた。
「お前がそんなにだらしないの、初めて見た!」
 茶化す進藤に、寝起きで自制の緩い精神の、怒りの沸点は低く、思ったよりも低い声が出た。
「気は済んだのかい」
「ん?ああ」
 歯切れ悪く笑って、短い笑い声の後、彼は言った。
「ありがとうな。あんなに良くしてくれてて、嬉しかったよ。本当は、今日、棋譜全部持って帰るつもりだったんだけど・・・あのまま、お前、持っててくれるか?」
 まーそもそも、あの量、今日持ってきてたカバンには、収まり切らなかったんだろうけどな!そう言ってのける彼を目のあたりにして、僕は惚けた。
「持って帰るつもりだったのか」
「いや、持って帰らない。お前にやるよ」
 その言葉を聞き届け、僕は思わず叫んだ。
「ふざけるな!」
 進藤は動じなかった。むしろ僕の方が、自分の出した声に驚いていた。
「あんなもの、人に預けるなんて、どうかしてる。あれがどんなものなのか、分かっているのか」
「・・・分かってるよ」
「分かっていない。君は、分かってない・・・!」
 この感情の昂りはなんだろう。やはり、過ぎた事だったのだ。今になって、僕自身、あの棋譜の重みを知ったのかもしれない。5年。いや、5年過ぎるのはまだ先だ。だが、長かった。僕は彼に何か言える程、棋譜に気を留めてはいなかった。あの棋譜が存在するその脅威は、日常と共に薄れていった・・・。
「ありがとうな」
 もう一度、彼は言う。
「持って帰るよ。今日だけじゃ持ち切れないけど。俺のわがままに付き合わせて、悪かった、覚悟を決めるよ」
「いや・・・君が謝ることじゃ無い。今のは僕が悪かった」
「今年の5月5日・・・」
「え?」
「その日、話す事にする」
「・・・・・・こどもの日?その日がいったい、」
 僕はハッとして口を噤む。
「大切な日なんだ」
 その迷いない返事に、僕は息を吐いた。
 そうだ。あの棋譜に記された事実には、恐れることも臆することもいらない。  
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