魔狼の咆哮
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第二章その十
第二章その十
窓が開いていた。濃い青がかった紫の空に黄金色の淡い光を放つ満月が輝いている。何かが黒く重厚な黒檀の机の前にいた。その何かに拳銃を向ける。
「誰かと思えば・・・女か」
そこには黒い野獣がいた。夜の闇に溶け込みそうな程黒い毛に身体を覆われ突き出た口から白い蒸気の様な息を発しつつ紅い舌を蠢かさせている。その口には鋭い牙が生えている。その牙は闇夜の中でも白く輝いている。
眼は紅、いや血の色だった。殺意と貪欲に満たされた邪悪な眼だった。
服は豪奢な絹のものであった。何処で奪ってきたものであろうか。
目の前にいる野獣、それこそ彼女が追っている人狼であった。
「・・・下らん。俺は年増には興味は無い」
「・・・答えろ、どうやってこの部屋に入った」
「ククク、愚問を」
中尉の問いに人狼はせせら笑った。
「この屋敷がわが一族の屋敷、隅から隅まで知っておるわ。入り込むなぞ造作もないこと」
「ずっとこの屋敷にいたというのか」
「ふん、軍きっての切れ者というのは噂だけだったようだな」
「何!?」
「この屋敷のことは全て知っていると言っただろう。抜け道も、警護の緩い場所も。シラノの奴に気付かれぬようにするだけで全ては問題無い」
「シラノ・・・カレー氏か」
中尉は目の前にいる野獣が何者であるか確信した。
「貴様、やはり・・・」
「そう、貴様の予想通りだ」
人狼は不敵に笑った。
「俺はカレー家の者。アンリ=ド=カレーだ。シラノの従兄弟よ」
「そして一連の事件の実行者」
「事件!?ふん、無粋な女だ」
アンリの口が耳まで広げられた。
「あれは全て俺の芸術品よ。美しき少女達をキャンバスにしたな。どれも素晴らしい作品だろう」
紅い眼がゆっくりと細められる。笑っていた。血に飢えた異形の者の笑いだった。
「かって俺の父上はその才を一族の者達に理解されず追放された。そしてしがない画家として一生を終えた。俺に芸術の素晴らしさを語られながらな」
笑いながらもアンリの両眼には怒りの色の絵の具が混ぜられた。
「父上がお亡くなりになられる時俺は決心した。父上を認めなかったカレー家の者共に父上が愛された芸術を教えてやろうとな」
「そしてこのジェヴオダンで次々と少女を殺め陵辱したというのか。何の罪も無い少女達を」
「罪の無い?ふん、人間共に罪が無いだと」
この時アンリは『人間共』という言葉を使った。この言葉で中尉は確信した。アンリは人ではない、と。心の奥底から、いやその黒い毛の末端に至るまで異形の存在なのだと。
「人間共は存在自体が罪なのだ。世の中を見よ、人間共は悪行の限りを尽くしたの者を虐げ己が欲望だけ満足させておるではないか。裏切り、嘲り、殺し、盗む。その様な汚らわしい連中を俺が芸術にしてやっているのだ」
「芸術か、よくそんなごたいそうな事が言えるな」
中尉の翠の瞳に怒りの青い炎が宿った。
「貴様が殺した少女達の未来を、人生を、幸福を奪っておきながら」
「それを他の者から奪うのが人間共だ。貴様も今までの人間の歴史がどの様なものか知っているだろう」
「・・・・・・・・・」
アンリが何を言いたいのか中尉は痛い程わかっていた。
「人間共の歴史は汚辱の歴史よ。その汚辱にまみれた連中にせめて素晴らしい最期を与えてやっているのだ」
パチパチパチパチパチパチ
何処からか拍手が聞こえてきた。その数は二つであった。
拍手の主達はドアの後ろにいた。月の光に照らされながらゆっくりと部屋に入って来る。
「貴方達は・・・・・・」
本郷と役だった。中尉の左前に立ちアンリに正対する。
「素晴らしい歴史の講義だ。日本の大学ではこれ程高尚な講義は聞けない」
「全く。まあ俺は歴史の授業はいつも寝てるか早弁してましたけどね」
役の言葉に本郷が相槌を打った。
「だから君は何かと抜けが・・・まあいい。アンリといったな」
「ふん、誰かと思えば日本から来た探偵か」
二人に対しアンリは侮蔑と嘲笑を込めた言葉を吐きかけた。
「歴史に興味がある様だが。どうせ何も知らないのであろう」
「言ってくれるな、化け物が」
本郷がアンリを睨みつけた。
「何!?今何と言った!?」
アンリの声に怒りの色が混ざる。
「化け物と言ったんだ。この醜い化け物が」
「貴様、殺されたいか、この俺を醜いなどと」
声が震えている。自身より下等と思っている存在に醜いと言われたのが相当気に触ったらしい。
「醜いと言わずして何だ!?貴様は自分の下らない自己満足と復讐の為に自分より弱い者を嬲り殺しにしてそれを勝手に理論武装して正当化しているだけだ。確かに人間は罪を犯していく生物だ。だがそれはどの生物とて同じこと」
本郷が言葉を続ける。
「そして人間はその罪を自覚しそれを克服し清めようと努力する。貴様はそれには目をくれようとせず底の浅い理論で断定しているだけだ。その上で弱き者を喰らい犯しているに過ぎない。俺は貴様を醜いと言ったが貴様は姿が醜いのではない。その心が醜い化け物なのだ」
いつもの直情的で口調の軽い姿からは想像出来なかった。辛辣かつ鋭い口調だった。
「貴様の親がこの家の者とどういった関係があったのか詳しいことは俺は知らん。だがこれだけは言える。貴様はそれを口実に人を殺め続ける下賎な化け物でしかない」
「俺を下賎と言うか、この下等な人間風情が」
「その人間風情にすら劣る奴が何を言う」
「貴様・・・・・・!」
アンリにとって最早忍耐の限界であった。元々プライドが高く自身の血脈に誇りを持つ彼にとって化け物呼ばわりされることは全てを否定されることと同じであった。
爪を思いっきり本郷に振り下ろす。この男だけは最初に始末せねばならなかった。そうでなければ己が誇りを保てぬ。
しかしそれは本郷もわかっていた。左上から来る爪をバックステップで避けた。
後ろに跳ぶと共に右手を背に進める。何かを掴み引く。
白銀の刃が引き抜かれた。月の光を反射しつつ闇夜に輝く。
「行くぞ」
抜くと同時に刀を左に持ち替えると右から左へ一閃させた。音より速くアンリのがら空きの胴へ襲い掛かる。
だがアンリはそれを上体をそらしかわした。バランスを崩すが両手を床に着き両脚を思いっきり空に蹴り上げる。
後方宙返りでかわした。そこへ懐から拳銃を取り出した役が攻撃を掛ける。
数発の銃弾がアンリへ向けて放たれる。銀の銃弾だ。アンリはそれをバク転し着地と同時に上へ跳び上がり避けた。
「素早いな」
役の表情は変わらない。ただ銃口をアンリへ向けているだけである。
「あの村の時と同じだな。人間にしてはやるな。だがそれでは俺は倒せん」
「じゃあこれはどうかしら」
中尉がコートのポケットから何か取り出した。そしてアンリへ向けて投げ付けた。
「ムゥッ!?」
それは極細のワイヤーだった。先が輪になっている。それがアンリの黒く太い首に入れられた。
「唯のワイヤーじゃないわ。鉄すら切断する特殊金属で編まれた特別なワイヤーよ。これで倒れない者はいないわ」
左手でまとめ右手で引いている。両手には皮の手袋が嵌められている。
「さあどうかしら。そろそろ首のところが苦しいのではなくて」
アンリを見据えつつ口の両端だけで笑う。だが当のアンリに苦しそうなあおの素振りは全く無い。
「この程度か、軍の特殊部隊というのは」
今度はアンリが笑った。にやり、とした邪悪な笑みだった。
「何!?」
ワイヤーをその黒い右手で掴んだ。そして思いっきり引いた。
ぶちり、と音を立てワイヤーが引き千切られた。次に首に残るワイヤーも引き千切り床に投げ捨てる。
「な・・・・・・!」
これには中尉も目をむいた。
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