涼しい風
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第一章
涼しい風
島崎藤村の人生には様々なことがあった。
そのことを今彼自身が思い出してだ、彼は床の中で周りの者達に言った。
「私がここで苦しんで死んでもな」
「まさかそれは当然だというのですか?」
「そうなのですか?」
「あの娘とのこともある」
自身の姪とのことだ、彼は実の姪と関係を持ったことがあるのだ。これがどういったことであるかは言うまでもない。
「世間の言うことは正しい」
「あのことですか」
「それですか」
「他にもある」
罪はそれだけではないというのだ。
「私は色々やってきた」
「だからですか」
「そうだ、私がここで苦しんで死んでもだ」
そうなってもだというのだ。
「不思議ではない、いや当然だ」
「先生、あまりそう言われるのは」
「どうかと思いますが」
「私のことは私が最も知っている」
また言う島崎だった。
「私は苦しんで死ぬに相応しい人間だ」
「ですか」
「それでは」
「暑い、今はな」
丁度夏だ、夏は暑くて当然である。そしてその暑さの中でだというのだ。
「この暑さに苛まわながら死ぬか」
「このままですか」
「暑さに苦しみながらというのですか」
「私がしてきたことに比べれば軽いか」
床の中で天井を見上げたまま言った、天井は様々な模様があるが今の島崎にはそれもどうでもいいことだった。
「そうだろうな」
「あの、お水を持って来ましょうか」
ここで周りの者の一人が島崎に言って来た。
「そうしましょうか」
「水か」
「はい、それはどうでしょうか」
「では頼む」
島崎は彼等の言葉を受けて微笑んだ、それのうえですっかり小さくなった声で応えた。
「それをな」
「氷もありますが」
それを水の中に入れようとかというのだ。
「涼しくなりますが」
「いや、それはいい」
島崎は氷は微笑んでその申し出はいいとした。
「別にな」
「水が冷たくなりますが」
彼は島崎が断っても下がらずさらに言う。
「それでもですか」
「いい」
やはりこう言うのだった、床の中で天井を見上げたまま。
「そこまではいい」
「そうですか」
「気持ちだけ受け取らせてもらう」
彼のその心遣いだけをというのだ。
「受け取らせてもらう、ではな」
「それでは水だけを」
「頼む」
こうして島崎のところに一杯の水が来た、彼は床から上体を周りの者に手伝ってもらいながら起こしてそれを受け取った、そのうえで。
コップの中の水をゆっくりと飲んだ。それからこう言った。
「美味しいな、しかし」
「それでもですか」
「この水も」
「こうして身体を起こして飲めなくなるな」
それも間も無くだというのだ。
「そうなってしまうな」
「そこまでお身体がですか」
「近いからな」
島崎はここでも微笑んで言う、既にわかっていて受け入れている顔だ。
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