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友人フリッツ

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第一幕その一


第一幕その一

                       友人フリッツ
                    第一幕  賭けのはじまり
 十九世紀末のアルザスはドイツ領だった。しかし住民にとってはそんなことはどうでもいいといったところがあった。
「それで言葉はどっちなんだ?」
「一応ドイツ語らしいぞ」
「まあどっちも喋れるからいいか」
「そうだな」
 フランスから割譲されたのでどっちの言葉を主に喋るべきかで問題になったが彼等はあっさりとドイツ語にしてしまった。国と国の関係はとりあえずどうでもよかったのだ。
 それで大事なのは何かというと。それぞれの人生だった。今このアルザス、ドイツ語で読むとアルサスでも有名な地主の一人であるフリッツ=コブスは自身の立派な屋敷のダイニングルームにおいてユダヤ教のラビの服を着て帽子だけ脱いでいる少し年配の男と話をしていた。
 部屋は広い。壁にある絵はやけに絵の具を使っていて色彩が鮮やかだ。鋭い目に険しい顔立ちのそのラビは一見すると聖職者には見えない。背もそれなりにあり身体も引き締まっていて軍人に見える。しかし服を見ると紛れもなくユダヤ教のラビである。黒い目をしていて髪の色も黒である。その彼がフリッツと対しているのだった。
「それでだけれど」
「うん」
 フリッツはその彼の言葉に応えた。フリッツは品のある彫がやや深い顔をしている。目は青く整っている。口髭も形がよく鼻が高いこともあり実にノーブルな印象を与える。薄いブラウンの髪を後ろに撫で付けている。ダークブラウンのズボンに白いシャツに赤いベスト、それに紅のネクタイという実に洒落た格好だ。その姿で立派なソファーに座ってラビと対していた。
「あの絵は」
「ゴッホだよ、ダヴィッド」
 その絵を描いた画家の名前を告げた。
「あれがね」
「そうか、あれがゴッホかい」
「どうかな凄くないかい?」
「凄いっていうかね」
 ダヴィッドはそのゴッホの絵を見ながら友人の言葉に応えた。
「激しいね」
「激しいかい」
「勢いに任せて書き殴った様な感じだね」
 ダヴィッドはゴッホの絵をそう見たのだった。
「何かね」
「その書き殴った様な勢いがいいんだよ」
 だがフリッツはそれこそがいいというのであった。
「斬新じゃないか」
「斬新だけれど僕にはどうも抵抗があるね」
「そうなのか」
「レンブラントは好きだけれど」
 オランダにいたユダヤ人の画家である。ルネサンスの頃の画家で代表作は夜警である。
「こういう絵はどうも」
「まあ人それぞれだからね」
 フリッツもそれはいいとしたのだった。
「ただね」
「ただ?」
「このゴッホだけれど」
 今度は画家について話すのだった。
「僕とある点について同じだったんだよ」
「同じだったって?」
「生涯独身だったんだよ」
 このことが同じだったというのである。
「死ぬまでね。独身だったんだよ」
「そうだったのか」
「聞くところによると何度も激しい恋をして何度も失恋したらしいけれど」
「それは君と違うね」
「恋なんて馬鹿馬鹿しいものさ」
 それは一笑に伏したフリッツだった。手を軽やかに動かしてそのうえでの言葉だった。
「全く以ってね」
「馬鹿馬鹿しいっていうのかい」
「そうさ」
 彼は笑って述べた。   
「恋だの愛だの。馬鹿馬鹿しいよ」
「それじゃあ結婚も」
「ゴッホは傷付いてばかりだった」
 フリッツはまたゴッホの話をした。
「恋をし続けたからね。恋なんてしたらそれが破れた時に痛い思いをするだけさ」
「かつての君みたいにかい」
「いい経験だったよ」
 ここで顔を曇らせてしまったのだった。
「全くね」
「あれは君が悪いんじゃない」
 ダヴィッドは彼を落ち着かせるようにしてフリッツに告げた。
 
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