『ステーキ』
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自主映画
前書き
難しいね。
個人的にキリストを敬愛する人間の自宅に撮影に行く。
「キリストを架けた十字架。あれはあまりに美しすぎないか? 本当にキリストが世の中から駆逐される存在なら、一昔前のコアな映画ファンが好むような、冷めた暴力で良かったんじゃないか? つまりさ、あの責め苦はキリストを意味ある者として考えたからなんだよな。いや、十字架は美しいよ。フィギュアスケートのスピンみたいにさ」
この人の家には、リビングの向こう、南側にコンクリートの打ちっぱなしの壁があり、それに十字の穴が開いている。そこにクリスタルのガラスがはめ込まれて、昼ごろになるとそこから入る日差しが床に映る。僕とカントクと助手でカメラマンの竹蔵くんはリビングで話を聞きながらお茶を飲んでいる。お茶うけが美味しいパウンドケーキだったから、初めての訪問の印象はいいし、その場の空気に馴染めた。他人の家を訪ねて、好みに合わない物を口にすると胸の中で葛藤しなければならないから。
「これ見てみな、この教会。キリストの美しさとシンクロしないか? 十字架に架けられたキリストの肉体美のような繊細さがあるだろ?」
「それは人間の苦しみや死が生み出した美しさの事かな」とカントクが返した。
「それは何だ……。死んだら急に周りにいた人間の意識が変わる、とかかい?」
「いや、人間は生きている間、本当の意味で評価されないって事です」
「なかなか寂しいこというね」
その続きの本心を、カントクは語らなかった。「人間は自分の美しさを信じるから自殺するんですよ。自分の美しさこそ、己の醜さ、弱さを感じることが出来る力なんです」と。吉之の前では言いにくい言葉だった。
「肉体の発するエネルギーが精神をそのまま映し出すものじゃないから、どんなに美しい感性を持っていても肉体が精神の邪魔をするって言う一般論ですよ」
「その肉体のかせが外れたとき呪縛から解き放たれるのかい?」
「肉体のあるうちに人の心を耕すんですよ。憎まれながらね。そして死んだ後、自分の肉体から放たれるエネルギーが、人々に差し込まなくなったら、『あら、あの人美しかったかも』ですよ」
「なるほど、そいつはなかなか聖人だ。いや、鬼だな。キレイな鬼だ。聖人はある意味怖いからな」金持ちの目が深いものを探っている。
「自分を苦しめた人間に罪悪感を与えるまでは普通に出来るのさ。キリストはその向こうに美しさを用意していただろ? そこがすげぇんだ」その言葉にカントクは笑っている。
吉之はじっと家主を見ていた。街の外れだけれど、なかなか豪奢な家に住んでいる男。恐らくは金持ちなのだろう。しかしながら彼は金持ちみたいにゆったりしていなくて、周りの空気に嫌味な臭いがしなかった。頭の中のお金持ちのイメージはどこか、焦点をずらす何かを持ち合わせている。アンラッキーがたずねてきたら、「それはきっと向こうの方にありますよ」と答えて難を逃れるような。そして彼は大きくなかった。どちらかというと実際より小さく見えた。加齢のせいもあるし、身長にしては顔が大きくて首が細いからかもしれない。それよりもただアンラッキーが体に当たらないように進化したのかも。
「マラソンランナーが長い距離を走れるのは、きっと神様に怒られないからだ」昔思ったこと。「怒られないように進化したんだ」
意識を天井に向ける。それでも彼の腹の中には鋭い刃が隠されているのではないだろうか? でも大抵の金持ちはそんなものじゃない? 金持ちがゆったりしているなんて、誰かの造り上げたイメージだし、すばやく動くと余計な物を拾っちまうぞ、という教訓なのかもしれない。ああ、昔ススキノで金持ちを見た。花束を持った紳士が夜の女を、両手を広げて包み込むところ。
「吉之君、頑張ってよ」と彼が言った。話はカントクの将来についてだった。「夢ってのはさ、いつか曲がるかも知れないけど、真っ直ぐ追いかけた分だけ人間を伸ばしてくれるものだからさ」
気持を込めて言われたから複雑になる。何せ、プロの映画監督というものがどんなものであるかよく知らなかったし、彼の言葉の中にカントクの才能をなめたところがあるような気がして。その言葉の複雑を受け取ったら、それにお茶の味が吸い取られちまった。ああ、これがナイフか。相手に気を遣っておきながら、相手にすべてをあずけちまう。
シンジ君が部屋に入るなり、「この立ち位置でいいの?」と十字架の前に立ってカントクに訊いている。脚本読んだんだ。かかとから、控えめに盛り上がったふくらはぎをなで、逆脚のひざを通って、鍛えられた太ももをなぞり、小さな尻をはじき、脊椎の湾曲をあらわす腹をすべり、少し猫背の背中を這って、若い首筋を駆け上がり、前傾した頭頂部から天に抜ける。
「ヘイ! ミスター・ラッキー!」と僕は声をかけた。「ウールのキルトジャケットが似合うね」シンジ君は「おう」と応じて、笑っている。
ミスター・ラッキー? いったい誰を真似た軽口だよ。神父役のシニアなモデルが服を着替えている。
壁際の棚に置いてある、細工を施した香炉を見つけて、シンジ君が「これ、炊いていいですか?」と家主に訊いた。「白檀ありますか?」
「いや、ちょっと待って」カントクが言う。「煙の無いきれいな光 撮っておきたいから」
竹蔵くんが三脚を立ててカントクに指示を仰いでいる。
「キリスト教にも香を炊く習慣あるんですか」
「全然、知らない。香をやると心が躍るんだ。いや、変容するんだ」
家主とシンジ君は海外の話をしている。東南アジアを旅行して、シャーマニズム的な置物を探している話をしたら、シンジ君はなかなか喜んでいた。
竹蔵くんがカメラを長回しで光の移り変わりをおさえている。カメラの液晶を眺めながら「後で、お香の煙で光と影を象徴的に捉えてみよう」とカントクが言う。
神父さんが出てきた。「これでいいの?」詰襟の法衣。黒のロングコートを仕立て直して、襟を立ててもらった物らしい。頭には昔フランス映画で覚えた『ユダヤ教』の帽子。多分。僕はユダヤ教とキリスト教の違いを知らない。何せ自分の家が仏教であるのにその内容なんて全く知らないのだから。
ぼんやりと十字架を見ると、確かに美しい。キリスト教も仏教も知らないけれど、それに付帯した美しい物の数々は知っている。「恋だな」と思った。「あなたのこと何も知らないけれど、私 あなたのこと好きだわ」教義。美しい物に手を触れたければ、約束を守りなさい。そして恐らくは自分の何かを捧げなければ、その美しさの中にある何かを手にすることは出来ない。大抵の人の信心は鎖に巻かれる。信じる代わりに、何かを失ってしまうんだ。才能を信じて前に進む時、そこに足を踏み入れる前の細やかな機微を失う。カントクが言ってた。それは何故? 自分自身の中に神様に見せてはいけない、雑な日陰の部分があるから。ちょっと我の強い表現者は、それをあえて前面に押し出す。それを人は、人間臭い良い所って言う。それを認めるのが善? それとも出さないのが善? わかりゃしない。
さっき見せられた教会の写真。美しいそれは、見るだけで心に光差し、人間の至高の愛への希望に…希望に、道標に。
シンジ君と神父さんが台本を読み合わせている。
「運をたやすく使い果たすな。それは死ぬまでにゆっくりと削ぎ取られる。不釣合いな魂と肉体は運により結び付けられている。魂に余る肉体はどこからか光を集め、人に呪いをかける。肉体を超える魂はおかしみで人を惹き付ける。それを使い果たした時、人間は真実を知る。真実が喜びをもたらすか、失望をもたらすかは自分の選択しだいだ。真実を突き付けられるまで、ゆっくり幸運のスパイスを味わえばよい。つまりの事、幸運をむさぼり続ければ、その肉体と魂は乖離し二度とこの世の味を確かめる事は出来ないだろう」
「神を信じない自分にもその話は通じますか?」
「この世の誰かは、たやすく信じ、また誰かは、たやすくののしる。人間の中に『信じているのだから』という傲慢あらば神は遠ざかる。私達は人間の信心と押しくらべをしているようなものだ」
「この手の中にある運を手放し、新しい運をつかみにゆくとき、命を落とすかもしれません」
「命? 死、劣等、醜さ。すべて怖がるものにそれは襲いかかる。新しき運にそのすべてを赦す力あらば、命を失わないだろう」
「新しい運に赦しあらばですか?」
「『殺意』がもし遠くに届くならば殺意の手前に『赦し』あらわる。私達はそれに心を染めぬよう、遠くに運び続けなければならない」
「ここの話って『肉体を持っている事』自体が運ってことですか?」とシンジ君が訊く。
「不自由でありながら、自由を手に入れるって事だよ」
「どういう事ですか?」
「不自由な所に手を貸すのが人間社会じゃない」とカントクが言う。「人間の不自由があるから発明がある。魂と肉体の不都合があるから創作がある。だろ? つまり不自由は自由に向かって進んでいるのさ」カントクは考えていた。今まで俺をむさぼった人間、全員乖離しちゃえって。
南から差す光に、顔の半分を影で潰しながら二人は七回、同じ演技をした。見ているうちに何が良いか分らなくなるのが映画の現場。カッポック当てましょうか? と竹蔵くんが言う。いや、顔 半分潰れてていい。と監督は言う。顔の出来がいいなぁ、とつぶやく。神父は光と影の中でまつ毛が濃い。光に照らされた表情は内面から出るものか、神様が気まぐれに創った土塊か。部屋の隅で空気清浄機を動かし、空気の流れを作り、お香を炊いた。
「ああ、昔の女が言ってたな。『いまの環境で人を愛せないなら、環境を変えるのよ。それが愛の意味なんだから』なあ、愛が世界を変えるなら、いままでの人は何をやっていたんだ? 今、愛情を信じて余計に闇に捕らわれないか? この愛情は本当にどこかに辿り着くのか?」シンジ君が問う。
女の子はシンジ君の胸に手をあてる。
「体を冷たくするものを、ゆっくりほどいてゆくことは出来ないの? そのまま冷たい人になるわよ」
これが映画の冒頭部分。何の説明もなしに、いきなり愛を語る所がカントクのお気に入り。僕たちは札幌を東西に分ける創成川の東、大型商業施設の赤いレンガの前で撮影をしている。カントクは「もっと地味な、ありふれた所がいいよ」と言ったらしいが、カメラの竹蔵くんが「こっちがこだわった分の、二割ぐらいしか伝わらないから、少し強めの風景がいいですよ」とここを推した。僕はシンジ君の相手役の女の子の額を見ている。「おお、ジュリエット・ビノシュの三角州」と思う。カントクがダメだしをしているうちに、竹蔵くんは捨てカットを撮っていた。この街にカモメが飛ぶようになったのはいつごろからか。偶然に現れる捨てカットの題材は、流れ星みたいに幸運。斜めに傾いて空を滑る。カメラを不意に向けられて不機嫌になる人。このレンズの向こう側に、これからこの画を見るであろう人の視線が既にもうあるからだろう。
「いや、うそ臭いって言うけど、基本 映画って嘘ですよね?」とシンジ君が言う。
「嘘の向こうは真実だよ」とカントク。
「いや、実際、俺こんな喋り方の友人いますよ?」
「魅力のない現実ってのはそこら中に転がっているよ」
シンジ君はいつものように、女の子を前にすると人格が変わる。目の据わったスケコマシになってしまう。僕を含めたスタッフ三人、それに苦い目線を向けている。空は低い。カントクは小まめにカットを割り、頭の中で編集を想像し、誤魔化せるか否かを考えている。たったワンシーンの為に石花君が待っている。
「人間はたくさんの勘違いに溺れて生きてゆかなきゃならない。だから真実を欲しがっちゃうんだな。愛って信じる?」
二人を背中に感じながら石花君が『マンションの内覧会』の看板を支えている。
「あのさ……。ずっとこのフニャけた男、撮ってるんですか」石花君がカントクに言う。低い声で、それは意味も分らない説法を聞かされる中学生みたいにだるく。カントクはそれを聞きながら女の子に指示を出している。このセリフの時、女の子をメインに画面に据えようと思っているのだ。結構よくある手だ。
「そんなこと言っちゃダメだよ。何せ彼は映えるもんだからさ」
「心は画面に映るんですけどね。小汚い欲とかもね」
「そう? 俺にはシンジ君の無粋な所はあまり見えないけど。まあ、それが彼を一段と汚しちまっているようなところもあるけど、外面に守られた心の奥底をね。それがまた、人間らしくていいんだ。第一さ、このシーンは石花君の心の曇りを現すんだからちょうどいいじゃない? ね」
吉之はカメラの後ろから歩いてゆき、ひどく憤慨してこう言った。「真冬の夜中にスーパーの駐車場でスピンターンするんだよ。いいじゃない。カッコいいじゃない」このシーンはカントクの想い出だった。中学生の時、悪い先輩のスカイラインでそうして遊んでいたんだ。「鬱屈した魂の代弁になるなら最高じゃない。それが芸術だよ!」そしてシンジ君に強めに言う。「自分がカッコいいと思うなら突き通さなきゃダメだよ。下手に弱さとか、可愛らしいところ出したらなめられますよ。第一このシーンは、腹を決める所ですよ。腑抜け匂わせちゃいけないでしょ? 分りますよね?」
それまで黙って揶揄されていたシンジ君が少し興奮している。
「おい、俺の頭に乗ってみな。死ぬようなプレッシャーに襲われるぜ? それに耐えられるのは俺だけだぜ? やってみなポンチョ。乗ってみなポンチョ。俺に降るのは男前の雨だぜ。その顔で耐えられるか? 乗ってみな。波に乗ってみ。俺の女は顔が小さいから、俺、大きく見えるぜ? 意味分る? 見てみろヒカルちゃん。お前のせいで冷め切ってるぞ? そのシャワーヘッドみたいな顔が近づいたらどうしようって、怖がってんぞ? ムケたてのアレにシャワーあてた事あるか? 女の子はそれぐらい敏感なんだぞ?」
その興奮がみんなの中から消えるとえらく場が収まった。吉之は考えている。何故この場面で僕は急に興奮したのだろうか? 実はシンジ君の演技を見ながら、「悪い性欲を身体に満たしながら、それがあぶりだす意識の片隅に、自分の可愛さや、純な所を感じている輩が。いつかキンタマがすべてを腐れさすぜ」と、冷めて見ていたんだ。何故急に正義漢みたいな言葉を? いつもの自分なら心がいくら熱く回っても肉体を動かす力にはならなかった。それを一種、悟りのように感じていたのに、こんな風に世界に触れちまう自分。何故。ちょっと笑った。
吉之はそれまで現場の置物のように在った。カントクや竹蔵くんに置いてゆかれる焦りは臆病な憶測とあいまる。憶測とは、僕の殻を打ち破って自らの敗北を知らせる程のものは世の中にそうはあるまい、認めたくない、という気持ちから生まれたもの。あるときそれが『クルっと』尊敬に変わる。僕の造る世界を少し削り取るように、彼らは存在を確かにする。そして吉之はまたいっそう無口になった。その方が大事な部分を心の奥に残せそうな気がして。いつかあぶりだされたそれが、すべてのひとの鼻の奥をツンと突くような感動を与えるような気がしているんだ。それがどうだろう? 今日という日は。
「『お前。そのブーツでどれだけの人間 蹴り回したと思ってんだ?』のシーン、あのブーツで大丈夫ですか?」と竹蔵くんがカントクに訊いている。シンジ君のブーツは柔らかそうなデザートブーツだ。「履き替えりゃいいよ。大丈夫」もう触りたくないおっぱいを扱うようにカントクは言った。
石花君が僕の後ろをついてくる。「道、ななめってますね。これは危険ですね」と話しかけてくる。先ほどの興奮をどう感じているのか分らなかった。僕らはさっきのシンジ君と女の子みたいな距離で歩いている。高校のとき優秀だった男を思い出す。彼は自分に誇りを持って歩いただろうか? それとも後ろから追いかけてくる様子を背中に感じてシャキっとしていただけだろうか? 時刻は昼でもなく夕刻でもない。振り返る度「気をつけて、すべるから」と言い訳して、石花君の様子をうかがっていた。なんだか刺されるような気がして。
地下道に入るとゴム底が心地よくない音で鳴く。大通りの東から札幌駅まで地上に上がることはない。先ほどの緊張は冷たい風のせいだったのか? 今は二人の空気が馴染んでいるように思えた。
「駅まで行くかい?」と僕が訊いたら、「お茶飲みませんか?」と誘われた。男だから闘わねばならないよね。「いいよ」と答えた。
地下道には500m美術館がある。通路の壁面を飾っているのだけど、それを見るたびに中学時代を思い出す。
その時代に少しだけ話せる女子がいた。好きになりかけていた。細かく言うと意識の膜を好意や性欲が激しく震わすのをどうにかたしなめていた。美術の時間、隣だったからえらく不自然な人間だったと思う。その女子のお父さんは美術系の仕事をしていたから、彼女もデッサンが上手かった。才能の遺伝。彼女は教科書以外にデッサンの教書を持ってきていた。「あのね吉之君。木があるでしょ? 木の枝って美しく、くねくねしながら空間を抱き込んでるの。その空間をとらまえる様に描くの」その教書には様々なデッサンがあった。僕のお気に入りのデッサンを指したら、「この人、少し雰囲気にのまれすぎよ」と返してきた。僕は曖昧な返事をしながら、その本の中、デッサンの精巧で美麗な世界を遠くに感じていた。それで彼女も、こんな遠くに行っちまうんだ、と漠然と思ったものだった。世の中で美しいとか強いとかいう物に威圧感を感じていたから。この話で僕が一つ誇れるものがある。彼女みたいな才能ある人間をずるい手口でどうにかモノにしようという、自分にないものを取り込んでいいフリこくという魂が目覚めなかった事だ。そんな事を考える僕、地下道の美術館。
「汚せる物があるってのは、心が落ち着きますよね」と石花君が言った。僕はチョコクロワッサンをかじりながら、「どういう事?」と大きく目を開いて無理解に訊き帰した。腹の中に何か入っているのってなかなか落ち着く。アンテナの一つを折り畳んだ気分だ。僕はお腹が空いていたんだな。
「いや、自分一人暮らしじゃないですか。だらしないじゃないですか。キッチンにきれいな食器が積まれていると、今日も明日も汚していいんだって」石花君が頬白んでいる。僕はそれが比喩なのだと気がついたけど、何も答えなかった。この店の喫煙ルームは狭いから、ほとんどすべての人の話が聴こえる。少し離れた席の女の子がタバコを吹かしながらだるくなっている。
「石花君の気持ち少し分るよ」と僕は切り出した。少しでもこの人の意識を柔らかくする事が、カントクの役に立つだろうと思ったから。「主役ってのは色々な物を持っていってしまうから。つまり石花君から物を奪っといてそのざまは何だ、何て使い方してんだ、どんな風にヤリ散らかしてんだ、と思うんだよね? 主役。いわば幸運だわな。自分の幸運を奪われて、もてあそばれて、汚くなって返ってくるのは誰でも嫌だわな。腹の底から幸運奪われる感じ。わからなくない」
「そうじゃ無いですよ」と石花君は返してきた。「身体の中にあの人がいるんですよ」
「え? 誰? シンジ君?」
「いや、分らないです。彼に呼応する何かがあるんです。自分の中。それが暴れ出すんです」
「その体の中の物は気持ちいいの」僕は少し的を外して訊いた。石花君は黙っている。だるい女の子はこちらを見ないように笑っている。
「多分あれですよ。あの人さえいなかったら……の類ですよ」
「そんなにシンジ君のこと嫌い? 生理的に?」
「何をどうやれば気にならなくなるのか知りたいですけど」
「体の中の物は、何か劣等的なこと?」と声をひそめて訊いてみた。
「そんなに簡単に人間の優劣が決まるんですかね」と怒られた。いけない質問だった。彼は年下なんだけどな。
「この世界の事はよく知らないけど、心が顔にきれいに出るのがやっぱり上なんじゃない?」
「俺は鈍くないっすよ。感じてないを感じてるんすよ。革命ですよ。本来備わっている感受性が踏みにじられている、その心の痛みがスクリーンに滲み出るんですよ。みんな『感じてる』を自慢しすぎですよ。心が死んだ方が相手を感じさせる事が出来るんですよ」
僕は「感じている人でも人を感動させる事が出来るよ」と言いたかったけど、不確かなので止めておいた。自分が死んで相手が感じるか。それを極めたらさばけたバイプレーヤーになれそうだ。
「ねえ、女の人ってさ、自分の内面を見てもらったら、ものすごくイイ男に惚れられるって思うの?」そう言ったあと自分の胸に刺さった。石花君にも刺さった。だるい女の子の前頭葉が活性化したみたいだった。「人間の心の奥には宝物があってさ、それが露になる時が幸福なんじゃない?」と続けようとしたのだけれど、その勇気は無かった。思いの外、自分の言葉に凹んでいたんだ。
隣の男が電話をしている。「誰もやってない競技、最初にやって、『一番』って言って調子に乗ったの? 馬鹿だから、今ビリだって気づいてないの? 大丈夫だよ百回ぐらいやったよ。オレ力あるもん。マジあいつ萎えるんでしょ? マジあいつ薬飲むとパワーアップするらしいよ。でもマジ使えねぇから。使えない力は百倍になっても使えねぇしろもんだから」身体の中に呼応するものがある。石花君の言葉、少し分る。その向こうの気力のありそうな中年男性が、「あの部分はまん丸かい? 涙型かい? ああ、円錐もあるかい」と会話している。僕は円錐型だと思う。ちょっとおっぱいのこと考えてた。「世の中が狭いっていうのはさ、世界を仕切っている人間は一握りしかいないって事だよ。つまりあの、夜景を見るみたいなもんさ。高い所からふかんで街を見ると心地いいだろ? どう? 入りたくない?」女の人を口説いている声がする。石花君は重いまぶたを一生懸命開けている。彼はよく見るとその奥二重の目が魅力的なんだな。腹にイチモツ抱えてそうだから、質問をしてみた。
「自分のことを、醜い男っていって嫌って、こんな人に惚れられたらどうしようって恐れる女に何故惹かれるんだろうね?」
「それは多分、自分は触れてみればそんなに醜くないって言いたいんじゃないですか?」少し間を空けて石花君は続けた。「いや、醜いと言われて削られた自分が凹んで、凹んだ分、誰かを元気にして、『俺、あいつより優れてる』と元気にして、世の中の歯車を回しちゃってるんだ。そして凹んだはずの自分も無理やり一緒に回されてしまう。逆に言うと、その女の子は醜い自分に好かれることで、美しい誰かに好かれることになる。でしょ?」
僕の頭は固まってしまった。石花君の顔を視界の端に置きながら、いかんせんこの人は毛穴が開いてしまっているからな、と思った。僕を固めているものに触れる気もないし、触れてはいけない気がした。いま鏡を見たら僕はどんな顔をしているだろう? 石花君に対しての嫌悪を表しているなら、顔をほぐさなきゃいけない。顔を何度か拭うように手で擦った。石花君がポケットから鍵を出して、とろけるような目でガラスを引っ搔いた。その音で何かが僕の中に入り込んできた。多分、僕を覆っていた硬い物の隙を突いたんだと思う。胸をノックする。声を上げたくはないから、心の中、静かな部分を必死で見つめる。じっと我慢していると下腹部がしくしくと痛んだ。石花君が傷をつけたのは、ガラスに張られた広告のステッカーだった。それはガラスの向こう側から張られていたから、結果ひどい音がした。石花君、なかなかすごい攻撃をするね。
僕の方が先に席を立った。一通りの挨拶をして、希望をほのめかして手を上げた。喫煙ルームのドアを開けて出てゆく時、体を刺激していた空気が粘りながら『トルゥン』と離れるのが分った。振り返らない。石花君はその夜に粉々になって死んでしまった。「俺のことゴミみたいに扱ったこと、忘れねぇがら」そんな電話をカントクに入れてしまったから。
帰りの地下鉄の中で石花君の言葉を思い出している。僕の自論なら『一歩目が愛で、二歩目からは根性』だ。人を好きになる話。少し石花君とかぶる所もあるよな。恋愛気分がいつまでも続くなんて、世の中の人はえらく幸せ。『想い』は自らを忘れたときにやってきて、次の瞬間には自らに縛られてしまう。自分から解き放たれた時の心持を、大事にかため、言葉にして運んだ記憶があった。雲の切れ間から射す太陽の光を感じ、それを現実の冷たい風にかき消されてはならないと決心した時があったんだ。この光のあたたかさは、僕しか感じることの出来ない、ささやかなものだ。誰もその光の機微を捕らえられないんだと。その時の自分の据わった眼差しを今でも憶えている。何故それが繊細から来るこわばりなのだと、感じてくれなかったのだろう? 若き日に意識の暗い闇を突き破ろうとした記憶。僕はみんなを心の内で責めたよ。何故自分をこんなところに閉じ込めておくんだってね。
ススキノの駅で扉が開いたとき、数人の若い男が叫んでいる。
「腹の底から湧き出る青春のエーナージー! 300回の耐久テストに合格したニークーターイー! 決して乱れることのないアーンーテーナー! 仏の嘘は人間の嘘のカーガーミー! オウッ! オウッ! オウッ! オウッ!」そう叫んで、左右両手の人差し指を交互に天に向かって突き上げていた。
静かになった車内。僕の胸の傷から、『つつ』と切なさこぼれ落ちて、滴のなでるその心の機微を、二人で等しく感じ合う。そんな事をもう長いこと考えている。それは恋ではないのかな。
家に帰ると、石花君がまだ左胸の中にいる。痛い。
『感じてないを感じている』
他人の感情の棘をうまくいなす。感じない。感じてもそよ風のように受け流す。それがうまい生き方。それなのに感情を動かす物が金を動かす。エンターテイメントはかりそめの感動を運んで心を潤す。風を吹かす。でも根本的に何かを治癒するものではないから、どこかで、世界のどこかに何かが集まって噴火しちまうんだ。いや、エンターテイメントが噴火なのか? いや、創作家に性感帯が集中? それとも、エンターテイメント自体が日常の麻痺を生んでいる? なんだか混乱しているうちに、激しい勃起がやってきた。今日もやってきたんだ。僕はこの現象を少し受け入れようとしている。ゆっくりと手淫することにしたんだ。最中にカントクから電話があった。石花君の「忘れねぇがら」のこともこのとき聞いた。
「セックスしたいな」僕が言うと。
「ホント? すごいね!」とカントクは喜んだ。「ホント、セックスしたくなったの?」
軽はずみだった。この話に続きがないと思っていたから。
吉之は勃起の話をした。とても硬い話だ。このチャンスを逃すともうダメかもしれない。そういう嘘も口から出た。
「男には夢がある。女の本当の愛にだけ勃起することだ。そうだろ? 吉之」カントクが興奮している。「女の本当の愛を賛美するんだ。そしたら女は体の隅々まで愛で満たされるんだ」
電話を切った後で吉之はグルグル回っていた。
シンジ君の関わる下部組織に、上部団体が圧力をかける。それをはねのけようと、シンジ君にタレコミの役を押し付ける。シンジ君が組織を抜けることを知って、「多分、コイツは殺されるだろう」と。平気でトカゲの尻尾切りをするのだ。しかし警察を抱き込んでいる有力者が、それにまた圧をかけてもみ消す。シンジ君のかつての仲間が逃げ惑う。有力者にとっては上部団体からの利益供与が重要だったからだ。シンジ君の周りに少しずつ黒い影が見えてくる。次第に少なくなる友人たち。カントクは言う。「シンジ君がどこまで耐えられるかが、この映画のミソなんだ。人間の器、手の届く範囲、それが露になるんだ。結局自分の愛をどれだけ信じているのか。それを見せたいのさ」
吉之の頭にはどのシーンで、どんな演出をするのか、想念が溢れかえっている。体がひどく冷たくなってゆくのを感じる。冬の冷たさなら反発も利くだろう。しかしこの空気はひどく寒いじゃないか。
「最近いい男いた?」とカントクは探りを入れた。
「飯は食えてんの?」パパの話で崩しにかかった。
「ねえ、その手のウェルカムやめたのよ」と女の子は言った。「ここの所、幸せが逃げてゆく感覚あるんだよね。もしかしたら誰かの怨念だから」
「Mちゃんみたいに抜けのいい子がそんなものに捕まる訳ないじゃない」
「疲れ抜けてかないのよ。疲れたらなんだか色気溜まらなくて」
「こないだなんて何も変わりなかったじゃない?」
「幸運は色気だし、色気は幸運だよ」
「つまりそれは性欲ってこと?」
「ううん、色気は幸せだよ」
「つまり男が勃つってことだよね?」
「違う。色気があることが幸せなの。体の隅々まで守られているって感じるからさ。色気って光だと思わない? 色気のあるときになんだか指先で世界を描ける、みたいに……すべてがなすがままの世界の中で、少し自分色を出せるっていうか」
「幸運の正体は分っているの? 俺に言わせれば、悪い男のチンチンを勃てなければ幸運だよ。おれ自身の経験だけどさ、悪い性欲と心地いい性欲があって、悪いやつは前立腺で分るんだ。いや、自分がまったく良い男とは言わないけどさ」
女の子は少し黙っていたから、すごい勃起の話をした。
「それがさ、吉之のチンチンが凄い事になってるの。凄いの。えっ? それが悪なら全部使い切っちゃってよ。ヴァンヴァン燃やしちゃってよ。二度と出来ない位にさ」少し悪い感じで言い切った。こういうときにはキレが大事だ。キレのある言葉はあやふやな感情を一時的に吹き飛ばしてくれる。俺が演出で学んだことだ。女の子はイエスと答えた。正直、俺は勃起したチンチンに興奮する女の子の心情を理解しない。ただ単に自分と、この女の子の間にあったあの熱を客観的に理解しただけだ。
自分の体で勃起する男を、その意味を理解しないで、冷たい目で見る女がいる。意識の奥で感じるんだよな。目の前の男が悪魔にとり憑かれ、セックスに酩酊している男なのかどうかをさ。
「都合のいい女」と頭に浮かんだ。「都合がいい?」そんな言葉、悪人が吸い込んじまえ。吸い込んで固まっちまえよ。そしてこの世から消えちまえ。彼女は愛欲の導きに素直なんだ。体の奥、魂のありかに、ゆっくり大胆に入り込むことが出来る。熟練の技で線を重ね、絵描きみたいにありありとオスをあぶりだすんだ。
腹の奥にあった魂が、するりと抜けて心地よい。それは風に乗ってまた誰かを少し悪くする。こんなに醜いのかと笑われもする。それはさっきまで体の一部だったから、カントクは静かにベッドで丸くなる。喧嘩の後、みたいな静けさが包む。
シンジ君がカントクの指示に従い、ごついブーツに履き替えている。昔、悪ガキだった三人と目を合わせないように、でも視界の中にしっかり収めて吉之は思う。
自分の過去の傷が何だったか。それは今、近い未来に包まれたこの意識では理解できない。いや、理解できないのではなく、痛くないというだけだ。心の傷が産んだ頭の上の大きな甕。それを支える意識にちょっとした大人の自覚が。この甕が割れてしまうと、心の中に何が流れ込んでくるのだろう。
「触れて欲しくないよね」かつて誰かが僕を揶揄した。それに同意できるほど傷ついていたな。心の傷は時と共に癒える。それは多分、時間ではなく、誰かが運んでくる未来のことなんだな。未来があらわれると同時に過去がちゃんと過去になる。その未来が醜かったらどうする? 醜さに抗う心あらばそれもまた未来を引き寄せるだろう。体を少し鍛えておこう。少し先の未来が何かを壊すかもしれないから。
僕はこの三人とは別のモノと闘っているんだと実感する。昔、うらやましくて、恐ろしくて、陰で唾を吐いたこの手の人たちを前にしてなんだか少しの自分らしさを確認しているんだ。魂が傷つく。それは生命の危機を知らせているんだ。僕は感じすぎていた? いや、感じなければ、もう死んでいるはずの人間だったんだ。
ススキノにあるこの木造の一軒家。家主はもう住んではいなくて、防災上の理由で取り壊しが決まっているらしい。今は写真展をやっていて、一階には素人に毛が生えた、もしくは玄人はだしの作品が並んでいた。その二階、板の間の部屋で僕たちは撮影していた。さっき僕はあえてみんなの前で、「あの話、進んでいるんですか?」とカントクに訊いた。「あの話」セックスのこと。胸が硬く膨らんでいた。実は昨日、「そんなにしてくれなくていいですよ」と腰の引けた電話をしたんだ。僕を呼んでカントクは下の階に降りていった。
「吉之は心に傷があるだろ? 自分にもあるけど、生きる為に忘れちまったんだ。まあ、それを消し去るほど楽しいこともあったから。でもさ、過去にあった悲しみは、本人がどう忘れようと、他人から理解されない限り、宙をさまよい続けて、また新しい誰かをとらまえて、その人はまた同じ道を辿ることになるんだ」そう言うとカントクは急な階段を昇っていった。ぼくは狭い間口から中の様子を見ていた。
「忘れたはずの過去の傷が、誰かをとらまえる、か」
シンジ君が「このブーツ、こないだ履いてなかったですよ」と言う。「年頃の人間は何足も靴を持っているから」とカントクが答えた。「ワルと会うとき、目印みたいに履いているって設定でもいいし」
カントクがシンジ君の右脇腹に薄いクッションを仕込んでいる。彼女が手縫いで作ってくれた物。中に緩衝材が入っているらしい。
「シンジ君、からだ細いね」とカントクは悩んでいる。「腹引っ込めてもそれが限界? ねえ、一度殴ってみてよ」
「お前が出てゆく。俺たちの知らないところへ行く。知らない女を抱く。その時、お前の中で俺たちの秘密はどうなる? 面白い話として広まっていかないか? そうしたら、お前が知ってる組織を別のものに作り変えなきゃいけないんだ。分るだろ? 今まであったものを壊して一からだぜ?」
「絶対、口割りませんから」
シンジ君、殴られる。
「その場しのぎじゃねぇかそんなもん!」
シンジ君が組織を抜けるシーン。このシーンは怖さを出さないといけない所。ワルの人があんまり迫力がないから、何テイクか重ねて、役どころも変えている。カントクが「乾いた感じでやってみよう」と言う。「あっ。そっち逃げるの?」と僕は思う。
相手を殴る。肉体レベルまで完全に敵対する心持ちを僕は知らない。最初のテイク。シンジ君の腹にボディーフックが入ったとき、体の芯に、弱い自分を感じた。この人たちは本当の世界で人を殴ったことがあるのだろうか。殴ることのない僕。殴ることが日常の彼ら。どちらが何を得て何を失うのかと、頭が発電しそうなくらい細かいインスピレーションが襲う。ボクサーは殴りあった後、抱き合って健闘をたたえる。荒ぶる人間はそこに至ることなく、雑な魂で人を殴る。憎しみで押しのけた存在に、報復の余地を感じないのだろうか。彼らは自分の中にアンラッキーが入ってくるとすぐさま反撃する。僕はなんとなくいなしながら、うまく心を反転して収める。脇の下に汗をかいている。
カントクは何度かカメラの角度を変えて殴るシーンを撮影している。シンジ君の顔をアップでとらえるけど、かまえすぎて良くはない。腹にめり込む拳のアップを撮っても、しっくり来ない。ワルが体を反転して左の拳を振るう瞬間の顔をとらえたのが一番はまったようだった。「顔芸いいね」とカントクがほめていた。
「コッポラに次ぐ位の器ねぇかな……」
カントクがポツリとつぶやいた。誰にもその気持ちはわからないだろう。
後書き
キリスト教徒どう思うかな。
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