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季節の変わり目

作者:naya
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因島へ

 
 誕生日にかこつけて、一週間前の佐為の電話に俺はだめもとで「因島に行かないか」と返した。佐為は俺が欲しい「もの」を聞き出そうとしていたから、まさか旅行が出てくるとは思わず、電話越しに慌てふためいた。だが、囲碁についてのことなら何でも興味をそそられる佐為は、俺の誘いを承諾した。

「綺麗だな」

佐為がバスの窓に張りつきながら海を見渡しているのに引っ付いてヒカルは言った。天候は良好で、波は低く、雨が降ってくる様子も全くない。秋晴れに包まれて、因島行きのバスは快走中だ。

「はいっ」

佐為はヒカルの隣に座って、眺めの壮大さにうっとりしていた。ヒカルはその横顔を見やると「来てよかった」と心底思った。日曜日の朝早くから新幹線に乗って、東京、岡山を過ぎ福山に到着した。それから山陽本線三原行きで尾道まで移動し、バスで駅前から因島大橋まで走る。橋を渡る間佐為は感嘆に口を開け、たびたびヒカルの肩を叩いて「見て、見て」と海や遠くに飛ぶ鳥を指さしながら子供のようにはしゃぐ。そんな佐為にヒカルも一緒になってあちこちを指さした。佐為にこんなに近づくのはあのカフェの時以来かもしれない。すぐ隣に感じる温度にヒカルはすっかり安心しきっていた。バスに乗る間、十分に海や山の景色を堪能することができ、二人とも降りる頃にはにこにこ顔だった。時刻は12時過ぎ、今日は一か所だけ訪れて、すぐ泊まる所に行こう。ヒカルは佐為の手を取り進んでいった。

 まずは石切神社にバスで向かった。少し歩くと、ヒカルにとっては懐かしい石造りの、古びた小さな鳥居が見えてくる。鳥居の横にある案内板に立ち止まる。案内板には秀策の生涯を要約したものが書かれてあった。それを佐為は所々を声に出しながら読んでいく。

「本当に強かったんですね」

佐為のその言葉にふっと笑いが込み上げる。鳥居を潜り、進むと、左手の奥に本因坊秀策顕彰碑が建っていた。佐為は顕彰碑の下が碁盤の脚になっていることに気づき、すごいすごいと興奮する。ヒカルは佐為の一歩後ろに立ってその様子を慈愛のこもった目で観察していた。気が済んだ佐為を連れて、今度は秀策記念館に場所を移す。玄関から出てきた女の人は、ヒカルが前来た時に案内をしてくれた人と同じ人だった。相手は気づかなかったが、ヒカルは不思議なほどにその顔を覚えていた。秀策の碁盤や秀策の書など、一通り案内される間、佐為は興味深そうにそれらを眺めて感想を述べていく。

「綺麗な字ですねー」

ガラス越しでは物足りなさそうに、ガラスすれすれに顔を近づける佐為にヒカルは微笑む。

「佐為、俺の字見たことあるか?」

面白そうに佐為に尋ねると、首をかしげてヒカルを見つめる。その反応にヒカルは自然と笑顔になる。

佐為が消えた五月にここに来て、「佐為が戻ってきたら連れて行ってやろう」と意気込んでいた。それをヒカルは佐為が再び現れてから思い出し、ずっと機会がないか探していた。佐為が虎次郎のことをさっぱり忘れていても、形だけでも来させてやりたかった。東京の巣鴨でも良かったが、せっかくだったら遠い所に行ってみたかった。

「ヒカル?」

「わ」

一人回想にふけっていると、佐為が俺の顔を覗いていた。驚いた俺は一歩退き佐為を見つめる。

「な、なに」

「お墓にも行くでしょう?案内してくれますよ」

佐為に手を引かれて、案内の人の後をついて玄関に向かう。去り際に秀策の展示品を見た。佐為の後ろ姿が妙に遠く感じる。佐為は虎次郎のことも、俺のことも、これからもずっと、忘れたままなんだ。
 
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