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無明のささやき

作者:ミジンコ
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第十八章

 代々木に着いたのは午後8時半である。駅前の大通りから細い路地を左に入り、しばらく行くと坂道に出る。これを登りきると突然のように閑静な高級住宅街が出現する。10分ほど歩いて、ようやくレンガ塀に囲まれた西野邸に辿り着いた。
 西野会長は息子と娘を同じ敷地内に家を建て住まわせている。門には三枚の表札が掛けられているが、南の表札はみすぼらしく、西野家における南の地位を象徴しているようだ。飯島は、チャイムを押した。しばらくしてインターホンから香織の声が聞こえた。
「どなたですか。」
「飯島です。会長にお会いしたいと思いまして。」
「こんなお時間にですか。あれから何かあったの、飯島さん。」
「南がたった今、事故で亡くなりました。」
香織は無言のままだ。しばらくして、門の扉が自動的に開いた。飯島は家と家を仕切る生垣の間を歩いた。混乱が体中を駆け巡っていて、頭の中は真っ白だった。ようやく玄関に辿り着き、重厚な木製の扉のノブを回した。
 そこには和服姿の西野会長が腕を組み、仁王立ちしていた。西野会長の後から香織が涙顔を覗かせている。飯島を見ると西野が叫んだ。
「南が死んだとは、どういうことなんだ。お前は何を企んでいる。」
「何も企んでなどいない。今から30分ほど前のことだ。車の中から、誰かが俺に拳銃を発砲した。幸い弾は当たらなかったが、犯人はそのまま車で逃走した。そして車はトラックに激突して燃え上がった。運転席から俺を銃撃した男を助けだした。すると、その男は南だった。」
香織が泣き崩れた。悲鳴のような泣き声だ。西野は口を真一文字に結び、目を見開いた。その目が徐々に赤く染まって行く。飯島は西野を睨みつけ、叫んだ。
「真っ黒焦げの南は、息を引き取る直前、うわ言のようにこう言った。俺は会長に操られていただけだと。この俺の左遷も会長の指示だと言った。これは、一体どう言う意味だ。えっ、会長さんよ。」
飯島は尚も睨み続けた。かつてこの人のためなら命を賭けてもよいと思っていた。その息子である現社長はともかく、会長だけは最後まで信じていたのだ。その会長が、何故。まったく信じられない事態だった。
西野の目が潤み、瞬く間に溢れた。涙は頬を伝って、ぽとりと床に落ちた。西野は肩を落とし、その真一文字に結んだ唇を震わせた。そして、その口から呻くように声が漏れた。
「南が今際の際にそう言ったのか。そうか、そう言ったのか。」
「そうだ、南はあんたに操られていたと言った。えっ、それはどういう意味なんだ。」
西野会長は、飯島の刺すような鋭い口調に、はっとして我に返った。気を取り直し、殊更張りのある声で答えた。
「何故、南がお前を狙ったのかは分からない。恐らく佐久間に操られたのだろう。警察に呼ばれた後、問い詰めたが要領を得なかった。何かあると思っていた。佐久間が関係していると感じた。一連の事件も奴が仕掛けている。間違いない。」
西野は涙を手で拭い、さらに続けた。
「しかし、南が言いたかったことは全く別のことだ。つまりこうだ。私は、南を香織の婿として迎えた。南にとって夢のような話だったはずだ。三流大学出身の男が一流会社の経営陣に迎えられたのだから。」
大きく息をし、続けた。
「例の産廃プロジェクトの失敗で、会社は潰れそうになった。俺は、その時、南の出番が来た。恩返しをしてもらおうと思ったんだ。」
こう言って、天井を睨み、顔をくちゃくちゃにして涙を堪えている。香織がわーっと大袈裟な泣き声を上げ、会長の袖に顔を埋めた。意外な話の展開に、飯島は呆然と立ち尽くした。
「何が言いたい。俺は南に、銃撃した理由を聞いた。その答えが、会長に操られたという一言だった。」
飲み込みの悪い生徒を諭す先生のように、会長は静かにゆっくりと言葉を発した。
「飯島、落ち着いて、良く聞け。さっきも言ったが、南は全く別のことを言いたかった。死ぬ間際になって、南は、かつて友人だったお前にだけは、本当のことを言い残しておきたかったんだ。」
西野はしゃくりあげ、洟をすすりながら話した。
「私は4年前、南に300人のリストラを命令した。南は相当悩んでいた。かつての先輩、同僚を切り捨てるのだからな。悩むのは当たり前だ。だが、或る時、南は人が変わった。私の期待に応えて、めきめきと実力を発揮し始めた。」
飯島は困惑気味に聞いた。
「それが、南の真意だと言うのか。操られたと言ったのは、そのことだと言うのか。」
会長は目を閉じ、往時を思い出している。
「ああ、そうだ。間違いない、私には分かる。私には荷が重すぎた。たとえ会社を救うという大義名分はあっても、社員の首を切るなど、とても出来ることではない。私は組織から退いた。そして南が私の代わりを務めたんだ。南にしてみれば私に操られたと思っていただろう。憎しみの矢面に立たされたのだから。」
涙ぐむ西野を見詰めながら、飯島は冷静さを取り戻しつつあった。南のうわ言の真意がようやく飲み込めたからだ。そしてこんな場面でも、事態を解説したがる西野という男の軽薄さが疎ましかった。自分の鋭さを披瀝しないではいられない軽薄さだ。
 とはいえ、飯島は、想像もしなかった事実と直面することになったのだ。それはリストラの本当の実行者は南ではなく、西野会長だったことである。西野に対する怒りがむらむらと沸き起こった。飯島は唸るように言葉を吐いた。
「みんな、あんたを信じていた。あの大不況のなか何年も歯を食い縛って頑張った。あんたを心から信頼していたからだ。あんたが失脚して、リストラが始まった。頑張った連中が軒並み犠牲になった。みんなあんたを信じて、部下達を引っ張ってきた連中だ。」
西野はぎょっとして、自分の喋り過ぎに思い当たった。南の突然の死を耳にし、頭が混乱していた。感情が昂りすぎて理性を失わせていたのだ。徐々に顔が歪んで、飯島を睨み据えている。飯島が刺すような視線を向けて叫んだ。
「そのあんたが、リストラを影で操っていたとは驚きだ。反吐がでそうだぜ。それに、何故、俺を左遷した。俺は誰よりもあんたを信頼し、誰よりも頑張ったんだ。」
西野は狼狽し、目の玉をぎょろぎょろと動かした。言い訳の出来ぬ状況に追い込まれ、本性を剥き出しにした。狡猾そうな目で飯島を睨んだ。開き直ったのだ。いや、飯島の反吐が出るという言葉に過激に反応した。
「ああ、お前は頑張った。誰もが認める。だからみなの視線がお前に集中していた。俺は、お前を中心にした不穏な動きを事前に察知したんだ。」
「馬鹿な、支社長が会議の後、集まって酒を飲み、おだをあげるのが、不穏な動きだというのか。確かに管理職ユニオン結成を言う奴はいた。俺を担ごうとする動きもあった。だが、俺は断った。群れるのは俺の趣味じゃない。それが不穏な動きとは、ケツの穴の小さい野郎だ。俺達が尊敬してやまなかった西野三郎はどこに行っちまったんだ。それが、こんな卑小な人間だったとは。」
西野は血走った目に憎悪を湛えて言い放った。
「何とでも言え。いいか、あれは俺が作った会社だ。俺は自分で作った会社を守りたかった。あのままいけば潰れるのは目に見えていた。経営者は時に冷酷になる必要があるんだ。そんな思いは、お前らに分からない。」
「自分で言った言葉を思い出せ。我が社ではリストラ犠牲者を一人も出さん。あんたはそう言って俺達を奮い立たせた。」
「みんな頑張ったと言うが、結局、収益は上がらなかった。時間がなかった。」
「時間がないから、給料の高い順に首を切ったってわけか。えっ、そんな馬鹿な話があるか。」
飯島はあきれ果て、卑しく、みすぼらしい老人を睨んだ。そして叫んだ。
「あと一年、あと一年頑張れば、挽回できた。産廃プロジェクトに曙光が見え始めていた。何件もの引き合いがきていた。俺だって3案件抱えて折衝を重ねていた。もし、一年待てば、あんたは一人の犠牲者を出さずに難局を乗り切った経営者として賞賛を浴びただろう。」
「案件数はあった。しかし、実績には繋がらなかった。あのまま行けば倒産だった。」
「違う、俺達は市場の手応えを肌で感じていた。支店長会議でも皆そう発言したはずだ。現場にこそ経営の指針がある。その現場主義はあんたが俺達に教えた。あんたは現場を離れてその感を失っていたんだ。」
「飯島、現実はそう甘くない。リストラのタイムリミットはとうに過ぎていたんだ。」
飯島の怒りが爆発した。
「貴様は恥ずかしくないのか。二人も自殺者を出した。貴様が殺したんだ。佐久間が狂ったのも貴様の責任だ。佐久間はリストラの実行者になって狂ったんだ。」
「そうだ、最初、俺は佐久間に期待した。しかし、奴はまるでカタツムリみたいな動きしかみせなかった。それでは間に合わない。私の苛立ちは頂点に達した。所詮、佐久間には無理だった。だから佐久間を捨てた。犠牲になってもらう他なかったんだ。」
この言葉が終わるか終わらないうちに、外で銃声が響き西野の額に穴が開いた。そこから一筋血が流れ、後の屏風が真っ赤に染まった。西野の見開かれた目は誰かを凝視している。そして、西野の体は後ろに仰け反った。
 飯島は、咄嗟に右に飛んだ。銃弾は飯島を追うように何発も発射され、一発が香織の腰に命中した。きゃーという叫び声が響いて、香織も倒れた。パジャマに血が広がってゆく。 
飯島は、銃撃が止んだ隙に、香織を玄関横の応接室に引きずり入れた。喉に指を当てると鼓動はある。どうやらショックで気を失っているらしい。奥で人の声がする。警察に連絡しているようだ。
飯島は部屋を出ると、僅かに開かれた扉から外を窺った。男が、門扉を乗り越え道路に飛び降りた。飯島も玄関から飛び出し、植え込みを走り抜けた。大きな庭石に駆け上り、一気に塀を飛び越し、男の行方を窺ったが、影も形もない。
角まで走り、そこから通りを見ると、片足を引きづり、佐久間が歩いている。振り返りつつ車に乗り込んだ。助手席に入ったということは、竹内が車で待機していたのだろう。車はエンジン音を轟かせ走り去った。飯島は立ち尽くすしかなかった。

 翌日の夕刻、飯島は章子の携帯に電話をいれた。殆ど衝動的にその番号を押したのだ。どうしても話がしたかった。ぽっかりと開いた心の空洞を理解してくれるのは章子しかいなかった。受話器を握り締め、飯島はその声を心待ちにしていた。
「もしもし、手塚です。どちら様ですか。」
懐かしい章子の声が響いた。飯島が名乗ると、章子は溜息をつき、ことさら冷たい口調で答えた。
「あなた、よく電話できたわね、散々私に恥をかかせておいて。それにまだ勤務中よ。」
「ああ、分かっている。兎に角、ご免、あの時、女房に逃げられて最悪の状況だった。女房は妊娠していた。俺の子供じゃあない。医者に調べてもらったら、俺は種無しだった。そんな時、君から電話があったんだ。」
「なる程ね、漸く謎が解けたわ。貴方が何故あんな怒り方をしたか。」
「ところで、お腹の子供は元気か。」
暫く沈黙が続いた。
「堕胎したの。」
と言って深いため息をついた。そして少し興奮したように言った。
「全く、それまで順調に行っていたのに、突然、愛しの君が現れるんだもの。佐久間と離婚してから、今勤めている会社の人とお付き合いしていた。相手もバツ一だし、結婚を前提に付き合っていたの。貴方が現れてからも、ずるずると関係していた。恐らくその人の子供だったんだわ。でも、その人とも別れるしかなかったの。」
と言って、さめざめと泣いた。その切なそうな泣き声を聞いて、飯島は自分の身勝手な激情を悔やんだ。
「申し訳ない。どうも君と俺はすれ違いばかりだ。本当に申し訳ない。」
飯島は章子の心が落ち着くのを待った。しばらくして、章子の泣き声が止んだ。
「それから、信じられないことだが、昨日、南が死んだ。そして西野会長も。テレビによると南の女房は一ヶ月の重症だそうだ。」
「何を言っているの、あなた。それどういうこと。会長が、南が死んだですって。何故、信じられない。」
章子の所憚らぬ嗚咽に、飯島も思わず涙を誘われた。飯島は西野会長と共に歩んだ日々、懐かしい時代を思い出していた。その一コマ一コマが走馬灯のように目の前に浮かんでは消えた。
 飯島だけではない、誰もが、この20年、西野会長と共に歩んだことに誇りと喜びとを感じていた。皆、彼の心意気に燃えたのだ。会長は常に営業の最前線に立ち、社員一人一人に話しかけ、勇気付けた。それが営業マンを奮い立たせたのだ。
 その会長が、実は大リストラの実行者だった。息子と南を裏で操り、彼に忠誠を尽くした男達を裏切り続けたのだ。飯島の脳裏に倉庫で黙々と作業する哀れな男達の姿が浮かんだ。そんな苦い思いを押し殺して口を開いた。
「本当に信じられないことばかりだ。西野会長を殺したのは佐久間だ。あいつは狂っている。」
章子が答えた。
「ええ、佐久間が狂っていることは確かよ。あの人は或る時期から本当に狂ってしまったの。あのリストラからよ。最後には暴力をふるうようになったわ。」
「そうか、そこまで行ったのか。ところで、今日、会えないか。どうしても話しがしたい。」
「駄目よ、貴方は自由に時間はとれるでしょうけど、今日は残業になるの。でも明日はお休みよ。朝10時頃電話するわ。この携帯にかけるわ。」
「ああ、わかった。待っている。どうしても聞いてもらいたいことがあるんだ」
飯島は電話を切った。

 翌朝、飯島は池袋のビジネスホテルで寝ていたが、携帯電話の呼び出し音で起こされた。章子だと思い、携帯を耳に当てると、意外にも佐久間の声が響いた。
「おい、飯島。もう朝だ、起きろ。」
「おい、おい、佐久間さんか。良かった、あんたと話がしたかった。」
「俺は話などしたくない。何故、お前の携帯の番号が分かったと思う?」
飯島は最初、質問の意味が分からなかった。だが、すぐに思い当たった。新しい携帯の番号を知っているのは箕輪と章子だけだ。
「おい、佐久間、章子さんに手を出したら許さんぞ。愛子ちゃんのことも考えろ。」
佐久間が怒鳴った。
「愛子のことなんてどうでもいい。いいか、章子は、ここにいる。声を聞かせてやる。」
しばらく呻き声が聞こえた。その後、はっきりとした章子の声が響いた。
「飯島さん、この人は本当に狂っている。助けて、お願い」
ここで受話器が章子の口から離されたようだ。章子の「愛子は本当に貴方の子供なのよ。あんた、正気に戻って。私を信じて。」と佐久間に叫ぶ声が洩れ聞こえてくる。その声が突然途切れ、佐久間が出た。
「おい、お前の大事な恋人を俺が預かっている。今夜、会おうか?」
「ああ、会おう。何処に行けばいいんだ。」
「場所と時間は、深夜0時に電話で指定する。携帯の電源を入れておけ。いいか、警察に知らせれば、元夫婦が無理心中するだけのことだ。」
飯島は声を殺して言った。
「佐久間さん、傍に誰かいるか。」
「いや、俺だけだ。」
「いいか、よく聞けよ。佐久間さん。俺が愛子ちゃんの父親でないという証拠を持っている。それを見ればあんたも納得いくだろう。」
佐久間は沈黙した。飯島は反応を待った。佐久間が答えた。
「そいつも持って来い。」
突然電話は切られ、ツーツーという音だけが耳に残った。
 
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