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コシヌケ

作者:hiroki08
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コシヌケ

 エゾハルゼミがうるさく鳴く季節の釧路湿原。
 あたりが真っ暗になった湿原をゆったりと蛇行しながら流れる川――。
「あれ人じゃないですか?」
 ツワーの後片付けをしていたカヌー業者の男の一人がふと上流部を眺めると月あかりに照らされた人のような物体を発見した。
「そうだな」  
 その男の上司が答えた。
「杉さん。そうだなって。早く助けなきゃ」
「もう死んでるよ。流しとけ」
「そんなこと言っていいんですか?レスキュー3[ アメリカ合衆国に本部を置く、緊急救助活動に関わる民間団体の名称である。特に急流救助に完成度の高いシステムを構築しており 。日本にも支部が置かれ講習活動を展開し、多く の急流救助専門員を育成している。]持ってる人が」
「わかったよ。めんどくさいけどやるか。とりあえず、消防呼べ」
「はい」
 その男は携帯電話を取り出し消防署に通報した。
「あれは完全に意識無いな。バック[ スロー・バッグといい。円柱形バックの中から水に浮くロープの先端を取り出しその先端をしっかりと握り、バックを漂流者に向かってアンダースローで投げて使用する。]は無理だ。フローティングロープ持ってこい」
 上司はその男に指示を出し、車に積んでいたライフジャケットを着用した。そして、車を止めていた土手の上からおりて川に近づいていった。
「三〇でいいですよね?」
 車から遠ざかっていく上司にその男が叫んだ。
「ばか。川幅一五なのになんで三〇なんだよ。対岸に張るときは川幅の三倍以上っていつもいってるだろ」
 上司は立ち止まって後ろを向きその男を叱り付けた。
「すいません。四六のロープでした」
 上司に怒られ、その男は浮かない顔をして車の後ろにまわった。
「おい。早くしろ。仏さん。流れちまうぞ」
 川瀬の前に到着した上司は後ろを振り向きその男をせかした。
「はい」
 その男は急いでそのロープを手にして「うるせえ。杉澤。こんな状況いつもあるわけねえだろ」と小さく呟き、上司のもとに駆けつけた。
「お前。ライフジャケットは?」
「忘れました」
「お前。俺に泳がすきか?」
「だって。杉さんがジャケット着ていったから」
「しょうがねえな」
「早くつなげ」
 その男は上司のラフジャケットにロープを連結させた。
「はい。つなぎましたよ」
「お前ちゃんと結んだか」
「はい。杉さん。早く行かないともうきちゃいますよ」
「うるせいこの。年寄り酷使しやがって」
 四〇代前半のその上司がその男に背を向け対岸に向かっていった。
「あーさみぃ」
 ドライスーツを着用している上司は膝まで水が浸かった所で泳ぎ始めた。
「がんばれ。くそじじい」
 その男は近くにあった。地元では猫柳と呼ばれている木にロープをくくりつけ、川の方に目を向けると必死に泳ぐ上司に罵声を浴びせた。
 上司は川の上流に対して斜めに体を向けて泳ぎ対岸に渡った。そして、岸に上がると直ぐにライフジャケットに連結していたロープを外し猫柳に結びつけた。そのロープも川の上流に対して斜めに張られていた。
 しばらくして、その漂流者がそのロープに引っ掛かった。漂流者は水圧によってその男が待つ岸へとスライドしていった。
 それを見た上司は岸から降りてその男の方向に向かって川の中を歩き出し、水が腰の辺りにきたところでそのロープをわきの下に入れ足を下流に向け放り出してその方向に流されていった。
「杉さん。どうすればいいですか?」
「なんかしろ」
 流れ着いた漂流者を抱きかかえたその男は応急処置の仕方がわからず、流れている上司に尋ねたが上司からの指示はざっくりとし過ぎたものだったので慌てふためいた。
「ああ。楽しかった」
「杉さん。助けてください」
「なにてんぱってんだよ」
「すいません」
「ウー、ウー」
 川からあがった上司がその男のもとに歩み寄ってきたがその男に助言をせず瀕死の漂流者の処置にもあたらなかった。すると、その男の耳にレスキュー車の到着を知らせるサイレンが聞こえた。
「高野。ねせとけ」
「でも」
「でもじゃねえ。あとはプロにまかせろ」
「はい」
 その男は上司の指示で漂流者を湿原の上に寝かせた。
「杉澤さん」
 土手の上からそこへ駆け寄ってくるレスキュー隊の隊員の一人がその上司の名前を呼んだ。
「おせえぞ。早くしないと。しんじゃうよ」
「そんなこといわないで下さいよ。署から距離があるんだから」
 その上司は駆けつけたその隊員にいやみったらしく言った。
「意識はありませんがは呼吸はあります。水はあまり飲んでないです」
「了解」
 その隊員は少し遅れて駆けつけた担架を二人で持つ男性救急救命士達に漂流者の呼吸や顔色などの観察結果を報告した。それを聞いた救命救急士達は漂流者を担架にのせてレスキュー車のうしろに停めた救急車に運んだ。
 このような場面ではやたらに水を吐き出させたり人工呼吸や心臓マッサージをすればいいというもなではなかった。ふざけた言動の多いその上司はこれを熟知していた。

「あっ」
 病院に向かっている救急車の担架に横たわった漂流者が目を覚ました。
「意識回復しまた」
「了解」
 彼の側にいた救命士が運転中の救命士に顔を向け報告をした。
「あのう。おれ、記憶がないんです」
「大丈夫ですよ。次期に戻って来るんで。自分の名前は覚えていますか?」
「富士野雄心です」
「としは?」
「二七です」
「今日の日付は?」
「二〇二〇年七月二日です」
 この後もその救命士は彼に現住所、職業などを尋ねた。記憶が無いと言った彼はそれらの質問を全て正確に答えた。
「へえー。東京で働いてるんだ。これだけ答えられれば問題はありませんよ」
「その記憶はあるんですけど。崖から落ちてそっから記憶が無いんです」
「崖から落ちちゃったの?」
「そうです」
「ホントは自殺しようとしたんじゃないの?」
「違います」
 彼は上半身を起こし語気を強めベンチに座っている救命士にそう言った。
「わかりました。そういうことにするんで」
「そういうことってなんですか?」
「松本。そんな口の利き方教えたか?」
 運転手が彼に疑いをかけたその救命士を一喝した。
「すいません」
「富士野さんがそういってるんだからそうなんだよ」

 そして、その車は三〇分程で釧路市夜間急病センターに到着し、彼はその二人によって診療室に運ばれた。
「富士野さん。まずこれを着てください」
 びちょ濡れだった彼の服はあの救命士によって脱がされ彼の体は毛布にくるめられていた。
 それをあらかじめ知っていた女性医師は入院着を彼に差し出した。
「すいません」
 彼はそれを受け取りその場で毛布を外しそれに着替え始めた。その時、彼の顔には恥じらいの色が見えた。
「富士野さん。上じゃなくてとりあえず下を着てください」
「はい」
 彼は女医の指摘に更に恥じらいの色が濃くなった。
「容態はどうですか?」
 女医はものをあらわにする彼に平然と話しかけた。
「耳に入った水がまだ少し残ってるぐらいで他は大丈夫だと思います」
「そうですか? では診察始めるんでイスに腰掛けてください」
「はい」
 じかに入院着のズボンをはいた彼が女医の目の前に置いてある丸イスに腰掛けた。
 そして、診察が開始された。
 診察は胸の音を聞くなどの体の様子を見るものだけだった。
 その後、彼は女性看護士に病室に案内された。
「富士野さん。何かあったらブザーで知らせてください。では失礼します」
 病室に着き、看護士はそういって病室をあとにした。
 彼はスースーとする股間をズボンの上から触りながらベットの入った。

 翌日。
 彼は朝食を終えて窓の方をボーっと眺めていた。
 その窓からは道路を挟んだ学校の校庭で体育の授業を受ける小学生達の姿が見えた。
 すると。
「雄心」
 ほのぼのとしていた彼はその声に驚き入り口の方に顔を向けた。
「あんた。なんてバカなことしたの」
「お前。大声出すな」
 開いているドアから中に彼の母親、そのうしろにくっついて父親が入って来た。
「ごめん。母さん」
 父親が廊下の様子をうかがってからドアを閉めた。
「ごめんじゃないよ。あんた。親より先に死のうとするなんて」
「お前。雄心は事故で川に落ちたって電話で言われたただろ」
「あなた。そんなわけないでしょ。この子は試合に負けて死のうとしたのよ。そうでしょ?」
 母親は顔をせわしなく動かした。
「……」
「いきなりそんなこときくな。時が経ったら話してくれから」
「ごめんなさい。つい興奮しちゃって」
「雄心。看護士さんがもう退院していいって言ってたから荷物まとめろ」
「うん」
「病院でたら助けてくれたカヌー業者さんと救急隊員さんたちにお礼しに行くぞ」
「わかったよ」
 まとめる荷物のない彼は母親がボストンバックに詰めて持ってきた衣類に着替え病室をあとにした。
 そして、彼は退院手続きを済ませ病院を出た。そこからは父親が空港で借りたレンタカーに乗り込み、父親の運転であのカヌー業者達がいるアウトドアツアー会社に向かった。
 
「雄心。川が見えてきたよ。釧路湿原久しぶりですね。あなた」
「そうだな。オヤジが死んでから釧路には墓参りだけして帰るっていう感じだったもんな」
「あなた。あそこじゃない。釧路川ネイチャーセンターって書いているから」
「そうだな」
 カーナビを駆使し四十分ほどでそこに着いた。
 その会社は湿原がすぐそこに見える二本松駅の斜向かえにあった。
 その駅の駐車場に車を停め彼らはその会社に向かった。
「すいません」
 母親がアルミサッシの玄関扉をガラッと開けるとカランコロン、カランコロンと鐘が鳴った。
「はーい」
 玄関から入ってすぐの受付カウンター奥にある事務所の扉が開き人が出てきた。
 その人物は流されている彼を発見した。高野だった。
「あのう。杉澤さんはいらっしゃいますか。昨日助けてもらった。富士野といえばわかると思うんですけど」
「ああ。昨日の。僕もいたんですよ」
「そうですか。この度は息子が大変ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
 深深とお辞儀をする二人のうしろいた彼は軽く頭を下げた。
「いいえ。助かってよかったです。今呼んできますね」
「お願いします」
 彼の両親は再びお辞儀をした。
 高野が事務所に戻りしばらくして、事務所の扉が開き、高野、杉澤の順でそこから出てきた。
「おう」
 杉澤が彼に向けて左手を上げた。それを受け彼は初対面の杉澤に会釈した。
「富士野君だっけ?」
「そうです」
「雄心。まずはお礼」
 父親がうしろにいる彼をチラッと見た。
「すいませんでした」
 彼は再び杉澤に会釈した。
「雄心。もっと感謝を込めてしないとダメだぞ。もう一回しろ」
「おとうさん。気持ちは伝わったんでもういいですよ」
「すいません。無愛想な息子で。杉澤さん。この度は本当にありがとうございました」
 両親は深深とお辞儀し、彼もそれを真似した。
「雄心。前に来い」
 父親はお辞儀しながら彼に目線を配り小声で言った。
 すると、彼はその姿勢で左足から小刻みに三歩前進した。
「顔を上げて下さいよ」
 彼は上目遣いで父親の顔が上がってく様子を観察し、顔が完全に上がったのを見て自分の顔をパッと上げた。
「富士野君。東京のラーメン屋で働いてるんだろ。日向から聞いたよ」
「あのう。今は働いてないです。無職っていうのが恥ずかしかったんです」
「そうか。そうだよな。自分に合った仕事見つかるといいな」
「杉澤さん。俺ボクサーなんです。もう辞めようと思ってるんですけど」
 彼は両親の間をすり抜けて両親の前に出た。
「そうなんだ」
「一週間前に最強後楽園ていうのがあってそれで優勝したらチャンピオンに挑戦できるんですよ。俺決勝までいったんですけどダメでした」
「俺はボクシングの事はよくわからないけど。決勝までいくならたいしたもんですよね」
 杉澤は彼の母親に視線を合わせ同意を求めたが母親は浮かない表情で軽く頷くだけだった。
「普通に負けたら納得いったんですけど。三ラウンドに偶然のバッティングで右まぶたパックリいっちって引き分けということになって規定で相手が勝者になっちゃったんです」
「その傷は昨日のじゃなくて試合のなんだ。昨日の傷にしてはやけにきれいにふさがってんなと思ったよ。それと気になったんだけど、それまでのラウンドの採点はされないのか」
「四ラウンドが成立しないとジャジは無効なんです。ジャッジがあったら勝ってましたよ。左が面白いように当たってたしダウンも奪ったんで」
「実力があるなら辞めないでまだ続けたら。まあ俺がこんな事いう資格ないけど」
「これにかけていたんです。それでバイトやめて練習量増やして最高の状態で臨んでこのアンラッキーな結果なんです。これはもう辞めろって事ですよね」
「富士野君。それはただの思い込みだ。絶対後悔するよ。その夢にしがみついてしがみついてまわりから往生際悪いよといわれてもしがみつく。そうじゃないと叶わないと思うよ。潔く辞めるなんて考えないほうがいい。すいません。出過ぎた事を言いました」
 杉澤は両親に会釈をした。
「杉澤さん。とりあえず帰ってからじっくり考えてみます」
「うん」
 杉澤は大きく頷いた。
「そうだ。二本松のところにボストンバック置いてたでしょ?」
 二本松展望地の丘は釧路湿原の有名な観光名所であり絶好の自殺スポットでもある。
「はい」
「財布の中に富士野君の免許証はいってたからわかったんだ。金は三万二千円入ってたけど。減ってないよね?」
「減ってません」
「よかった。あの辺は朝から観光客やらカメラマンがうろつくから。金取られていないか心配してたんだよ」
「ありがとうございました」
「他のカードと小銭は見てないから。あとで見てね」
「はい」
「ドン、ドン」
 入り口の方から扉を叩く音が聞こえると富士野家全員がそちらの方向に目を向けた。
「無視でいいですよ。あんな奴」
「杉さんひどいよ」
 その人物が扉を開けて中へ入って来た。それは昨日の救急救命士の日向だった。
「日向遅いよ。たいした仕事してないのにいつまでも寝てんじゃねえよ」
「それをいわないでよ。俺らが忙くないのはなによりって事なんだから。ねえ?」
「はい」
 日向の問いかけに隣にいた母親は深く頷いた。
「日向。気安く初対面の人に話しかけるな」
「べつに話しかけるぐらいいいよな。富士野君」
「はあ」
「雄心。はあ。じゃなくてありがとうございましただろ」
「ありがとうございました」
「息子を救ってくれて本当にありがとうございました」
 父親の感謝を込めた言葉のあとに他の家族達は日向に深深と頭を下げた。
「どうか頭上げてください。息子さんを救ったのは杉澤さんですから。杉さんの迅速な救助のおかげですよ」
「ずいぶん褒めるね」
「あんまり褒めたくないけど。昨日はほんとに杉さんみたくパッと動ける人じゃないと富士野君はだいぶ下の方まで流されていたよ。杉さんの川のレスキュー技術はうちのレスキュー隊員とおなじくらいかそれより上だから」
「日向。おまえヤマメの穴場おしえてほしいからヨイショしてるな」
「そんなんじゃないよ」
 日向は杉澤のもとに歩み寄りその右肩をポン、ポンと叩いた。
「おい。杉澤さんと日向さんに渡さないと」
「はい。わかりました」
 父親の催促で母親が肘にさげていたハンドバックから包装紙に包まれた商品券を取り出した。
「杉澤さん。これ。たいしたものではありませんが使ってください」
 母親は杉澤に近いてそれを渡そうとした。
「奥さん。気を使わないでください。川遊びでご飯をたべさせてもらっているものとして当然のことをしたまでですから」
「ゴホッ」
 高野が咳払いをした。
「そんなこといわないでもらってください」
 母親は困った顔をして杉澤を見つめた。
「そうですか。では。ありがたくいただきます」
 杉澤はそれを申し訳なそうに受け取ったあと左斜め後ろにいる高野を睨みつけた。
 一方、母親は再びバックの中から商品券を取り出し日向の方を向いた。
「奥さん。僕は公務員なんで結構です」
「でも……」
「日向。うちの会社に寄付してくれ」
「それは嫌だ。だって杉さんの酒代になるだけでしょ」
「まあ。そうだな。気持ちなんだからもらっとけよ。嫁さんに使ってもらえば問題ないだろ」
「それでも問題になるんだけど。杉さんと高野君が黙ってくれるなら受け取るよ」
「わかったから頂きなさい」
 日向はそれを渋々受け取った。
「ヨシ。高野。携帯で撮って写メを消防署に送れ」
「杉さん。富士野さん達がいるんだから今日はそういうの止めてくださいよ」
「すいません。冗談です。公務員を目の敵にしろというのが祖父の遺言でして」
「高野。このバカ社長どうにかしろ」
「日向さんがどうにかしてくださいよ」
「どうもすみませんでした。ここまで終わらないと我々の茶番は幕が下りないもんで。ところでこれからの予定はどうなってるんですか?」
「夜の飛行機で帰るということしか決まってません」
 杉澤の問いに目が点になった富士野家を代表して父親が答えた。
「カヌー乗りませんか?」
「杉さん。不謹慎ですよ」
「お前は黙ってろ」
 彼に気を使った高野が一喝された。
「雄心どうする?」 
「乗りたい」
 彼は父親の方を振り返って答えた。
「そうだな。湿原は何回も来てるけどカヌーは乗った事ないもんな。いいだろ?」
「私はいいですけど。雄心の身体が」
「俺はなんともないよ」
「じゃあ決まりですね」
「はい」
 父親が返事をした。
「高野。俺と日向でガイドするから。車ゴールにまわせよ」
「はい。そいうことならさきさんも怒らないと思うんで」
「奥さんですか?」
「私はバツのついていない独身です。さきというのは怖いバイトの姉さんです」
「こいつ俺と同じ四十なのに独り身ってバカですよね?」
 回答を求められたその家族は苦笑いでその回答を回避した。
「日向。中の下の嫁と鼻水を常にたらしてるガキがいるからって自慢するな」
「妻と子供の事は言うな。それに三歳児は鼻水を垂れ流すのが仕事みたいなもんなんだよ」
「ガラ、ガラッ」
 事務所の扉が開いた。
「そこのおじさんたち。早く川に行きなさい。それから社長。屈斜路ウォーターさんのヘルプでインディアン四隻積んで上流部に二時まで行ってください。朝も言ったんですけど。社長は大変頭が良過ぎてこの間の冒険クラブさんのヘルプをそこの公務員さんと釣りをしててすっぽかしそうになったので一応言っておきました」
「あの時のさきさん怖かったですもんね。杉さんのお尻を木のバドルでフルスイングしましたからね」
「高ちゃん。そういうことはおぼえるのね。あなたはそんな事より森の散歩のルートをおぼえなさい。お客さん連れて迷子になったガイドなんて前代未聞の事だよって他の会社の人に言われてるんだから。今度迷ったらクビにするわよ」
「さき。そういう社外秘はあんまり人前で話したら駄目だぞ」
「見せしめにちょうどいいでしょ」
「すいませんでした。橋本さん」
「わかればいいんだよ高ちゃん。すみませんね。私を除いてこんなおばかだけしかいませんがゆっくり楽しんで来てくださいね。では私はこれで」
 橋本はその家族に対しては杉澤達の時のような強い口調ではなく物腰の柔らかい話し口調であった。その家族は橋本の口調に呆気に取られていた。
「さあ。台風が去ったところで行きましょうか」
「そんなこと言ったらまた台風来ますよ」
 高野はニヤついて杉澤の耳元で呟いた。
「そうだな。気をつけるわ。そうだ。トレーラー連結させてるよな?」
「させてますよ」
「そうか。じゃあ俺、車前にまわすからジャケットの合わしやっちゃって」
「はい」
 そして、その家族とガイドたちは運転席のドアにその会社の名前が書かれたハイエースに乗り込みスタート地点に向かった。
 車は釧路湿原を見渡せる道を十分ほどはしり、スタート地点についた。
「高野。三人乗りと二人乗りな」
「はい」
 車のエンジンが止まると運転手をしていた高野が車から降りトレーラーに駆け寄っていった。
「じゃあ。私達も降りましょう」
 そのあと、高野がせっせとカヌーを川にセッティングした甲斐があって到着五分ほどでいつでも出発できる状態になった。
「簡単に漕ぎ方のレクチャーをするので少しお耳をお貸しください」
 そのカヌーのもとで杉澤は仕事モードの爽やかな口調を使い漕ぎ方や万が一落ちたときの対処方法を語った。
「さあ。いきましょうか。富士野さんと奥さんは青いカヌーで日向と。富士野君は俺と赤いカヌーね」
 そこに向かうその家族達の表情はとても晴れやかだった。
「富士野さん。そいつ。公務員ですけどうちの高野より漕ぐ技術ありますから心配しないで下さい」
 そして、彼らはそれぞれのカヌーに乗り込み緩やかな川の流れにのってスタートした。
「杉さん。いつもはまだまだだとかいうのに。急にどうしたの?」
「勘違いするな。お前を褒めてるんじゃない。ゲストを安心させてるだけだ」
「そうか」
「そうかじゃないぞ転覆させたら署長に商品券の事言うからな」
「おまえふざけんなよ」
「おまえもな。じゃあ。俺がリードするからついてこい」
 漕ぎ始めて十分。そのカヌーの前にのってる彼は雄大な自然の空気と鳥たちのさえずりに癒されていた。
「風つよいですけどきもちいいですね」
「昨日とは違った気分かい?」
「そうですね。昨日は飛び込んでからの記憶が無いので風は感じられませんでした」
「そうかい。話は変わるんだけどスポーツマンの二七って結構いい年だよな?」
「そうですね」
「二八の時に諦めた。俺は」
「杉澤さんもなんかやっていたんですか?」
「競技カヌーをやってた。競技カヌーって知ってる?」
「なんとなく見たことはあるんですけど。詳しくは知りません」
「このカヌーじゃなくて。スルメイカみたい奴に乗ってタイムを競うんだよ」
「スルメイカですか?」
「あんま伝わってないな。まあ、俺はそれでオリンピックにでる事が夢だったんだ。その時のオリンピック選考会で負けた瞬間、それまでは辞める事なんて考えていなかったけどこの辺で辞めないとちゃんとした就職口につけないじゃないかとか思って一気に辞める方向に向かったんだ。それに同世代で仕事も順調、子供もいますなんて聞いたら夢ってなんだろうってなっちゃうんだよな」
「そうですね」
「だけど、俺は辞めてめちゃくちゃ後悔したな。次のオリンピックに俺より遅かった後輩が出た時。あいつでも行けんならもし辞めてなかったら俺が行ってたんじゃないかって」
「俺の場合はボクシングを辞める後悔はないですけど。あの試合が終わってから高いところから突き落とされたみたいで何かをやろうっていう気持ちが起きないんですよ」
 杉澤は舵をとりながらフーと大きく息を下に向かって吐いた。
「飛び降りる時怖かったか?」
「えっ。それはすごい怖かったです。なんか体中が死にたくないって言ってるみたいで特に胃が尋常じゃない動きをして動いてました」
「怖いらしいな。その怖さに打ち勝っても死ねなかったてお前はとことんアンラッキーなやつだな」
「そういう星に生まれたんですかね?」
「アンラッキーの星か。それもそれで結構じゃないか。そのおかげで父さん母さんが年甲斐も無くああやって笑ってるんだから」
「そうですね」
 はしゃぐ両親の声が川と湿原に生息する木々に反響し響き渡っていた。
「なんか。話がいろんなところに行ってわけわかんなくなったな」
「はい」
 この後、漫談で客を満足させるのが売りの杉澤は彼に一言もしゃべりかけなかった。

 そして、一時間のカヌーツーリングが終わった。
「富士野君。どうでした? 気持ちが晴れましたか?」
「そうですね。少しは」
 ゴール地点に車をまわし彼らを待っていた高野が彼の乗ったカヌーのもとに駆け寄って来た。
「何だその感性は。それでもカヌーイストか。今日は風が強くて風浪が立ちまるで海をツーリングしてる感じではなかったですか? とかシャレたこといえねえのか」
「すいません」
「そんなことで怒るなよ。杉さんはホントかんしゃく持ちなんだから」
「うるせえ日向」
 杉澤のお説教から逃れた高野はカヌーの撤収作業に入った。
「さあ。いきましょうか」
 詰め込みが終わり車は動き出した。
 その会社までの帰り道で後部座席の両親は日頃都会では決して出来ない経験に満足した様子だったがその真ん中に座った彼はどこか浮かない表情をしていた。
 そして、車がその会社の前に着き、家族と日向が車から降り、杉澤が乗ってる助手席のほうに集合した。
「私はこのまま現場に向かうのでここで失礼します」
 先ほどから全開にあいてる窓から杉澤が家族達にわかれを告げた。
「すいません。今日はありがとうございました。お代は事務の方に払ってかえりますので」
「お代はもうもらったので」
 杉澤は先ほどの商品券が入ってるアウトドアべストの左胸を二回叩いた。
「それはお礼なので」
「奥さん。やつはああいうやつなんで」
 日向は言った。
「では、お言葉に甘えて」
 母親は自分達を満足させてくれた杉澤達にその見かえりを渡すことが出来ず申し訳なさそうにしていた。
「おい。雄心。万が一ボクシング辞めて何もすることなかったらここに来い。悪いようにはしないから」
「はい」
「じゃあな。お父さんたちもさようなら。不良公務員は警察に自首しなさい」
「いいからはやくいけよ。さきが怒るぞ」
「そうだな。おい、出せ」
 杉澤は顔を高野の方に向けた。
 そして、車が動き出した。

 それから三日後。
 仕事もせず、練習もせず家に引きこもっていた彼はジムの会長から彼の前の試合のチケットを大口購入してくれた彼の出身大学の学長のもとに出向くように言われていたのを思い出したのでそこに行くことにした。
 彼はスーツを着用して母親に持たされた北海道の有名なクッキー菓子を手にさげ家をあとにし、電車に揺られること十分ほどでその大学の最寄の駅についた。その大学は一応、二三区内なのだがすぐそこは埼玉である。
 そして、五年前に通った道を懐かしく感じ歩く事五分。その大学の正門についた。
 時刻は三時。休憩時間なのかはわからないが前庭にはやたら学生達がいた。どうせ夜の合コンの段取りでもはなしているのだろう。
 彼はそいつらの群れをすり抜けて校内に入った。
 彼の目的地は学長室なのだが、彼は在学中にそこへ行く機会がなかったので入り口付近にあった案内板でその位置を確認しそこへ向かった。
 少し迷って学長室の前に着くと彼は入り口の前で立ち止まり挨拶の確認を頭の中で行った。
 彼の実直さがうかがえる場面だが彼は実直な青年ではなくただの心配性でこれを行っただけだ。
「コン、コン、コン」
「はい。どうぞ」
 彼はドアを開けて入室した。
「先日は沢山のチケットを買っていただきありがとうございました」
「おう。富士野君。なんだよ。そんなによそよそしくして」
「いやあ。こういうあいさつはきっちりとしないといけないんで」
「そうだよね。まあとりあえず座ってよ」
「はい」
 彼は学長の鏡に黒革のソファーに腰掛けるよう促された。
 その部屋のソファー配置は部屋の中央部にテーブルを挟んで二脚のソファーが対面に置かれている。
 鏡は学長机に置いてある電話の受話器を手に取りダイヤルを押した。
「あー。誰?」
「君島君か。お茶頼むわ」
「そう。ふたつ」
 鏡は受話器を戻した。
「どうしたの座って?」
 彼はどちらのソファーにすわっていいかわからないので鏡が座ろうとした方のソファーと反対側にすわろうとしたが失敗した。なので彼は意を決し彼から向かって右側のソファーの真ん中に座った。
 彼の勘はまちがっていなかった。奇跡的に下座のソファーに座った。だが、正解か間違いかはわからないままだったので彼の胃と心臓が過剰に動いていた。
「この間は残念だったね。ダウンも奪ったのに。それにあれは絶対に偶然じゃないよ」
 鏡がそれに触れることなく座り。かつ不快な表情を浮かべずに彼の試合を語ったので彼は胸を撫で下ろし、目線が鏡から外れないように息を下にフーと大きく吐いた。
「自分では偶然だと感じました。あっこれ」
 彼はその事で頭が一杯で手土産を渡す事を忘れ、それに気がついた彼はとっさにその土産を鏡に差し出した。
「あっ。ありがとう。私はこれ大好きなんだよ。あとでいただくよ。この時期の北海道は涼しかったでしょ?」
「はい。でも旅行じゃなくて祖父の墓参りなんです」
「そうか。できればチャンピオンの報告をしたかったな。でも日本チャンプに兆戦するチャンスはなくなったわけじゃないから。がんばってね。富士野君の頑張りしだいではうちにボクシング部をつくろうかと思っているんだよ。その時の監督はもちろん君だ」
 大学入学時にボクシングをはじめようと思った彼はこの大学にボクシング部が無いので仕方なく家から自転車で一分の今の所属ジムの門を叩いた。以来、イカルガジムで練習に励んできた。
「はい」
 鏡の計画を聞いた彼は目を点にした。
「発破を掛けるようで悪いんだけど私は幼少期の白井義男からはじまってファイティンググ原田、それからもうそれは多くの日本人世界チャンピオンの試合に胸躍らせたんだよ。最近はもう辞めちゃったんだけど内山高志は気持ちいいボクシングしたよね」
「内山さんはすごかったですね」
「ああ。そうだ。日比野くんが君と話したいっていってたよ」
「日比野さんってだれでしたっけ」
「荒吹雪。会った事あるだろ?」
 彼はその人物にOB会で話しかけられた事がある。
「荒吹雪さんのことですか」
「彼の引退にあわせて今年相撲部つくったんだよ。土俵もつくったんだよ」
「そうですか」
 日比野政志こと荒吹雪駿豊はこの大学のOBで在学中はレスリング部に所属し。フリースタイル九六キロ級でオリンピックの銅メダルを獲得している。卒業後は実業団に入り次のオリンピックで金メダルを目指すものと思われたが日比野の意向で相撲部屋に入門にした。入門後は持ち前のスピードを生かした押しや出し投げを武器に二年で十両、その後二場所で入幕した。最高位は関脇で幕内最高優勝を一回経験して八年の土俵人生に幕を閉じた。引退後は部屋付き親方の道を薦められたが、協会の依然として変わらない殿様体質に将来性がないと思い、協会に残るのを辞めてこの大学の初代相撲部監督に就任した。
「だから日比野と話したついでに土俵を見てくるといいよ」
「はい。今の時間は日比野さんどこにいるんですか?」
「そうだね。あいつは今時間は学内をうろうろしているから。電話して現在地をかくにんしてあげるよ」
「お願いします」
 彼は軽く首を下に振った。
「お疲れさまです」
 鏡のスマートフォンから爽やかな男性の声が彼の耳元に届いた。
「おう。お前なにやってるんだ?」
「土俵にいます」
「土俵にいるの。今富士野君来てるからすぐにそっちに行かせるわ」
「そうですか。ではここでまってます」
「お前。あんまり変なこと言うなよ」
「言いませんよ。では失礼します」
「はーい。ということだから行っちゃって」
 鏡は電話を切りスマートフォンを胸にしまった。
「コン、コン、コン」
「はい。どうぞ」
 彼と鏡は入り口の方に顔を向けた。
「失礼します」
 お茶をのせたおぼんを運ぶ女性事務の君島が入って来た。
「お茶ひとつでいいや。富士野君は日比野のところいくから」
「はい」
「じゃあ。僕行きます」
「うん。行っておいで。場所はわかるか?」
「どこですか?」
「レスリング場の横だよ」
「レスリング場のよこって柔道部の道場じゃないんですか」
「柔道部潰したんだよ。弱いから」
「そうなんですか。では行ってきます。今日はお忙しいところをありがとうございました」
 彼は立ち上がってからお辞儀をした。
「とんでもない。次の試合も行くから頑張ってね」
 彼は再びお辞儀してその場から離れた。その時、おぼんを持ったままの彼女にふと目がいってしまった。細身の彼女は尾野真千子似の美人であった。
 
 そして、昔の記憶を頼りに相撲道場に向かった。
「すいません」
 彼はその道場に着き、入り口の扉を開けた。
「おう。お前か」
 土俵の俵内の砂をほうきでならすジェロム・レ・バンナのような体つきをしている日比野の姿があった。
「はい」
「そのまま座敷にあがっちゃって」
「はい」
 彼は入ってすぐ左にある下駄箱に脱いだ靴を入れ、畳が敷き詰められている広さ一〇畳のあがり座敷にあがった。
「そこの座布団ひいてすわって」
「はい」
 彼は座敷奥の隅っこに積まれてる座布団を上から一枚とってその上に座った。
 しばらくして、日比野はならしを終え、彼のもとに来た。
「その傷痛そうだな」
「もう抜糸したんで痛くありません」
 日比野は足を土俵につけて座敷に腰かけた。
「そうか。でも心の傷は癒えてませんって感じだな」
「まあ」
「さすがにあんだけ期待されてあんな負け方じゃ心も傷つくな」
「はい」
「もう辞めんのか」
「まだ」
「まだってなんだよ。お前辞めた方がいいよ。あんな詰めの甘いボクシングするなら」
「詰めの甘い?」
 彼はムッとした。
「そうだよ。一発いいの顎にはいったのに。カウンター警戒してラッシュかけなかっただろ。それにお前のあのパンチ。腰の入ってない手打ちパンチあれはひどいな。俺なら顎に入っても絶対に倒れない」
「そうですか」
「そうですかじゃねえよ。ここまでいわれたら普通言い返すだろ」
「その通りですから」
「お前さあ。格闘やってる人間がそんなんでどうするよ。その通りでも、うるせえこのやろうぐらい言わないとだめだぞ」
「気をつけます。ところで部員は今何人いるですか?」 
「バカが五人」
「創部一年目だからしょうがないですね」
「でも、強いぞ。そうだ今日稽古していけよ」
「今日はちょっと」
「ちょっとって。女か?」
「違います」
「じゃあ。やれよ。どうせ練習に行かないんだろ。村田さんに聞いたぞ、サボってんだろ」
 村田は彼のジムのマネージャーだ。
「はい」
「ヨシ。まわし締めるか」
「はい」
 彼は気の進まないまま稽古をすることになった。
 そして、一旦外に出て道場に戻ってきた日比野の右手には白まわしがあった。
「服脱いでおりろ」
「全部ですか?」
「全部だよ」
 彼は座敷の窓を気にして全裸になった。
「おい。ソップ[ 痩せている力士に対して使われる角界の隠語。]おりろ」
「はい」
 土俵におり、日比野のいわれるがままに手を動かし、まわってるうちにまわしは締められた。
「どうだ」
「恥ずかしいです」
「肌の露出はボクシングとたいしたかわりはないぞ」
「お尻が」
「お尻。ここか」
 日比野は彼の右のお尻を手で叩いた。
「痛い」
「夏なのにお前の尻にもみじの葉っぱがくっついてるぞ」
「やめてくださいよ。俺そういうのり好きじゃないんで」
「遊びのないやつだな。よし。まっすぐ立て」
「はい」
 窓にお尻を向けた彼は背筋をピンと伸ばした。
「肩幅に足を開いて。親指に力を入れてまっすぐ腰を下ろせ」
 彼の前に立った日比野はドスの利いた声で指導をした。
「足開いてまっすぐおろせって」
 スクワットのように腰をおろした彼は日比野から指摘を受けた。
「ばか。腰を前だって。セックスする時は前に出すだろ」
「ふっ」
「ふ。じゃねえよ」
 日比野は彼のお尻を蹴った。
「痛いですよ」
 すると。
「失礼します」
「おう」
 まわしをつけ手にバスタオルを持った部員達がお辞儀をして入ってきた。
「ご指導よろしくお願いします」
 五人の部員達が日比野の前に整列しお辞儀をした。
「おう」
「こいつ。新入部員だから」
「えっ」
 数人の部員達が声を揃えた。
「違います」
 彼は下半身が悲鳴をあげるその状態のままであった。
「一回あげていいよ」
「はい」
「この人。腰抜けボクサーだから。みんなよろしくな」
 空気を呼んだ部員達は日比野の言葉に反応しなかった。
「腰抜けはひどいですよ」
「そう。そうやって噛み付かなきゃ。そうやって闘争心が育つんだよ」
「はい」
「お前らはじめていいぞ」
「腰おろし、腰おろしの形用意。一、二、三、一」
 部員達は俵内で円を描く並びで腰おろしという先ほど彼がやっていた運動を始めた。
「富士野。お前は俺の前でやれ」
「はい」
 彼の表情からはそれが嫌だということが読み取れた。
「早く来い」
 彼は観念して座敷に腰掛けた日比野の前に立ちそれを始めた。
 そして、俵内の部員達は四股を踏み始めた。彼もそれを真似して四股を踏んだ。
「お前は当分腰おろし」
 この後も部員達は股割り、すり足、申し合い(相撲を取る稽古)ぶつかり稽古と移行していったが彼はずっと腰おろしを強要され、それを二時間ほぼ休み無く行った。
 彼は玉の汗をかき、それを下にボトボト落した。
「よし終わり。お前も土俵の中にいけ」
 彼は俵内で日比野の方を向いてそんきょ(しゃがんだ状態でつま先立ちをして足を開く姿勢)をしている部員達のもとに駆け寄り部員達の真似をした。
「富士野胸を張れ」
「はい」
「今日は狩野」
「はい」
「一つ常に何糞精神を心掛け、己に打ち勝つべし。一つ一年三六五日しかない。その少ない日数の中で自分の目指す最高の舞台に立ってるイメージで稽古するべし。一つ夢とは自分の身体の中から沸々と湧き上がってくるものたちの終着駅である。だからそこに着くまではそいつらから目を背けるな。バカ共よ」
「よし。直れ」
「どうもありがとうございました」
 狩野が道場訓を唱えた間の一分ほどのそんきょで狩野含む部員たちは誰一人びくともしなかった。しかし彼は電車の座席で居眠りをするサラリーマンのように体を揺らしていた。
「富士野。ちょっと来い」
「はい。なんすか?」
 稽古が終了して部員達はそうじに勤しんでいる。
「お前。世界チャンプになりたい?」
「なりたいです」
 自信なげに答えた。
「そうか。俺がチャンピオンにしてやるよ」
「嫌です。俺はボクシングがやりたいんです」
「お前勘違いしてるぞ。誰がボクシング辞めろって言ったんだよ」
「相撲のチャンピオンにするって言う意味じゃないんですか?」
「違うよ。WBAかIBFかWBCかWBOのチャンプ」
「詳しいですね」
「ありがとうございます。でな、俺の計画は相撲の稽古とボクシングの練習をしながらチャンプを目指すんだよ。どうだ。すごいだろ?」
「でもジム練したらここで稽古する時間なんてありませんよ」
「ふっ」
 日比野は彼を鼻で笑った。
「なんすか?」
「俺はな哀れなバカのお前のために考えた。それはな。朝はロードワークしてこの道場で稽古する。そして、夜はジムに行け」
「まじすか? 相撲やって強くなるんですか?」
「なる」
「じゃあ。やります」
 彼は日比野の今までとは違う眼をみて即決した。
「おお。腹を決めたね。それでだな。お前バイト止めたんだろ」
「はい」
「いいバイト探してやったぞ」
「何のバイトですか?」
「ここのそうじだ。ここに入ってる清掃会社の社長は俺の元谷町でな。一人ぐらいなら入れるみたいだからお前やれ」
「はい。ありがとうございます」
 実家暮らしの彼はバイトをやらなくても生活ができるのでバイトしないでもうちょっとの間は親の脛をかじろうという魂胆だったので日比野の善意は彼にとって大きなお世話だった。
「あとお前がよければの話なんだが朝が早いからここの座敷で寝ていいよ。布団は用意するから。それと女連れ込んでもいいぞ」
「しませんよそんなこと。でも、エアコンもあるし悪くないですね」
 座敷の窓の上に設置されているエアコンを見ながら言った。
「決まりだな。社長には一週間ぐらい前から話通してるから多分明日から働けるし、布団も今俺の車に積んでるから今日から泊まれるぞ」
「やること早いっすね」
「F1の異名を持ってたからな」
「F1って言われてたんすか凄いすね」
「で。今日から泊まるのか?」
「はい。家帰って。飯食って。風呂入って着替え持ってきます」
「ちなみに部室に風呂も洗濯機も冷蔵庫もテレビもエロDVDもあるぞ」
「DVDデッキは?」
「もちろんだ」
「快適生活できますね」
「そうだよ。俺もこの間嫁と喧嘩したとき三日間ここに泊まってそう感じたよ」
「まさか、俺が寝る布団はその時の布団ですか?」
「鋭いね。正解。ドンキーで買ったやつだ。まあ、いいじゃねえか。俺が三回寝ただけだから。ちなみにオナニーはしてねえぞ」
「わかりましたよ。それで我慢します」
「我慢って。汚いみたいなこというなよ。はいこれ。ここの鍵」
 こうして、がけっぷちボクサーの彼は相撲を取り入れ世界チャンピオンを目指すことにしたのであった。

 翌朝
 ♪~ダウンからカウント123456789までは悲しいかな神様の類に数えられてしまうものかもしれないだけどカウント10だけは自分の諦めが数えるものだ! 僕はどんなに打ちのめされようとも絶対にカウント10を数えない! ダウンからカウント123456
 二週目のカウント6で彼は起きた。
 携帯の時計の時刻は五時五一分だった。
 彼は日比野に七時までに一時間以上のロードワークをするように命じられている。
 そして、彼は布団を畳み、トレーニングウェアに着替え、目くそを取りながら外に出た。

 一時間のロードワーク終えた彼は道場に帰ってきた。
「おはようございます」
「おう」
 道場の前では日比野がシャドーボクシングをやっていた。 
 彼はこれに触れると面倒くさいことになると思ったので触れずに部室へと向かった。
 そして、彼は物静かな狩野にまわしを締めてもらい、タオルもって狩野のあとをつけ道場に急いだ。
「失礼します」
 彼も部員達のうしろでお辞儀をした。
「何してんすか」
 彼は人の壁で中の様子が見えなかったがその壁が前に行くと中では日比野が彼の寝ていた布団を敷いて寝ていた。
「だって。布団があるから」
「今日もご指導よろしくおねがいします」
「こちらこそ。じゃあはじめ。俺は寝る」
 彼はあきらめて昨日の位置で腰割りを始めた。
 しばらくして。
「ねえ。筋肉痛どうよ?」
 気付いたら日比野は彼の後ろに片足を組んで座敷に腰掛けていた。
「結構きてます。太ももが」
「やっぱな。太ももじゃだめなんだぞ。尻でかくする運動なんだから尻の筋肉を破壊しなさい」
「はい」
 日比野は彼のお尻の筋肉を破壊するため彼が腰をおろす時彼のまわしの結び目を大きな右手で掴み前に押しその状態で彼に三十秒数えさせ上に戻すこれの繰り返しをやらせた。
「戻す時膝は全部伸ばすな。半分伸ばせばいいんだよ」
「ふぁい」
 十分ほどで彼の体中からは汗が噴き出た。
「おい。見えない」
「はい」
 彼は左側に動いた。
「ばか。そっちだと押せないだろ。わざとやってる」
「いいえ」
 その後彼は八時過ぎまで腰おろしを行った。
「もういいよ」
「はい」
「朝飯。下駄箱の上から持ってけよ。お前のは小さいやつな」
「ありがとうございます」
 そして、彼はタオルと弁当箱をもって人のぶつかる鈍い音が響く道場から出た。
「おい。お先失礼しますは」
 部室へと向かった彼の耳に日比野の怒号が突き刺さった。
「すいません」
 彼は直ぐ道場の扉を開けた。
「お前。それじゃあだめだよ」
「はい」
「ちゃんとあいさつしてけ」
「お先失礼します」
 彼は日比野の殺気に威圧されていた。
「このやろう。弁当箱持ちながらするあいさつがどこにあるんだよ」
 日比野はかんしゃくもちだった。
「すいません」
 彼は直ぐに持ってるものを床に置いた。
「おい。お前らもタオル持ちながらあいさつしてるよな。黙ってればその気になりやがって」
 申し合いする部員達も稽古を中断した。
「すいませんでした」
 巨漢の部員達は声を揃えた。
「つっ。このやろう。次やったらかわいがるぞ。このやろう」
 日比野は舌打ちをしながら部員達を順番ににらみ付けた。
「お先失礼します」
 彼は怯えながらお辞儀をして道場をあとにした。
 そして、彼は就業開始時間に間に合うように部室でシャワーを浴び、身支度を整え、朝食をとっていた。
 すると。
「飯食ってたの?」
 日比野が部室の扉をガラガラっと開け入ってきた。
「はい」
「どうぞ。汗臭いところですけど」
 日比野はうしろを振り返り誰かに話しかけた。
「結構広いね」
 白髪交じりでふさふさの頭が見えた。
「社長。こいつですよ」
 日比野は部室奥のテーブルで食事をとっていた彼をその男に紹介した。
「あっ。どうも」
 彼は席から立ち上がってその男に会釈した。
「富士野。お前のバイト先の社長な」
「はい」
 彼はそうではないかと思っていた。
「富士野君。ヤマキン美掃で社長やってます。です」
 左手に衣服の入ってる透明なビニール袋を持っているその男は彼に近づき、会釈をした。
「富士野雄心です。一生懸命やりますのでよろしくお願いします」
 深深とお辞儀をした。
「できるか? 一生懸命に」
「としちゃん。自分の付き人じゃないんだからそんなこと言わないの」
「そんなようなもんですよ。な?」
「はい」
「富士野君。これに着替えて」
 金山はその袋を彼に差し出した。
「はい」
「着替えたら。裏門に行っておばさんがいるから」
「じゃあな。富士野。俺のメンツを保てよ」
「はい」
 その二人は部室をあとにした。

 そのあと、着替えを済ませた彼は裏門に駆け寄った。
「富士野君」
 裏門で待っていた同じ制服を着てる年配女性が彼を呼んだ。
「はじめまして、富士野です。よろしくお願いします」
 彼はその女性の前で立ち止まり会釈をした。
「滝口といいます。よろしくね」
 就業時間が開始され、彼は滝口に優しい口調で仕事をレクチャーされた。彼は滝口のレクチャーで前のらーめん屋とは違いギスギス感がなく働けそうだと思った。
 そして、久しぶりの労働を終えてジムに向かう彼は朝稽古のせいもあって疲労感と眠気を強く感じていたがこころが充実し、すがすがしい気分であった。

「じゃあ。行って来るわ」
「無理しないでね」
「俺はしたくないんだけど。あの人がさせるんだ」
「それはいいの。雄心のこと思ってやってくれてるんだから。そうだ。お母さん明日にでも挨拶いこうか?」
「そういうのやめてくれっていってたから。やめて」
 彼はうそをついた。
「うん」
 ジム練が終了した後、彼は家に帰り食事をして洗濯物のを出し着替えをバックに詰め込んであそこに向かった。

 このようなライフスタイルを確立して一週間。彼には唯一の楽しみがあった。
「こんにちは」
「お疲れ様です」
「今日もいい天気ですね」
「はい」
「ボクシング頑張ってくださいね」
「はい」
 それは先日、学長室で出会ったあの女性に話しかけられることだった。
 彼は彼女の容姿、話し口調、うしろ髪をシュシュでまとめたポニーテールに清潔なイメージを持ち彼女に恋心を抱き、いつかは彼女とセックスしたいと思っていた。

「おい。寝てんのか?」
「すいません」
 日比野の指導を受け十日が経った。
「お前最近。だれてんな。せっかく次に移行しようと思ったのに」
「すみません」
「すみませんじゃねえ。俺の手だって機械じゃないんだから。ああもうやだ」
「まじめにやるんで。ホントすみませんでした」
 日比野のかんしゃく玉を踏んでしまった。
「てめえこのやろう。今まで真面目にやってなかったのか。このやろう」
「そういうわけでは」
「お前の臭いまわし持つのやだから。壁に向かって腰おろししろ」
「はい」
 彼は入り口側の壁に駆け寄り、壁と向かい合い自分の体をくっつけて腰おろしをした。
「チンポ壁にこすりつけろ。そうしないと腰が前に出ないんだよ。でちゃってもいいから。もしでちゃったら一石二鳥だ。筋肉がついて気持ちよくなるトレーニングなんて他にないぞ。俺って天才だな。そうだ学会に発表しよう。どう思う。狩野?」
「わっかんないっす」
「稚内? お前の実家は市川だろ」
 鉄砲柱に精を出す狩野がその手を止め答えた。
 連日の日比野の彼に対する暴言は快適なバイトの斡旋と寝床を提供して貰ってる事などがあるので許せていたがこの辱めが原因となり日比野への愛想が尽きてしまい彼は相撲トレーニングを辞めることにした。
 そして、三〇分の辱めを終えて道場をあとにし、部室で支度などをして仕事に出かける前彼は再び道場に寄った。
「日比野さん」
「どうした?」
「ちょっと。いいですか?」
「おう」
 彼は靴を脱いで座敷に上がり日比野のもとに近づいた。
「日比野さん。俺もうここでトレーニングするのやめます」
「そうか。世界チャンプになるのやめたか。お前がそう思ったならそれでいい。でもバイトはやめんなよ」
「チャンプになるのもバイトもやめません。いろいろとお世話になりました。ありがとうございました。鍵です」
 感謝と憎しみを込め深深とお辞儀をし制服の胸ポケットから出した道場と部室の合鍵を日比野の手に渡した。
「あいよ」
 日比野は視線を土俵に向けた.。
 座敷からおりた彼は靴をはき荷物を置いた。
「どうもありがとうございました」
 相撲部に別れを告げた。

 そして、翌日。すっきりした気持ちの彼はせっせと校舎の清掃をしていた。
「富士野さん」
「はい」
 大教室の黒板を消していた彼はその声で後ろを向いた。
 相撲部員の山岸だった。
 一九〇の長身で均整のとれた体をしている山岸はこの部の主将で精悍な顔つきに加え土俵外では常に部員達に気を使う優しさを持つ好青年だ。
「何? 今忙しいんだけど」
「そのままで聞いてください」
 彼は再び黒板に向かい黒板消しを持った。
「明日はきますよね?」
「行かないよ。聞いてなかったの?」
「あれは冗談かと」
「山岸君。無神経すぎるよ。日比野さんの性格うつったんじゃない」
「すいません。僕もああいうことを平気でいう監督は好きでありません。でも監督のもとで相撲やってると楽しいです」
「楽しいって何が?」
「強くなるのが。監督はああだこうだ言う理論派じゃないけど俺達を強くするように仕向けるのが天才的に上手いんです」
「そうなんだ。でも俺はそうは思わない。指導者と合う合わないは人それぞれだから」
「この前の富士野さんの試合見に行きましたけど。ああいうパンチなら世界取れませんよ」
「うるせえ」
 彼の大声は黒板に反響し山岸に届いた。
「だから、戻ってきて下さい。では失礼します」
 山岸は教室を出て行った。
「ガキが。むかつくんだよ」
 扉が閉まった。

 この日の仕事が終わり、彼は身の入らないジムワークを早めに切り上げ家に帰った。
「おかえり」
「ただいま」
「あんた。あっちの生活で足りないものないの?」
「えっ。俺もうあそこにいかないから」
「なんで?」
「日比野にいじめられた」
「そんな事する訳ないじゃない」
「するんだって。いい年こいて。そういう訳だから」
「ピンポーン」
「はーい」
 母親が玄関に駆け寄った。
 彼は自分には関係ないと思い風呂場へ向かった。
「ゆう」
「何」
 母親の呼びかけにおろしたジーパンをあげた。
「ゆう。早く来なさい」
「わかってるって」
 ジーパンのホックをかけてファスナーをあげながら玄関に向かった。
 そこには日比野の姿があった。
「今日はすまなかった。この通りだ。明日からまた来てくれ」
 あの日比野がお辞儀をした。
「雄心。何があったかは聞かないけど関脇になった人がここまでしてくれてるんだから」
「あのですね。お母さん。わたしが稽古場で」
「言わなくていいよ。日比野さん。次の試合まではどんな事を言われても行きます。でも試合でトレーニングの成果が出なかったらもう行きません」
「あんた。どこからものいってんの。謝りなさい」
「お母さん。いいんです。車で送ってくよ」
「でも。時間かかりますよ」
「いいよ。待ってる」
「じゃあ。お願いします」
 彼は風呂場へ向かった。
「どうぞ。あがってください」
「いいえ。ここで待ってます」
 彼は日比野を長い間、玄関に立たしておこうと思い。時間をかけて支度等をして玄関に向かった。
「すいません」
「行こうか」
 一時間近くそこに立っていたのに日比野はそれを咎めなかった。
 
 翌朝。
 ♪~ダウンからカウント1
 今日はカウント1で起きた。
 そして、ロードワークを終え部室に入った。
「おはようございます」
「おはよう」
「やっぱきたんですね」
「とりあえず、次の試合まではよろしくね。キャプテン」
「こちらこそ」
 そして、まわしを締め。道場に向かいこの日も日比野の手を借り腰おろしをひたすら行った。
 腰おろしをしてから三十分が経過した。
「狩野。富士野にすり足教えてやれ」
「はい」
 日比野は彼を次のステップに進ませた。
「富士野さん。すり足は腰下ろして前に歩くだけです。やってみてください」
 彼は狩野に土俵奥の隅に呼ばれすり足の説明を受けた。
「そう。そう。体はまっすぐ動かさないで。あっちの端まで行きましょう」
 狩野は彼のうしろについて優しい口調で語りかけた。
「あとは今のじゃ親指に力が入ってないので親指に力を入れて。あっちまで行きましょう」
 この後も彼はすりあしで土俵の端から端までの往復を時間が来るまでやった。

 この日の夜。
 彼は部室で出すものを出して道場の座敷にひいた布団に入っていた。
「ドン。ドン」
 こんな時間に誰かが道場の扉を叩いた。
 彼は日比野のイタズラではないかと思った。
 彼は立ち上がって入り口の方に目を向けた。しかし、その人物は日比野ではなかった。
 彼は扉の窓の向こうにいる人物に会釈した。
「開けて」
 彼は外からの声にせかされくつをはき、ロックを解除して扉を開けた。
「よっ」
「どうしたんすか?」
「日比野さんが相撲道場に世界チャンピオンになれなかった亡霊が夜な夜な出るって言ってたから」
「でませんよ。亡霊なんて」
「亡霊が喋った」
「さっきから喋ってるでしょ」
 それは彼が思いを寄せてる君島佳代だった。
「あなた、そうじのときいつも私の事見てるでしょ?」
「すいません」 
「別にいいよあれぐらいなら。しかし、ホントにここで寝てるんだ」
「そうですよ」
「ねえ。エアコン使ってる?」
「はい」
「使わないで。ここのエアコン電気かなりくうから」
「あついから。いいじゃないですか」
「経費削減は事務の仕事ですから。使いすぎなら学長にちくるよ」
「学長知ってんじゃないんですか?」
「あの人が学長の許しを得てやる訳ないじゃん。あの人は全て事後承諾だから。このあいだだって申請もしないで車買っちゃったんだよ。信じられないでしょ?」
「あの黒のワゴンのことですか?」
「そうよ。こっちにも予算があるの。ああいうことやられると大変なんだから。あのばかに言っといて」
「やんわりと言っときます」
「ねえ。中入っていい? 立つの疲れた」
「いいですよ」
 彼は彼女を座敷にあげた。
「どうぞ。座ってください」
「ありがとう。ねえ、何時に寝るの?」
「もう寝る時間ですけど」
「えっ。まだ九時半だよ。どんだけ精進してんだよ」
「朝早いんで」
「そうなんだ。ボクサーも大変だね。これじゃあ、彼女と遊んでる暇もないね」
「彼女いないんで。別に困りません」
「やっぱり。いないんだ。そうだよね。顔はまあまあだけどいい年して夢中心の生活してるんだから。でも、あっちのほうはどうしてるの? お店? そんなお金ないから部室のDVDで一人相撲ってとこか」
「一人相撲って。あれのことですか」
「そうみたいよ。角界の隠語だった。あのばかがそういってた」
「おれはしてませんよ」
「うそつかなくていいよ。男ってそういうことしなきゃ生きていけないの知ってるから。ねえ三万でどう?」
 彼女は彼に顔を近づけた。
「三万。今ないんで月末払いでいいですか?」
「だめ。ないなら帰るわ」
 彼女は立ち上がりその場から去っていった。
 その後も彼女は週に一度か二度この時間に道場に来ては上司の愚痴などを彼にぶちまけていくようになった。

 二週間後。
 朝の相撲道場。
 彼は汗を垂らしながら十キロの砂袋を持ち、すり足を行っていた。
「雄心。時間だぞ。仕事いけ」
「はい」
 彼は砂袋を片付け道場をあとにしようとしていた。
「あっ」
 弁当をてにとった彼は何かを思い出した。
「日比野さん」
 手に持ったもの座敷において日比野に近づいた。
「なんだ。辞めんのか?」
「違います。試合決まりました。二ヵ月後です」
「そうか。相手は?」
「韓国人です。OPBFの一位の選手です。しかも世界ランクも持ってるから勝ったら一気にランカーですよ」
「そいつ。強いの?」
「前にビデオで見たんですけど。ファイターでガンガン前に出てくるタイプで結構パンチあるんで。結構強いです」
「勝てんの?」
「勝つしかないんで勝ちますよ」
「そうだな」

 その日のイカルガボクシングジム。
「ごっつぁんです」
 サウンドバックを叩く彼を邪魔する男が彼に近づいてきた。
 しかしそれに彼は耳を貸さない。
「無視すんなよ」
「ピー」
 三分の終わりを知らせるブザーが鳴った。
「なんすか?」
 その男を睨み付けた。
「お前。相撲やってんだって。ボクシングに見切りつけたか?」
「見切りなんてつけませんよ。試合あんのに」
 彼はシャドーをしながら答えた。
「試合? ああ怪我した関の代わりお前なんだっけ。せいぜい怪我するなよ噛ませ犬なんだから」
「そうっすね。実力違いますから」
「わかってんじゃねえか」
「チャンピオン。勝ったら懸賞ください」
 その男はスーパーバンタム級日本チャンピオンのだ。
「やるよ。一〇〇万でいいか?」
「はい」
「お前負けたら一〇な」
「ピー」
「了解。即金ですよ」
「ふっ。お前もな」
 彼は再びそのバックを叩き始めた。

 そして、彼の試合まで一ヶ月を切った。
「雄心。押してみるか?」
「はい」
「出してやれ。山岸」
「はい」
 俵内で稽古していた山岸が返事をした。
 彼は入り口側から徳俵をまたぎ俵内に入りそこで仕切った。
「腕曲げてください」
 山岸は彼の前にたって腰を下ろし両手を広げ左足を引いていた。
「雄心。お願いしますっていって下から上にぶつかれ」
「はい。お願いします」
 彼は頭から山岸の胸にぶつかっていった。
 しかし、山岸はびくともしなかった。
「山岸。突き放せ」
「はい」
 山岸は彼を軽々と突き放し壁にぶつけた。
「雄心。そんな肩ばっか力入れてどうすんだよ。力は当たったときだけでいいの」
「はい」
「もう一回やれ」
「はい」
 このぶつかり稽古というのはただ単にぶつかるだけでは押せない。最初の当たりでタイミングよく手を伸ばし相手の上体を起こして軽くなったところを一気に押さないと相手を俵の外に押し出せない。
 初めてぶつかり稽古を体験した彼はこの理論を日比野に言われたが頭では理解していても体がそのように動いてくれなかった。この日は全くこつをつかめずぶつかりを終えた。

 試合まであと二〇日。
 彼の一二六ポンド(五七.一五キロ)までの減量が激化してきた。
「雄心。落ちてるのか?」
「今のところは」
「そうか。でも、ヨーグルトと果物だけで仕事できてんのか?」
「なんとか」
 一週間まえから日比野の嫁が作る肉、魚中心の弁当の朝食は一時やめてバナナなどの朝食に切り替えた。

 その夜。
 彼は布団に横たわったが空腹でなかなか寝付けなかった。
「ドン。ドン」
 彼女が来た。
「減量中だからあんまりこないでっていったじゃん」
「ごめん」
 彼は迷惑そうに扉を開けた。
「干ししいたけ持ってきたよ」
「ありがとう」
「すこしだけ。いい? 寝てていいから」
 いつも強気な彼女は彼の苛立ちを察知し可愛さを感じさせる口調で彼に語った。
「少しなら」
 彼は彼女を座敷に上げた。
「ほんと。ごめんね」
 彼は布団に横たわり視線を彼女にあわせず窓側に向けた、
「愚痴とかいったら直ぐ出すから」
 このところ常に空腹を感じ生活してるので普段は穏やかな性格だが些細な事でイライラしてしまう。
「私ウザいよね?」
「ウザくはないよ」
「だったら一緒に寝ていい?」
「だめ。犯しちゃうから」
「いいよ」
「俺がだめだ。出したら試合で力出せないから」
「それ迷信でしょ?」
「迷信じゃない。一年前の試合で一週間前に前の彼女とやったら足に力が入らない感じがして負けた」
「そうか。じゃあ。今日はだめだね。でもなんか眠いんだよね」
 彼女は彼の布団にはいってきた。
「でろよ」
「やだ」
「殴るぞ」
「雄心は殴れないよ優しいから」
 彼は彼女の方を向いて殴る素振りをした。
「ほらあ殴れないじゃん。もう寝るよ」
 彼は拳をおろして反対側を向いた。
「化粧とか落とさなくていいのか?」 
「もう落とした」
「家帰ったの?」
「すぐそこだから。そうだ。同棲する?」
「なんで付き合っていないのに同棲すんだよ。お前俺をからかうのもいいかげんにしろよ」
「お前にお前って言われたくない」
 彼女は彼のほっぺたをつねった。
「ああ。うるさいもう寝ろ」
「はーい。寝まーす」
 この後、彼女は彼に話しかけてこなかった。しかし、彼は彼女が隣にいることで生じるいろんな妄想が彼に襲い掛かかってきて寝付いたのは十二時過ぎだった。

 翌朝。
 ♪~ダウン
 先に起きていた彼女が彼の携帯のアラームを止めた。
「富士野君。朝だよ」
「眠い。お前いると寝れねんだよ」
「ごめん。もう泊まらないから」
「当たり前だよ。日比野さんがこないうちに帰れ」
「うん」
 彼は走る準備をして道場を出た。

 彼がロードワークを終え部室に入ると。
「富士野さん。昨日は寝れました」
 普段彼に話しかけない松井が彼に話しかけてきた。
「おい。失礼だぞ」
 山岸がそういうと他の部員達が一斉ににやけた。
「もしかしてあいついるの?」
「いますよ」
「まじで? 帰れって言ったのに」
「富士野さん。相撲部の掟で道場に女連れ込んだ奴は監督のかわいがりなんですよ」
「マツ。そんな掟ないだろ」
「冗談だろ。山岸。でもお前君島さん可愛いって言ってたから。きょう富士野さんかわいがっちゃえば」
「富士野さん。おれはそんなことしませんから」
 彼は二週間前に松井が喫煙を日比野に見つかったのを理由に日比野にかわいがりされ、全身泥だらけになり起き上がるのも困難な状態になったのを目撃しかわいがりの恐怖に怯え、かわいがりという言葉を聴くだけでゾッと背筋が凍るほどであった。
「そう、よかった。あいつにはもうくるなっていっとくよ」
 そして、彼は急いでまわしをつけて道場へ向かった。
 彼から見て日比野の右斜め後ろに彼女が化粧をして正座し座布団に座っていた。
 挨拶をした彼は彼女を道場の外に連れ出した。
「おい。ふざけんなよお前帰れって言っただろ」
「私は帰るっていったんだけど。日比野さんが見ていけっていったから」
「お前がすぐ帰らないからだろ。お前のせいでこっちは迷惑してんの」
「雄心。何やってんだ」
 彼女を大声で叱り付ける彼の声に反応し日比野が彼のもとへ走ってきた。
「なんすか?」
「俺が呼んだんだ許してやってくれ」
「でも、こいついつも日比野さんの愚痴ばっか言うし。相撲に興味ないっていってましたよ」
「いいんだよ。そんなの。行こうか佳代ちゃん」
「でも」
「あんな。女の腐ったような事を言うやつは放っておこう。中にもっといい男いるから」
 戸惑う彼女は日比野についていった。
 そして、道場に戻った彼はいつもの運動二つをこなしぶつかりをした。
「ほら。下か上に押せって」
 まだまだ余計なところに力が入ってる押し方だが最初よりは様になっていた。
「どう? 彼氏かっこいい?」
「彼氏じゃないですけど。かっこいいです」
「バーン」
 胸を出す山岸が彼を壁に強く叩きつけた。
「山岸。がい[ 角界の隠語で相手を完膚なきまでやっつける事を意味する]にするなよ」
「すいません」
「いいぞ。山岸」
「松井。なんで山岸応援してるんだ。またかわいがるか?」
 松井が小声で言ったのを聞き逃さなかった日比野は松井を睨み付けた。
 そして、ぶつかりが終わった。
「どうもありがとうございました」
 道場をあとにした彼は部室へ向かった。
「富士野君」
 彼女があとをつけてきた。
「なんだよ? 今しゃべりたくないから」
 日比野に聞こえないよう小さな声で話した。
「一つだけ聞きたいの?」
「何?」
「後楽園行っていい?」
「どうせ。学長にチケット買わされたんだろ」
「今回は買わされたんじゃなくて買ったの」
「そうなんだ。では、会場でお会いしましょう」
 彼は部室の扉を閉めた。

 そして、試合当日。
 前日軽量をパスした彼は減量苦による体調不良がなくこの日をむかえた。
「雄心。軽く勝ってこいや」
 彼はジムの会長に無理を言って彼のためかどうかはわからないがセコンドライセンスを取得していた日比野をセコンドにつけた。
「富士野いくぞ」
 ジムのトレーナーが彼をよんだ。
 そして、彼は花道の奥で控えていた。
「雄心。道場訓を心の中で言え」
 日比野はガウンの上から彼の肩を揉んでいた。
 彼は目をつむり、それを言葉にせず唱えた。
「よし。行こうか」  
 ♪~ダウンからカウント123456789までは悲しいかな神様の類に数えられてしまうものかもしれないだけどカウント10だけは自分の諦めが数えるものだ!
 入場曲。竹原ピストルのカウント10で入場した彼は意気揚々と右拳をあげてそれをまわしながら歩いた。
 彼は青コーナーに到着しトレーナーがリングロープあげて待つがそれを無視してロープに左手を置いてジャンプで飛び越えた。彼はそれを一度もしたことがなかった。
「富士野がんばれ」
 彼の気合の入った入場に観客席から多くの歓声が飛んだ。
 そして、もうすぐで試合がはじまろうとしていた。
「雄心力抜いて。入れるのは当たった瞬間だけ」
「はい」
「カン、カン」 
 日比野がリングからおりた。
「さあ。はじまりました。フェザー級一〇回戦です」
 深夜に録画放送されるボクシング中継番組のアナウンサー清志が実況を始めた。
「左ぃ左ぃ左ぃ。左の三連打。先手は富士野でした。内藤さん。この富士野A級トーナメントの悪夢からの再起というかたちですが立ち上がりどう見ますか?」
「ガードの上だけどいいんじゃないですか。A級より体動いてるよ」
 元WBC世界フライ級チャンピオン。現宮田ジム会長内藤大助は軽快な口調で語った。
「ホンの右ぃー。これは空を切りました」
 彼とホンは一ラウンドというこでお互い様子みというかたちだった。
「ゆう。どうだ?」
 日比野はロープ越しにイスに座る彼の後ろから耳もとに話しかけた。
「腰おろし効果でパンチ走ってますよ」
「そうだな。相手お前思ってるよりも左嫌がってるぞ左の上下やってみ」
「はい」
 これを聞いていた彼のうがい補助を行うチーフセコンドであるトレーナーはお株を奪われた気分だった。
「カン、カン」
「二ラウンド目開始のゴングぅ。さあ。富士野どう攻めるか。左ボディー。左」
「富士野二つともあたったね。この打ちわけは有効よ」
 内藤は自分のコメントに二回頷いた。
「そうですね内藤さん。さきほどの休憩時に富士野の耳元で元荒吹雪こと現飛翔大学相撲部監督日比野氏が富士野の耳元で何かささやいていましたがこの打ち分けを指示したのかもしれませんね? ホンの左フック。これはガードの上」
「すごいね相撲の人でしょ。でも相撲の人はそんな細かいアドバイスできないよ。トレーナーがしたんじゃないかなあ」
 この「すごいね」は日比野を卑下する意味だ。
「レスリングもやってました。富士野左右ィ」
 清志は内藤の日比野をばかにしたコメント全般と内藤の独特なはなし口調にイラッときて茶々を入れた。
「レスリングはずるいよ。相撲で有名になったひとじゃない」
 茶々を察した内藤が反撃した。
「左をかわして右ぃー」
「富士野いいよ。当たってるよ」
 二ラウンド目はパンチが当たり彼のラウンドになった。
 そして、回が進み六回に入った。
「左ぃ左ぃ下の左。富士野三つ当てました」
「そうだね。相手嫌がってるよ」
 ラウンドを落とし続けているホンは苛立ちを見せあきらかにパンチが大ぶりになった。
「左ぃ。ホンの左フック。おー。それを交わして右ぃ。富士野の右。連打連打左右の連打止まりません。アゴアゴアゴー」
 清志は語気をしだいに強め最後の部分の音が割れてしまった。
「止まるよ」
「割って入ったレフェリーが手を交差。止まりました。富士野完勝」
「すごいね」
「富士野。すごい。A級の悪夢を自分の手で払拭しました」
「一二位もらったんでしょ」
「一一位ですね。ホンの世界ランク一一位を奪って世界ランカーになった富士野。この事でOPBF王者との指名試合を決めました」
 OPBFでは二〇〇九年よりWBC世界ランク一五位以内の選手に指名試合の優先挑戦権を与える事になった。
「下馬評では富士野圧倒的不利の状況でしたが蓋を開けて見れば回を増すごとに左でホンを翻弄。そして撃破しました」
「上手いことかけたね」
「それでは、ホン選手を破りました富士野雄心選手です。富士野選手今の心境はどうですか?」
 リング上で勝利者インタビューがはじまった。
「勝ったんだなって感じです」
「そうですか。次はOPBFタイトルマッチになりますが自信はありますか?」
「次タイトルマッチなの?」
「そうです」
「ああ。がんばります」
 勝った喜びをしみじみとかんじる彼は観客には素っ気ない態度にうつった。
「おめでとうございました。富士野雄心選手でした」
 彼は正面の学長をはじめとした飛翔大の職員で結成された応援団に向けて右手を突き出した。
「ゆう。いくぞ」
 日比野がロープを上げて待っていた。
「日比野さん。ありがとうございました」
「何が? いいからはやくぐぐれ」
 ロープをくぐり彼は花道をたくさんの拍手を浴びながら帰っていく。
「日比野さん。腹減りました」
「学長が勝ったら寿司連れてくっていってたぞ」
「まじすか。いいっすね。俺とろまぐろとろで攻めます」
「ばかだなお前は。デザートは佳代ちゃんか」
「あいつは。面倒くさいんでデザートになりませんよ」
「恥ずかしがるなよ。道場で夜な夜な稽古してるくせに」
「してませんよ」

 メインの日本タイトルマッチが行われている最中の後楽園から出た彼と日比野は鏡が待つ飯田橋の老舗寿司店〈〉にタクシーで向かった。
「お前やるじゃん」
「正直わかりません。なんで勝てたのか。ぶつかりはちょと上手くなったと思いますけど。ボクシングが強くなってる実感はありません」
「そんな事考えるな。今日のリングの上での動きが全てだ。でも、まだまだだ。明日からもこいよ」
「はい」
「お客さん着いたよ」
 二人はタクシーからおりてその店に入った。
「おう。来たか」
「おつかれさまです」
 日比野と彼が声を揃えた。
「おつかれさま」
 鏡の隣のカウンター席に腰掛けていた鏡の妻が彼に声を掛けた。
「ふたりとも座れよ」
「はい」
 二人はカウンター席に腰掛けた。
「大将二人にいいネタ握ってやって」
「ゆう。とろまぐろ頼むか」
「えっ。とりあえずでてきたもの食べます」
 二人はひそひそと話した。
「おい。なんだ。なんか食べたいものあんのか」
「いいえ」
 試合終了時ははらぺこでしょうがなかった彼だが、寿司を十貫しか食べなかった。
「富士野。もう食べんのか?」
「こいつ。減量してたから胃がちっさくなってるんですよ」
「そうか。とし。お前は相変わらず食うよな。現役の時とかわんないんじゃないか」
「そんな食べてませんよ」
「あなた。富士野君もう帰してあげたら。つかれてんだから」
「そうだな。富士野君もう帰りな」
「はい」
「学長。俺送ってきます」
「お前も行くの? 大学の金つかいすぎてるから怒ろうと思ったんだけどまた今度でいいや」
「学長。勘弁してください。気を付けるんで」
「ほんとに気をつけろよ」
「はい。雄心立て。挨拶して帰るぞ」
 二人は礼を言って店を出た。
「日比野さん。いくら貰ったんすか車代」
「お前がみろ」
 彼は日比野から受け取った茶封筒の中の札を数えると十万円入っていた。
「日比野さん。電車で帰って半分にわけましょうよ」
「いらねえよとっておけ」
「ありがとうございます」
 彼は臨時収入が入りウキウキで日比野がとめたタクシーに乗り帰宅した。

 その一週間後の朝。
「おい。雄心相撲とってみっか」
「はい」
「坂本。入れ」
「はい」
 彼と坂本は俵をまたぎ土俵の中に入りそれぞれの仕切り線のまえでそんきょをした。
「坂本。胸から行って。あとは普通にとれ」
「はい」
 彼は以前から部員同士の稽古で一番力が劣る。坂本になら勝てると思っていた。
「雄心は思いっきりぶつかって下から上に押せ」
「はい」
 そして、互いに仕切り手をついて立った。
 彼は頭からぶつかっていったが胸からぶつかってくる坂本の圧力に負けてあっというまに押し出された。
「何、怖がってんの。お前ボクサーだろ?」
「怖いです。首痛いです」
「最初は誰でもそうなの。下から上に突き上げるようにぶつかれば怖くないから。やれ」
 彼はこの後何番とっても立会いでの衝撃から生じる恐怖を克服できなかった。

 そして、その恐怖と闘い二週間が経った。
 日比野は予想以上に怖がる彼に数日前から対策を取った。
「雄心。今日もすぐ出たら。叩くからな」
 その対策とは彼側の俵の外で日比野がたけぼうきを持って待ち構え一〇秒以上土俵にいないとそのほうきの枝を束ねている部分でお尻を叩くというものだ。体罰は高校野球、伝統のある大学スポーツ、体罰の本場相撲協会でもいくらそこに愛情があっても認められなくなっている時代なのに日比野はそれを断行した。
「はい」
 彼のお尻全体にはその束状のみみずばれがくっきりとあった。
「おまえ。逃げまわるな。往生際が悪いぞ。坂本早く出せ。おし。でた」
「狩野。タイムは?」
「一〇秒二三です」
 狩野は日比野の指示で彼が俵の外に出るまでのタイムを計った。
「ちくしょう。今度は二〇な」
「俺二〇は無理っすよ」
「ふしのさん。まわし直すからちょっと来て」
 モンゴル人部員のダルゴドレン・カルヤン。通称ダルが彼を呼んだ。
 彼はダルにお尻を向けて緩んだまわしを締め直してもらった。
「ふしのさん。目をつぶらない事だけ考えて。はい頑張って」
 ダルは彼の耳元でささやいたあと締めたまわしの結びめをポンと叩いた。
 そして、彼はぱっちりと目を開けて仕切り手をついて坂本にぶつかった。すると、
衝撃は感じたがさっきまであれほど怖かったものはそこにはなく二人は中央で止まった。
「ふしのさん。まわれ」
 その声で彼は右から坂本のうしろにまわり込みまわしを取った。それをふりほどこうとした坂本の腰の位置が高くなった。彼はこれで一二〇キロある坂本の体が軽くなったことを体で感じ、そのまま寄り切った。
「そうだよ雄心。坂本次頭で行っていいぞ」
「はい」
 坂本は日比野の指示に深く頷いた。
 それぞれの仕切りに戻った二人はにらみ合いながら仕切り、手をついた。
「ゴーン」
 二人は鈍い音を鳴らしてぶつかり合った。体重で勝る坂本が彼の両腕を両腕ではさみつけて徳俵まで押していく。しかし、そこに足が掛かった彼は坂本を右にいなして坂本の体勢を崩しそこを勝機と見て彼は坂本を土俵外まで押し出した。
「すごい。ふしのさん」
 このあとは坂本の押しに屈する相撲もあった。しかし、それまでは坂本の一方的な相撲で終わってしまっていたのでこの日の彼の覚醒に日比野はじめ部員達は目を見張った。

 この日の夜、彼は朝の坂本との申し合いで頭の中央部にたんこぶが出来たので部のアイス枕でそこを冷やしていた。
「ドン、ドン」
 彼は扉の窓に彼女の姿が見えたので手でアイス枕を押さえた状態で布団に入り寝たふりをした。
 布団に入った彼は彼女のことがほんの少しかわいそうになったのと最近女とは会話をしているがときめきのおこらない五〇オーバーの女性ばかりなので少しときめきが欲しいと思ったので彼女のもとへそれを押さえて向かった。
 しかし、彼女はそこにいなかった。
 あきらめの悪い彼は彼女を追って彼女の家の方向にある正門へ向かった。
「君島」
 薄暗い道を一〇〇メートルほど走った彼は彼女らしき背中を見つけた。
「富士野君?」
 彼女はうしろを振り向いた。
「お前。さっき来ただろ?」
 彼は彼女に近づいた。
「行ったよ。でも富士野君寝たふりしたからあきらめたの」
「そうか」
「なんで。寝たふりしたの? 私の事なんかもう興味ない?」
「あっちで答えるから。来いよ」
 彼は道場の方向に戻っていった。
 そして、道場に着き、彼女を座敷にあげた。
「この間の試合はおめでとう。メールしようと思ったんだけど怒られると思ったから辞めた」
「そんなことでおこんねえよ」
「ねえ。頭どうしたの?」
 彼女は座布団を彼に差し出した。
「稽古でたんこぶできた」
「痛い?」
「まあな。お前も座布団持ってきて座れよ」
「うん」
 彼は畳に膝をついて座る彼女を気遣った。
「最近どう?」
「どうって。毎日稽古と練習してる。そうだ百万みる?」
「百万?」
 彼はアイス枕を彼女に預けて枕元に置いてあったボストンバックから銀行の名前が書かれてる封筒を取り出し彼女に見せた。
「厚いね。ファイトマネーってそんなにもらえるんだね」
「違うよ賭けで勝ったんだよ」
「賭けって。まさか試合で?」
「そうだよ」
「この間は勝ったけど勝つかどうかわからなかったんじゃないの?」
「そうだけど。なんか賭けちゃったんだ。悪いんだけどさあこれお前の通帳で管理してくれない?」
「なんで?」
「俺の母さん勝手に俺の通帳を残高照会して、この振込みはなんだとか言って来るんだよね」
「まあ、そういうことならいいよ」
 彼は座布団に正座して座る彼女にその封筒を渡した。
「お前さあ俺に惚れてんだろ」
 彼女の隣にもどった彼は彼女の膝からアイス枕を取り頭を冷やした。
「何、急に」
 彼はまっくらな室内だったが彼女のほっぺが赤くなったのを識別した。
「だってあんなに突き放したのに。来るってそういう事だろ」
「そうだけど」
「やっぱそうか。全てを俺に合わせるなら俺の女にしてやってもいいぞ」
「うん。合わせる」
「うん合わせるじゃなくて。まえみたいに噛み付いて来いよ」
「好きな人に噛み付けないよ。この前富士野君に恥じかかせてもう会いにいくの辞めにしようと思ったんだけど。富士野君の事好きな気持ちが抑えきれなくて来ちゃった」
「君島はやっぱかわいいな」
 そのあと、二人は布団に入った。しかし、性行為はせずに少し会話すると眠った彼を見て彼女も眠った。

 それから一ヵ月が経ち一一月の下旬になった。風が冷たくなって季節は秋から冬へと移行しようとしていた。また、彼のタイトルマッチが三ヶ月後に決まっていた。
 その朝。
「おし。四股踏め」
 彼は坂本との申しあいのあとすぐに行われるぶつかり稽古が終わり四股を踏み始めた。
「なんだよ。その四股はちゃんと踏まんかい。そんなの三股だよ。いやもっとひどいな。塩谷だな」
 日比野が座敷から彼に歩み寄ってきた。
「塩谷って古くないすか。わかるの俺と日比野さんしかいないでしょ」
「塩谷はどうでもいいから。四股を踏めお前はしっかりと親指で地面つかまないからフラフラするんだよ。そんなんじゃ次負けるぞ」
 次の相手はチャンピオンであるオーストラリアのウィリアム・シーパーだ。シーパーは左右のフックを得意パンチとする軽量級では珍しいハードパンチャーである。
「すいません」
「もっと腰下ろして腹にちからいれて」
 日比野はシーパーへの対策を伝授することはなかった。
 そして、この日の稽古が終わり彼は風呂に入り部室のテレビを見ていた。
 この日は日曜で仕事もジム連もない。
「ふしのさん。このあとはデートですか?」
 となりの席に座るダルが話しかけてきた。
「今日はしない。実家帰ってくつろぐ」
「しっかですか。いいですね」
 ダルは悲しそうな顔をした。
「来る?」
 彼は中々故郷に帰ることのできないダルのその表情を見て同情してしまった。
「いいんですか?」
「うん」
 彼はダル共に家へと向かった。
 
「どうぞ。はいって」
 家に着いた彼はダルを家の中に入れた。
「おしゃまします」
「おかえり」
 母親が玄関に来た。
「母さん。ダル連れてきたよ」
「いらっしゃい」
「はしめましてダルゴドレン・カルヤンです。よろしくお願いします」
「はいこちらこそ。さああがって。あがって」
 母親のあとをつけて彼らはリビングに入った。
「ダル君はなに飲む?」
 彼らはリビングのソファーに腰掛けた。
「のみものはおちゃでいいです」
「俺コーラ」
「あんた。減量きつくなってきてんだからコーラやめたら」
「相撲はじめてから筋肉ついて代謝がよくなったからすぐリミットまで落とせるからいいの」
「はい。はい」
「ふしのさん。この川どこの国ですか?」
 ダルは目の前のテーブルに置いてある杉澤が送ってきた釧路湿原の写真絵葉書を指差した。
「日本だよ。北海道の釧路にある川だよ」
「見ていいですか」
「いいよ」
 ダルはそれを手に取った。
「はい。どうぞ」
 母親が彼らの飲み物をそのテーブルに置いた。
「これ。モンゴルの川ににています」
「モンゴルって草原のイメージだけど川あるんだ」
「ありますよ」
 母親がダルに話しかけた。
「母さん。買い物行きな。卵なくなるよ」
「モンゴルの話聞きたいけど。卵も大事だから行ってくるわ」
 彼はそこに立ち止まってダルの話を聞く母親を邪魔に思い買い物に行かせた。
「お母さん。僕も行きます荷物もつの手伝います」
「ダルは行かなくていいの。せっかくの半休なんだから」
 飛翔大相撲部の練習は休みがなく通常、朝と夜練習があり日曜だけは朝練のみになってる。
「そうよ」
 母親がリビングから出て行った。
「ふしのさん。お母さん好きですか?」
「好きって」
「日本の人はお母さんのことあまり大切にしない人多い」
 母親に素っ気無い態度を取る彼は十九歳のダルに説教された。
「大切にしてないわけじゃないど。確かに気も使ってないね」
「それだめ。モンゴルだったらお母さんみたいな年齢の人にあんまり仕事させない若い人が働きます」
「モンゴルと日本はちょっと違うからそれに俺だってちゃんと家に金いれてるから」
「ふしのさん。わたしそういう事言ってない。日本人ではお父さん。お母さんに愛のこころがたりないんだよ」
「たしかにそうだわ。気をつけるよ」
「わたしごめんなさい。としうえの人にこんな事いったらだめなのに」
「いいんだよ。ダルの考え正しいから」
「ありがとうございます」
 このあと、彼はテレビをつけて、ダルの言葉にふてくされたわけではないがだんまりをきめこんだ。
「ふしのさん。これはなんてよみますか?」
 しばらくして、ダルは絵葉書の宛名面のメッセージ欄を彼に見せた。
 来日して四年、高校、大学で日本語の教育を受けているダルは標準語の会話なら支障なくできるが漢字の読みを難しいと感じている。
「雄心元気か? テレビ見たぞ。お前強いな。お願いがあるんだけどパンツにマジックで
うちの会社の名前書いて試合やってくれ。杉澤。富士野さんこれ冗談なんで鵜呑みにしないで下さい。高野。富士野君頑張れ。橋本さき。意味わかった?」
「わかりました。応援してるんですよね」
「まあ。そうだよね」
「富士野さんはすごいです。ボクシング強いし。優しいしだからみんな応援してくれる」
「そんなことないよ。ダルの方が優しいし相撲も強いし」
「わたし弱いです。この前の試合負けた。決勝トーナメントいけなかった。でもますいは三位になった」
 ダルの母国語モンゴル語の母音は日本語の母音にない母音があり発音しにくい音がある。
「個人は松井君だけいい成績だったけど団体で優勝したじゃん」
 創部一年目の飛翔大は団体戦では一番下のクラスからスタートした。結果は東日本団体戦の三部リーグではその力の差を見せつけぶっちぎりの優勝、その入れ替え戦でも二部の下位チームを一蹴し二部への昇格を決めた、全国大会の団体Cクラスでも優勝した。ちなみに彼はそれらの大会にマネージャーとして帯同していた。
「団体戦の成績は当たり前です。ホントは個人戦優勝しなければならなかった。ひろってくれた日比野さんのため、奨学金もらっている大学のため」
「組み合わせがわるかったじゃん。負けた相手二位の人だったし」
「ふしのさんみたいな強いボクサーに言われたら腹が立ちます。勝負は負けたら終わり理由なんて関係ない。ふしのさんそれよくわかってるのにそんなのいうのはだめです。ふしのさん。わたしここに来た理由しってますか?」
「知らない」
「わたし高校から日本きた。ほんとは高校終わったらずっと夢だったプロ行くはずだった。でもわたしいじめられた大人助けただけったのに警察捕まってプロいけなくなってモンゴル帰れといわれた」
 ダルは相撲留学先の高校卒業後に相撲部屋入門がきまっていた。しかし、卒業式一週間前にオヤジ狩りをしていた他校の高校生達からその男性を助けた際、その高校生の一人にあばら骨を折る怪我を負わせてしまった。普通なら正当防衛でダルは咎められなかったがその高校生達が口裏を合わせダルにやられたと被害届けを出しダルが捕まった。ダルは取調べで身の潔白を訴えたが信じてもらえず、ダルが助けた男性は骨折した高校生の親に金を渡されダルの無実を証明しなかった。幸い、初犯のダルは起訴されなかったが、相撲部屋の入門はながれモンゴルに帰ることになっていた。そこに日比野が声をかけダルの夢は首の皮一枚つながった。
「そうだったんだ。それでここにはいったんだね。俺と同じだ日比野さんに救われたんだ。だったら一回まけたくらいで弱気になってないであの監督を信じようよ」
「そうですね。ふしのさんはもちろんしんしてますよね?」
「ほうきで尻叩かれたり、勝てない相手と相撲とらされたり普通じゃ辞めてるけど信じてるからあそこで稽古してるんだよ。俺あの人に自分の人生預けたんだ」
「はい。私も監督にしんせい預けます」
 その後、母親が帰宅して彼らは昼食を取った。昼食後はダルのモンゴル話に彼と母親は聞き入った。
「ゆう。モンゴルいきたいね」
「俺次の試合おわったら行ってこようかな」
「あの女の人とですか?」
「ダル君。あの女って誰?」
 母親は間髪いれず聞いた。
「ダル。その事は言っちゃだめ」
「はい」
「いいじゃん。教えてくれてって減るもんじゃあるまいし。そうだ。ダル君夜も食べてくでしょ?」
「わたし東武練馬の友達の家いくんです」
「そうか。残念お父さんに会わせたかったのに」
「では帰ります」
「母さん。俺もいくわ」
 彼は携帯の着信メールを見た。
「あんたはなんで行くの?」
「友達が角煮つくったっていうから飯いらない」
「友達じぁなくてその女でしょ?」
「ダル逃げるそ」
 この日彼はダルと語り合い。それまでダルを外国人という事だけで避けていた自分を恥じた。
 時代は大きく変わっているというのに人から人へと刷り込まれた偏見はいつになったら色あせ消え去るのだろうか。

 二週間後。彼はジム練習を終えジムを出た。
「富士野さん」
「はい?」
 ジムの前で待ち伏せしていた男が話しかけてきた。
「大東京テレビの清志と申すものです」
「どっかで見たことあるな思ったんですよ。いつもテレビで見てます」
「いいえ。この間のホン戦は素晴らしかったです。最高でした」
「ありがとうございます」
「あのう。今日は仕事ではなく食事に誘おうと思ってきたんですよ」
「食事ですか。俺このあといろいろやることあるんすよ」
「そうですか。残念です。また今度誘います」
「清志さん。うち来ませんか家ならいいですよ」
「いいんですか?」
「はい」
 彼は清志を家に連れて行った。
「ただいま」
「おじゃまします」
 彼らはリビングに入った。
「おかえり」
 台所で調理をしていた母親がリビングに出てきた。
「こちら、ボクシング実況の清志さん」
「どうもお初にお目にかかります。大東京テレビアナウンス部主にスポーツ中継を担当している清志でございます」
「ご丁寧にありがとうございます。富士野の母でございます」
 清志と母はお辞儀をし合った。
「雄心。お客さん来るなら五時までに連絡してくれないと」
「おやじのぶん出せよ。どうせ今日も飲みだろ」
「そうだけど」
「お母さん。僕が悪いんです。アポも取らず来たんで」
「そんな。頭上げてください」
 清志が顔をあげると。
「清志さん。俺風呂入るんで先にやっちゃってください」
「雄心。後で入りなさい」
「無理」
 彼は風呂場に向かった。 
 そして、彼が風呂から上がってきた。
「清志さん。赤いよ」
「なんせ。代謝がいいもんで」
 清志は陽気になっていた。
「次期チャンプ早く座って」
「はい」
「俺はね富士野君が東日本獲ったときからこいつは絶対に来ると思ったよ」
 このあと、清志は彼への熱い想いを日付が変わるまで語り彼は道場に行けなかった。
 翌朝、彼は相撲の稽古をみたいと言った清志と共に大学へ向かった。

 そして、年が二〇二一年に変わり。彼のジムでのトレーニングがスパーリング中心となった。
「富士野。スパーしてくれよ」
「次の相手ファイターなんでファイターとやりたいんですよ」
「そなこといわず。やろうぜ」
 堂田が申し出てきた。
「まあ。いいっすよ。まだ時間あるんで」
 堂田とのスパーが決まった。
 そして、スパーが始まった。
「おし。富士野左からな。そう。当たったよ」
 彼についたトレーナーが指示を出す。
「もう一発。そう。いいね。右も。そう。入ったぞ。ラッシュ、ラッシュ」
 このあとも彼のパンチは当たり続け六ラウンドやるはずだったスパーが堂田が戦闘不能
になり三ラウンドで終わってしまった。
 このあと、彼は相手を変えもう三ラウンドのスパーを行い、この日の練習を終了した。
「チャンプ。大丈夫ですか?」
 ジム二階の事務所で静養してた堂田がおりて来た。
「大丈夫。軽い脳震盪だから」
「チャンプ。今日の続き明日やりましょうよ」
「明日は小沢ジムの一〇回戦とやるから。また今度な」
「富士野。いじめるな。お前の方が強いのはわかったんだから」
 側にいたトレーナーが言った。
「ですって。あとはチャンプが次の防衛戦で負けて俺がチャンプになったらちゃんと敬語使ってくださいよ。チャンプ」
 二人は同時期に同じ年齢でこのジムに入門した。当初は高校ボクシングの全国大会で優勝経験を持つ堂田が彼の先をいき、二年前。先にチャピオンになった。その際、堂田が「いくら同期でもチャンピオンとノーランカーじゃ天と地の差だ。俺に敬語使えよ」と言い出し、それ以来、彼は堂田に卑下され続けてきた。

 彼の試合が近くなってきた一月下旬。この日の東京は前夜の大雪でアスファルトがツルツル路面になっていた。
 そんな日の朝。
「あれっ今日。日比野さん来てないね」
 彼はまわしを締め道場に行くとそこには日比野姿がなかった。
「今日は休みだよ。このツルツル路面で車出せないんだろ」
「マツ。それでもやるんだよ」
「山岸。硬いこというなよ」
「監督きました」
 自称視力が八・〇のダルだけが日比野姿を見つけた。
「し転車乗ってます。でもタイヤついてない」
「タイヤついてなかったらのれないだろ。あっほんとだ」
 松井が目を点にした。
 そしてしばらくして日比野が道場の前に自転車を停め道場に入ってきた。
「おう」
「おはようございます」
「日比野さん。その自転車どうしたんですか」
「あれか。駅の前に落ちてたぞ。懐かしいから乗っちゃったよ」
「でも危ないですよ」
「危ないけどツルツル路面といったらホイール走行だろ。でもなタイヤよりは滑んないぞ。氷にざくっと入るから。それに鹿乗り名人の掛川先輩はこれで強靭なバラス感覚を養ったんだ」
 その後、北海道出身の日比野は自分の中学生時分の話を延々と彼らに話してこの日の稽古は終了した。

 そして、試合への万全な準備が整い調印式を迎えた。
「グローブは当日までOPBFで保管されます。それではこれより報道関係者との質疑おうどうに入らせていただきます。質疑応答に入らせていただきます。はじめに代表質問。大東京テレビ様からお願いします」
 調印式、グローブのチェック、封印が終わり記者会見に移行した。
「では大東京テレビのほうからまずはじめに代表で質問させていただきます。まず、チャンピオンのシーパー選手にお話をお伺いしたいんですけど、五度目の防衛戦が明日にせまってきましたが今の心境をおねがいします」
 報道陣はOPBFの調印式ということで少数であった。
「富士野選手に左右のフックの連打をヒットさせて一ラウンドで試合を終わりにし世界挑戦のことを考えたい」
 シーパーのコメントは日本人通訳によって抑えられた表現で報道陣に伝えられた。
 このあともシーパーは彼は卑下するコメントを連発した。                                 
 これを受けた彼は挑発にのらず。主に「頑張ります」としかコメントしなかった。

 そして当日。彼の初ファイナル。初タイトルマッチが若干の空席がある後楽園ホールではじまろうとしていた。
「カン、カン、カン。ただいまよりOPBF東洋太平洋フェザー級タイトルマッチを行います。まずは両選手リングに入場です。はじめに青コーナーより挑戦者、富士野雄心選手入場です」
♪~ヘイ、ボーイどうせならなんかのチャンピオンを目指せよ。ヘイ、ボーイ何でもいいからなんかのチャンピオンを目指せよ。(中略)ヘイ、ボーオイ一瞬の人生を。ヘイ、ボーオイ張り切って行こうぜ
 彼はタイルマッチの挑戦者にピッタリな曲で入場した。
 そして。
「カン、カン」
 はじまりのゴングが高く鳴り響いた。
「さあ。はじまりました。いきなりチャンピオンの右そして左」
「あのフックはガードの上からでも気をつけないとだめだよね。ガードの上からでも効くし怯んだところ狙ってるよ」
 この日もあのコンビだった。 
「富士野もすぐさま左で応戦」
 このような感じで一ランド終盤を迎えた。
「おー。チャンピオン。リングの中央でラッシュ。富士野防戦いっぽうだ。手を出せ富士野」
 (回想)
 試合前の控え室。
「ゆう」
「はい」
「相手バカだから最初からくるぞ。ガード固めて受けてやれ。でも下がるな」
「はい」
「それで、ラッシュの打ち終わり体流れるから。流れたら一気に行け。今日は焼肉だからあんなやつ早いラウンドでがいにしていい肉死ぬほど食べような」
(回想おわり)
「富士野。さっきからうけてばっかりだよね」
「あっ。右ぃー。富士野打ち終わりを右ストレート。富士野ラッシュ。反撃のラッシュ。右から左ぃ。富士野はシーパーのお株を奪う重そうなフックでシーパーの顎を破壊しようとしてます。そしてここでレフェリーが間に入り試合が止まった。勝ったぞ。富士野」
 いつもは淡々とした口調で実況する清志は感情を表に出した。 
「ゴングに救われたんじゃない?」
「内藤さん。何言ってんですか。もう試合終わりましたよ」
 鮮やかな逆転劇に歓声はやまなかった。
「では。スローです」
「打ち終わり狙ってたのか。すごいな」
「そうですね。このVTRを見ると先ほど内藤さんはシーパーのパンチが効いていたとおっしゃっていましたが私の目には富士野が相撲の稽古で更に発達させた首から肩にかけての僧帽筋で首がプロテクトされてたのでまったく効いていないようにうつりましたが」
「ごめんね。確かに効いていなかったね。テレビだからちょっと脚色しちゃったんだよね」
 そんな二人をよそにして。
「それでは、OPBFフェザー級新チャンプ。ベルトを巻いたばかりの富士野雄心選手です。おめでとうございます。今どのようなお気持ちですか?」
「気持ち? あんまりうれしくないです。巻きたいのはこのベルトじゃないから」
 ポーカーフェイスでのビックマウスに会場がどよめいた。しかしこれはビックマウスではない彼の本心だ。半年前自分の情けなさを苦に自殺未遂を起こした青年はフェザー級の頂点だけしか興味はなかった。
「世界だけしか興味のない富士野選手でした。ありがとうございました」
 インタビューが終わり、多くの拍手が送られた花道を通り彼は控え室に引き揚げていった。
「日比野さん。少し横になっていいですか」
 控え室に入った彼は肉体的の疲労は無かったが張り詰めていた精神が一気に緩んだせいで力が抜け横たわりたい気分だった。
「あいつ試合前に俺の豪腕でお前を倒すっていってたけど。パンチは足でうつものなのに。ほんとばかですね」
「お前一丁前な口聞きやがって。最近やっとできるようになったくせに。あれ。パンチもらったんだな」
 腰おろし。すり足。四股と地面をつかむ動作の反復は彼の重いパンチを生み出した。
「これですか。あいつ頭ぶつけたんですよ」
「でもこれぐらいなら佳代ちゃんになめってもらえば治るよ」
「まだ、キスもさせてませんよ。あいつすぐ調子に乗るから」
 あがり座敷によこたわる彼のまぶたの上が少し切れていた。

 チャンピオンになってから一週間。彼は雑誌の取材を受けていた。
 通常、OPBFのチャンピオンになったからといって雑誌取材のオファーはボクシング雑誌ぐらいだが、相撲の稽古を積み重ねたことで格段に強くになった彼はマスコミ関係者の目には魅力的にうつり、週刊誌、テレビのスポーツ番組、そして、相撲雑誌までが食いついた。
 そして、その日の夜。
「ピンポーン」
 彼がインターホンを鳴らした。
「はーい」
 その声は玄関に駆けつけ玄関のドアを開けた。
「よう」
「チャンピオンどうしたの?」
「お前が来ないから来たんだよ。お前。俺が厳しい減量やってる時に男つくったんだろ?」
「おととい行ったよ。雄心がいなかったから帰ってきた。雄心こそテレビにでて有名になったから他の女の人のところに行ってたんじゃないの?」
「おとといは清志さんに拉致されたんだよ」 
「ほんと?」
「ほんとだよ」
 彼女は彼に抱きついた。
「やめろよ」
「やだ。セックスしてくれないと今日は帰さない」
「わがまま言うな。わかれるぞ」
「いいよ別に。男なんていくらでもいるし」
「なんでそんなこというんだよ」
「冗談だよ。なに。涙目になってんの。ばか。ゆうは私と日比野さんがいないとだめ男なんだから。だからわかれるなんていわないでよね。ほら、ベット行くぞ」
 亭主関白きどりの彼だったがしっかりと彼女の掌で転がっていた。
「はい」
 彼女に引っ張られ寝室に向かった。
 そして。
「へたくそ。腰が全然動いていないよ。一〇人とやったていうのはうそでしょ」
「ごめん。お店の人としかしたことがない」
「もう。最低。わかれようかな?」
「それだけは」
「だったら腰うごかして。ほら」
 彼は素人童貞であることを自分でばらした。ちなみに彼がたまに行く新宿の店では穴に入れれるのは指だけだ。
「もう。ぜんぜん気持ちよくなかった。口で出すのなんてはじめてだよ」
「ごめん。練習します」
 彼は夜の監督に怒られた。
 
 それから二週間後、初防衛戦が二ヵ月後の五月に決まった。
 次の相手はOPBF同級三位のルジャパー・マニス・パルエバである。パルエバは執拗なクリンチなどで相手を撹乱し浮き足立ったところを仕留めるというトリッキーなボクシングをする選手である。
 曲者対策などをする素振りを見せない富士野陣営の参謀は今朝も彼に罵声を浴びせていた。
「おい。なんだそれ。腰入ってないてし。脇があいてる。そんなのてっぽうじゃない」
「すいません」
 彼は先日からはじめたてっぽう柱のトレーニングに苦戦していた。
「おい。見てろよ。そして聞けよ。お前のパチャーン、パチャーンていう音じゃないから」
 日比野がてっぽう柱の前に立った。
「ドスーン。ドスーン」
 重低音が道場に鳴り響いた。
「どうだ?」
「すごいです」
「そうだろ。こんな音出したいと思うならやれ」
「はい」
 彼はその音に憧れてっぽうを始めたが彼のてっぽうから発生する音は気の抜けた音だった。
「おい。お前なに見てたの? 腰全然ぶつけてないじゃん。それと脇あきっぱなしだからこれ入れろ」
 日比野は竹ぼうきの束になっている枝部分から一本折り、更にそれを半分に折ったものを彼の両脇に挟めた。
「これなんすか?」
「やれ」
 その状態でてっぽうをした彼だったが、脇に挟んだ枝をすぐに落とした。
「なにやってんだよ。落とすな」
「こんなのできませんよ」
「お前。次ぎ落としたら。セックス下手な事いいふらすぞ」
 日比野は彼の耳元でささやいた。
「そう。そうだよ。やればできるじゃない。腰もちゃんとぶつけて。もっとぶつけて。もっと。足は浮かさない。親指に力いれて」
 日比野は彼が追い込まれれば追い込まれるほど力を出すタイプだと熟知していた。

 そして。てっぽうの音がやっといい音になったのは試合当日だった。
「うん。いいよ。脇もしまってるし腰も足の親指にも力はいってる。あとはもっと下から上に突き上げろ」
「日比野さん。俺ら浮いてません? いくらてっぽうがあってもてっぽうやるボクサーなんていませんよ」
 この試合の会場は福岡国際センターだった。
「大丈夫だよ充分浮いてるから。それしてもここいいよな。小さな国技館って感じがするから」
「はじめてだけど。控え室広いから後楽園より好きです」
「富士野行くぞ」
 彼の初防衛戦はファイナルが地元ボクサーの世界挑戦ということでセミファイナルになってしまったがこの会場に来てる観客の彼の認知度はテレビ、雑誌に出たおかげでそのボクサーと同等ぐらいであった。

「カン、カン」
 今回はテレビ中継はファイナルだけ大九州テレビで九州地方だけに放送されることになっていた。なので彼の試合は放送されない。この事を一番悔やんでいる男がマスメディア席に座っていた。
「清志さん。残念ですね。せっかく頼み込んで実況やれることになったのに富士野の試合を実況できないだなんて」
 清志は本来ならここに来る事ができないが自らこの系列局の社長のもとに出向き頭を下げ、ノーギャラという条件で実況の権利を勝ち取った。しかし、放送時間の都合上、彼の試合の中継かできなかった。それを知ったのは現地に乗り込んでからだったので清志は悲しみで胸が一杯になった。
「試合はじまったんだから話しかけんなよ。つうかお前。ノーギャラで交通費も自腹なんだからついてこなくてよかったのに」
「俺らコンビじゃないすか」
「俺はお前をまだ許してないからな。雄心のチャンピオンになったときのインタビューで盛り上がりの欠けるインタビューをしたことをな」
「あれは富士野があんなふうに言うからですよ」
「そこから盛り上げるのがプロなんだぞ。高い給料もらってんだから情熱燃やしてやれよな」
「バキッ」
「カン。カン。カン」
 三回のゴングはかなり間隔があいて鳴った。
「終わった?」
「そうみいたですね。お前見てた」
「見てないですよ」
「すいません。富士野どうやって勝ったんですか?」
 その音で清志がリングに目を向けるとパルエバがリング中央に横たわり、レフェリーは手を交差し、彼は右拳を青コーナーに突き出していた。なので清志は右隣に座っていた記者に試合内容を尋ねた。
「パルエバがいきなりクリンチしてきて、富士野はその状態から左のリバー打ち三連発でパルエバ沈めたよ。すごい腰の回転だった。あれはすごいよ」
「ボディー三発で!」
「はい。きっとあれはあばら折れましょ。二発目鈍い音したからあばらいっただろね」
「それにしても二発であばら折るなんて世界でもいませんよそんなやつ。いつでも狙えますね」
「でも、クリスティアーノも並のチャンピオンじゃないから。どうなるんだろね。かんがえるだけでトリハダものだよね」
 彼の衝撃的なKOシーンを見逃した清志はこの後もその記者とボクシング談議に華を咲かせた。

 そして。福岡から帰ってきた翌日の朝。
「ゆう。下がってから投げたり叩いても食うわけないだろ。下から上にぶつかって押す。あとは煮るなり焼くなりしろ」
 彼は申しあいをしていた。相手は狩野だった。彼のパートナーだった坂本との稽古は彼が大分ぶがよくなって来たので日比野はこの日相手を狩野に変更した。
 狩野は坂本ほどのぶちかましの強さはないが彼の体重の無さをつき彼をよく見て押していくので彼は相撲にならなかった。このように狩野は力任せに相撲をとるのではなく相手の嫌がる相撲をとり、勝ち星をあげる相撲取りだ。
 その後もその理想の相撲に近づけない彼に日比野が助け船をだした。
「ゆう。ちょっとこい」
「はい」
 彼は座敷にこしかける日比野のもとに向かった。
「お前。ほんとに頭使わないよな。ああいうどっしりした相手は何が嫌がる?」
「わかりません」
「自信持って言うな。じゃあ狩野が足一本でお前と相撲とったらどうなる?」
「それは勝ちますよ」
「なんで?」
「足一本で相撲なんて取ったらバランスとれないじゃないですか」
「狩野がバランス取れなくなったらお前勝てるんだな?」
「それは勝てますよ」
「じゃあその状況を自分で作れ」
「作れって。じゃあ土俵をスケートリンクみたいにツルツルにしていいんですか?」
「まあたしかにそうすればバランス取れなくなるからいい案だけど。そんなことできないよな?」
「じゃあ、どうすれば?」
「お前がスケートリンクになればいいんだよ」
「なれませんよ」
「なれるんだなそれが。狩野ちょっと土俵借りるぞ」
 日比野と彼が土俵に向かうと狩野は俵内から出た。
「よし。こい」
 仕切り線の前に立つ日比野に彼がぶつかっていった。
「どうした?」
 ぶつかっていった彼が日比野にぶつかった途端、前につんのめって倒れた。
「ほらもう一回」
 このあと彼は一〇回ほど同じ状態で倒れた。それはまさにスケート初心者がスケートリンクで転ぶ様だった。決まって彼が倒れた際に日比野は彼の左側にいた。
「どうだ。スケートリンクだろ」
「そうですけど。どうやってやったんですか」
「自分の体に聞いてみろ。狩野頼むわ」
 日比野は座敷の方に戻り代わり狩野が俵内に入ってきた。
 彼は狩野と向かい合い仕切りの動作をしながら自分の体と会話した。
「なあ。今どうやって倒れた?」
「知らん。お前が勝手に倒れたんだろ」
「日比野さん。浅い上手まわし持ってたよな」
「持ってたかもな」
「上手投げか?」
「それにしては日比野の親分は上手に力を入れてないぞ。まわし持って少し前に出て左に体を開いただけだぞ」
「俺が勝手に倒れたってこと?」
「そうだな」
「じゃあ。俺の前出る力を操って倒したって事」
「そういことになるな」
「ありがとう。なんとんくわかった」
「どうでもいいけど。親分怒ってるぞ」
 彼には重度の妄想壁がある。
「ゆう。早く手をつかんか」
「すいません」
 そして、急いで手をついて立った。
「おう。いいじゃねえか」
 狩野は前につんのめっていた。
 その次の取り組みも狩野を同じ状態にした。
「おう。まぐれじゃない。お前少し相撲わかってきたな。そういうことなんだよ」
 狩野より背の低い彼は立会い当たって懐にはいり、左手で浅い左前回しを引き前に出て、それを止めようと狩野の体に力が入った瞬間、左に体を開いた。それでつっかえをなくした狩野は前に倒れるしかない。
 相撲はがっぷりよつでの攻防、つっぱりや張り手の応酬というイメージに思われがちだが強い力士ほど相手のバランスを崩すのが上手く、相手のバランスの崩れを体で察知する能力がずば抜けている。それは素人目では決してわからない。
 敗戦後の日本にGHQで滞在したあるアメリカ人が本場所を見た際にこんな事を言った。
「相撲はバランスの妙技だ」
 まさにこの言葉に尽きる。

 その三日後、彼は本業のボクシングにその出し投げを応用していた。
「今日のスパーよかったよ。とくにあのカウンターが」
 トレーナーが彼のこの日のスパーを絶賛した。
 この日のスパーで彼は相手の間合いにわざと入り。相手がパンチを出してきた瞬間スウェーしながバックステップを入れて左ジャブを放つ動きを何度も見せた。
 並みのボクサーがこれをやるとバックステップをいれることで重心が後ろにいってしまい相手にはダメージがないパンチになっしまう。しかし、彼は四股で養ったバランス移動感覚で重心を前に少し残してパンチを打つことができるので相手の前に出る力と彼の重いパンチが合わさって相手に大きなダメージを与えることができる。
「ありがとうございます」
「明日のチャンピオンとのスパーにもつかってみたら」
「そうですね。いくら使っても見破れるわけがないから明日これでチャンプをボコボコにします」
 翌日はWBAスーパーフェザー級チャンピオンとのスパーリングだった。
 
 翌日の夕方。
「ピー」
 桜城とのスパーが始まった。
「まず左から当てていこう」
 彼はトレーナーの指示に従わず、いきなりあれを狙い桜城の間合いに入った。そして、桜城の左が飛んできた。
「富士野はなれろ」
 彼のパンチが桜城のアゴに食い込み桜城が前に膝から崩れ落ちた。
 それは一瞬の出来事であった。
 このあと、彼はこればっかり出すと桜城の体がもたないと思い。残りの五ラウンドのスパーリングで毎回一回ずつ出し。五回とも桜城をダウンさせた。
「ありがとうございました」
「お前。強くなったな」
「まだまだです」
「がんばれよ」
「はい」
 彼はリングからおりた。
「堂田はずして」
「うん」
 彼はリングのそばにいた堂田にグローブを外してもらうのを頼んだ。
「どうだった?」
「あれいいよ。すごい。切れ味抜群だな」
 防衛戦で負けた堂田であるが彼は堂田に敬語を使わせなかった。
「ところでお前。さっきなんでビデオ撮ってたの?」
「いやあ。富士野の動きを研究してもう一回チャンプに返り咲こうと思っただけだよ」
「そうか。がんばれよ。お前は唯一の同期だから一緒に世界取れたらいいな」
「うん」
 彼はこのスパーで世界はいつでも取れると実感した。

 それから一週間。
 彼は午前の仕事終え、昼食をとりに食堂へ向かった。
「富士野さん」
 彼はその声にうしろを振り向いた。
「おう。佳代ちゃん。今から休憩なら昼一緒に食べない?」
「無理。仕事だから」
 息を切らした彼女がいた。
「そうか。残念だな。そのあと前庭でいちゃつきたかったのに」
「そんなことより応接室にお客さん来てる」
「誰?」
「大東京テレビの人。私の推測なんだけどあのチャンピオン事故起こしたでしょ。だから次の世界戦ゆうくんに変わるんじゃない」
「相手軽症なんだからそんな事にならないよ」
「いいから早くいってきな」
「うん。今日もポニーテールがそそるね。佳代ちゃん」
「ばか」
 彼はそこに向かった。
「コン、コン」
「入って」
 鏡の声がした。
「失礼します」
 彼はそこのドアを開け入室した。
「富士野君。早くここに座りなさい」
 テーブルを挟んだ二脚のソファーに入り口から遠いい上座には鏡、下座には大東京テレビの社員二人が座っていた。
「はい」
 彼は鏡の隣に座った。
「主役が揃ったところではじめます。はじめまして、私はこういうものです」
 彼の正面に座った社員が名刺を彼に差し出した。そこには〈大東京テレビ スポーツ局
 局長 落合清二〉と書かれていた。
「ありがとうございます。清志さんのはいらないから」
 彼は落合から名刺を受け取った。
「富士野君。そんなこといわないでよ俺のももらってよ」
「清志さん。酒飲むとすぐからむから」
「だめだよ。局長いるんだからそんなこといっちゃ」
 彼は清志から差し出された名刺を受け取った。
「早速なんだけど富士野君。国技館で世界戦やらない?」
 落合が本題に入った。
「いつですか?」
「それが一ヶ月半後の七月八日なんだけど。無理かな?」
「桜城さんの世界戦じゃないですか。ダブル世界戦になったんですか?」
「違うよ。この前の人身事故で桜城君の世界戦は延期になった」
 彼女の推測は当たった。
「何でですか? 被害に遭った子は軽症だったんですよね? それで延期って厳しすぎませんか?」
「富士野君。そんなに興奮しないでよ。言っちゃいけないことなんだけど。口外しないなら教えるけど」
「しませんよ」
「たしかに。その子は軽症だったんだけど。その子のおじいちゃんがこの番組のスポンサー会社の重役であんなやつのスポンサーはおりるって言い出したんだ」
「大人の事情ってことですか」
「そう。公には桜城の自粛による延期っていうことになるけど」
「実はその日俺桜城さんボコボコにしたんですよ」
「それは聞いたよ。でもあくまでそれは練習だろ。その時ドランカー症状がでていたのに運転した桜城くんの責任だよ。富士野君は罪悪感を持つべきではない」 
「そんなことよりも相手はクリスティアーノ、ファビアノだから」
「まだ返事してませんよ」
「富士野君。何言ってるんだ」
「そうだよ。こんなかたちにはなってしまったけど。チャンスにはかわりないよ」
 鏡と清志が彼に言った。
「でもなんでカルロスじゃないんですか。WBCは九位ですよ」
 ちなみにWBAは二位にランキングされている。
「カルロスはボクサータイプだし面白い試合になんないよ。日本人をことごとく退けているファビアノに勝って日本中の注目を浴びてもらいたいんだ。富士野君どうだい?」
「日比野さんに聞いてからでいいですか?」
「あのばかにきかなくてもいいだろ」
「富士野君がそういうならそれからでもいいけど。ジムとファビアノサイドには了承を得たから。いい返事を待ってるよ。では私共はこれで失礼いたします」
 落合と清志は立ち上がった。
「清志さんは何しに来たんですか?」
「何その言い方酷いな。富士野君がビビって断るかもしれないから強力助っ人で来たんだよ」
「清志。次期世界チャンプに失礼だぞ」
「ごめんね次期チャンプ」
「ばかにしてんすか? 落合さん。実況この人だったらやりませんから」
「了解。おい。いくぞ」
 落合は彼の方を向いて笑った。
「了解って。局長真に受けないで下さいね」
「どうかな? お前このあいだのこともあるから」
 歩き出した落合を清志が追っていった。
「今日はお忙しいところありがとうございました。失礼します」
「失礼します」
 ドアの前で立ち止まった落合と清志はお辞儀をして退室した。
「富士野君。この一年でだいぶ飛躍したけどあのばかのおかげかい?」
 鏡はお茶をすすってから語り始めた。
「そうですね。それと事務の君島さんのおかげです」
「君島君とそういう関係だったんだね」
「流れでそういう関係になってしまいました。学長。日比野さん食堂ですよね?」
「そうだね今の時間は。あいつにはなんにもしないんだったら夕方まで来るなって言ってるんけだけど来るんだよな。おかげで苦情の嵐だよこっちは」
「それは日比野さんの性格ですから。では失礼します」
 彼は日比野のもとへ向かった。

「こんにちは」
 混雑する食堂に着き彼は大きな体の日比野をすぐ見つけ出した。日比野は学生たちと会話しながら食事をしていた。
「なんだお前か。俺のキャンパスライフじゃまするんじゃないよ」
「日比野さん。世界戦を七月に国技館でやることが決まりました」
 周りにいた学生は彼に拍手をおくった。
「相手はカルロスか?」 
「違います」
「じゃあやめとけ」
「勝てないよ、今のお前じゃ」
「なんでですか? 勝てますよ。絶対に勝てないって言われてシーパーにもホンにも勝ったじゃないですか」
「勝つのは無理。相手カルロスに変えてもらえるならやれ」
 日比野は左手で口元を覆い爪楊枝で歯につまったものをかきだしていた。
「そうかもしれないですけど。俺すごいパンチ身につけたんすよ。出し投げ応用したやつですよ」
「村田さんに聞いたよ。すごいらしいな。ヘッポコぱんち」
「なんでそんなこと言うんですか?」
「だったら。こっち来い。まみちゃんこれさげといて」
 日比野は食堂から中庭に繋がってる扉に向かった。そして、そこを開けうしろからついてきた彼と共に中庭に出た。
「おい。来いよ」
 全面ガラス張りの食堂の中から先ほど日比野と食事していたグループをはじめとする大勢の学生達が野次馬となり異種格闘技戦を始めようとする二人に視線を向けた。
 彼はオンガードに構えてその場でステップを刻み始め戦闘モードに入ったが日比野はダランと両手をさげている。しばらくして、彼から徐々に頭を動かしステップ刻んで日比野の間合いに入って行った。そして、日比野が左の突っ張りを彼の胸に繰り出した。その時彼は左を放ったが胸を押された事で体が後ろに仰け反り前足に全く重心を残す事ができなくなり日比野の右ほほに触れるだけの弱いパンチになってしまった。すると、日比野は彼の胸に左手をあてたままその体勢になった彼に右の突っ張りを彼のアゴに放った。それを食らった彼の体は数センチ浮いてうしろに倒れた。
「おい。起きろよ。これでわかっだろ。ばかが考えたもんが通用する訳がないって。世界とるやつは何千何万ってやる動作を一つ一つ丁寧にやってそれが血となり肉となり自分のものになっていくんだ。だからそんな変な技二度と使うな。わかったら飯食うぞ。俺も
デザートのラーメン食うから」
 日比野は彼に手を差し伸べた。
 しかし、彼は日比野の手を借りずに芝生から起き上がり日比野を睨みつけて食堂のなかに入っていった。
 強固になりつつあった二人の絆にひびが入り始めた瞬間だった。

 翌日の朝。彼は普段通りにロードワークを済ませ道場で稽古したが、日比野を遠ざけるようになった。

 そして、その二日後、桜城の試合延期と彼の世界挑戦がスポーツ紙に載った。
 世界挑戦が公になった途端にまた彼へのマスコミの取材が始まった。
 彼は取材をされることで浮き足立つこともなく、いつもと同じサイクルで生活した。

 順調な練習と稽古をこなし試合まであと二週間になった。
「おい。ゆう。お前まだあのパンチまだ使ってるらしいな」
 座敷に腰掛けてスポーツ紙を広げた日比野は四股を踏む彼に尋ねた。
「はい。あれを何千何万とやって俺の血と肉にしている最中なんで」
「そうか。じゃあもう一回。俺とやるか」
「あれは日比野さんと俺の体重差が違うからああいうふうになっただけです」
「本番はあれ一発で終わるんじゃないかな」
「おい狩野。部室から俺の締め込み持ってこい」
「はい」
 日比野は鋭い眼光で狩野に命令した。
「あっおはようございます。日比野です」
 次に日比野は半ズボンの右ポケットからスマートフォンを取り出した。
「社長。今日ですね。雄心が体調不良で吐いちゃって稽古場で倒れたんですよ」
「はい風邪ですね多分。それでですね今日休ませたいんですよ」
「ありがとうございます」
「はいそう伝えときます。失礼します」
 日比野は電話を切った。
「おい。松井電気消してそっち側のカーテン閉めろ」
「はい」 
「山岸は足洗って座敷のカーテン閉めろ」
「はい」
「坂本。塩をてんこもりにいれておけ」
「はい」
「ダルははバケツに水いっぱいいれろ」
「はい」
「おせえよ狩野。でれっと[ 角界隠語でもたもたするという意味。]してんじゃねえよ。早く締めろ」
「はい」
「それからお前ら今日これで稽古終わりな」
「はい」
「雄心。社長がお大事に言ってたぞ」
「何で社長にうそつくんですか?」
「体調不良で風邪はうそだけどあとはうそじゃない。お前はこれからそういふうになる」
「かわいがるんですか?」
「かわいいがりはかわいいと思うやつのためにやるんだよ。今のお前はいう事聞かないからかわいくない。だから殺す」
「冗談ですよね?」
「どうも。ごっつあんでした」
 狩野が黒の締め込みを締め終わった。
「おし。ありがとう。じゃあお前ら帰れ」
 入り口側、座敷側のカーテンが締められ室内のあかりはカーテンのついてない入り口扉
の窓から射す太陽光だけだった。他の窓は防火カーテンが閉められたので一切日光が入らない。
「はい」
 部員達が彼への心配を表情に出して道場から出て行った。
「よし、土俵入れ」
 土俵に向かう彼の表情からは恐怖だけしか読み取れなかった。
「なんでこんな事をするんですか?」
 徳俵をうしろにして仕切る彼が前に立つ日比野に尋ねた。
「負けるってわかったてる弟子を国技館で試合させたくない。お前だって一万人の前で
いや何千万人に自分の醜態さらすくらいなら死んだ方がいいだろ」
「言ってる意味がわかりません」
「さあ。来い。おらあ」
 まだ何かを言いたそうにしている彼をよそに日比野が腰をおろし、両手をひろげ、声を掛けた。
「さあ。押せ。下から上に」
 日比野の厚い胸板にぶつかっていった彼だが日比野を一歩も後退させることができなかった。
「押せって言ってんだろ」
 まるで電柱を押し続けているような感覚の彼の体は疲弊して手と足に力が入らなくなった。
「このやろう」
 押せない彼に日比野は右手を彼の左脇に入れて土俵に叩きつけた。
「おい。立てすり足だ」
 彼の髪をつかんで起き上がらせた日比野は彼の頭を前から手で押えつけ俵内をすり足で一周させた。
「ほら。さあ来い」
 厳しい稽古に見えるがこれはまだ序の口だった。
 そして、これが十分程続き玉の汗が噴き出した彼の体は砂まみれというより泥まみれになっていた。
「すり足だよ。ほら歩け」
 日比野はすり足で前に進むことができない彼の短い髪の毛を引っ張りすり足をさせた。
「もう無理です。オエッ」
 それに耐えれなくなった彼は土俵に倒れ込み、激しい運動による胃痙攣が原因で嘔吐した。
「無理じゃないよ。まだしゃべれるじゃん。ほら。立て」
 意識がもうろうとした状態で彼は立った。
「さあ。来い」
「アー」
 それが原因で発狂した彼は奇声を発しながらぶつかった。
「うるせえな。声を出すな。声出したら押せないんだよ」
「アー」
「いい根性してるね」
 そう言った日比野はてっぽう柱の脇の壁に設置されている棚から塩のはいってるざるを持ってきた。
「ほら。塩かましてやるよ」
 日比野はざるから右手で目一杯塩をつかんで彼の口に突っ込んだ。
「オエッ、フッ」
「まだ足りないみたいだな。ほら」
 むせながら塩を吐き出す彼をよそに日比野はそのざるを彼の頭の上からひっくり返した。
「おい。浦島太郎続きやるぞ。はよせえ」
 日比野は彼のあたりを受ける格好で彼を待った。
「アー」
「声だけじゃないか」
 惰性だけでぶつかった彼はまた土俵に叩きつけられた。
 その後も押す力など残ってない彼にぶつかるように強要し、とうとう、彼は気を失い倒れた。
「おい。死んだか。ちょっと待ってろ」
 意識の無い彼に話しかけた日比野はその棚の方に向かった。そして、その下にあったバケツを手にして日比野が彼のもとにもどり土俵によこたわる彼の頭に水をかけた。
 水は滝のようにそこにかかり地面に落ちパッシャーンという音をたてた。
 すると、彼の目がパッと開いた。
「ほら。最後だ。一丁押せ」
 それを確認した日比野は胸を出す格好で彼を待った。
 押す力など疾くの昔に使い切ったはず彼は大きく息を吸ってそれを止め腰を下ろしてから日比野の右胸を目掛けて自分の体を下か上に突き上げるようにぶつかり手を伸ばした。日比野は予期するより鋭く重かった当たりに上体を仰け反らし受け止めた。
「そうだ。押せ。腰おろせ。手伸ばせ」
 そして、がむしゃらに押す彼の気迫にも押され日比野は土俵を割った。
「おい。腰おろせ」
「どうもありがとうございました」
 日比野は彼の肩を押し付けて腰をおろさせた。そして、三〇分の死闘が終わった。
 そのあと、彼は道場の外で待っていたダルの補助を受け入浴、着替えを済ませ大学から近い彼女の家にその肩を借り入った。そして。泥のように眠った。

「おーい」
 帰宅した彼女がベットで寝ている彼の体をさすった。
「なんだよ」
 彼は部屋の電気のまぶしさで目をシュパシュパさせていた。
「風邪で休んだって聞いたから心配してたのにこんなとこでさぼったてたの?」
「日比野に殺されかけた」
 完全に目が覚めた彼は日比野への怒りが込み上げてきた。
「何それ。どうせちょっと怒られただけでしょ」
「被害届って。交番でもいいんんだよな?」
「知らないよ。何されたかわからないけどそんなことで警察が相手にしてくれるわけないでしょ。それより、今病院行ってきたんだけど。出来ちゃった。妊娠六週ですよ。パパ」
「冗談でしょ? 俺つけてたんだから」
「そのことなんだけど、怒らないで聞いてね」
「まあ。話せよ」
「ゆうが福岡から帰ってきたとき、したでしょ。その時からのコンドームに穴あいてたんだよね」
「どいうこと?」
「私が針で穴開けたんだ。もうすぐ三十路だからその前には子供生みたいってずっと思ってたんだ」
「何してんのお前。あっそうだ。だからか。その時ぐらいから出した時にお前が率先してゴム外してたもんな。おろせよ。お前の金で」
「えっ。ひどいよ」
「それはこっちのセリフ。それとお前と別れるから。俺今グラビアの子と仲良くしてんだよね。勝ったら付き合ってくれるっていってたんだ。この事がなくてもお前とは世界戦が終わったら別れるつもりだった。お前は俺にとっては副作用のない精神安定剤がわりだったってことだ。じゃあな」
 泣きじゃくる彼女をよそに彼は部屋から出た。
 
 翌朝四時。彼は前日の昼間の熟睡で一睡もできなかったので普段より早くロードワークに出かけた。
 前日の限界を超えた稽古で彼の全身には無数の擦り傷があり、酷使した腰には強い張りがあった。それでも、世界戦があるので体に鞭を打ち走った。そして一時間のロードワークを終え、彼は軽いシャドーボクシングをしようと家の近所の公園に立ち寄った。
 そして公園内に入った彼は早速シャドーを始めた。
 しばらくして彼はふと、公園内に植えられている木が目についた。それが気になった彼はそこに近づいた。彼はその木に触れているうちに木をポンポンと掌で叩いた。しだいに突っ張りをし、しまいにてっぽうの動作をしていた。その木は道場のてっぽう柱の太さと同じぐらいで、さほど木の表面がゴツゴツしていなかった。
 てっぽうを三十分ほど続け、汗だくになった彼は次に四股を踏み。そのあとすり足をして合計で一時間ほどその公園で稽古した。
 
 そして、試合当日この日の朝も公園で稽古し、午後三時に国技館に入った。

 入場ゲートの扉にはFINALを戦う二人がアップのポスターが貼られていた。
 またそのポスターには「RAGING FIGHT」という文字もでかでかと印字されていた。

 東の支度部屋。
 FINALの開始時間始まであと一時間に迫っていた。
 彼は落ち着かないようすでウォーミングアップをしていた。
「堂田。いた?」
「いない」
 彼はあれ以来日比野に愛想が尽きていた。当然、日比野にセコンドの依頼をしてない。
しかし、日比野がどれだけ彼の欠かせない存在になっていたかを彼は今更になって気付いた。
「電話してみたら?」
「さっきしたけど通じなかった」
 その後も彼はウォーミングアップに集中できず入場時間を迎えてしまった。
 そして。
「ホーネッツテックプレゼンツWBC世界フェザー級タイトルマッチ。両選手リングに入場です。はじめに青コーナーより挑戦者、富士野雄心選手が東の花道より入場です」
 リングアナは彼の大ファンである俳優の綾野剛が務めた。
 ♪~ヘイ、ボーイどうせならなんかのチャンピオンを目指せよ。ヘイ、ボーイ何でもいいからなんかのチャンピオンを目指せよ。
 彼の入場曲が掛かり彼は花道奥で目を瞑ってある言葉を唱えた。
「一つ夢とは自分の身体の中から沸々と湧き上がってくるものたちの終着駅である。だからそこに着くまではそいつらから目を背けるな。バカ共よ」
 そして、彼は歩き出した。同時に竹原ピストルのボーイをBGMに清志が語りはじめた。
「まずは青コーナー。チャレンジャーWBC世界フェザー級九位イカルガジム所属富士野雄心です。二三戦一七勝五敗一引き分け。ここ一年は強敵相手に無傷の三連勝で世界の舞台まで龍のように昇ってきました。その飛躍の理由は元若吹雪。現飛翔大学相撲部監督日比野氏のもとでの猛稽古でした」
 彼がアリーナに登場し満員の国技館が歓声で沸いた。
「相撲部員との猛稽古で強靭な首まわりの筋肉を手に入れちょっとやそっとのパンチでは効きません。徹底敵に四股すり足をすることで地面を強く掴む力を手に入れ重いジャブを打てるようになりました。てっぽう柱でのトレーニングですさまじい腰の回転力を手に入れそれを利用したボディイブローが彼の武器になりました。偶然なのか必然なのか彼のはじめての世界戦はここ両国国技館です。相撲から強くなる術を懸命に身につけた彼を相撲の神様、野見宿禰もきっと見守ってくれることでしょう。背中をおしてくれることでしょう。そしてこの聖地で富士野が手に入れるのはWBCのエナメル色のベルトです。そして、今富士野がジャンプしてリングイン。頑張れ富士野」
 ボクサー富士野雄心を愛する清志の渾身の語りだった。
「続きましてチャンピオン。クリスティアーノ。ファビアノ選手が西の花道より入場です」
 ファビアノの入場曲がかかり花道奥からファビアノが出てきた。
「このチャンプ強いです。ホントに強いです。戦績十六戦無敗十三KO。帆足はチャンピオンから引きずりおろされました。柏木は王座奪取を阻まれました。まさに日本人キラー。今ファビアノがリングイン」
 そして、次にメキシコ国家の斉唱が行われた。
「続きまして竹原ピストルさんによる国家弾き語りです」
 この斬新な演出で大東京テレビ本社の電話は鳴りっ放しだった。
「内藤さん。もうまもなくはじまりますね」
「そうですね。富士野なんか必殺パンチがあるらしいから楽しみですね」
「カン、カン」
「さあ。ゴングが鳴り響きました。同時に富士野夢が富士野を応援する人の夢がそしてわたしの夢が動き出しました」
 第一ラウンドが開始し彼はいきなりあれを狙っていた。
「おー。富士野から間合いを詰めた。チャンピオン左。さがってかわして富士野左」
「左いいのあたったね」
 そのパンチはファビアノのアゴをとらえたがファビアノにダメージを与えられなかった。
 彼はもう一度同じ動きをした。
「富士野。積極的に相手の間合いに入る。チャンピオン左。左手を伸ばしたまま。富士野左を放ったがこれは弱い。そして、チャンピオン右ぃー」
「いいのもらっちゃったな」
「内藤さん。チャンピオン左手を伸ばして富士野を押す格好になりましたけど。あれはどういう意図を持つのですか?」
「あんまり意味ないんじゃないかな?」
 彼の必殺パンチを数回見ただけで対処法は思いつかない。
 彼は今のファビアノの動きでファビアノに研究されてしまったことに気付いた。彼はなぜファビアノがこのパンチを研究できたのかという事がきになり試合に集中できず精彩を欠きファビアノがこのラウンドを取った。
「やばいです。あれ読まれてます」
 イスに座った彼はうな垂れていた。
「大丈夫だよ読まれてないよ」
 彼は頼りないトレーナーに愛想を尽かし、その体勢で日比野がいないかと観客席を見渡したが日比野はいなかった。
「富士野。あれもう一回やってみろよ」
 サブセコンドについていた堂田がリング下から彼に話しかけた。
 その声に彼は反応し堂田の方を向いた。堂田の表情には薄ら笑いが浮かんでいた。
「てめえ。やったな」
 そう、堂田はあれをファビアノサイドに送りつけた。
「まあ。終わった事は気にするな」
「富士野。もう立て」
 リング上のそのトレーナーの促しで彼は堂田を睨みながらイスから腰をあげた。
「カン、カン」
 二回目のゴングが鳴った。
「おー。ファビアノ積極的に前に出ます」
 平静を失った彼は初っ端からファビアノに攻め込まれた。
 このラウンドの中盤。なんとか左ジャブで応戦する彼のスタイルが戻り防戦一方の状態からは抜け出した。
 三ラウンドに入り。彼は主導権を握ろうとさらに厳しいジャブ攻勢に出た。
「富士野。左の連打を繰りかえします」
「でも、ファビアノはパンチ上手く裁いてるよ」
 ファビアノにはジャブだけで活路が見出せなかった。
「富士野くっつけば左のリバーあるんだけど。チャンプそれわかってるからくっつかないよね」
 彼の攻め手を潰したファビアノは次々と彼に有効打を当てていった。

 そして、ラウンドは八ラウンドに入った。
「富士野。防戦一方になってます」
「そうだね。なんかしないとね」
「右ー。チャンピオン富士野の左に合わせて右です。ここでチャンピオンの最大の武器右のカウンターが富士野をとらえた。富士野起き上がれない。立て富士野」
「立ったよ」
 ファビアノはこの後、勝機とみて一気に攻め込み試合を終わらせようとしたが彼はガードを固めて何とか持ちこたえゴングが鳴った。
「富士野。手出さないと負けるぞ。しかっかりしろ」
 そのトレーナーはイスに座る彼の左まぶたの出血を氷で止血しながら喝を入れた。
「なんでいねえんだよ。俺がピンチなのに。俺を世界チャンピオンにするって言ったのに」

 この後も防戦一方になった彼は九回、一〇回にそれぞれ一回づつダウンを奪われ回は一一回に入っていた。
「富士野よくやったよ。いい勉強になった。世界はポッと出が取れるほど簡単じゃないよ」
「また右ー。アゴに当たりグラッとしました富士野。チャンピオンは透かさず前進ラッシュラッシュ。富士野。青コーナーに追い詰められた。さあ富士野胸突き八丁にさしかかりました」
 彼はファビアノのラッシュで固めていたガードを除除に下げていた。
「腰おろせ。目開けろ。前に出ろ」
 彼の後方から大声が聞こえた。
 彼はこの言葉に操られるように腰をグッと下げ塞がりかけている両目を開け、ファビアノの懐に飛び込んだ。
 ファビアノはこれに上体を仰け反らした。
 そして、彼がそこで目にしたものはファビアノのがら空きになったアゴだった。
 彼はファビアノに自分の体をぶつけてから腰を回転させ、そのアゴを目掛け右拳を下から上に振り上げた。
「富士野アッパー。アッパーでファビアノを倒した。ファビアノは宙に浮いてから後ろに頭から倒れました。ヒジョーに危ない倒れ方です。しかしすごいパンチでした」
 レフェリーはしゃがんでファビアノの容態をみてすぐに両手を大きく交差した。
「今レフェリーが両手を交差しました。小刻みになるゴングが彼の勝利を祝福しています」
「いやあ。まいったわ」
「国技館の大歓声は天井のを揺るがす程のものです。内藤さん。それにしてもあのアッパー驚きましたね」
「最後に出してきたね。憎いよ」
「それではWBC世界フェザー級新チャンピオン富士野雄心選手です。富士野選手おめでとうございます。今の気持ちは?」
 腰にベルトを巻いた彼のインタビューが始まった。インタビュアーは清志の後輩中村だ。
「よくわかんないす。でも、この試合に絶対負けるって言った人の言うとおりにならなかったのでよかったです」
「そうですか。しかし、新チャンピオン。私をはじめ観客の皆様、テレビで見ていた皆様が富士野選手の敗戦を覚悟してました。あの苦戦はあの一発のための伏線だったのでしょうか?」
「そういうことにしてください」
「今観客席の方からこの詐欺師と言う冗談が飛んできました。そのぐらい皆さんが驚いたという事です。もうひとつ質問をしたいところですが、時間が来てしまったのでここで終わります。WBC世界フェザー級新チャンピオン富士野雄心選手でした。どうもありがとうございました。皆様もう一度盛大な拍手を」
 そして、彼はリングをおりた。
「富士野悪かった」
「あっ。なに?」
 彼の後ろを歩く堂田の声が観客の拍手で掻き消された。
「本当に悪かった」
「声でかいよお前。あのときは殺したい気分だったけど勝ったから許す」
「ありがとう。ほんとすまなかった」
 彼は花道を抜け支度部屋に向かった。
 すると。
「ドスーン。ドスーン」
 彼が帰る支度部屋からてっぽう柱を叩く音が響いていた。彼はこれを耳にした瞬間、支度部屋へと走った。そして、扉を開けた。
「おう」
 てっぽう柱のすぐ側に手で汗を拭う日比野の姿があった。
「おうじゃないですよ。関係者以外立ち入り禁止ですよ」
 彼は日比野のもとに駆け寄った。
「じゃあ。帰るわ」
「だめです。帰らせません礼を言ってないので。ありがとうございました」
 彼は深々と日比野にお辞儀をした。
「一言アドバイスしただけだ。なあ、ちょっと来いや」
 日比野は自分の後方にある扉を開け、扉の向こうへと彼と共に入った。
 その扉はガシャンという大きい音をたてて閉まった。そこは灯りのない薄暗い場所であった。
「まあそこ座れよ」
 日比野は入ってすぐの場所にあったパイプイスに彼を座らせた。
「日比野さんは座らないんですか?」
 日比野は彼と視線を合わせずにコンクリートの壁に突っ張りをしていた。
 この場所は東の支度部屋と西の支度部屋を結ぶ裏通路である。普段は横断することができないように真ん中で仕切られているが大相撲の優勝決定戦の際に支度部屋が変わる場合この通路を使用して明け荷になどを移動をさせる。
「お前あれアッパーじゃないだろ?」
「そうです。あご見えたからボディーブローの要領で腰を相手にぶつけて回転させてあごに手を伸ばしただけです」
「なんで右?」
「わかりません。体が勝手に」
「そうか。じゃあ。あのあともてっぽうやってたんだな」
「今日も朝公園の木でやりました。やらないといけない体になったんです。それでお願いなんですけどまた行っていいですか」
「いいよ」
「ありがとうございます。なんか日比野さんのもとで稽古してたらダイヤモンド王座も夢じゃないっていう気がしてきました」
「その前にしなきゃいけないことあるよな?」
 日比野は彼に目線を合わせた。
「もしかして。あいつのことですか?」
「もしかしてじゃねえんだよ」
 日比野を声を荒げた。
「あいつ何でも日比野さんに言いやがって」
「お前あの言葉本気なら殺すぞ」
「本気じゃないですよ。俺は佳代しか愛してません。あの時はああいう状況だったんでああやってうそつきました」
「言い訳すんな。佳代ちゃん本気でおろすこと考えて俺に相談してきたんだぞ。早く行って謝って来い。このばか弟子が」
「すいませんでした」
 彼は彼女がどこにいるかわからなかったがとりあえず、アリーナに向かって走った。
 アリーナ内に入り辺りを見渡した。しかし、そこではリングなどの撤収作業が始まっていたので業者しかおらず彼は来た道を引き返していった。
「ゆう」
 彼の頭上から声がした。
「佳代ちゃん」
 彼が顔を上げると花道を下に見下ろす事が出来る升席の通路から安全策を握って彼女が彼を見つめていた。
「すごかったね」
「お前も負けると思ってたんだろ?」
「おもってないよ」
「ホントかよ」
「いまのしゃれ?」
「ちげえよ」
「こんなところで聞くことじゃないんだけど。この子どうする?」
「うめ。あとグラビアの女の事とお前とわかれるって言ったことうそだから」
「うん」
「それと俺と結婚しろ」
「こんな女でよかったらもらってやってください。よろしくおねがいします」
 側で作業していた業者数人が拍手を送った。
「なんか恥ずかしいね」
「そうだ。今週の土日開けとけよ」
「うん」

 その三日後。
 二人は釧路にいた。
「二本松駅まで直進であと四〇〇メートルだって」
「佳代ちゃん駅見えたよ」
「どれ?」
「あのログハウス」
「ちっちゃいね」
 運転手の彼はその駅に車を停め、杉澤達に見せるために持ってきたWBCのベルトの入ったケースを手に提げその車を降りた。
「チャンプ」
 彼らがその会社に向かうと杉澤がその入り口扉を開け彼らのもとに駆け寄った。
「ご無沙汰しています」
「そうだな。で。そちらさんは?」
「嫁の佳代です」
 彼はチャンピオンになった翌日入籍した。
「はじめまして。富士野佳代です」
「どうも。嫁さん連れてくるなんて聞いてないぞチャンプ」
「すいません。驚かせようと思って。あと嫁のおなかの中にもう一人います」
「子供まで作ったのかよ」
「嫁を呼び捨てにしないで下さい」
「えっ。ああ。お前揚げ足とんじゃねえ」
「すいません」
「まあ。トリプルにおめでとう」
「ありがとうございます。杉澤さんいなかったら今頃川の一部になってたんで。ほんとに感謝しています」
「その節は主人を助けていただき本当にありがとうございました」
「新婚さん。頭上げてよ」
 彼らは頭をゆっくりと上げた。
「なあ。二本松でも行くか」
「はい」
「ゆうくん。二本松ってどこ?」
「俺の自殺した場所」
「えっ」
「奥さん。富士野君に嫌な事を思い出さすためにいくのではありませんし惨めな自分乗り越えたんだから二本松に行っても大丈夫だと私は思います」
「そうだよ。佳代。あれはもう俺の中でいい思い出になったんだ」
「ゆうくんがいいならいこ」
「じゃあ。あっちの車で行きましょう」
 彼らは以前彼が乗ったあの車で二本松に向かった。
「うわあすごいまさに大自然だね」
 二本松展望地の駐車場に着き。彼女は車から一目散におり展望地まで駆け寄りそこからの景色を眺め目下に広がる湿原と川に感動した。
「あんまはしゃぐなよ。ガキが腹の中にいるんだから」
「がきって言わないでって言ったでしょ」
「ごめん。ごめん」
 彼と杉澤は彼女から離れた場所でその景色を眺めた。
「杉澤さん。俺がここから飛び降りたのって。俺の中にある何かがボクシングを続けろって言う意味でこっから落としたんだと思います。そうじゃなきゃあんな恐怖に打ち勝てません」
「きっとそうだな。自分の運命って自分の中にあるものが決めるんだよな。なんか運命って川みたいだな。上手い事自分の進むべき方向に流してくれるんだよ。お前みたいにながれにさからわないやつには」


 



 

 


 





 

  


 
 



 







 
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