呉志英雄伝
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第五話~調練~
前書き
一応以前に読んでくださっている方に申し上げます。
この作品は投稿サイトを変更するにあたり、複数の話を一つにまとめたり、本文を改めているところがかなり多くあります。
正直、前とは全く別の話になっている回もありますので、最初から読み直すことをお勧めします。
それではおつきあいください
人という生き物は慣れる生き物だ。例えそれがどれだけ特異なことであっても、日々続けていれば、いずれはそれが当たり前のようになってしまうのだ。要するに慣れというものは恐ろしいということである。
良く仕事の出来る者に対して仕事を多く回されるのは当たり前だが、それでも全体の二割を押し付けるのは常軌を逸していよう。そしてそれに対して最初は抵抗があったものの、今では全く気にもかけないのだから恐ろしい。
「新兵の調練ですか」
孫呉の本拠地・長沙城内。
それは2人の副官を得てから一月もしないうちのことだった。
今まで日常だった竹簡の山対江との格闘に、2人の少女の姿を加えた光景はもはや日常と化していた。
ちなみに夕と穏が副官になってからというもの、遠慮というものがなくなったのか、桃蓮は今まで以上に江に対して仕事を回していた。…もともと遠慮があったのかといえば、それはそれで甚だ疑問だが…
ちなみにその仕事内容は雪蓮のものが大半であり、今回の調練も雪蓮がサボったが故に回された仕事であった。
「………孫家の我儘姫には勘弁してほしい」
江の近くに配置された机に着いていた夕は、副官になった当時の表情そのままでそうぼやいた。
………否、若干(眼の下にクマが出来る程度には)やつれているように見受けられる。一方、もう一人の副官である穏はというと…
「それはそれでいいじゃないですか~。新兵が江様の調練を受けたらすぐにでも実戦投入できますし」
意外と元気だったりする。
何はともあれ、2人とも今の生活になじみ始めていることは確かであった。無論こうなるまでにはそれなりの紆余曲折を経てはいるのだが…
それは余談になるのでまたの機会に綴るとしよう。
「まぁ、雪蓮の自由人気質は今に始まったことではないですからね…大人しく仕事を受けましょうか」
ここで文句を言わずに引き受けてしまうあたり、江には苦労人の才能が多分にあるのは間違いないだろう。
江は2人に政務を任せ、調練場に向かうべく政務室から出た。
「何ゆえ、このように天気の良い日に仕事しなくてはいけないのでしょうか…」
江は人知れずボヤく。とは言え年中無休全天候型の江にとって天候などさしたる問題には成り得ないのだが。
「いつか雪蓮に仕事を押し付けて、ゆったりと一日を過ごしてみたいものです」
しかしそんな日は永久に訪れない。
江の仕事が雪蓮に回った日には全てを勘で、さらに細かい内容は度外視されて済まされてしまう。
多額の金や大量の兵糧を動かす繊細な仕事なだけに雪蓮には向かない。
故に江が馬車馬のように働くしかないのだ。
と独りごちているうちに江は調練場に着いた。そこにはいつまでたっても雪蓮が来ないことに動揺している新兵約150人の姿があった。
「はぁ…」
ため息で落胆の意を示す江。簡単に言えば、この状況は彼の思惑が悪い方向にハマった形だった。
そもそも、雪蓮がこの仕事をサボることは朝には知れていたことである。
何せ江宛てに書き置きがあったのだから。
それでもなお、江は遅れて顔を出した。
理由は簡単、集団をまとめる者が出現するかどうかを見極めるためであった。
現在の呉には戦略的に足りないものがある。
確かに布陣としては完璧で微塵の隙もない。
中軍に桃蓮、冥琳、夕の本隊。左には焔、右には祭の弓兵部隊。そして後曲に蓮華、穏、前曲に雪蓮と江。
どこを見ても豪華であり贅沢な布陣だ。
そんな布陣において足りないもの。
それは遊撃隊だった。膠着状態に陥った戦況において、何よりもモノを言うのが戦場を縦横無尽に駆け抜ける遊撃隊である。
今までは江が前曲と掛け持ちという形でこなしてきたが、相手はあくまでも賊などの烏合の衆。
はたしてこれから訪れると予想される戦国乱世ではそれが通用するとは思えない。
遊撃隊に大人数を率いるような統率力は必要ない。ただ100人を完璧に統率できたのならば、たとえ相手が1万の大軍であったとしても容易に混乱させることが出来るだろう。
そう言った意味ではこの場は格好の試験の場となり得た。
「………ん?」
ふと視界の端にひょこひょこと動き回る小さな影を捉える。
目を向けてみれば、肩甲骨まで伸ばした長い黒髪を揺らしながら懸命に片刃の得物を振るう少女の姿があった。
その姿は懸命というよりも何かに駆られ、焦っているといった方が適切かもしれない。
江はそれなりに離れた間合いを無音で一瞬のうちに詰め寄り、彼女の得物を指でつかみ留める。
「えっ!?」
突然現れた文官姿の少年に、少女だけではなく周りにいた新兵達も驚きの声を上げる。
江はその体勢のままで新兵達に顔を向けた。
「孫伯符様の代わりに此度の調練を担当させていただくことになった一文官です。どうぞよろしく」
『文官』
この言葉に周囲の者は皆愕然とした。それはそうだろう。
何せ、その『文官』が突然、自分たちの誰一人にも気配を察知させることなく眼と鼻の先の距離まで詰め寄っていたのだから。
「さて、自己紹介はこの程度にしておいて…今日の調練の内容をお話ししておきましょうか」
その瞬間新兵達の表情が強張るのを見て取ることができた。一同、固唾を呑んで、目の前の自称文官の言葉を待つ。
「そうですね…ふむ、ここは皆の親睦を深めるために『鬼ごと』にしましょうか」
『は?』
江の告げた内容に一同が一様に声を発する。
「…聞き間違いでしょうか?『鬼ごと』と聞こえたような気が………」
先ほどまで得物を振るっていた少女が恐る恐る江に尋ねた。それに対して江は満面の笑みで応える。
「いいえ、あなたの言う通りですよ」
肯定の言葉を聞き、新兵達は呆然とした表情を浮かべる。
そんな中だった。
「少しお待ちいただきたい!」
その声は高く大きく、そして怒りに満ち満ちていた。
声の主であろう長身で小麦色の体躯、そして短く蒼い髪の女性が集団の奥から人波をかき分けて出てきた。
「何でしょうか?」
その怒声を聞いても尚、笑みを浮かべたまま江はその女性と正対する。
「率直に言わせていただこう。調練の内容に納得がいかない。そして意味を見出すことができない」
江の疑問の言葉に女性は毅然とした態度で言い切った。その様子を見て、江は口元に袖をやる。
………つり上がった口角を隠さんがために。
「それはまた…詳しくお聞きいたしましょう」
「われわれは各々の決意を胸に抱いて、兵に志願したのだ。だというのに、既に名高い孫伯符様が担当してくださるという調練がどこの馬の骨とも知れぬ文官如きに仕切られ、挙句の果てには児戯である『鬼ごと』をやらされるとは侮辱もいいところだ!」
ここまで言って、女性は言葉を切る。本当はもっと言いたいのだろうが、さすがにそこは調練の担当者に対するなけなしの敬意で踏みとどまっているようだ。
周りの反応も『よく言った』という女性に対しての称賛がすべてだった。
「……そうですか…」
江はそう呟き俯く。周囲の新兵達はその様子を見て『調練の担当者』が『新兵の一人』に『言い負かされた』と理解したのだ。
そう、『誤解』したのだ。
そしてすぐにその認識は誤りであることを思い知らされる。
ほかでもない江の手によって…
「ならばあなた方は孫呉の軍にはふさわしくありませんね」
しばらく沈黙を守り、ゆっくりと顔を上げた江。
そして彼の眼が新兵達に向けられた瞬間、場の空気は凍てついたかのような錯覚を覚えるほどにまで冷え切った。
「調練の内容に意味を見いだせない?これはおかしなことを」
ハッ、と小馬鹿にしたように笑い飛ばす。
女性は反論しようとするがそれを思いとどまる。いや、思いとどまらされた。その場を支配する絶対零度の雰囲気によって。
「そもそも『ただやるだけ』の調練など私が、孫呉がすると思いますか?調練の意味などは兵各々で見出すこと。言われたことしか出来ない忠実な木偶人形など我が軍には必要ありません。欲しいのはそう、指揮官の意図をくみ取り、その場その場で常に最善を選択できる兵のみ」
ここまで言われて、女性は言葉を失う。反論したいが出来ない。感情が抗おうとしているのだが、理性が白旗を掲げている。
「本来なら兵士同士でやらせるつもりでしたが、気が変わりました。………為すすべのない状況に絶望を味わうといいでしょう。………圧倒的な力の前に頭を垂れるといいでしょう」
江はそう言いながら、調練場の蔵から大量の武器を持ち出す。
「あなた方にはこの長沙城内を逃げてもらいます。そして私があなた方を追います。武器の利用は自由、刻限である日没まで逃げのびるか、もしくは私を殺害するか。それがあなた方の勝利条件です」
『っ!?』
新兵達はまたもや驚愕させられた。
目の前の文官が自分たちに一対多の勝負を挑み、また勝利条件が己が命を奪うことと抜かしたのだ。とても正気の沙汰とは思え
ない。
女性もこの言動を不審に思ったのか、江に告げる。
「手加減は必要か?」
「あぁ、そうでしたね。さすがにこちらが得物を使ってしまうとあなた方を殺してしまいかねない。ということで『コレ』を使わせていただきます」
手に握られたのは少し太めの木の枝。
しかし剣を振り下ろされたらたちまちに折れてしまうような代物だった。
「あ、これだけでは足りませんでした。私を殺すことなど、あなた方には到底不可能ですので、私に『一撃』を加えた時点で勝利としましょう。…無論出来るのであれば殺してくださっても構いません」
冷たい笑みを浮かべた少年の言葉を聞いた新兵達はついに怒号を上げた。
いくら新兵とはいえ、自らの腕に自信がある者が多い。そんな中で目の前の男がぬけぬけと侮辱したのだ。到底許すことなどできない。
「くっ………いいだろう。やってやろうではないか」
そして先頭に立っていた女性も例外ではなかった。先ほどまで勝っていた理性がついに感情の波にさらわれてしまう。
「了解がとれたので…さぁ皆さん散ってください。私もしばらくしたら追い始めますよ」
合図を共に新兵達は素早く、江に対する殺意に満ち溢れた状態で長沙の街へと散っていった。
「さてと…」
その場には二人の人間が残されていた。
「おやおや、あなたは行かないので?」
「お前を殺しても勝ちなのだろう?たかが文官風情が、よく武人をコケにしてくれたな」
「なるほど、武人、ね。これは面白いですね。『文官』が『武人』を打ち倒す。滑稽過ぎて、喜劇にすら成りやしない」
「ふん、すぐにその舌を切り取ってくれる。それに私にはどうしてもこの軍に入らなくてはならない理由があるのだ。………徐盛文嚮、推して参る」
片や槍を手にし、殺意をみなぎらせて相対する敵を睨みつける美女。
片や木の枝を肩に預け、相対する敵からの殺気を飄々と受け流す少年。
昼過ぎ、日が西に傾き始めた頃、二人の影が急速に接近した。
太陽が空の中央を通過し、西に傾いた頃。
二つの影が接近し、交差した。
ガキッ
ガキッ
調練場に響き渡る剣戟の音。
この音を聞いた者は、恐らく全員鍛錬の最中と推測し別段気にもかけないだろう。しかしこの戦いの様子を目にしたらどう思うだろうか…
「はぁあああああああああああああああああ!!!」
ガキッ
蒼髪の美女が赤髪の少年に槍を振り下ろす。それもすさまじいほどの速度で。彼が一般の兵士ならば間違いなく頭蓋が陥没、武器で受け止めたとしても、武器を支える腕に罅くらいは入るだろう。
それほどまでに徐盛の攻撃は速く、鋭く、そして重かった。しかし先ほどから聞こえてくる音から察することが出来る通り、剣戟の音は幾度となく続いている。
もし彼が一般の兵士であればよくても腕の骨が粉々だ。
(何故だ!何故受け止められる!?)
「とても素直な軌跡ですね」
だが受け止めている少年は違った。
動きが重くなるほどの殺意をその一身に受けて、それでもなお徐盛の攻撃を軽くいなしている。しかもこともあろうか、正規の得物である槍に対し、そこらに落ちていた木の枝を以て…
ですが…
少年は前の言葉に加える。
「正直読みやす過ぎてあくびが出てしまいます」
通常ならば速攻で粉砕される木の枝で、器用にも徐盛の攻撃を支え、そして次の行動に移る。
徐盛のすばやい突きを木の枝を以て下方へと払いのける。
「なっ!?」
自らの攻撃の力に相手の払いの力が上乗せされ、体勢が前のめりになる。
その身を前に投げ出された徐盛は襲ってくるであろう衝撃に備えて歯を食いしばる。
「まずは一」
しかしやってきた衝撃はあまりに軽く、優しかった。
すぐに体勢を整え、再び江と正対した徐盛の眼に拳を握り、朗らかな笑みを浮かべている相手の姿が映った。
「お前…愚弄しているのか?」
声の調子がまた一段階下がる。
それも当然のことである。武人として、戦いの最中に敵に情けをかけられた。これほど屈辱的なことなどあり得ない。
その眼にさらなる殺意を湛えて、徐盛は江に射殺さんばかりの視線を送る。
「そのようなつもりはありませんよ。………ところで」
江はそこまで言って言葉を切る。
そしてその顔に浮かぶ笑みが冷たいものへと変貌して、続けた。
「私の得物はどこに行ったのでしょうか?」
そう言って両手を開いて、前に差し出す江。無論開けるというからにはその手には何も握られていない。
そのことに、頭に血が上った徐盛は反応が遅れてしまう。
「………はぁ…これで二度ですね」
次の瞬間、徐盛の脳天にまたもや軽い衝撃が与えられた。
別段気にすることのない衝撃。
しかし目の前に相手がいて、そして突然自分の上方から与えられた攻撃。いや、そもそもこれが攻撃なのだろうか。
カラン
衝撃から一瞬の時をおいて、乾いた音を立てて地面に木の枝が落ちる。
この瞬間徐盛は理解した。
これも目の前の少年による攻撃であると。
そして理解した瞬間、背筋を冷や汗が伝った。
もしこれが刃物だったら…
少なくとも今自分がこの世にはいないであろうことを理解した。
そしてようやく目の前の少年の正体が気になり始めた。
固より、新兵のうちの一人である少女の背後に無音で、誰にも気付かれずに移動したことからただの文官でないことは予想できた。
しかしその程度なら徐盛もすることが出来る自信がある。
「…お前は一体何者だ?文官とは到底思えない」
「文官ですよ。あくまでも分類上はね。………そしてあなたはそのたかが『文官』に無残にも打ち倒される哀れな『武人』とでも言っておきましょうか。」
(ということは…)
分類上ということは状況に応じて、戦働きをすることもあるということ。つまり「あの人」である可能性が高い。そう感じた徐盛は最後の疑問を投げかけようとする。
「貴殿は二年前に」
しかしその言葉を最後まで言い切ることはなかった。
「ガハッ……」
「戦いのさなかでのおしゃべりは自殺に等しい行為ですよ」
木の枝で腹部を一突き。
たかが木の枝如きでこんなに有効打を与えられることに、意識の薄れゆく徐盛は場違いながら感嘆の念を感じた。
力無くその身は調練場の土の上に横たわる。
「私に負けたことは恥じることではありません。あるとすれば戦いに臨む心構え。此度は敗北を受け入れ、精進しなさい」
江は意識が遠のいていく徐盛にそう声を投げかけ、ゆっくりと他の者が散っていった方へと去っていった。
その場に残されているのは徐盛のみ。
(やはりそうか)
もう定かではない意識で思考を続ける。
(やはり彼が………私の『探し人』か)
それを最後に徐盛は意識を完全に手放した。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
「何で当たらねぇんだ!!」
「単体でかかるな!全員で仕掛けろ!」
場所は中には、そこには10人を超える新兵の姿があった。
否、その場に倒れ伏している者を含めたら40人弱。
そして意識のある者はみな何かを警戒し、怯えている。その『何か』とは…
「これで残り10人…」
ドサッという音と共にその10人の新兵のうちの一人が崩れ落ちる。その背後には木の枝で肩をポンポンと叩く一人の少年の姿。
「集団でかかるという戦法はとても有効です。戦場に出た時も常に多対個の状況を作り出すように心掛けましょう」
この言葉のうちにまた3人の意識を刈り取られた。
その場に残る新兵は残り6人。
「さて刻限はまだまだ先ですか。ならばさっさと終わらせて、皆さんに話をしましょうか」
呟きの終わりと共に江の姿は霞のように掻き消える。
突然の消失に新兵は驚き、あたりを見回す。
ドサッ
「お、おい!また一人やられ…」
ドサッ
「何で見えないんだ!あいつは化け物か!」
ドサッ
「背後の警戒を頼む!俺は前方を…」
ドサドサッ
「さぁ、ここもあなた一人ですね」
最後に残った相手はもはや戦意を喪失し、顔面は蒼白になっている。
腰が抜け、膝ががくがくと哂い、そして失禁している。見るも無残とはこのことかもしれない。
「残念ながら、先ほどのは『見えない』わけではないのですよ。ただあなた方の意識を誘導はさせてもらいましたがね」
バシッ
中庭に木の枝で何かを叩く音が響き、その直後、人の倒れる重い音がした。
「さて、これであと一人ですね」
そして江は、標的がいるであろう眼前の林を見据えていた。
少女は中庭での攻防を見て戦慄していた。
いや、彼女が目にしていたものはもはや攻防と言うには余りにも一方的であり、その事実が攻めている側の少年の実力を如実に示していた。あれは最早蹂躙だ。少女は背筋の凍る思いをせざるを得なかった。
(完全に見誤ってしまいました…)
少女―姓は周、名は泰、字は幼平という―は油断をしてはいなかった。
もちろん『鬼ごと』が始まる前の挑発的な物言いには反感を覚えた。しかし、彼は周泰の背後に無音で近づき、気取られることなく彼女の振るう直刀を素手で掴み止めたのだ。
それだけで実力という面では相応にあると判断していい。問題はその『相応』の程度を見誤ったことに尽きる。
(残りは私一人ですか)
茂みの中から気配を殺し、中庭の戦況を見つめていた周泰は残りが自分一人になったことを理解する。
そのことに焦りを感じながらも気持ちを強く持とうと奥歯を噛み締める。
(こんなところで負けていたら、この軍には到底入れない)
元々周泰は、劉表支配下の江陵近辺を本拠とする江賊だった。もちろんむやみやたらに人を襲うようなものではなく、むしろ義賊としての面が強かった。
自分の仲間を飢えさせないように、そして貧しい人々を助けるために国内で地位の高い人物が行う不正な取引などの現場を襲撃して生計を立てていた。
しかし、いかに義賊と言えども賊は賊。その行為はどこまで行っても略奪行為。助けられた人々以外にはその事実を許容されることはない。程なくして彼女の集団は、取引を邪魔された悪徳商人の手によって散り散りとなる。
仲間と引き離され、そして自分の生きがいを失った彼女はふらふらと放浪するうちに、とある噂を耳にする。
『江賊として名を馳せた甘興覇が孫堅に下った』と。
周泰は少なからず甘寧に親近感のようなものを覚えていた。江賊であり、かといって無駄な殺生も好まない甘寧の姿勢に対して好感を持っていた。
だからこそ気になったのだ。その甘寧が何故、今になって国に仕える気になったのだろうかと。
噂を聞いた彼女はもっと詳しい話を聞こうと長沙へと赴く。
そこで知った事実は彼女を驚愕させるに十分なものだった。
甘寧がこともあろうか孫堅の愛娘、孫権の副官を務めている。元賊を国の宝という存在のすぐそばに置くことの危険性は周泰にも理解できる。
甘寧の性格を鑑みれば、そのような不義理を起こすことはないとはいえ、思い切った判断には変わりない。
その事実から、周泰は孫呉の軍は自分という存在を正しく評価してくれるということに思い至った。ならば仕官しない手はない。
そう思い、意気込んでこの場にやってきたのだが…
(無防備に立っているはずのに、まるで隙が見当たらない)
目の前にとてつもなく大きい壁が立ちふさがっていた。
新兵も残り一人となったところで、江は一つ息をつく。
先ほどから視線を感じていた。察するに隠密行動に長けた者である。そのことに江は笑みを浮かべた。
(見誤っていましたね…今回の新兵は意外と豊作だ)
最初の印象だけでは判断できないということがよく分かった。
まだまだ到底使い物にならないとはいえ、それなりの人材が集まっていたのだ。江の実力を知るや否や、矜持を捨て去り、多人数での攻撃を仕掛けてきた。
その中には中心となる人物も見て取れた。少なくとも孫呉の軍に加わる程度の資格は十分に持ち合わせているだろう。
そんな新兵の中でも特筆すべきは、徐盛と残り一名のみ。恐らく最初に声をかけた少女だろう。前者は粗削りなところや短絡的なところがあるものの、その武勇に関しては戦力になりうる。磨けば、人材の少ない前曲に回すことが出来るだろう。そして自分が遊撃に回ることが出来る。
そして後者、これは情報収集を任せることが出来る。思春と協力されれば、ほとんどのところには潜り込めるだろう。
(そんな有望な人材が集まっているからこそ…)
江は浮かべていた笑みをフッと消し去る。
(ここで驕りを切り捨てさせてもらいましょう)
眼は獲物を見定めた鷹のように鋭くなった。
そして江は視線の感じる茂みの方へとゆっくりと歩を進めていった。
江が茂みに入り、しばらく歩いたところでふと足を止める。
彼は気付いていた。自分をずっと見つめている一対の視線に、そして気配を殺して追跡する存在に。
「さて。残りはあなた一人ですよ」
江はきさくに声をかける。自分からは『視認』出来ない相手に向かって。
対して、背後の木の上から様子をうかがう周泰は気が気ではなかった。
(間違いなく居場所が割れている…!)
これだけは理解できたからだ。見つめる対象の圧倒的な存在感がそう言っている。『お前の居場所は把握している』と。
どうして、なぜ、どうやって。疑問ばかりが自分の思考を掻き乱す。
隠密行動には絶対の自信があったのに!
『完全』に気配を『殺して』いるのに!
間違いなく向こうの視界には入っていないのに!
もはや彼女の精神状態は通常からは大きく逸脱していた。それゆえに気づくのが遅れてしまったのだ。
今までずっと見つめていた存在が周りの景色に溶け込むかのように消え去ったことに。
(………えっ?)
『いけませんよ。気を抜いてしまっては』
声が聞こえてきた。
紛うこと無き少年の声。しかし反響しているようで居場所を特定することはできない。そのことが、周泰をさらなる混乱状態へと追い込む。
『あなたは私の気配をつかめない。それに対して私は見ずとも、あなたの位置を把握できる。どうしてか分かりますか?』
悠長にも少年の声は問いを投げかけてくる。
もちろんその解を混乱状態の周泰に見出すことなどできるわけもない。
『分からないのなら、少しだけ助言を。「森羅万象全ては生きている」ですよ』
この答えは宿題です
最後に耳に吐息と共にこの言葉を聞きとった周泰は首筋に衝撃を受け、意識を途絶えさせた。
『鬼ごと』が始まってから数刻と経たず、今だ空高くに陽が残っているうちに終了した。新兵の完全敗北を以て。
捕縛された新兵は全員調練場に連行されていた。
彼らの表情は青ざめており、受けた衝撃は計り知れないことを物語っていた。
多少なりとも腕に覚えがあって孫呉に仕官したにも関わらず、たった一人になすすべもなく鎮圧されたのだ。
当然と言えば当然だ。
「『鬼ごと』お疲れさまでした」
彼らの前に立つ江が不意に口を開いた。
「お分かりいただけましたか?己の身の程がいかほどのものかを」
この言葉を新兵は唇を固く結んで聞いている。
「はっきり言いましょう。あなた方は弱い」
きっぱりと言い切られ、否定をすることすら許されない。
それほどの差を新兵たちは感じていたのだ。
「今日がもし戦だったならば、私は本気で狩っていたでしょう。もちろんあなた方は間違いなく死んでいた」
厳然たる事実を次々に羅列され、すっかり打ちひしがれてしまう。
「調練とは言え武人たるもの、あそこまでの落ち目が見れば死んだことと同義。ならば…」
江は口角を吊り上げ、優しい口調で言った。
「一度死んだも同然の命、孫呉のために使いなさい。孫呉のために生きなさい」
言い終わってしばらくの間が開き、キョトンとした表情で新兵の面々は顔を上げる。
江はそんな彼らに笑みを投げかけた。
「正規兵の訓練は厳しいですよ?そのことを努々忘れないように」
「そ、それはつまり軍に入れるということか?」
「ええ、もちろん。というよりも元々既に入隊されている皆さんを解雇できるほど、私の身分は高くないですから」
徐盛の問いにも、江は笑顔で応える。
その答えを聞いて、場の空気が一気に弛緩する。
「ただ今回の調練で皆さんは気づいたはずです。心の内にあった驕り、そして相手を軽んずる態度、それらすべてが死に直結するということを」
江の声色を変えた言葉に応じて、また場の雰囲気が変わる。
安堵の雰囲気が流れていたその場にまた緊張感が漂い始める。
「次回は今日の調練を休んだあの愚か者を、引きずってでも連れてきますので、強者との戦いで心の驕りを切り捨ててもらいます」
新兵達は「応っ!」と力強くうなずく。
「やれやれ、こっぴどくやられたようだな」
「仕方がありません。江様が最善と考えた事なのですから」
と、そこに歩み寄ってきたのは一組の主従だ。
具体的に言えば、蓮華と思春である。二人は宮城内からずっと一部始終を見ていた。故に思春は、敬愛する江への罵倒のせいか機嫌がすこぶる悪いように思える。さて突然現れた大物に対して、新兵はどう反応をするだろうか。
「そそそそそそそ孫権様!?何故このようなところに!?」
「ありゃ甘寧様じゃねぇか!何だって新兵の訓練なんか見に来てんだぁ!?」
動揺するのみである。孫家の一族は当然統治者として、民草にその姿を見せることが多い。よって新兵たちは皆、見慣れた、しかし貴く遠い存在を前に動揺するほかないのである。
「おや、蓮華に思春ではありませんか。どうしたのですか?」
ここでまた動揺することとなる。
目の前の年端もいかぬ少年が、孫家の令嬢とその側近を相手に何とも気軽に声をかけているのだ。
「どうした、ではない。あれだけ派手にやっていたのだから気になるに決まっているだろう。張昭が溜息まじりに言っていたぞ。朱家の倅がまた何か仕出かしたのではないかとな」
「私は江様に対する罵声が耳に入り………それについて詳しく聞かせてもらおうかと」
思春はそう言うと、新兵たちのほうをキッと睨みつける。
以前は江賊として、今は孫呉の武将として名を馳せる鈴の甘寧に睨まれて平静でいられるわけがない。無意識のうちに体が思わず震え上がってしまう。
「あ、あの……」
「ん、どうかしたか?名は……周泰と言ったか?」
「は、はい」
恐る恐るではあるが、この状況で手を挙げ、質問をしようとする胆力は並大抵のものではない…などと見当外れにも程がある思考を、江がしているのはまた別の話である。
「恐れながらお聞きしたいのですが、孫権様・甘寧様と親しくしているこの方はどなたなのですか?調練では名乗らず、自分のことを一文官としか…」
それを聞くや、蓮華の表情が変わる。具体的に言えば良くない方向へ。
「江、お前はまた遊んだな?」
「ちょっとしたお茶目ではないですか。それに名前の知らない文官だからと言って相手を侮るようでは、まだまだ下の下。ここらでしつけてあげるのも上司の責任でしょう」
「………そう…もういいわ…」
悪びれない江にがっくりと肩を落とす蓮華は、一息つくと、また先ほどまでのように背筋をぴんと伸ばし、新兵たちへと向き直る。そして江の方を指さし、言った。
「この者は朱才だ。………これだけ言えばもう分かるだろう」
「どうも朱君業と申します。どうぞよろしくおねがいします」
『え?』
新兵たちの声が一つに重なった。
朱才と言えば、朱家の神童と噂される大物のはずである。朱才を讃える噂は色々あり、曰く「孫堅と剣を交え、互角以上に立ち回った」、曰く「江賊800人を相手取り、誰一人殺すことなく頭目である甘寧を生け捕りにし、仲間に引き入れた」、曰く「日に全体の三割の政務を取り仕切っている」など、最後の噂だけは聊か誇張されているが、それ以外に関しては全て実話である。
また実際に賊の討伐において負けを知らず、圧倒的な戦果を残している彼を知らない者は長沙近辺にはほとんどいない。
あまりの暴露に、そして自分が浴びせかけた罵詈雑言を思い返し、150人の新兵のうち、約三割が卒倒したのは致し方のない事だったのかもしれない。
そんな騒がしい調練も解散し、各々が調練場が去る中、江は徐盛と周泰を呼びつける。二人はビクッと体を震わせながら、江のもとへと歩みよった。江はそんな二人に言う。
「まずは徐盛、あなたには孫策の部隊に入っていただきます。勝手気ままですが腕は確かですので十分に揉まれてきてください」
「は、はっ!」
間違いなく叱責を受けると覚悟して、ここへときた徐盛は新兵としてはまさかの大抜擢に、大いに驚きながらも背筋を伸ばし返事をする。
「周泰は…甘寧と共に諜報部隊の構成に携わっていただきます」
「りょ、了解しました!」
「しっかり扱いてやるから覚悟しておけ」
「あうあうあう…お手柔らかにお願いします…」
こちらはやや俯き加減である。間違いなく先ほどの罵声が、思春の怒りを買っている。はっきり言って周泰は何一つ罵声など浴びせていないのだが…
「…ようやく体勢が整ってきましたね。頼りにしていますよ」
江はそう呟き、虚空を眺める。
孫呉は着々と力を蓄えていた。
「………またか」
自らの執務室で机の上にあるモノを眺めつつ、桃蓮は呟いた。
それは先日から頻繁に見かけるモノ。それがまた目の前に現れたのだ。
「最近やけに多いの………一波来るか」
祭が言葉を重ねる。表情には少し疲れがうかがえる。それはその場に居合わせている桃蓮、焔にも言えることだが。
「ホント嫌な予感しかしないわよね。まるで何かの目印みたい。それと他の所にも出てるらしいわ」
「だろうな。全く趣味が悪いにも程があるぞ」
呟くように話す三人の視線は机の上に置かれた『黄色い布』に注がれていた。
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