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アンドレア=シェニエ

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第二幕その八


第二幕その八

「シェニエ様」
「はい」
「貴方はご存知の筈です」
「私がですか」
「ええ」
 マッダレーナはそう言って彼に微笑んだ。
「かって貴方に目覚めさせて頂いたのですから」
「貴方をですか」
「ええ。あの時は腹立たしくも思いましたが今では感謝しています」
 彼女の顔からは笑みが絶えることはない。どうやら彼に感謝しているというのは本当のようだ」
「ふむ」
 彼は口に手を当てて考え込んだ。
「昔のことですよね」
「はい」
「少し待って下さい」
 彼は手で彼女を制しながら言った。
「暫く思い出すことに努力します」
「どうぞ」
 そして彼は自分の記憶をたどりはじめた。
「この声は何処かで」
「貴女は愛を知ってはおりません」
 マッダレーナはここで言った。
「愛を」
「ええ」
 彼女はシェニエにあえてこう言ったのだ。
「そういえば私の詩で使ったことのある言葉だ」
 彼女はここでまた言った。
「愛とは神が与えられるもので軽蔑してはいけません」
「これは」
 ようやく思い出した。それは五年前の宴の時の詩だ。
「まさか」
 シェニエはようやく悟った。咄嗟にマッダレーナの方を向く。
「貴女は」
「思い出していただけましたか」
「宜しければそのお顔を拝見したいのですが」
「喜んだ」
 マッダレーナはヴェールを脱いだ。そしてその顔を見せた。
「おお」
 シェニエはその顔を見て思わず声をあげた。そしてすぐに記憶が甦ってきた。
「あの顔だ」
 密偵は彼女の顔を認めて言った。
「間違いないぞ」
 彼もまた確信したそしてすぐにその場を去った。
「すぐに同志ジェラールにお伝えしよう」
 そして足早にその場を後にした。
「まさか貴女だったとは」
 あの宴の日々が甦って来る。そして目の前にいる彼女はあの時から成長してさらに美しくなっていた。
「マッダレーナさん、よくぞご無事で」
「全ては神のご加護です」
 彼女は微笑んでそう言った。
「それにしてもよくぞここまで来られました」
「全ては貴方にお会いする為に」
「しかしそれでも」
「その時は私は侍女を装いますわ」
 そしてまたヴェールを被った。
「このようにして」
「そうですか」
 シェニエは心の中で彼女の変わり様に驚いていた。
 かって彼女は何も知らない貴族の箱入り娘であった。苦労も他の者のことも何一つ知らなかった。だが今は違う。
 五年もの年月が彼女を変えた。今の彼女は世を知る聡明な女性であったのだ。
(革命、いやそれにより時代の変化が彼女を変えたのか)
 シェニエはそれを見て思った。
(それにしても何と美しい)
 そして歳月は彼女自身をも変えていた。
 少女が今では魅力的な女性になっていた。若い薔薇が今では大輪になっていた。
「シェニエ様」
「はい」
 マッダレーナが言葉をかけてきた。
「あれから色々とありました。その中で私は貴方のことを思うようになったのです」
「私のことを」
「そうです。夢に見たことも幾度もありました。私は最初何故だかわかりませんでした」
「夢にまで」
「はい。そして革命の最中私は考えました。この激動の中で」
「大変だったでしょう」
「いえ」
 口では否定してもその記憶までは否定できない。多くの苦難が彼女を襲った。
「ベルシがいましたから。私の親友が」
「彼女が」
「はい。身を売ってまでして私を守ってくれました」
「何と」
 シェニエもそれには口を固く閉ざした。
「そこまでして貴女を」
「私も身を売る以外のことは全てしました。家のものも何もかも売って服さえも売って」
 彼女の家には資産があった。革命派に奪われる前にそれを売ったのだ。
「賄賂にもなりました。生きる為の」
「ジャコバンの者達にですね」
「ええ。そうして何度も危ないところを切り抜けました」
「大変だったでしょう」
「いえ、ベルシに比べれば」
 彼女の家はマッダレーナの家程多くの資産はなかった。そして屋敷を襲われそこで両親も家族も殺された。かろうじて逃げ延びた彼女だが残ったのはその身一つだったのだ。女性が生きていくには娼婦になるしかなかったのだ。
「そして私達はこのパリで隠れる様にして生きてきました。その中で貴方のお話をお聞きしたのです」
「私のですか」
「そうです。そして次第に貴方へのお気持ちを抑えられなくなりました。そして遂に抑えきれなくなり手紙をお送りしたのです」
「それがあの一連の手紙だったのですね」
「はい」
 マッダレーナは頷いた。シェニエはジャコバン派を批判する者として度々話題になっていたのだ。ロベスピエールも彼を危険視するようになっていた。
「そして今貴方にお会いする為にここへ来ました」
「危険も顧みずに」
「危険なぞ今まで幾度も切り抜けてきました。今更何程のことがありましょう」
 シェニエはその言葉にまた感じ入った。
(彼女はもう貴族の深窓の令嬢などではない)
 そう、かっての彼女は死んでいたのだ。
 今ここにいるマッダレーナはかっての幼虫から美しい蝶へと変わっていた。外見だけでなく心もだ。
 シェニエは彼女に魅せられてきているのを感じていた。彼はそれを拒まなかった。
「お聞き下さい」
 マッダレーナは言った。
「この一月の間私は誰かにつけ回されています」
「ジャコバン派の密偵ですか!?」
「わかりません。おそらくはそうだと思いますが」
「厄介ですね。私もマークされていますが奴等は極めて執念深い」
「わかっています。しかしそれでベルシに迷惑をかけるつもりはありません」
「どうされるおつもりですか?」
「私は自分の身は自分で守ります。それが私の生き方です」
 彼女は毅然とした声でそう言った。
「ご自身で」
「はい、何があろうともベルシを巻き込みたくはありません」
「わかりました」
 シェニエはそれを聞いて言った。
「では私が貴女を御守りします」
「え・・・・・・」
 マッダレーナは思わず言葉を失った。
 
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