アンドレア=シェニエ
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第一幕その九
第一幕その九
「カルロ、よさないか」
それはジェラールの年老いた父であった。
「御前はどうかしている。今までの御主人様や奥方様のご恩を忘れるとは何事だ」
その声は弱々しいものであった。
「お父さん」
彼は父を見て優しい声で言った。
「一緒に行きましょう、人間としての正しい道を。我々は今から新しい世界に足を踏み入れるのです」
「何を言っておるのだ、馬鹿なことは言うでない」
「馬鹿なことではありません、私は正気です。その証拠に見て下さい、この欺瞞に満ちた世界を」
彼はそう言うと父にこのシャンデリラに照らされた部屋を見せた。
「民衆が飢えて死んでいくのにここにはこれだけの酒と食べ物がある。そして光が灯り宴が連日連夜繰り広げられている。これを欺瞞、いえ背徳と言わずして何と言いましょう」
「・・・・・・・・・」
父は答えられなかった。ジェラールはそんな父に対し言葉を続けた。
「そうした世界が終わる時が来たのです。我々は今その世界から解き放たれたのです」
「だが一歩間違えればその足は地獄に向かう」
シェニエの独り言は誰の耳にも入らない。だがもし誰かが聞いていたとしてもその意味はわからなかったであろう。
「その証がこれだ!」
ジェラールはそう言うと自らの着ていた制服の上着を脱いだ。そして床に叩き付けた。
「今から俺の着る服はこれだ!」
そして民衆の貧しい服をかわりに纏った。
「忌まわしい束縛よ、消えてなくなれ!俺は自由と平等にこの身を捧げる!」
「そうだそうだ、俺達も!」
民衆はジェラールの言葉に賛同した。ジェラールはそれを聞き彼等に顔を向けた。
「諸君、では行くとしよう。自由と平等が支配する理想の世界へ!」
「おお!」
彼等は叫んだ。そしてジェラールと共にその場をあとにした。
「何ということ・・・・・・」
伯爵夫人は蒼白になったままその場に崩れ落ちた。
「何が不満だというの!?」
彼女は魂が抜けたような声で呟いた。
「食べ物は白いパンだったし文字も教えてあげた」
当時白パンは御馳走であった。庶民の食事といえば黒く固いパンであった。そして文字も当然読めなかった。
「だから本も読めたというのに」
それは事実だろう。だが彼はその施しを憎んでいたのだ。
「だから恥ずかしい思いをせずに済んだのに。思いやりのしるしとして服まで与えたというのに」
服もである。精々ニ三着持っていれば贅沢であった。食べるものにすら事欠いているのだから。
「それを忘れて何故あのようなことを・・・・・・。私の何処が不満だというの!?」
「この人にはおそらくわからないだろうな」
シェニエは彼女を見ながら呟いた。
「いずれわかる時が来るかも知れない。だが来ないかも知れない。それだけは神が定め給もうものだ」
彼は新教徒めいたことを言った。
「あのジェラールというものは神の御教えを先に知ったのだ」
そしてジェラールが行った方へ顔を向けた。
「あの若々しい心がこれからの世界を変えていくだろう」
その言葉は予言めいたものであった。
「しかし」
シェニエはここで言葉をとぎらせた。そして再び口を開いた。
「その心が何処へ行くかまでは誰にもわからない。神以外は」
どうやら予定説の影響を受けているようだ。これもフランスの外でうまれそだったせいであろうか。
「その行く道は一つではない。中には恐るべき地獄の道もある」
彼はそこである人物のことを思い出した。
「ロベスピエールといったな」
若い男である。法律家の家に生まれたが幼くして両親をなくし苦学しながら弟や妹達を養った。そして今やフランスにその名を知られようとしている情熱的な政治家である。
シェニエはその人となりに悪い印象は受けなかった。生真面目であり清廉だった。だがそこに彼はロベスピエールの持つ危険性を感じ取っていた。
「人は時として不浄なものも知らなければならない」
それは詩人というより哲学者の言葉であった。
「さもないとその不浄がどういうものか、そしてそれより怖ろしいものについて無知になってしまう」
この言葉を知らない者も多い。ロベスピエールもそうであるし今ここを去ったジェラールもそうだ。彼等が求めているのは絶対的な正義なのだ。神ではないが神性を持つものなのだ。
「彼等がオリバー=クロムウェルを知っていればよいが」
そして宿敵の国に生まれた一人の男の名を口にした。
オリバー=クロムウェル。ケンブリッジで宗教を学んだ男である。軍人として優秀であり清教徒革命においてニューモデル軍を率いて王党派の軍を散々に打ち破った。そして革命後国王を処刑し反対派を弾圧し自ら護国卿となった。
彼もまた清廉潔白で自らに対し厳格であった。だがそれは他者に対する絶対的な不寛容ともなったのである。
彼にとって清教徒の価値観こそが全てであった。それにそぐわぬ者は皆敵であった。
法にない国王の処刑もそこに根拠があった。自らに逆らう者達も。旧教徒も。その為アイルランドを侵略した。彼にとって旧教徒は敵でしかなかった。
その政治は圧政であった。日常の生活にまで細かく口を挟み英国は鉄の鎖に束縛された国となった。それは彼の死去まで続いた。
「あのようにならなければよいが。いや」
彼はここで危惧を覚えた。
「より怖ろしいものになるかも知れない」
不幸にしてその危惧は的中する。
だがそれをこの時知っているのは誰もいなかった。伯爵夫人はようやく起き上がり家令に声をかけた。
「もう行ってしまいましたね?」
ジェラール達のことを問うた。
「はい。如何致しましょう」
「・・・・・・放っておきなさい」
彼女は沈んだ声で言った。
「それよりも宴を再開しましょう」
「わかりました」
こうして宴は再開された。だがそれは暗く沈んだものになってしまっていた。
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