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愛しのヤクザ

作者:ミジンコ
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第十四章 再会

 ウエイトレスの村田が内村の入れ墨を目撃してから一週間が過ぎようとしているが、事業本部、健康産業事業部、そして本社からも、これと言った動きは伝わってこない。一方、健康ランドにおいては、これまでにないほどの平穏な日々が続いていた。
 そんなある日の午後、相沢は館内放送で最寄りの館内電話にでるように呼びかけられた。マッサージ室のオーナーと話していた相沢は、部屋の隅にある受話器を取った。石田の声が響く。
「課長ですか?本社企画部の小倉部長からです」
 その声に疑わしげな響きがある。小倉部長が直接電話してきたのは初めてのことで、まして小倉は山本統括事業本部長と出世争いのデットヒートを演じている。山本が寝物語に小倉のことを話していたとしてもおかしくはない。小倉が押し殺したような声で言う。
「相沢君か?どうもそっちの旗色が悪くなってきた。あのことは知っているのか。厨房の内村っていう奴が入れ墨をしているという話を」
「小倉部長、どこでその話がでたのですか?」
「役員会で安藤常務が暴露したらしい。せっかく、こっちが相沢君の言うことも一理あると思った矢先、相手は反撃に転じた。どんなに腕が良くて信頼に足る人間でも、会社の方針を無視するようではこのまま放置出来ないという結論に達したようだ」
相沢は笑いを押し殺して答えた。
「しかし、安藤常務の言っていることが本当だという保証はないんじゃありませんか?」
「だから、石塚調理長を呼んで、確かめた上で解雇を言い渡すこととなった」
「しかし、調理長があくまでも否定したらどうするつもりなのです?」
「それはないと思う。何故なら、鎌田副支配人が内村の入れ墨を目撃したのだから、否定
は出来ないと思う。山本に言わせれば、鎌田副支配人は館内でも相当人望があって、ヤク
ザ対策でも陣頭に立って指揮した柔道5段の猛者だというじゃないか。その鎌田が石塚調
理長と対決してもよいと言っているらしい」
 予想を上回る早さで事態は大きく動き出していたのだ。しかも内村の入れ墨を目撃した
のが村田ではなく鎌田ということになっている。恐らくウエイトレスの村田では役不足と思ったのだろう。
 相沢は迷っていた。小倉部長は紛れもなく相沢の味方である。真実を話して安心させて
やりたい。しかし、敵を騙すにはまず味方から、ということもある。相沢の沈黙に小倉は動揺したようだ。
「おい、相沢君、君は知っていて黙っていたわけじゃないだろうな。そうだとしたら、どうなるか分かっているのか。もし知っていたとしたら、君も同罪だと安藤常務が言っていたそうだ」
 どうやらその口振りから小倉部長のバックにいたのはやはり岡安専務だったのだ。柔和な岡安の笑顔が脳裏に浮かぶ。胸が熱くなる。しかし、心を鬼にして答えた。
「確かに山本事業本部長に呼ばれて、そのことを確認するよう指示されました。まだ確認
は取れていませんが、確かめた上で本当のことを報告するつもりです」
「じゃあ、知らなかったんだな、まだ確かめていないのだな?」
「ええ、まだ確かめてはいません」
「それを聞いて安心した。実は専務もそのことを心配していた。常務は厳しい人だから言
ったことは必ず実行する。しかし、ここだけの話だが、もし、知っていたとしても、知らなかったと言い張ればいい」
これを聞いて目頭が熱くなった。
「ご忠告、ありがとうございます。でも、私を信用してください。私は決して人の期待を裏切るような人間ではありません」
ふと、直接の上司を裏切ろうとしていることを思い出し付け加えた。
「まあ、それは人にもよりますが…、ところで一つ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「部長は片桐店長に山本さんの銀行回りの件を確認させましたでしょう?私が部長に話し
たその日にです。つまり、施設の責任者がそこの経理課長と男女の仲であっては不都合だ
とお思いなのでしょう?」
一瞬の沈黙の後、答えた。
「基本的には恋愛は個人の問題だから会社は干渉しない。しかし、もしそうであったとし
たら、間違いを未然に防ぐためにもどちらかを異動させるべきだろうね」
「でも、もし就業時間中にホテルへ連れ出していたとしたら、どうです?」
小倉は即座に答えた。
「そんなことは許されることじゃない。会社に知られれば即刻首が飛ぶ」
「調べましょうか?」
やはり沈黙だ。今度は長い。じっと待った。小倉の口が開いた。
「やめときなさい。そこまでやることはないでしょう」
 この言葉を聞いた時、相沢はどこかほっとする自分を意識した。人は時に悪魔的な誘惑に駆られ思い悩む。しかし、そのこと自体で責めを負うことはない。責めを負うのは最後の一線を越えた時のみである。小倉は相沢よりましな人間だということだ。

 林田が撮ってきた写真には、ホテルから出てくる車のフロントガラス越しに、紛れもなくあの二人の顔が写っていた。その生々しさに思わず息を飲んだ。人間は浅ましい。しかし、自分のしたことも同様に浅ましいと感じた。小倉も同じ感性を持っていたのだ。
「小倉部長」
「何だ」
「石塚調理長を呼び出すのは誰ですか、それと一人だけですか、つまり内村さんは呼ばないのですか?」
「呼び出しをかけるのは総務部課長の山田君だ。それから内村さんは呼ぶわけにはいかな
い、その意味はわかるね。兎に角、石塚さん一人呼ぶ手はずになっている」
「では、入れ墨を入れていなければ、内村さんが本社に行って問題ないですね」
「勿論だ、入れ墨を入れていないと証明できるわけだしね」
「分かりました。もし、内村さんが入れ墨をしていないと分かったら、私は内村さんと同行いたします」
 一瞬の間があった。
「ふふふ、だいぶ自信がありそうだな。分かった、そうしてくれ」

 小倉はどうやら相沢の意図をある程度理解したようだ。小倉が思わず漏らした含み笑いはそのことを物語っていた。以心伝心とはこのことを言うのであろう。
 電話を切ると、相沢は本部の山本に電話を入れた。山本は出張中だったが、シナリオ通
り、伝言を秘書に残した。こう伝言した。「確認しました。内村の背中には何もありませんでした」と。
 山本が内村の入れ墨の件を確かめろと言ったのは、相沢が真実を隠蔽していたことを証
拠立てるためだ。確認し、入れ墨はなかったと伝言したことがその証拠となる。山本はそのメモを相沢の背信行為の証拠として大事に取っておくだろう。

 事務所に戻ると石田が話しかけてきた。
「小倉部長さんが電話かけてくるなんて珍しいわね。何かあったの?」
「ああ、ここに来る前は企画部にいた。以前の仕事についての問い合わせだ」
「あら、そうなの。ねえ、ねえ、それよりこの間、林さんを街で見かけたの。よれよれのジャンパーを着て歩ってた。まだ就職していないみたい」
 石田は林の失業について何の責任も感じていない様子だ。相沢は信じられない思いでため息をつく。
「うちのパパの会社で経理を募集しているんですって、林さんに紹介してあげようかと思って」
 相沢は答えなかった。石田の夫は地場産業の工場で経理の仕事をしているという噂は聞いていた。しかし、不倫関係を知られた男を本気で紹介するだろうか。いや、林がいくら求職で焦っていたとしても、石田に頭を下げるとは思えない。
「少しは悪いことをしたと思っているわけだ」
石田の顔が見る見るうちに朱に染まる。怒りをあらわにして言った。
「何が悪いって言うの、私が何をしたって言うのよ。まるで自分だけが正しいみたいなアンタの態度は頭にくるわ。いつか罰があたるわよ。ふん、今に見てらっしゃい」
 ぷりぷりと尻を振って事務所から出ていった。二階の鎌田副支配人のところへ行くのだ。二階の反支配人グループは確実に勢力を伸ばしている。何故なら施設のトップがそのバックにいるのだから。

 ふと、石田のバックが机の上にあるのに気付いた。事務所には誰もいない。バックの中
にキーホルダーがある。その中に個室の鍵もある。山本が不在の折り、石田が鍵を使って
部屋に入るのを何度か見ている。もしかしたら、机の鍵も持っているのではないか。そんな気がした。あの部屋に何か胡散臭いものを感じていた。
 バッグに手を伸ばそうとしたその時、キーというドアが開く音がしたので、慌てて振り向いた。清水だった。ほっと胸をなで下ろした。
「課長、どうしたんですか、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔をして」
「ああ、ちょっと考え事していたんで、ちょっとびっくりしただけだ。」
「それはそうと…」
いつになく真剣な表情だ。まして言いよどむなど清水らしくもない。
「どうしたんだ?」
「実は……君子のことなんですけど。課長はその後君子と付き合っているんですか?」
「いいや、俺はそっち方面はあまり得意じゃないし、清水と付き合っているって林田から聞いたから、諦めたんだ。もし、やったことを少しでも覚えていたら、もっと積極的に出
られたと思うけど」
 清水はこの言葉を聞いて安心したらしく、下を向いて笑いを堪えている。ようやく笑いが治まるとにやにやしながら言った。
「そうですよねー、覚えていないんじゃ、やったことにはなりませんからねー」
そこへ林田がカラオケ大会の審査を終え戻ってきた。そしてさっそく冗談を飛ばす。
「あれっ、マズイところに出くわしちまったなー。お二人きりでしみじみと愛を語らってたとこだったんでしょう。人の恋路の邪魔する奴は、ってこともあるし、上でもうちょと
向井支配人と話してくるか」
 清水が、がくっと肩を落とし反論する。
「先輩、その冗談、とっくに終わってますよ。お願いしますからもう止めてください。考えただけで気色悪くて背筋がぞくぞくしてきますから」
「分かった、分かった。女ともやってるみてえだから、両刀使いってわけだ。だけど、課長は、愛するお前を裏切らねえと思うからいいけど、あの女はやめにしておいた方がいいぞ。誰とでも寝る女なんて女房にも恋人にも向かねえ」
 清水はこの一言を聞いて一瞬怒りの表情を見せた。しかし、すぐに肩を落とし、頷いた。
「そんなこと言われなくとも分かってます。でも、何つうか、胸が苦しくって、切ないというか…、分かるでしょう?林田さんだって経験あるでしょう?」
「馬鹿野郎、お前の数十倍数百倍経験している。でも、諦めることだって時には必要なんだ。辛くとも諦める。これが男の美学っつうもんだ。それに何が高鳴る心だ。それは心なんてもんじゃねえ。キンタマだ」
「キ、キンタマ?」
「そう、キンタマ。いいか、そこから十発も抜いてみて、それでも心が高鳴るんなら本物だ。そん時は俺も応援してやる。そうだ、今日あたり行ってみっか、ファッションマッサージへ。本番もあり、どうする」
 元気のいい声が響く。
「ごっつぁんっす」
困惑顔で林田が答える。
「そうくるか。最もまだ初月給もらってないからな、それはそれでしょうがねえ。課長、どうです、一緒に、奢りの割り勘で?」
「そう言われても…」とは答えたものの、相沢の心は決まっていた。「是非ご一緒に」だ。
 今日は無性に女を抱きたかった。君子のことでは欲望を発散したというより、逆に貯め込んでいるとしか思えなかったし、久美子のことでも鬱積した思いが心の底に澱んでいた。だから息せき切って答えた。
「でも、今日は暇だし、やることもないから付き合ってもいいよ」
「あれー珍しいな、課長がそんな所に付き合ってくれるなんて。よし、今日は三人で行きましょう。たまには羽目をはずさねえと、人生の機微にふれることも出来ねえ。そう、商売女との機微、分かりますか?」
「いや、教えてくれ、その機微ってやつを」
「それじゃあ、教えてさしあげます。例えばストリップ。そこに入ったらスケベ心がストリッパーへの思いやりになる。顔が綺麗でも、見惚れて『綺麗だ』なんて呟いちゃいけません。俺の関心はただただあんたの下半身だけという顔をしなければなりません。そのスケベ心をストリッパーが笑う。こうしてストリッパーはお客と五分と五分になれる、わかりますか?」
「まあ、何となく」
「ファッションマッサージでも同じです。私はお金を払うことでしか、女と交渉が持てません、情けない男ですってな顔でお金を払うんです。こういう顔をすると、女も、しょうがねえ、一発でも二発でもやらしてやるか、お金ももらってることだし、って気になるわけです。」
「ほーなるほど、うーん、そういうことか、なるほど」
相沢が何度も頷く。それを横目に林田の舌は滑らかだ。
「君みたいな子が何故こんなことしているの、なんておためごかしのセリフを吐いちゃいけません。だって、相手はそんな人間的な触れあいなんて求めていねえもの」

 その日、三人は一杯引っかけて林田の行きつけの店に繰り出した。相沢は酔って血行が
が良くなっているせいか、どきどきという胸の鼓動を感じながら店の門をくぐった。ひさびさのことで緊張しているのかもしれない。
 待合室でもウイスキーのダブルを注文した。しかし、あの夜のことを思い出した。覚え
ていなければやったことにはならない。運ばれたグラスをちびりちびりとやりながら、林
田がおすすめの源氏名「いすず」の順番を待った。
 待つこと15分、最初に清水がそして林田が消えた。林田は振り返りつつ微笑んだ。その微笑みの真意など気付かず、相沢は照れ笑いを返した。そして相沢だけが残された。胸の鼓動が高まって、下半身がむくむくと起きあがる。

 そしてとうとう相沢の順番がやってきた。案内された部屋に一歩足を踏み入れる。薄いカーテン越しにスタイルの良いシルエットが浮かび上がった時、ほっと安堵のため息を漏らす。かって10センチもあるハイヒールに騙された。足の短い女だった。
 カーテンが開かれ、「どうぞ」という声を聞いた。相沢は気恥ずかしく視線を合わせられず、俯いていた。その視線は、女のそのまっすぐに伸びた脚、黒のふりふりの付いたパンティ、締まったウエスト、ブラジャーからこぼれた乳房、と這うように上っていった。さぞかし、やにさがった顔をしているだろうと自分でも思った。
 目と目があった。お互いあっという声をあげた。女は鵜飼則子だった。





 
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