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愛しのヤクザ

作者:ミジンコ
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第十一章 乱交

 林の退職は、心の一部が切り取られたような痛みを相沢に残した。戦列からいつのまにか消えた戦友を捜すように、広い施設を歩くたびにその影を求める自分に気付き、あらためて林がいないという現実に寂しさを覚えるのだった。
 林はもう客としてさえこの施設に来ることはないだろう。この数ヶ月、針の筵に座るような辛い日々を送っていた。隣のスーパーへの就職の斡旋も拒絶した。ここは、林にとって思い出したくない禁忌とも言える場所になってしまったのだ。
 相沢は、林の優しさ、寛容さ、表裏がなく素直で正直な性格が好きだった。社会に出て初めて出会ったタイプの人間だ。しかし、その性格が過ぎたことがハンディとなった。そこにつけ込む人間は大勢いるのだ。
 林の交代要員として深夜喫茶担当を急募した。時給を上げてようやく応募があった。完璧な夜型人間で、ぴったりの人選だった。しかし、現職を辞めるのに3週間かかり、週1日をハルさんに頼み、残る6日を相沢と林田が交互に受け持つこととなった。
 相沢は週3日の深夜喫茶勤務になるが、むしろ心躍った。それは林がかつて、久美子が泊まる時、必ず深夜喫茶で時間を過ごすと言っていたからだ。お客が入ってこなければ、一発やらしてもらえたかもしんねえ、などと言って林田にこづかれていた。

 相沢は、ここのとこと久美子に会う機会に恵まれなかったが、週3日となれば会えそうな気がしたのだ。相沢はもう二度と手を出すつもりはなかったが、心の整理がしたかった。あまりにも唐突な出会いと別れ。残滓のような中途半端な恋心が切なさを増幅させていた。
 しかし、相沢の期待に反し、初日も二日目も久美子は現れなかった。三日目、そんな時に限って招かれざる客が訪れるものなのである。夜の1時を回った頃、一人の若者が喫茶に入ってきた。他にお客はいない。

 相沢はその若者に見覚えがあった。どこかで会っている。そう思った。その若者も同じように感じたらしく、何度も小首を傾げていた。相沢が注文の生ビールと枝豆を運んで、テーブルに置く間も、若者は相沢見詰めている。だが思い出せないようだ。
 若者がジョッキを口に運び、飲もうとした瞬間、思い出して「あれっ」と声を発し、相沢を指さした。そして立ち上がって言った。
「どっかで見たことがあると思っていたら、お前はあの時のヤクザじゃねえか。何でヤクザがこんな所でウエイターなんてやってんだよ」
 相沢はにやにやしながら答えた。
「ウエイターじゃない、マスターって呼べ、マスターって。それにあの時、俺たちはヤクザなんて一言も言ってないぜ。お前等がヤクザだって勝手に思いこんだだけだ」
「何言ってやがる、この野郎、ふざけやがって、指だってちゃんとあるじゃねえか」
若者は騙されたことに腹をたてているようだが、あのことは失念しているらしい。思い出させる必要がある。
「ところで、ジャガーの持ち主については仲間に聞いてみたか?」
若者は怒りの顔に、ふと不安を滲ませ、ぷいと横を向いて答えた。
「ああ、聞いたよ…」
「じゃあ俺たちの言ったことが本当だって分かっただろう。だとしたら俺たちに感謝してしかるべきだ。もし、お嬢さんに手をだしていたら、君はこの世に存在しないか、或いは身体のどっかがなくなっていたはずだ」
「何も暴力を振るおうなんて思ってもいなかった。ただ脅してやろうと思っただけだ」
相沢が小首を傾げると。顔を引きつらせながら言った。
「脅すっていったって、ただお話し合いをして、何故僕らが怒っていたか、知ってもらおうと思っただけですよ。いやだなー、ところで、マ、マ、マスターはお嬢さんと、ど、どうゆうご関係なんですか?」
「まあ、お友達ってところかな、もっともあの後、喧嘩してしまったけどね」
「ああ、そうなんですか。ここに、よ、よく来るんで?」
「ああ…」
相沢は言葉を飲んだ。久美子がこっちにやって来るのが見えたからだ。既に帰り支度を整えている。いつ入店したのか気が付かなかった。若者に向かって言った。
「噂をすれば影だ。この店に今から来るつもりらしい」
若者は後ろを振り返り、慌てて顔を伏せた。咄嗟に立ち上がり隠れようとあちこちうろうろしていたが、諦めて相沢に言う。
「あの時のことは謝ろうと思ってます。あっち向いて隅の方でビール飲んでますから、適当な時に声を掛けてください」
ビールと枝豆を持って別の席に移った。

 久美子が入り口に佇み笑顔を向けている。相沢もそれに応えた。久美子がゆっくりとした足取りで相沢に近づいて来る。二人はじっと見つめ合った。相沢の胸が苦しくなる。久美子がカウンターに席をとった。やはり愛してしまったようだ、ヤクザから奪ってしまおう、とちらりと思った。久美子が口を開いた。
「生ビールを二つ。相沢さん、よかったら乾杯してくれる?」
「えっ、何に?」
「私の結婚に。日取りが決まったの。全ての手配を終えたわ」
何も答えず、マグカップを二つつかんだ。深い悲しみとかすかな安堵、複雑な思いが相沢の頭を空白にしていた。
「相沢さん、ビール、ビール」
久美子の声に驚いて手元を見ると、ジョッキからビールが溢れている。かなり動揺していたのだ。でも、心を切り替えた。どこかほっとする気持ちがあるのは確かなのだ。ヤクザさんからその婚約者を奪うなど出来っこないのだから。
 相沢は無理矢理笑顔をつくると、ジョッキを久美子に手渡した。そして言った。
「おめでとう、心から祝福するよ。本当にお目でとう」
そう言ってジョッキを合わせると微笑んだ。久美子も伏し目がちに笑顔で答えた。
「ずっと迷っていたの。でもあの時、決心したの」
そう言うと、言葉を詰まらせ、目を潤ませた。「あの時」とは、高台での一時のことだ。
 あの一瞬一瞬の思い。二人の息づかい、言葉、夜景、全てが蘇る。久美子が、ふーっとため息をつき、話題を変えた。
「相沢さんの勤務日を林田君に教えてもらったの。だいぶ迷ったけど、今日、やっと決心し来たわ。あんな事があったのに、何もなかったみたいに接するのって、思ったより辛いね。そう出来ると思ってた私って、まだ子供だったんだわ。本当に馬鹿みたい」
 相沢は俺もそうだと叫びたかった。しかし、笑顔で結婚を祝福した男のセリフではない。相沢はビールを一気に飲み干した。
「でも、私って、ずっと子供だったような気がする。いつだって現実から逃れようと夢ばかり追いかけていた。でも、林田君のあの一言は痛烈だった。彼、相沢さんに期待しても無駄だって言ったわ」
「ああ、僕も聞いていた…、何を言っているのか意味が分からなかった」
「私、男の人に家のことを隠したことないの。だから恋愛なんて始まりもしなかった。でも、相沢さんは違った。本当に嬉しかった。でも、そうなってみると、思いのほか苦しくて切なくて、死にそうになっちゃった」
「実を言うと、僕もそうだった」
 卒然と久美子の目からはらはらと涙が落ちる。相沢はその涙をじっと見詰めていた。そして言った。
「僕なんて君が思っているような男じゃない。僕は狡くて臆病な人間だ。君は僕の心の奥底なんて見えない。見えないからそんな風に言うんだ。君は僕を過大評価しているだけなんだ」
「いいえ、違うわ。今まであんなふうにしてくれた人、いなかった。家に帰ってもその余韻が残っていてなかなか眠れなかった。何度も思い出して、一瞬、一瞬を思い出して、心に焼き付けて、幸せを噛みしめた。家のことも知ってて、婚約のことまで知ってて、それでも抱いてくれた。本当に嬉しかった」
「違う、それは違うんだ。ただ、僕は自制心がないだけなんだ。君があまりに可愛くって自分が押さえられなかった。ただそれだけだ」
「いいの、それでもいいのよ。私にとって忘れられない思い出ができたんですもの。でも、それ以上のことを相沢さんに望むのは酷だってことも分かっているの。だから、だから、延ばし延ばしにしてきた結婚の日取りを決めたわ。もう後には戻れない。後に戻るなんて、この世界では許されないから。だから…今日…お別れに来たの」
大粒の涙が頬をつたう。胸を震わせ、しゃくり上げながら、微笑もうとしている。その顔はただ歪んだだけだ。そして声は殆ど泣き声になっていた。
「それじゃあ、さようなら、忘れない、あなたのこと」
言い終わると、きっぱりと席を立った。くるりと背を向け歩き出した。相沢は堪えきれずに声を掛けた。
「久美子さん」
久美子の背中がぴくんと反応して、歩みを止めた。相沢は心を込め別れの言葉を贈った。
「俺も忘れない。君のことは一生忘れない。墓場まで持ってゆく」
振り返りもせず、肩を震わせて歩いてゆく。振り返らないと決めていたようだ。相沢はその後ろ姿をじっと見詰めた。

 頬に一滴、涙がつたう。これで良かったのだという思いと、愛する者を失った悲しみが交互に訪れる。諦念という言葉が浮かんだ。諦めなければならないことは分かっていた。だとしたら、この辛さに堪えるしかないのだ。
 くっくっくという声が聞こえた。声の方を見ると、若者の肩が上下に揺れている。若者が惨めな自分を笑っている。相沢はその悲しみを若者におもいっきりぶつけた。
「おい、何がおかしい、女に振られたのが、そんなにおかしいか、この野郎。笑うんじゃねえ」
若者が怒鳴り返した。
「笑ってなんていねえよ。こんなことで笑える奴なんている訳ねえよ」
振り返った若者の目には涙が溢れていた。もらい泣きしていたのだ。ふん、というように後ろを向くと、ビールを飲み干した。そしてガラス越しに去りゆく久美子を目で追っている。手の甲で涙を拭う。久美子の後姿がホールから消えた。
 相沢は棚からウイスキーの瓶を取り出し、カウンターにグラスを二つ置くと、どくどくと注いだ。そして若者に声を掛けた。
「おい、若者、こっちに来いよ。ちょっと付き合ってくれ。飲まずにはいられない」
若者はカウンターの席につくと、おずおずと口を開いた。
「マスター、何て言ったらいいのか。あんまりにも可哀想で。マスターもそうだけど、あの女の心情を思うと…」
「何も言うな。同情の言葉も、慰みも、何も言うな。ただ飲めばいい。それより紹介し損ねて悪かった。あんまり急な出来事で、面食らっちまった。さあ、表の看板はずして来てくれ。今日はもう閉店休業だ」
「あの、俺、いや、僕、清水っていいます。若者じゃなくて清水って呼んでください」
「分かった、俺は相沢だ、よろしく。それじゃ、清水、看板頼む」
若者が立ち上がって外の看板をはずしにゆく。相沢はウイスキーを満たしたグラスを傾けた。ようやく飲み終えると熱い息を吐いた。頭がくらくらするが、まだ足りない。瓶を引き寄せ、グラスを満たす。今度は手首のスナップをきかせて喉に流し込んだ。

 翌日、ずきずきという頭痛で目覚めた。目に映る天井のシミを見て、いつもの六畳の宿直室だと気付いた。辺りを見回し、薄明かりに浮かび上がった尻を見いだし、度肝を抜かれた。期待に胸を躍らせたが、すね毛が濃く男のものだと分かってうな垂れる。
 記憶の糸をたぐり寄せ、その尻があの若者、清水のものだとすぐに合点がゆく。まさか、と思って尻の穴に意識を集中するが痛みはない。ふと、口の中がねばねばしているのに気付いた。まさか飲んだ?わーっと心の中で叫び、外に駆けだした。流しに行って蛇口をひねると水流を口に受け、がぶがぶと口をゆすいだ。
 まさか、まさかと焦りながら記憶の糸を手繰るが何も思い出せない。むしろ思い出さない方が幸せなのかもしれないなどと考えながら、部屋に戻った。清水は尻をだして高いびきだ。ふと、その隣に小さな足が出ているのに気付いた。
 布団から乱れた長い髪がこぼれている。布団をそっと剥がした。女だ。可愛い女の寝顔が目に飛び込んできた。よくよく見ると赤城君子だ。中途採用で本部の総務部に配属予定の事務員だった。一週間ほど前から研修に来ていたのだ。
 その目がうっすらと開いた。その目が輝いてにこっと笑った。そして言ったのだ。
「課長、もう、起きてたの。清水君は?」
相沢が君子の隣を指さした。君子はすぐに気付いて、隣に寝ている清水の唇に長々とキスをする。すると清水が「うーん」と声を発して背中を向けた。
 君子が半身を起こした。その瞬間、ぽろりと布団が落ちて形の良い乳房がぽろんと顔をだした。相沢が固唾を飲む。にーっと笑って、君子が微笑む。
「昨日は楽しかったー。課長ってすごいんだもの。何回も行っちゃった」
その時、がーんと後頭部を金槌で叩かれたような衝撃に見舞われた。何も覚えていないのだ。相沢はどうしたらもう一度お相手願えるか考えた。思い出せないのなら、やった意味がない、いや、やったことにならない。だからもう一度、と思うのだが、さて、さて。
 いきなり抱きつくのも変だし、もう一発なんて林田みたいに言える訳もない。こんな場面でどう対処したらいいのかさっぱり分からない。立ちつくしている間に、清水が目覚めた。相沢の目の前が真っ暗になった。清水がごそごそと起き出して、
「あれっ、二人とももう起きてたんですか?はやいですね」
と言って大欠伸。ふと、何かを思いだしたらしく、慌てて聞いた。
「課長、本当にここで働いていいんですね。高校中退でもかまわないのですね?」
下半身をぱんぱんに張ったまま答えた。
「昨日、もし、そう言ったのなら、武士に二言はない、雇う。で、俺、どこが募集してるって言ってた?」
「風呂場担当って言ってました。女風呂覗き放題って。何か楽しそうな職場だなー。よし、ばりばり働くぞー。お袋、びっくりするだろうなー、俺が一流企業の社員になったなんて聞いたら」
「おいおい、ここは子会社だよ、一流企業っていうわけじゃない」
「どっちにしろ一緒ですよ、親会社だろうが子会社だろうが」
相沢は苦笑いして頷いた。酔っていても、仕事に関してはまともだったようだ。八王子祭りの後、上田が一身上の都合で辞めた。よっぽど恐ろしかったのだろう。それで募集をかけていたのだ。清水ならりっぱに勤めてくれるだろう。

 その時、食堂で数人の女達の笑い声が聞こえた。相沢は焦って時計を見ると10時半である。早番のパートさん達の休憩時間である。おい、と二人に声をかけ、とりあえず君子を押入に入れて、慌てて店のお仕着せを着込んだ。
 パートさん達の休み時間は15分。彼女たちが部屋を出たら、誰にも見つからずに抜け出せと君子に指示し、清水と一緒に宿直室を出た。宴会場担当のおばさんが二人に声をかけた。
「あれま、課長さん、また泊まりかい。あれ、いやだよー、課長。若い男を連れ込んじゃったりして、でも、なかなか可愛い子じゃない」
相沢も冗談で答えた。
「馬鹿言っているんじゃないの。男は趣味じゃない。こう見えても、女の方が好きなんだから」
「また、照れちゃって、顔が赤いよ」
夕べの酒が残っているのだから赤いに決まっている。なのに、戯れ言を真に受けて清水がやり返した。
「馬鹿野郎。そんなんじゃないわい」
肩を怒らせ歩いてゆく清水の後ろ姿をみて、相沢は目を覆った。店のお仕着である半ズボンの背中から君子の赤いスキャンティが垂れている。おばさんたちは顔を見合わせ、次いであきれ顔で相沢に視線を走らせる。ひそひそという声が後ろから聞こえた。
 
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