愛しのヤクザ
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第二章 肩代わり
既に20時を過ぎた。交渉は長引いている。相沢は事務所内で苛苛しながら向井支配人を待っていた。少し前、フロントの清水郁子が血相を変えて、向井を呼びに来た。また例の奴が来たのだ。ここ数日、地元のヤクザがマッチの売り込みに何度も訪れている。
名入りのマッチ。通常の価格の何倍もする。その小指のないセールスマンは町の有名人で、傷害事件を起こし服役していたが、つい最近出所したばかりだという。向井の話によると、その男は非常に紳士的で一見しただけではヤクザとは思えないのだそうだ。
これまでのところ、向井のご免なさい攻勢が功を奏し、何とか本部の通達をクリアーしている。そのご免なさい攻勢とは、「ご免なさい」を矢継ぎ早に繰り返し、脅迫の出鼻を挫き、相手の言葉を遮る手法である。これは向井が編み出し、自ら命名した。
本部の通達とは、ヤクザとは一切関係を持つなというもので、「全く本部なんて現場の苦労など分かっていない」などと、相沢は自分が本部の人間であることを忘れて思わず呟いたものだ。こうして身近に接してみて初めて、ヤクザの一人一人がノルマを課せられたセールスマンだということを理解した。今回のように名入りマッチという商品があり、市価より高いということに目をつぶれば、おつき合いしても良いのでは?と思ったりする。
実際に、向井は家にまで電話をかけてきたヤクザと、半年も先の正月用の門松を購入する約束をしたという。
「あの強面の人が、頼むよ、今年だけでもいいから、って言われたら断れないよ。今年だけで終わらないとは思うけど」
とは向井の言だが、売る商品があるというのは、まっとうなヤクザということになるのかもしれない。つまり原価率か低ければ低いほど、恐喝に近づくわけである。
暫くして、向井が戻ってきた。相沢はつかつかと向井に近付き声をかけた。
「ど、どうでした」
「まあ、今日が最後になるだろうね。どうしても金を取れないということを分からせたから。暫くは安心してられる」
「ああ、そう、良かった。本当にご苦労様です」
「でも、今日は焦っちゃったよ。あの紳士的な金子さんが、本性を見せたからね。さすがに、僕もぶるったね」
「どんなふうに、本性をみせたんですか?」
「それがね、僕達が良く行く飲み屋があるでしょう。そこに行くときには後ろに注意しろだってさ。びっくりしっちゃったよ。」
二人が健康ランドを抜け出し、時々行く近所の飲み屋のことだ。まさか、後ろからグサリなんていうことはないにしろ、その一言で精神的に追い詰められる。まさにヤクザ対策は気骨が折れる仕事である。相沢は暗澹とした思いに捕らわれた。
向井は、最初の一ヶ月が肝心とばかり、オープン以来ヤクザ対策のために毎日泊り込んでいる。向井は、ヤクザに対しては毅然とした態度さえとっていれば、いずれ諦めると言う。相沢には、あの「ごめんなさい」攻勢のどこが毅然としているのかよく分からないが、確かにその効果は出始めてきているのだ。
今日、相沢は、密かに決意していた。向井の負担を少しでも軽減してあげようと。それはある出来事を目の当たりにして、そうせざるを得ないと感じたのだ。それは、昨日の朝のことだ。相沢が出勤すると、向井は長椅子で眠っていた。大きな赤ら顔、その目の下には隈が浮き出ている。40の半ばを過ぎ、髪は半白髪で、この一ヶ月でその白髪が増えたような気がした。
そこに風呂場担当の岩井が例によって駆け込んできたのだ。刺青客の闖入である。向井は岩井の「支配人」という緊迫した呼びかけに、すぐさま反応し、かっと目を開くともう駆け出していた。寝起きのためか足がもつれ、出口でその太った体がこてんと転んだ。
起き上がり小法師のようにころりと立ち上がったのはいいが、運悪く清水郁子がドアを開けたのだ。向井はドアに顔をしこたまぶつけて尻餅をついた。「キャー、ご免なさい」と言う郁子を無視して、向井はまた走り出した。
相沢も後を追った。ロッカー室に入ると、半裸の刺青客に入場料の入った封筒を差し出し、ご免なさい攻勢をかけている向井の姿が目に飛び込んできた。その姿は陰惨を極めた。眼鏡の片方のレンズにひびが入り、鼻血は口元まで流れている。陰惨と滑稽は紙一重だ。
後から駆けつけた林は向井の顔を指差しながら声を上げて笑っている。相沢も何かおかしくて哀しくて、でも、込み上げる笑いを必死で抑えた。刺青客もさすがにすごむ気力を削がれたようだ。向井のその必死さを目の当たりにして、相沢は決心したのだ。本部も出先も糞もない。同じ目標を持つ仲間として、やるべきことをやろうと。
向井は支配人席で船を漕ぎはじめている。今時流行らない太目のクロ縁の眼鏡は、今朝、向井の奥さんが届けたものだ。その奥さんが美人なのには驚いたが、向井はスーパーに勤める前は腕っこきの証券マンで、飲む打つ買うのヤクザな生活をしていたと言う。正に人に歴史ありというわけである。
相沢は支配人の机に腰をかけ、向井の肩をゆすった。向井は目をぱちくりさせて相沢を見詰める。相沢がその決意を胸に話しかけた。
「支配人、今日は家に帰って下さい。支配人に倒れられたら元も子もないですから。それから、明日、明後日は暇になると思うので休んで下さい。副支配人も漸く一人前になってきたところですから、彼に任せてみるのもいいでしょう」
鎌田副支配人は柔道5段の猛者で、ガタイもでかい。それが採用の決め手になったが、いざオープンしてみればどこか頼りなく、今一である。そのことは向井も感じているはずだが、しばしの沈黙の後、向井は、にっこりと笑って答えた。
「課長のお言葉に甘えよう。ここ3週間、昔のつもりでやってきたけど、どうも調子が違う。年なんだろうね。昨日なんて、昼飯食って、ちょっとうとうとしていたと思ったら、もう夕方なんで吃驚したよ。兎に角、課長のせっかくのお言葉だから」
「是非そうして下さい。もう年なんだから無理はできませんよ。今日はこれから帰って、あの美人の奥さんと一杯やって下さい」
「美人だなんて…。でも、女房が聞いたら喜ぶ。伝えておくよ」
「それから、今日は僕の番じゃないけど、鎌田副支配人も帰ったし、僕が泊まることにします。それにハヤシコンビも来ると言っていますから」
「えっ、林が。しかし、林はタフだね。あいつ昨日も泊まらなかった?」
確かに林はタフなのである。体は小さく細いが、元フェザー級のボクサーで、ここに入る以前は24時間営業の激安雑貨店の店長だった。その前は本屋を開業して潰している。斜陽産業とは知らず投資してしまったと笑いながら話していた。まだ、借金があるらしい。
もう一人、コンビの片割れ、林田は有名なスチール家具メーカーの西関東支店の課長だったが、上司と喧嘩して辞め、ここに就職が決まるまでの6ヶ月間、出勤する振りをして、パチンコで稼いでいたというから凄い。林田は既婚者で子供が二人いる。
今日、この二人が泊まりを志願した魂胆は見え見えだった。鵜飼則子が深夜番なのである。二人は則子に何かとちょっかいを出しているようだ。その則子もそろそろ裏のフロントに入るはずである。
向井は、何だかんだと仕事を見つけ、結局帰り支度をして事務所に現れたのは22時を過ぎた頃だ。相沢はハヤシコンビとビールを飲み、向井の話題で盛り上がっていた。向井は椅子にどっかりと座ると話に加わった。
「そんなに、おかしかった?昨日の俺の顔。まったく人の気も知らないで、林は転げまわって笑っているし、相沢課長は笑いを噛み殺しているし。終いにはあの刺青までにやにやして引き上げていった」
林田が残念そうに顔で言った。
「俺も見たかったなー、支配人のその顔。しっかり脳裏に焼き付けて、時々取り出してはほくそえむの。本当に支配人は何をやっても絵になるんだから」
そこへ鵜飼則子が入り口から顔を出し、声をかけてきた。
「わー、いいな、男ばっか、ビール飲んで。私も飲みたい」
向井が答えた。
「フロント嬢が酒臭くてどうするの。コーラならいいよ。冷蔵庫にあるから飲んだら。少し休憩して」
則子も仲間に加わった。ハヤシコンビの目が一際輝く。則子は男達の関心の的だ。美人でスタイルがよく、しかも若い割りに妙に度胸が据わっているのである。相沢の目撃したシーンはまさにそんな則子の一面を垣間見るものであった。
それは一週間前のことだ。深夜、酔っ払いが入場してきた。則子は、泥酔と判断し入浴はご遠慮下さいと言ったらしい。酔っ払いはこれに激昂した。掴みかからんばかりに怒鳴り散らし、絡んだのだ。相沢は階段を下りる途中、則子の歯切れのいい啖呵を耳にした。
「おっさん、いい加減におし。女だと思って、甘く見るんじゃないよ。さあ、殴れるものなら、殴ってみな。えっ、どうしたのよ。早く殴りなよ。」
男に顔を近付けるだけ近付け、睨みつけ、そして続けた。
「ふん、どうしたのさ。さっきの元気はどこに行ったんだい。殴る勇気もないって言うんか?えー。それだったら、最初から絡んだりするんじゃないよ」
その時、相沢が駆けつけ、お客にひた謝りして事のなきをえたのだ。則子はお帰り頂くことになったそのお客に、けろっとして「またどうぞ」などと、にこにこして挨拶をしていた。
その後、則子が相沢に言った言葉がふるっている。近すぎる相手を殴るのは技術がいる。技術のある奴は、女の壊れそうな顔を殴るには勇気がいると言うのである。相沢は空手をやっていたから、その意味がよく分かる。
則子は24歳、和歌山県出身で、東京の片田舎で一人住まい。不思議な雰囲気を漂わせている。林田が、さっきから則子の過去を聞きだそうとしていた。
「本当のことを話せば楽になるんだから、早くゲロしなさいって。何で和歌山から逃げてきたん?和歌山の片田舎で居ずらくなるようなこと、しでかしたんじゃねえの?」
「逃げてきたなんて人聞きがわるい。何も理由なんてないわ。それに、私は貴方達が想像しているような不良でもなんでもないしー…」
今度は林だ。
「あやしいな、絶対何かある。もし東京に憧れたんなら、同じ水商売だし、原宿と六本木とかで働いて、そんで、あんなぼろアパートじゃなくって、洒落たマンションかなんかに住むってのが、田舎出の女の思考パターンだよ。」
「あら、何でぼろアパートって知っているの?」
こう切り返され、林は耳まで真っ赤になって困惑の表情だ。それに気付いた林田は林の頭を小突いた。
「この野郎、家までつけやがったな。きったねえ。抜け駆けしやがって」
「そんなことしてねえよ、つけるだなんて。俺はただ、住所録を調べて休みの日に行ってみただけだよ」
しゃあしゃあと本当のことを話す林に、林田は
「まったくこいつは、隅に置けないんだから。ちぃっちゃいなりして、すけべ心だけはでっかいんだ。それで前の奥さんも逃げ出したんだろう。子供も捨てて」
「そんなことねえよ。本屋潰して借金取りが押しかけて来たんで逃げ出したんだよ」
二人のやり取りをにやにやと聞いていた向井が割って入った。
「林田君。抜け駆けって言うけど、君には奥さんがいるだろう。少なくとも立候補出来るのは相沢課長と林君だ。君には関係ないと思うけど」
人差し指を左右に振り、チッチッチと舌を鳴らし、林田が答えた。
「支配人は古すぎます。時代は刻一刻と変化してんですから、支配人の時代のモラルを僕ら若人に押し付けようとしても無駄と言うものです。今の時代はですねえ、若い女が妻子ある重みのある男に体を投げ出す時代なんですよ。だからこうして財布の中に……」
と言いながら財布の中からコンドームを取り出して見せた。みな大笑いで、今度は林が林田の頭を小突いた。
「この体の何処に、その重みってやつがあるって言うんだ。何処にも見あたらねえよ。重みというより、単なるずうずうしさじゃねえの」
そこへ石塚調理長が入ってきた。石塚は仕事を終えると一風呂浴び必ず事務所に顔を出す。
林田の笑い声を聞きつけ、石塚が仲間に加わる。
「おい、おい、林田君。君はまた、すけべ話をしてるんだろう。調理場に来ては、すけべ話、風呂に入ればまた、すけべ話、ほかにないのかね、話題というものが」
林田が言い返す。
「何を仰いますか、調理長。僕の話を一番喜んでくれるのは調理長じゃないですか」
厨房の二番手、内村に言わせると、最近、調理長はサラリーマンのような言葉使いに凝っているらしい。内村は、調理長が仕入れ業者に「何々君」と君付けで呼ぶたびに、背筋がぞくぞくすると言う。
調理長は、体つきも何も、向井と正反対で、細身で上背があり、なかなかの二枚目で、鏡の中の自分に見惚れることがあるとぬけぬけと言う。向井とは同じ年で気が合うようだ。笑うと目が一本の線になってしまう。その笑顔を見せながら調理長が切り出した。
「話は変るけど、課長、あの山本統括事業本部長、何とかならない。週に一度来て、個室に篭って何しているか知らないけど、本部長用の昼飯を特別に作らせるっていうのは、おかしいよ。あの秘書みたいな女が取りに来るんだ。まだかって顔して。みんなと同じ仕出し弁当にしてくれないかな」
相沢は困惑顔で答えた。
「秘書じゃなくて、彼女は経理課長です。まあ、実質秘書みたいなもんですけど。でも、しかたないんですよ。あの人はレストランや喫茶の直轄事業の統括で、この事業部の部長も兼ねています。若いのに役員候補だそうです。確か支配人より2歳下ですよね」
向井もこの年下の上司が嫌いらしい。
「ここは本部じゃない。ばりばりの現場、しかも健康ランドだ。昼時、厨房は一番忙しいのに、何考えているのやら。でも、さすがに僕も言いずらい。でも、不思議だよね。あの個室で何をやっているんだろう」
林田がこともなげに結論を下す。
「やっぱり、あれじゃないですか。男が一人でやると言えば、マス。これしかないでしょう。でも、お似合いですよね、あの暗い顔して、マスかいている姿」
がはは、という笑い声でこの話はちょんとなったが、確かに不思議なのである。山本統括事業本部長の個室は本来フロント嬢の休憩所だったが、工事の途中で自分の個室に作り変えてしまった。鍵を掛けて誰も入れないようにしてある。
しかし、相沢はふかふかなソファーが運び込まれるのを見て、密かに合鍵を作らせた。仮眠所にはもてこいなのだ。フロントのそばなので何かあった場合、すぐ対処できる。向井にもそこで仮眠を取るよう勧めたが、さすがに怖いらしく使っていない。
この個室にはコピーファックス兼用機、応接、そして狭い部屋には不釣合いなほど豪華な机がでんとすえられていた。相沢も山本が何をしているのかちょっと内部を探ってみたのだ。しかし、机の引出から棚の扉まで全て鍵がかけられていた。
また、調理長の言った秘書こと、石田経理課長は、現地採用の社員だが、あれよあれよという間に山本に取り入り、経理課長のポストを射とめ、山本の後ろ盾をいいことに女帝のごとく振舞っている。相沢より二歳年上、二人の子持ちである。
「さて、休憩終了。京子ちゃんと代わるわね」
則子が立ち上がりフロントに消えると、向井と石塚も連れ立って帰っていった。林はパソコンのスイッチを入れて給与計算プログラムを立ち上げている。相沢と林田は暫く話していたが、それも飽きてそれぞれ夜の見回りに出かけた。
既に23時を過ぎ、日曜の深夜ということもあり、さすがに閑散としている。朝の4時まで開いている喫茶店では何人かの若者がビールを飲んでいるが、彼ら以外は皆、休憩室で寝静まっている。
隣のスーパーの社員達もしばしばここを利用する。家に帰らず健康ランドに泊まって、ゆっくり飲み、翌日出勤するのだ。スーパーの店長、片桐は単身赴任なので、しょっちゅう泊まる。その片桐はまだ来ていない。明日の売り出しの準備がまだ終わらないのだろう。
何が何やら分からぬまま、あたふたと時はすぎてゆく。降格人事の屈辱を感じる暇もないくらいの現実が目の前にあり、それを片付けるとまた別の現実が待ち受けている。唯一まだ体験していないのが本物のヤクザとの対決だ。
刺青客の対応は何度か経験したが、さほどの騒動にはならなかった。今日からの二日間、頼りの向井支配人がいない。鎌田副支配人はトラブルを避けて通ろうとしている。自分がしっかりしなければならない。
夜は深深と更けてゆき、不気味なほど静まり返っている。何事もなく過ぎることを心の中で念じながら、林田のいるであろうゲームセンターへと足を向けた。遠くで「いらっしゃいませ」という則子の声が響く。聞き耳を立てるが、その後の則子の声は聞こえてこない。不安が脳裏をかすめ、心臓の鼓動が内側からどきんと胸を打った。
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