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シンクロニシティ10

作者:ミジンコ
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最終章

 三人はゆっくりと倉庫に近付いていった。倉庫の鉄の扉はぴったりと閉じられている。榊原が扉に忍び寄り、耳をあてたが、何も聞こえない。石田に囁く。
「よし、韮沢に電話をいれてくれ。ここの住所を知らせるんだ。」
石田がリダイヤルを押す。相手はすぐに出た。息せき切って話し出した。
「地下室が開いて、二人を救出した。元気だ。洋介君の遺体も発見された。そ、そ、それに小野寺親子の身柄も保護した。」
「よし、俺達が言ったことが真実だとわかっただろう。」
「ああ、方面本部長が北のスパイだってこと以外はな。」
「まだ、そんなことを言っているのか。兎に角、」
 突然クラクションの音が響いた。石田が振り向くと、白のクラウンが入ってくる。運転する男と目があった。初老の学者タイプの男だ。再びクラクションが鳴らされた。榊原が叫んだ、「やばい逃げろ。」鉄の扉が内側から開き始める。
 三人は倉庫と塀の路地に逃げ込んだ。塀にそって30メートルほど走った時だ。後ろから銃声が響いた。石田の前を走っていた親父さんが倒れた。石田が駆けより、親父さんの右手に握られた銃を取り、振り向きざま撃ち返した。親父さんは起きあがろうとするが、脛の横を打ち抜かれおり、がくっと膝を折った。石田が声を張り上げた。
「親父さん、私の肩に掴まって下さい。」
榊原も引き返してきて、銃を構えている。親父さんが叫んだ。
「ワシに構うな。二人で行け。」
榊原が銃を発射した。
「奴等だってこんな爺さんをやたら殺したりせん。大丈夫だ。行け。」
榊原が叫んだ。
「石田、石田、その先に階段がある。倉庫の二階に上がれる。そこから下に通じているかもしれん。親父の言うとおりにしよう。大丈夫だ。親父、身を横たえていろ。」
榊原が駆け出した。石田も、「よしっ」と言ってそれに続いた。
 二人は階段を駆け上がった。鉄のドアがある。ノブを回すと鍵がかかっている。榊原がポケットからキーホルダーを取り出し、金属の細い棒を鍵穴にねじ込んで回し始めた。
「石田、下を見張ってくれ。」
階段の下に男の姿が現れた。石田は引き金を引いた。銃声が響き、男が仰け反って倒れた。
「石田、開いたぞ。」
そう言ってドアを開けた。石田が先に入った。中に入った途端、男と鉢合わせになった。殆どぶつかる寸前だった。男は二階の物音に気付き、階段を上がってきたのだ。石田は男の鳩尾を銃身で刺すように突いた。
 男は持っていた銃を床に落とし、胸を押さえて屈み込む。階段の途中で銃を構える男が見えた。咄嗟に屈みこむ男の肩をつかんで立たせると、階段の男めがけて押しやった。
 二人の男が折り重なるようにして階段下まで転げおちた。一斉に銃弾が二人めがけて発射された。二人は床に伏せた。床の幅は3メートル。鉄の手摺が倉庫を一周してる。幸い階段は一つだ。
 石田は後戻りして、鉄のドアの錠前を閉めた。階段下に人の気配がする。二人の男が息を吹き返し、様子を覗っているのだ。下で誰かが叫んだ。
「おい、爺をひっ捕らえた。顔を出して見るんだ。」
榊原が手摺の間から下を見ると、飯島が親父さんの禿げ頭に銃を突きつけている。親父が叫んだ。
「成人、言うことを聞いちゃいかん。ワシは命などこれっぽっちも惜しくない。ここで死ねれば本望だ。絶対に言うことを聞くな。」
飯島が親父をこずいて怒鳴った。
「おい、榊原、俺にそれが出来ないと思ったら大間違いだ。俺は人殺しなどなんとも思わん。いいか、これは脅しじゃない。」
「成人、わしは母さんが死んでからというもの生きる屍になってしまった。母さんと旅をしたかったんだ。だから位牌を持って旅を続けてきた。」
がつんという鈍い音がした。飯島が叫んだ。
「この後に及んで、ホームドラマやってんじゃねえ、この糞爺が。」
「いてててて、酷いことしやがる。いてててて、せっかくいいところだったのに。ててて。」
「威勢のいいこと言っていたわりに、だらしねえ。」
親父さんが呟いた。
「ワシは、命など惜しくないが、痛いのは嫌いなんだ。」
這いつくばる親父に向けて飯島は銃を向けている。その時、大型バンの横の引き戸が開かれた。高嶋方面本部長が降り立った。
「静かにしろ、飯島。先生が怖がっている。あと5分待て、先生を送り出してから片をつければいい。二階のドアは見張りをつけてあるのか。」
飯島が答えて言う。
「ええ、大丈夫です。兎に角、今しばらくは静かにしていましょう。」
高嶋は、よし、と言って、また車に戻った。車の陰に、石川警部が隠れているのが見える。
石田がジャケットの左ポケットから携帯を取りだし耳に押し当てた。
「おーい、おーい。」という韮沢の間の抜けた声が聞こえてきた。これまでの緊迫した状況をつぶさに聞いていたはずで、何度も呼びかけてきたに違いない。
「おい、どんなに状況が緊迫しているか分かったか。」
突然の反応に驚いて、韮沢がどもりながら答えた。
「わわわ、分かった、分かった。すすす、すぐに緊急手配する。パトカーを急行させる。住所を言ってくれ。」
住所と倉庫名を言って、石田が言った。
「大至急だ。頼む。それから、テープは回っているか。」
「ああ、回しっぱなしだ。」
「そのまま聞いていてくれ。」
石田が下に向かって怒鳴った。
「おい、飯島、何故、洋介君を殺した。」
「殺したのは、俺じゃねえ。そんなこと分かるか。」
石田が声を押し殺し、韮沢に話しかけた。
「どうだ、今の会話が聞こえたか。」
「音は悪いが、何とか聞こえる。」
「分かった。兎に角、ボリュームを上げて聞いておいてくれ。」
こういうと、榊原に目配せした。石田の言葉を聞いて、榊原はすぐに理解した。いやに明瞭な言葉使いで怒鳴った。
「おい、石川、石川警部。何故瀬川と坂本を殺した。何故なんだ。」
しばら時間を置いて石川が反応した。石田は携帯を手摺の端まで持っていった。
「いろいろとあってな、一言では言えん。まあ、生きるためだ。」
「声が小さい。ちっとも聞こえん。」
石川が怒鳴った。
「しかたがなかったんだ。こいつらに脅された。やるしかなかった。」
別の声が聞こえた。
「おい、榊原、もうちょっとだ。もうちょっとで、貴様の死に顔が拝める。俺が誰だか分かるか。」
「笹岡さんか。惚けやがって。」
「ふん、もう少し俺に食らいついていたら、瀬川と坂本は死なずに済んだ。榊原、お前さん、刑事としては失格だ。」
「うるせー、いつか敵は取る。それより飯島、何故、瀬川と坂本を殺した。」
飯島だけは隠れることもなく、うずくまる親父さんに銃を向けて立っている。その薄い唇が開かれた。
「目障りだったのよ。あのマンションの地下は倉庫だ。1階のお前等が見張っていた部屋の裏が出入り口になっていた。北から大量のブツが入荷したんだ。」
「なるほど、そういうわけか。」
「そうだ、坂本が一緒だったのはこっちにとって一石二鳥だった。本命はあくまでもお前さんだった。お前は知り過ぎたんだ。DVDを含めてな。ところで、おい、銃の弾は何発残っている。こっちにはいくらでもある。もう少しの辛抱だ。もう少しで貴様を地獄に送ってやる。」
「高嶋方面本部長が貴様等の親玉か。」
「親玉、ずいぶんと古臭い言葉を出してきたもんだ。まあ、そんなもんだ。」
「本部っていうのは何だ。」
「ふん、お前等が知る必要はない。」
 このとき、男が音も無く階段を上がってきた。石田が気配を感じて階段までにじり寄った。一瞬顔を出すと、男が銃を発砲した。銃弾は手摺に当たってそれた。石田は頭を引っ込め、銃だけ出して応戦した。男が階段から落ち、どさっという音がした。
 石田がそれを確認しようと頭を上げた時だ。下から石川警部が狙いをすまして撃ち込んだ。銃弾は石田の耳元をかすめた。石田が振り返りざま撃ち返した。石川が肩を押さえて倒れ込んだ。榊原が目を丸くして言った。
「おいおい、お前うまいな。やったことあんのか。ワシは当たったためしがない。」

 一方車の中では、小野寺が椅子に座らされ、一人の男が後ろで銃を構えている。その横のコンピュータの前に、先ほどの学者然とした男が座り込んで画面を食い入るように見詰めている。男が、長い息をはいて言葉を発した。
「すごい情報だ。私もコピーが欲しいくらいだ。」
「先生、間違いないのですね。」
「ええ、日本のGPS技術の粋が詰まっている。この情報があれば、祖国のミサイル技術は飛躍的に進歩するはずです。」
「よかった、苦労した甲斐がありました。」
「おい、小野寺、どうやら本物らしいな。」
「モンスター、そんなことは最初から言ってあるはずだ。そんなことより、さっきの俺の話しをどう思う。確かに、あの少女は俺と石田の仲を取り持ったんだ。」
「無駄口をたたくな。それに、もうモンスターなんて呼ばなくてもいい。お前の知っての通り、俺の名はパクサンスイだ。」
学者風の男が後ろから声を掛けた。
「それはそうと、妹のことお願いします。何とか生活出きるように面倒を見てやって下さい。お願いします。この通りです。」
「そんな、頭を上げてください。上司にはじきじきに私からお願いしておきます。収容所から出して、普通の市民になれるよう申しあげます。安心して下さい。」
「有難うございます。今後も協力は惜しみません。何なりとお申しつけ下さい。」
「有難うございます。いずれ、先生の教示を仰ぎたいと長官も仰っています。その節は、ご協力をお願いします。さあ、これですべて終わりました。外に出ましょう。」
 この時、銃声が響いた。二発目。高嶋は顔をしかめた。学者風の男がおどおどしている。
また続けて二発の銃声が響いた。高嶋がドアを開けて叫んだ。
「先生がお帰りになる。銃をしまえ。石川、笹岡、扉を開けるんだ。」
石川が肩から血を流しているのを見て舌をならした。

 石田は携帯に話しかけた。
「どうだ、聞こえたか。」
「ああ、石川警部が真犯人ってことは確認できた。最後のは高嶋方面本部長か。」
「そうだ。」
「銃声がしたが、こっちの損害はないか。」
「あっちが階段下に一人で転がっている。それに石川が仲間に止血してもらっている。そうだ、言っておくが、いいか、パトカーで周りを固める時は、一気に固めるんだ。揃ってからサイレンを鳴らせ。おそらく敵は6人から8人、全員銃を持っている。」
「ああ、分かった。今、がらがらと音がしているが、あれは何だ。」
「よく分からんが、学者みたいな顔をしている奴が帰るところだ。」
「そっちに先行しているパトカーに後を追わせよう。」
「あと、どのくらいかかる。」
「あと5分と掛からない。十数台がそっちに向っているはずだ。」
その時、高嶋の声が響いた。
「おい、榊原、まったく貴様と言う男は、やっかいな男だ。散々てこずらせやがって。これからお前のもとに殺し屋を差し向ける。撃てるものなら撃ってみろ。銃を捨てる必要はない。撃てばいい。おい、小野寺を引きずり出せ。」
車から小野寺が降りてきた。高嶋が叫んだ。
「さあ、ジジイ、立つんだ。立って小野寺に肩を借りろ。おい、笹岡。この二人が離れられないように縛るんだ。そしてこいつら楯にあの二人の所まで行って、息の根を止めてこい。」
笹岡はにやにやしながら、言った。
「人間の楯か、こいつはいいや。よし、上に着いて二人を始末したらこいつら二人も殺っちまおう。」
 小野寺と親父さんは首と腰をロープで縛られた。二人は横に抱き会うようにして歩きはじめた。ゆっくりとした足取りだ。石田は心の中で叫んだ、「もっとゆっくり歩け。」と。
 笹岡はその二人の陰にかくれて階段に向かう。途中で親父さんが膝を折って、崩れかかる。笹岡の顔が一瞬覗いた。石田は狙いをすましていたが、撃つには至らなかった。榊原は顔面蒼白だ。笹岡が階段の下で銃を構える男に声をかけた。
「村井はやられたのか。」
「ええ、胸に一発くらって即死です。」
「ふーん、運のねえ奴だ。どうする、この役、お前がやるか。村井の弔い合戦だ。一度やれば度胸もつく。どうする。」
「いえ、親父さん、お願いします。俺にはまだ、無理っす。」
「ちぇ、度胸のねえ野郎だ。おい、榊原、そこを動くんじゃねえぞ。これから階段を上がる。撃てるものなら撃て。こっちは一向に構わん。」
二人が肩を寄せ合い、階段を上り始めた。笹岡は二人の背中の影に隠れ、寄せられた首の間から銃身を覗かせてる。
 石田は、瞬間的に頭を出し、様子を覗った。少しの隙でも撃とうと考えていたが、笹岡はその大きな体をうまく隠している。ましてチャンスは一瞬でしかなく、榊原に誉められた腕をもってしてもチャンスを生かすことなど不可能だ。
 脂汗が額を流れ目に入る。何度も目を瞬かせ、顔をだしては隙を覗った。うしろで榊原が言った。
「どうする。」
「どうしようもない。笹岡は二人の首の間から銃身を出して狙っている。最悪の場合、親父さんか石田さんに当たるかもしれないが、脚の間を狙う。それしか方法はない。」
「馬鹿野郎、駄目だ。銃を構えて、顔を出した瞬間に、お前は撃たれる。さっきのはまぐれ当たりだ。いくら誉められたからといって生意気言うんじゃない。」
「だったら、どうする。」
階段を上がる足音が一歩一歩近づいている。脂汗を拭おうともせず、二人は階段の方を見詰めていた。
 その時だ、倉庫の外でサイレンが響いた。けたたましい大音響だ。笹岡は入り口の方を首を傾けて覗いた。その瞬間、小野寺が笹岡の胸に足あてて後ろに蹴った。笹岡は背中から落ちていった。小野寺と親父さんが駆けあがってくる。
 石田は下方に銃を向けて笹岡の動きを見張った。二人が登り切ると、笹岡が起きあがりバンの方に駆けて行くのが見えた。もう一人の男もそれに従っている。高嶋が焦って声を張り上げた。
「パトカーに包囲されている。おい、全員バンに乗れ、俺と石川が扉を開く。この鋼鉄製のバンは銃弾も弾き返す、パトカーの二三台潰すことも可能だ。強行突破しろ。いいか、パトカーと警官を蹴散らして、何としてもMDとフロッピーを例の男に渡すんだ、いいな。俺達はドサクサに紛れて、ここを脱出する」
石田が携帯に声を押し殺して言った。
「鉄扉の前のパトカーを後退させろ。強行突破するつもりだ。いいか、二三台、後方に移動させて追跡出来る体制を整えろ。」
もう一台の電話に向かって韮沢が怒鳴り声を上げているのが聞こえる。男達がバンの中に消えてゆく。バンがゆっくり動き出し、方向転換している。高嶋と石川が、声を掛け合い、鉄の扉を左右に引き始めた。
 間に合うかどうか、鉄の扉が徐々に開かれてゆく。扉の前のパトカーが後方にバックしているのが見える。扉が開き切ると、そこにはバンが通れるほどの幅の開かれている。バックしたパトカーがエンジンを響かせ、追跡準備を整えている。
 バンはハンドルを左右に振って、何台ものパトカーにぶつかりながら通りに出た。それを待っていたかのようにパトカーが三台サイレンを響かせ後を追う。逃げ切れるものではない。サイレンが遠ざかる。
 黒のセドリックの後ろに隠れていた高嶋と石川がポケットから警察手帳を引き出し、高く掲げた。高嶋が石川の左脇に右肩をいれて歩き出した。高嶋が叫んだ。
「高嶋方面本部長だ。中に二人の警官殺しで指名手配中の榊原警部補がいる。すぐに逮捕するんだ。彼と撃ち合って捜査一課の石川警部が撃たれた。おい、そこの警官手を貸せ。」
皆黙って拳銃を向けている。
「おい、分からんのか。高嶋方面本部長だ。この顔に覚えがあるだろう。この警察手帳を見ろ。」
 またしても、静寂が返ってくる。戸惑ったままの警官達の視線が、高嶋には不気味に映った。戸惑ったのなら、すぐに直立不動の姿勢をとるはずなのだ。それがキャリアに対するノンキャリアの普通の態度なのだ。しかし、彼等は微動だにしない。冷やりとする感覚が背筋に流れた。
 石田らは階段を降りてセドリックの背後で様子を覗っていた。韮沢の怒鳴り声が小さく響く。石田は携帯を耳に当てた。
「奴に何て言ったらいいんだ。警邏隊の隊長が聞いてきている。」
石田が答えた。
「こう言うんだ。パクサンスンお前を逮捕するとな。そして、、、」
「そして何です。」
「何でもない、兎に角、そう言えばいいんだ。」
 パクサンスイ、三人目の少年の名前だ。その名前を出せば、奴は恐らく自らを始末する。和代の復讐が成就するのだ。韮沢が電話の相手にその名前を怒鳴った。そして最後にこう付け加えた。
「兎に角、全責任は俺がを取る。今言った通り方面本部長に宣告して手錠をかけろ。」
パトカーの最前列でマイクを握り締め、韮沢と電話で話していたと思われる警官が、にやりとしてマイクに向かってがなる声が響いた。
「第六警邏隊隊長、篠塚警部、韮沢一課長のそのお言葉、一生忘れません。心から尊敬申し上げます。」
「いや、そう尊敬されても困るんだが。」
そう言う韮沢の声を聞いて、石田は苦笑いをしながら携帯のスイッチを切った。
 警邏体長、篠塚は、マイクを車に戻すと、ゆっくりと二人に歩み寄った。そしてその前に立つと腰の手錠を取り出し、しっかりとした声で言った。
「パクサンスイ。お前を逮捕する。」
 見る見るうちに、高嶋の顔から血の気が引くのが分かった。石川警部がへたり込んだ。高嶋は押し黙って、顔を歪めた。口を何度も何度も蠢かせている。篠塚はその顔が奇妙に歪んで、いつしか苦痛のそれに変わるのをただ見ていただけだ。
 高嶋がいきなり口から一本の白い歯の残骸とともに血反吐を吐き出した。そしてゆっくりと後ろに倒れてゆく。篠塚はようやく何が起きたのか理解した。偽歯に埋め込まれた毒を飲んだのだ。
「救急車、救急車だ。急げ。」
 警官達が銃を構えながらゆっくりと包囲の輪を狭め二人を取り囲む。榊原も近付き覗き込んだ。高嶋は目を剥いて仰向けに倒れている。石川は呆然として座り込んだままだ。ふと人の影が視界を横切った。見ると、石田が通りの方に歩いてゆく。
 石田の視線は黒のバンの行方を追っている。パトカー三台がそれを追尾する。バンは尻を振ってパトカーをなぎ倒し振り切ろうとする。石田はじっとそのバンを見詰めていた。その後姿を榊原が注視する。

 よく肥えた中年女性が甲斐甲斐しく動き回っている。榊原の奥さんとは結婚式以来だが、その変わり様に驚かされた。奥さんは、よく笑い、よく喋った。それに引き換え、榊原は魂の抜け殻みたいにぼーっとしている。
 小野寺夫妻はもう一度やり直すことになった。小野寺の出所を待つと言う。晴美の説得が効を奏したようだ。石田はぼんやり病院の庭を眺める榊原の横顔を盗み見た。榊原は思い出したように溜息をつく。幸子に捨てられたのだ。
 その空しさ、寂しさは一人で耐えるしかない。物悲しげな視線が外をさ迷う。石田は心の中で意地悪く友に語りかけた。諦めろ、榊原。女は常に現実的だ。家庭を守ることが一番なんだ。石田は友を現実に引き戻すべく話しかけた。
「駒田はどうなった。」
振り向くと、榊原は深い溜息を吐き、心ここにあらずといった雰囲気で、面倒臭そうに口を開いた。
「石川警部は最後まで駒田の命令だと言い張った。駒田を道連れにするつもりなんだ。今、ごたごたやっているよ。」
「駒田も気の毒に。」
「ああ、そういうこった。」
「結局DVDは闇から闇ってわけだ。」
「ああ、組事務所を急襲して、金庫のマザーテープも回収した。ワシはそれでもいいと思っている。上村組長も弟も逮捕出来たんだ。まして坂本が死を賭して守ろうとした磯田副署長の秘密だ。あいつの死を無駄にしたくないからな。」
「ああ、その通りだ。」
「しかし、あの本部のバンが突然爆発炎上したのには驚いた。韮沢に聞いたんだが、車に自爆装置がしかけてあって、それが誤作動を起こしたらしい。」
「ああ、和代がやったとしか思えん。」
榊原は困惑顔で曖昧に頷いた。しかし、何かを考えているようだったが、厳しい表情で口を開いた。
「ワシはそうは思わん。和代さんは、復讐とかそんな汚い言葉とは無縁な、清らかな所にいる。ワシはそう信じている。」
「おいおい、どうしたんだ。理性で割り切る男が趣旨変えしたみたいだな。」
「お前だ。お前は、ああなることを望まなかったか?」
石田は黙って友の顔を見詰めた。
「お前の憎悪は半端じゃなかった。それをいつも聞かされてぞっとしたものだ。その憎悪と執着が事件を引き寄せ、最後の結末、奴等にとっては最も悲惨な死をもたらした。」
石田が、重い口を開いた。
「ああ、確かに、あのバンが爆発炎上することを願った。走り去るバンを見詰めてそう念じた。それが原因だとでも?まさか…」
 榊原は押し黙ったままだ。外では降るような蝉時雨が聞こえる。残り少なくなった命を惜しむかのように必死の鳴き声を響かせている。
親父さんが、眠りから覚め、石田の顔を見ていた。二人の会話を聞いていたのかもしれない。そして声を掛けてきた。
「石田さん、あんた、良い顔になったよ。以前とは全然違う。」
「そうですか、自分ではわかりませんが。」
「あんたいつか言っていただろう。自分は不幸にばかり見まわれるって。それはその顔に原因があったんだ。その顔を形作っていたのは憎しみなんだ。」 
「和代が殺されたことですね。」
「そうだ。ワシは何人もの犯罪者を見てきた。共通して言えることは、憎しみや恨みが顔に出ていることだ。それが災いを招くんだ。災いを引き寄せるんだ。だから、犯罪者はみな不運な連中だ。これ本当のことなんだよ。」
「仰る通りなのかもしれません。何となく分かる気がします。」
「ワシもしつこく言わんが、これはワシが一生をかけて掴んだ唯一の真実だ。心の片隅にでも仕舞っておいてくれ。」
「分かりました。そうさせて頂きます。」
 その時、胸の携帯が鳴り響いた。驚いて榊原が振り向いて、胸を凝視している。親父さんもじっと見詰めている。胸の携帯は、和代から掛かってきたそれだった。
 事件の最中、使うことはなかったが、もしかしたら和代から再び掛かってくるかもしれないと充電をかかさなかったのだ。二人はそのことを知っている。今それが音をたてて震えている。三人は見詰め合った。
榊原がどもりなが言った。
「ど、ど、どうせ、ま、ま、間違い電話だ。」
冷静な顔を取り繕うが既に恐怖で歪んでいる。父親ににじり寄る。石田はポケットから取り出し、耳に当てた。それは小さな低い声だ。
「ジン?」
 さわさわと鳥肌が体全体に広がるのが分かった。胸の鼓動は激しく高鳴っているのに、体温が急激に低下した。しかし、同時に瞳が潤んだ。心の底からこみ上げるものがあった。懐かしさと愛おしさが溢れた。石田が叫んだ。
「和代。」
榊原が怯えて壁際に背中を寄せ、つま先立っている。もうそれ以上、下がれない。震え声で呟いた。
「お、お、お礼なんて、い、いいのに。」
親父さんはベッドの手摺をぎゅっと握り締めた。受話器から声が漏れた。
「仁?パパなの?」
石田の体から力が抜けてゆく。そして喜びがこみ上げてくる。そして再び叫んだ。
「そうだ、パパだ。知美、パパだぞ。ずっと探していたんだ。僕の可愛い可愛い知美。今何処にいるんだ。」
「わー、やっぱりパパなのね。今日、ママが携帯忘れていったの。それをいじっていたら、ひらがなで“じん”てかいてあったの。だからボタンをおしたらやっぱり、パパだったのね。」
「みんな元気でいるのか。」
「じいちゃんが死んだの。」
「いつ?」
「ずっとまえ、みんなで泣いたの。悲しかった。」
「ねえ、知美、いったい何処にいるんだ。すぐに迎えに行きたいんだ。」
「私、分からないの、住所とかそういうことは、私には無理よ。だって、まだ幼稚園よ。ちょっと待って、おばあちゃんに代わる。」
 おばあちゃんと叫ぶ知美の声が遠ざかる。石田は涙を堪えながら、榊原親子に微笑みかけた。親子はほっとしたように胸をなでおろし、緊張を解くと、良かった良かったと互いに頷きあっていた。心から喜んでいるようだ。しかし何故か二人とも疲れ切った様子だ。

事件直後、榊原が言った言葉がある。こうだ。
「結局、ワシが上村組の事件と二つの強盗殺人事件に興味を持ったってことは、お前さんのいう、シンクロニシティってことになる。そうじゃないのか。」
石田は笑って答えた。「そうかもしれない。」と。
しかし、その石田さえ、気付かぬシンクロニシティが、この話の続きにはあったのである。シンクロニシティとは、みながそれと気付かずに見過ごしているだけなのである。実を言えば、この世はシンクロニシティに溢れている。

 杉村マコトの視線は密かに亜由美の後姿に注がれている。かつて、「マコトの男」と友に賞賛された杉村の人生はけっして平坦ではなかった。二年ほど前、錦を飾るでもなく故郷に舞い戻った。そして友の経営する地元スーパーに就職して、ようやく生活も落ち付いてきたのである。
 店は人でごった返していた。ちらりと亜由美に視線を戻し、おやっと思った。亜由美の様子がおかしい。レジは長蛇の列だ。亜由美の前にいる中年のお客がその顔を覗き込み、声を掛けた。
「あんた、大丈夫。何を泣いているの。」
亜由美は右手の入り口をちらちらと見ては涙を新たにした。微笑もうとするのだが、しゃくりあげてしまい、うまく笑顔が作れない。顔が泣き顔になってしまうのだ。
 店の入り口から、少女を肩に抱いた男が近付いてくる。亜由美は、化粧をしてこなかったことを後悔していた。せめて口紅くらいはしておくのだった。昨夜は遅くまで内職をしていたため、寝坊してしまったのだ。
 男が微笑みながら歩み寄ってくる。肩に抱かれた知美が手を振っている。もう涙で何も見えなくなってしまった。杉村が近付いて声を掛けた。
「石田君、今日はもう、帰りなさい。事情は明日聞かせて下さい。レジは私がやります。」
「店長、有難うございます。」
そう言うと、亜由美は夫と子供のもとに駆け出していた。杉村はその後姿をちらりと見て、お客に声をかけた。
「申し訳ございません。彼女には何かしら事情があるんでしょう。さあ、急いでレジを打ちますよ。」
 杉村の手は自動的に動いた。誰よりも早く正確に打つ自信がある。大根は150円と打ちこみ、牛乳のバーコードをさっと光りにさらす。しかし、よく動く手とはうらはらに、その頭の中は空白になっていた。
 三人の寄りそう後姿が目の片隅に焼き付いた。淡い恋心のまま終わりがきたようだ。その方が良いのかもしれない。心が傷つくこともない。ただ、昔、恋した女の面影を追っていたに過ぎないのだから。
 手を繋ぐだけで心ときめいたあの頃を懐かしく思い出す。今となっては、キスくらいすれば良かったと思う。ほんの少しの勇気さえあれば、思い出も違ったものになったかもしれない。しかし、まだ若かったのだ。
 初めてのデートの時、彼女は言った。「私、ハーフなの。日本と朝鮮のハーフ。」にこりと笑った笑顔が清清しかった。杉村はその時、こう言った。「人種が交わると優秀な子孫が出きるんだ。」その時、初めて手を握った。
 彼女の母親は後妻だったが、朝鮮人ということが原因で家を追われた。狭い町に噂はすぐに広がった。そんなおり、あの人でなしの先生が彼女に侮蔑的な言葉を吐いたのだ。その言葉は彼女に言ってはならない言葉なのだ。
 杉村は思わず立ちあがり、先生に詰め寄った。その襟首を掴み、黒板に押し付けた。先生が黒板拭きで頭をこずいた。そこで切れたのだ。あとのことは覚えていない。幸子の叫ぶ声が聞こえた。
「杉村くん、やめて、お願いやめて。」
気が付くと、先生は血だらけで倒れていた。
 ふと、ほろ苦い思いが胸をかすめ、その情景が彷彿と浮かび上がった。20年以上前のことだ。待ち合わせ場所に、幸子が佇んでいた。校門の陰に隠れ、遠くからじっと見詰めた。東京から無けなしの金をはたいて駆け付けた。一目見るだけでよかった。失業中だったから、とても会う気にはなれなかったからだ。
 その幸子と一度だけ東京で会った。胸をときめかせ一張羅を着込んで出かけたものだ。思わず抱きしめキスしようとした。幸子が会いたがっていると聞いていたからだ。しかし幸子は手で杉村の胸を押さえこう言ったのだ。
「ごめんなさい。今、幸せなの。本当にご免なさい。」
あの言葉は、しばらくのあいだ杉村の耳の中でこだましていた。そんな苦い思い出が、ふと懐かしく思えるようになったのはつい最近のことだ。年なのだろうか。杉村は遠ざかる三人の後姿をそっと眺めた。そして心の中で呟いた。
「石田亜由美さん。僕の初恋の人、幸子さんのように、幸せを掴めよ。」
かつて石田を不幸のどん底に落とした写真があった。石田は、その写真に映っていた男と今すれ違ったのである。 
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