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シンクロニシティ10

作者:ミジンコ
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第十五章

 金属を擦りあわせるような不快な音で目覚めた。続けざまにざくっざくっという音がして、それに混じってその耳障りな擦過音が響いている。ぼんやりと辺りを見まわした。この牢屋に閉じ込められて幾日たったのか判然としなくなっている。
 牢屋に明り取りの窓はなく、夜の食事が終わると電気は消され、暗闇の世界が訪れる。食事は日に二回、ずんぐりした男が運んで来た。こわごわ声をかけてみたことはあるが、男は細い目を更に細くさせて睨むだけで、会話は成り立たたない。
澱んだ空気はべったりと素肌にまとわりついている。額の汗を手の甲で拭うと、耳を澄ませた。不快な音は未だ続いている。
あの男は、時々階下に下りて来て、なにやら作業をする。金属の棒のようなものを溶接したり、木片を組み立て釘打ちしたりしている。昨日も出来あがった縦長の木箱を見下ろし、満足そうに頷いていた。
「何を作っているの。」
恐る恐る尋ねてみた。男はゆっくりと振り向くと、虚ろな笑みを浮かべた。一瞬、背中のあたりでぞくっとするような悪寒が走ったが、男が始めてみせた笑みに、少しでも情報が得られるかも知れないという淡い期待を抱いて、幾分甘えるような声で言った。
「ねえ、何を作っているの。教えてくれたっていいじゃない。」
「見りゃわかるだろう。俺の棺桶さ。そろそろお迎えが来そうな気がするんでな。」
男は薄気味悪い笑みを浮かべて言い放ったものだ。

 昨夜、晴美は男の言った棺桶という言葉を何度も反芻した。あの棺桶は自分のためのものなのかもしれないと思うと、指先が小刻みに震えて食事も喉に通らなかった。晴美はベッドから降りると恐る恐るドアに近づいた。男はいったい何の作業をしているのか、恐ろしかったが見ずにはいられない。
 窓からそっと覗いた。男の後姿が見えた。腰を上げて、男の手元をみた。さらに木箱の中を。次の瞬間、
「ぎゃー」
という絶叫が狭い空間に響き渡った。晴美は牢屋の鉄格子を両手で握りしめ、真っ白になった脳の内側を見詰めていた。絶望と恐怖が呼吸のたびに波のように押し寄せ、息を吸いそして絶叫する、それを何度も繰り返していた。
 意識はなかった。それを目にした時から、意識を失っていたのだ。この世の地獄を一瞬垣間見た。そこから逃れるには気を失うという行為以外何が出来た出あろう。絶叫は意識の外で起こったことであり、晴美の意識は虚空をさ迷っていた。
 そこに何かが入り込む。晴海は一瞬それを感じたが、すぐに意識は遠のいた。そしてその何かが行動を起こした。それはある種の振動である。それは始め小さかったが晴海の絶叫にともない次第に大きな振動となって部屋中に木魂した。
 その振動は時空を超え、この世に不思議をもたす。現実に二つの作用を及ぼしたのだ。不思議はそれを信じる者にのみ感知され、信ぜざる者には、それは電子的な雑音としか聞こえなかったはずだ。さらに、コンピュータチップに僅かな誤作動を生じさせたのである。

 晴美の絶叫は間断なく続く。男はちらりと振り向いて、煩そうに眉をひそめたが、ため息をつくと作業を続けた。木箱に横たえられた洋介の体は微動だにしない。かつての精悍な顔は頬がこけ、真っ青な表情はまるで別人のようだったが、それはまさしく晴美の愛した男の変わり果てた姿だった。その体の上に、男はセメントを流し込んでいた。

 険悪な雰囲気が、だだっ広い会議室を支配していた。氏家部長は憮然としたその表情で、自分を言いくるめようとする石田に決して甘い顔をしないという意思を顕わにしている。自分では手に負えないと思ったらしく、青戸専務を引っ張り出してきていた。
 青戸は石田の早稲田の先輩で、アルバイトから本採用になる時、何かと便宜を図ってくれた恩人だ。その青戸がその鼻眼鏡を直しながら石田にその真意を質した。
「で、何でなの、休職だってのは?今度は本格的に腰を据えて奥さんを探そうってわけ?」
「いえ、今度は娘です。」
「えっ、今度は娘さんに何かあったわけ?まさか奥さんの所を家出したなんて言うの?でも、このあいだ幼稚園にあがったばかりだったろう。いくらなんでも、それは…」
青戸は目を白黒させて絶句した。
「いえ、違います。まして、娘というのは前妻の娘です。」
「そうそう思い出した。確か君はバツイチだったな。娘さんがいたんだっけか?」
「はい、その娘が誘拐されたんです。いても立ってもいられません。」
これを聞いて氏家部長は目をまん丸にして声を張り上げた。
「誘拐だって。石田君、さっきはそんなことは言わなかったろう。しかし、女房が家出して、今度は前の奥さんの娘が誘拐されただって。いったい君はどんな運命を背負っているんだ。」
氏家が言った運命という言葉を聞いて、一瞬、石田が切れた。
「部長。20年前、新潟の柏崎で高一の少女が陵辱され死体で発見された事件を覚えていますか?当然、氏家部長は、そんな昔の事件など覚えているわけはないでしょうが、私ははっきりと覚えています。何故なら私はその被害者の兄です。」
 石田の目には僅かに涙が滲んでいる。ぽっかりと口を開けて、氏家が石田を見詰めた。青戸は押し黙って、上目遣いに石田を見ながら何度も頷いていた。と、その口が開かれた。
「君は、僕達と何か違う性質を持っている。それが何なのかは分からなかったが、今分かったような気がする。時々、議論をしている君を見ていて怖いと思うことがある。切れはあるが議論がきつ過ぎる。相手をとことん追い詰めてしまう。」
ここで言葉を切って、暫く言葉を探していたようだが、こほんと咳をして続けた。
「まあ、そのことはともかく、僕は君の才能を買っている。いずれ戻って来るというなら、休職を認めよう。好きなだけ休んでいい。」
「有難うごじます。」
石田は深深と頭を下げた。思わず涙が滲んだ。氏家はまだだらしなく口を開けたままだ。暫くして仕事のことを思い出し、慌てて言った。
「青戸専務、東芝電鉄の仕事はどうなるんです?」
青戸がぴしゃりと言った。
「後は、君が引継ぎなさい。打ち合わせに最初から出ているのは君だけだろう。」
「宜しくお願いします。」
こう言って石田は席を立った。

 その日は一日、氏家を交え部員達と打ち合せをした。その間にも、石田の頭にあの声がよみがえり胸を締め付けた。ぞくぞくとする恐怖と懐かしさ。涙が滲む。何とかしなければならない。焦燥が体中を駆け巡る。あれは、正に死んだ妹、和代の声だった。
「仁、助けて、仁、お願い助けて。」
 これを二度繰り返した。その切ない必死の声が耳に残っている。石田は即座に理解した。晴美の中の和代が呼んでいる。和代は晴美の危急を知らせてきた。電話が切れ液晶画面を食い入るように見詰めた。そこには「非通知設定」という文字が表示されていた。
 居ても立ってもいられなかった、何度も榊原の携帯に電話した。榊原しか頼れる人間は考えられなかったのだ。あの事件が報じられて一週間ほど経っている。榊原は二人の刑事を殺した犯人として全国指名手配されていた。倉庫から50メートル離れた雑木林で榊原の指紋付の拳銃が発見されたのだ。
 しかし、指名手配されてはいたが、榊原は間違い無く晴美の見方であり、晴海の行方を追っていたのだ。携帯に出るとは思えなかったが、何らかの反応が返ってくると確信していた。そしてついにその榊原からメールが入ったのだ。メールにはこうあった。
「俺は嵌められた。お前の助けがいる。お前の携帯は使うな。新たな携帯を確保しろ。俺の電話番号とアドレスを送る。もしかしたら、今回の事件は晴美さん誘拐にも関係しているかもしれない。連絡を待つ。」
 まさか榊原のメッセージが、晴美の失踪について触れているとは思いもしなかった。心が震えた。やはり和代が知らせてくれたのだ。晴美は絶対に無事だと思った。和代が守ってくれている。何の疑問も無くそう信じた。

 男は川口のビジネスホテルでウイスキーを流し込んでいた。ここに篭って二週間以上になる。酔うことでしか恐怖から逃れることは出来ない。とうとう裏切りが露見した。恐怖に耐え、神経を研ぎ澄ませてきたが、4年も生き延びられたことの方が奇跡なのだ。
 かつて、その信念は揺るぎないものだった。世界同時革命の前衛という幻影を追いかけた。大学時代にオルグされ組織に入った。組織は非合法であったが迷いはなかった。世界同時革命という言葉は、若者の心を陶酔させる響きを持っていた。

 妻の連れ子の晴美が、柏崎で殺されたあの少女の姪だと知らされても、まだ心に余裕があった。むしろ不思議な縁を感じたし、彼女を思い出す度に心の中で手を合わせてきたことがその縁を運んできたのではないかと思った。
 まして革命家に感情や情緒は不要だった。妻の財産を革命資金に回すことも使命だと感じていた。晴美に後ろめたさを感じたのは最初だけだった。晴美も自分になついた。そして小野寺は心から晴美を愛したのだ。
 しかし、早熟な晴美が少女から娘に脱皮しようとする頃、その瞳に現れた輝きに恐怖を抱いた。その輝きは和代が発していたものと見まごうばかりだった。顔を合わせるのが怖くなった。その瞳に見据えられると、居ても立ってもいられなかった。
 思い出させるのだ。怯えながら救いを求めて振り向いた少女の顔、すがるような瞳。小野寺は、少女の瞳の輝きが消えてゆくのをただ見守るしかなかった。耐え難い現実ではあったが、まだ世界同時革命という標語は色褪せてはいなかった。
 何故なら。どんなに崇高な使命を帯びた革命家も、目的成就のために仲間の理不尽な行為に目をつむるしかなかったという現実を知っていたからだ。人間は感情の動物である。その理不尽な感情を制御するのは革命思想ではなく、持って生まれた個々人の人間性、理性なのだから。崇高な政治目標達成こそが革命家に求められると信じた。
 しかし、ある時、晴美がすがるような視線を向け話しかけてきた。以前のような父親との交流を取り戻そうという気持だったのだろう。そのすがるような視線は囚われの少女が見せたものと寸分違わなかった。その瞳に死者の視線を感じたのだ。そのとき、冷血な革命家を装う男の情緒の綻びが一気に裂かれた。
 そんな心の隙に韓国のエージェントが入り込んできた。いつも寄る小料理屋の常連だった。医療機器会社の社長だと聞いていた。笑顔を絶やすことのない丸顔が印象的な男だ。きっかけは店に置いてあるテレビから流れた北朝鮮の拉致疑惑だった。
「もしこれが本当なら、酷いことをするもんだ。」
時々隣り合わせに座る男が呟いた。小野寺はスパイであることを忘れ、反論した。勿論、穏やかな笑みを浮かべることは忘れない。日本人は憎いが、日本人と偽って生きていたからだ。
「でも、日本人だって戦時中、同じように朝鮮人に酷いことをしたようですよ。まあ、こっちにも拳を振り上げられない弱みはありますよ。」
男はいきなりいつもの柔和な顔をかなぐり捨て、絞るような声を発した。
「どっちだって?えっ、貴様はどっち側だと言ったんだ?」
冷たく鋭い視線が小野寺の両目を貫いた。一瞬、言葉を失った。男は低い声で続けた。
「こっちじゃないだろう。お前があっち側だってことは先刻承知しているのさ。しかし、いつまでも泳がせている訳にもいかん。そうそう、お宅には可愛いお嬢さんが二人もいたな。特に上のお嬢さんの行動は目に余る。見ていてひやひやするよ。」
ひやりとする感覚と同時に、かっと血が頭に登った。
「それはどういう意味です。」
「別に。」
思わず男の胸倉を掴んだが動じる気配はない。にやにやして答えた。
「最近、お嬢さんに彼氏ができただろう。ノボルっていう奴だ。あれは俺の命令は何でも聞く。お嬢さんをバイクから蹴落とすぐらい平気だ。」
小野寺は呆然と男の薄い唇の動きを見ていた。戦慄が体を震わせた。思わず手を離した。
男は、二人を心配そうに見詰めるお上に、何もなかったように声を掛けた。
「お上さん、お勘定。」

 これがダブルスパイになる最初のきっかけだった。小野寺は、その夜、男の最後の言葉が脳裏に蘇り一睡も出来なかった。翌日も店に顔を出した。今度こそ守り切ってみせる。晴美を守り切る。そう決意していた。
 果して、男は奥の小上がりのテーブルでにこにこして手招きしていた。しかし男の目は笑ってなんかいない。かくかくと震える脚を一歩前に踏み出したのだ。

 エアーコンディショナーは鋭い冷気を送ってくる。上半身裸だが、体はアルコールでほてっている。しかし、時として恐怖が背筋を走って寒気を催した。ぶるぶると震えて膝を抱え込んだ。あの男、韓国のエージェントの岡山も殺された。
 洋介の失踪は知っていた。晴海の携帯を盗聴していたからだ。すぐさま岡山に相談した。すると岡山は金を要求してきた。洋介の情報を得るため、北のスパイと分かっている男を一人潰すのだからそれを金で保証しろと言う。
 つまり、泳がせれば情報はいくらでも取れる。それを捕らえて口を割るらせ、万が一殺すこともあり得る。その損失を金で購えというのだ。まさに正論だった。岡山から電話が入ったのは支払いを済ませてから一週間後だ。

「どうする、お前も見に来るか。まあ、無理にとは言わん。あの時みたいにゲロ吐かれても堪らんからな。しかし、モンスターとは大きく出たな。しかし、二重スパイらしい偽名だ、誉めてやるよ。」
小野寺は全てを飲み込んだ。潰された男は自分と洋介とのやり取りを何もかも知っていたと言う。岡山は続けた。
「しかし事態は、お前さんの想像を超えている。仲間の情報では、お前さんの娘さんが拉致された。ってことは、つまりお前が二重スパイだってことはばれているってことだ。つい昨日のことだ。残念ながら、俺の仲間は娘さんが乗せられた車を追跡したが撒かれた。お前も見張られていることは確かだ。」
「晴美が、さらわれた。まさか、そんな。」
小野寺は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けて絶句した。電話の声は続く。
「娘さんのことより自分の心配をしろ。そのマンションから夜中に抜け出せ。絶対に見つかるなよ。落ち合うのは7番だ。明日の午後7時、いいな。」

 彼等は都内に恐らく20箇所以上の秘密の隠れ家を持っている。7番とは葛飾区のマンションのことだ。何度か使ったことがある。小野寺は部屋のスイッチを切り、窓から階下を見た。怪しい影は見えない。だが、安心は出来ないのだ。
「そうそう、言い忘れていたが、洋介君は既に殺されたようだ。逃げ出そうとしてところをナイフで刺されたらしい。馬鹿な真似をしたものだ。兎に角、会おう。娘さんを助け出す算段をするのか、それとも高飛びするか、お前次第だ。手は貸す。」
これが岡山との最後の会話になった。

 小野寺は7番のマンションで岡山の死体と遭遇することになった。惨たらしい死に様だった。小野寺はここでも吐いた。しかし、死体はまだ温かい。唇を拭うと拳銃を構えた。殺し屋がまだ潜んでいる気がしたのだ。恐怖は頂点に達した。
 マンションの構造はよく知っていた。隠れる場所はそう多くははい。小野寺はバスルームに4発、クローゼットに4発、それぞれのドアに撃ち込んで、素早くカートリッジを入れ替えた。銃声など気にならなかった。恐怖が先だった。
 銃を構えながらクローゼットのドアを開くが誰も居ない。恐る恐るバスルームに向かうと、見知らぬ男の死体が転がっていた。撃つ順番が逆だったら死んだのは小野寺の方だ。じっとりと冷や汗が額を伝う。近所が騒ぎ出す気配がした。警察には既に通報されているだろう。小野寺は部屋から逃げ出した。

 洋介は、モンスターの正体を特定すために拉致されたのだ。モニターされた組織の人間達の声からモンスターを割り出すためだ。モンスターの声を知っているのは洋介だけだったからだ。モンスターとは小野寺のことだ。二重スパイが露見したのだ。
 いや、もしかしたら、あれもばれているのか?いや、そんなことはない。あれを持っていることを知っているのは、俺だけなのだから。これは最後の、本当に逃げ道がなくなったときの切り札だ。いや、上手く行けば金を手にすることも出来るかもしれない。
 危なくなったらヨーロッパに高飛びするつもりだった。パスポートも用意していた。しかし、まさか晴美を人質にとるとは思いもしなかった。生き延びるには晴美を見捨てるしかないのか。死の恐怖が小野寺の心を支配しており、思考はぐるぐると空回りをしている。
 しかし、高飛びするとしても既に遅いのかもしれない。恐らく空港と言う空港に網が張られているはずだ。どこからともなく沸いてくるスパイ。まさにスパイ天国の国。各国のスパイが好き勝手に暗躍している。それを取締る法律さえない。

 会社で営業として二年前に採用した安部は本部から派遣された本格的なスパイだった。本部といってもはっきりとした輪郭をもった存在ではない。小野寺のような生え抜きの在日朝鮮人スパイでも、突如としてもたらされる指令で、その仕事の一端に触れるだけだ。
 その指令は、まるで像の尻尾をつまむようなもので、全体像は掴みかねた。しかし、時として、あの事件の一翼を担ったと思いあたることはある。その本部の安部はMDを入手するために働いていた。当然、小野寺はその手足になって動かざるを得なかった。
 本部の人間と一緒にいることは小野寺に極度の緊張を強いた。しかたなく韓国エージェントの岡山と相談し、偽のMDを安部に握らせることにしたのだ。小野寺は安部に、不審なMDが裏社会に出回っていて、その暗号を解きさえすれば大金に化けるという与太話を耳打ちした。
 安部はその話に乗った。岡山の用意した偽のMDを一瞬迷った挙句、本物のMDにすりかえた。何故そうしたのか、小野寺自身にも分からなかった。僅かばかり残っていた忠誠心か、或いは悪戯心がそうさせたのか、判然とはしない。いずれにせよ、その解読には俺の握っているあれがなければ不可能なのだ。

 かつての革命の戦士が、単なるスパイに身を持ち崩し、あろうことかダブルスパイにまで堕落している。そして、今、自らの命惜しさに、娘を見捨てようとしているのだ。小野寺ははたと気付いた。あの事件だ。20年前の柏崎の事件が、今の全ての始まりだったのだ。小野寺は同じ過ちを犯そうとしていた。

 石田は、深夜、リック一つでマンションから姿を消した。榊原の指示はいちいちうるさいと思ったが、先達の助言に従った。都内のビジネスホテルに一泊し、翌日の夕刻、行徳の健康ランドに向かった。駐車場にお目当てのキャンピングカーが見えた。
 そう大きくはない。せいぜい四トン車程度の改造車だ。とはいえ、男三人は楽に横になることは出きる。車のドアを指示通り三つ、続いて二つ叩く。
ドアが開かれ、中から榊原が顔を出した。少しやつれていた。石田が思わず言った。
「元気そうじゃないか。」
「元気なわけないだろう。兎に角上がれ。夕飯はすませたのか。」
車の中は畳を三枚ほど連ねた広さで、一方の壁にベッドが上下二段くくり付けてある。後ろは簡単なキッチンと冷蔵庫、その前にテーブルがありその上にノートパソコンが置かれている。
「これで連絡してきたわけだ。」
「ああ、親父のだ。」
「この車は親父さんのか。」
「ああ、この車で全国を渡り歩いている。一人身の身軽さってやつさ。事件に巻き込まれた時、たまたま近くにいたんで助けてもらった。今は、風呂に行っている。」
「いったい何があったんだ。」
「ああ、まず、その辺から話すとしよう。」

 榊原は全てを話した。時折、時系列を遡り、紆余曲折に陥りながらも考え考え整理して語った。石田は話を何度も頭の中で反芻した。しかし、全体像は浮かんでこない。まして自分、晴海、そして洋介君の誘拐に至る原因が思い付かない。
「その仲間を殺した警部って奴に心当たりはあるのか。」
「いや全く分からない。そいつが俺の指紋つきの拳銃を持ち出した。身内にスパイがいたってわけだ。何もかもお見通しだったのも頷ける。瀬川とコンビを組んで、尾久のマンションを張った犬山は二課所属だ。てことは二課の警部ってこともありえる。しかし…、」
榊原は宙を睨んで思い悩んでいる。
「どうも、思い付かん。仲間を殺すような奴は想像を絶する。そうそう、親父が探ってきたんだが、尾久のマンションの男達は消えていた。」
 突然ドアが開いた。びくっとする榊原をせせら笑い、てかてかの丸坊主男がにゅーっとその大柄な体を現した。石田に目配せして野太い声を発した。
「おう、おう、石田さんか。息子がいろいろとお世話になります。まして、全国使命手配中の友人に手を貸してくださるとは、本当に感謝します。おい、成人、酒をお出ししろ。石田さん、ビール、それともお酒、焼酎もあるよ。おい、成人。」
「分かったよ、そのでっかい声、何とかならないのかよ。俺は追われているんだ。成人、成人って怒鳴るなよ。」
「おい、石田さん、聞いたか、こいつは、泰然としている振りをしているが、本当は小心なんだ。だから逃げ出したんだ。棍棒でもなんでも持って殴り込むべきだった。」
「うるせえー、糞爺が、黙っていろ。相手は7人、ぜんぶチャカをもっていた。棍棒で相手になるわけねえだろう。」
 親父は耳に小指を入れて掻きまわしている。分厚い下唇を突き出して、石田にウインクした。石田が思わず口を開いた。
「まあ、とにかく、何処で人が聞いているか分かりません。どっちにしろ静かに話しましょう。」
にこにこしながら親父が石田に話しかけた。
「こいつが小学校からやっていた柔道をやめて、何故大学で日本拳法に走ったかわかるかね。」
「いえ。」
「実はね、へへへ、俺に勝てなかったからだ。柔道で勝てなくて、今度は殴り合いで勝とうとしたんだ。だけど、それも駄目。こいつが大学二年の時だ。」
 自慢そうに頷く父親を見上げると、榊原は腐った顔でぷいと横を向いて何か呟いた。糞親父と言っているようだ。父親はこの辺が潮時とみて、さて、と言って、石田のグラスにウイスキーを注いだ。それを一気に空け、石田が唐突に言葉を発した。
「実は、晴美から電話があった。」
 二人は寸分違わぬ驚きの顔を石田に向けた。まるで双子のような似たもの親子である。榊原の額は学生時代より3~4センチ後退している。50代にはどうなっていることやら。
「何だって。」
同時に同じ反応が返ってきた。
「仁、助けて。仁、お願い助けて。これを二回繰り返し、電話は切れた。非通知設定だった。彼女の携帯じゃない。隙をみて誰かの携帯でかけてきたんだ。その誰かを確かめたい。」
すぐに反応したのは親父の方だ。
「よし、それは俺が引きうけよう。何とかなるはずだ。石田君の携帯の番号を後で教えてくれ。よし、今日も出かけるぞ。都内で泊まりだ。そうだ、成人、明日の夕方は都内の健康ランドに移動しとけ、いいな。場所は着いたら電話をくれればいい。」
「親父、また健康ランドかよ。こういう所は、警察が真っ先に手配書を回す。だから俺は正面から中には入れない。露天風呂に忍び込むのも大変なんだ。いっそのこと観光地のホテルに泊まった方が安全じゃないかな。」
「駄目だ。お前は警官殺しで追われている。奴等も必死だ。泊まるならここが一番安全なんだ。そうだ、お前は例の二課の犬山を捕まえに行くって言っていたな。だったら車の移動は石田君にまかせよう。どうだ石田君。」
「ええ、大丈夫です。江東区にいい健康ランドがあります。名前は忘れましたが。着いたらお二人に連絡します。」
 石田は本当のことを言えなかった。死んだ妹が電話を掛けてきたなどと言えば、狂人扱いされてしまう。常識人であればあるほど世の不思議を無視するか、遠ざけようとする。理解の範囲以内で理性を働かせようとする。
 しかし、この世には理性で割り切れない事柄がいくらでもあるのだ。科学信奉者は科学的に説明出来ない事柄を退ける。それはこの世のありとあらゆる事象を現代科学が到達しえた知識内に縛ろうとするものだ。
 現代科学は百年前に比べれば飛躍的な進歩を遂げたかもしれないが、千年後の未来の人類にとって、現代科学は我々が中世のそれを連想する程度の貧弱な科学に過ぎないのだ。いずれ霊的な分野にも、科学のメスが入れられ、その全貌とまではいかないまでも、その周辺が解明される日が来るはずである。 
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