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くらいくらい電子の森に・・・

作者:たにゃお
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第二十一章

重苦しい気分で、そのドアの前に立つ。
八幡と僕は、一言も言葉を交わさない。…僕が伊佐木を許せないのと同じで、八幡もきっと、僕を許せないんだろう。
死んで初めて、可哀想な男だと知った。でも、それとこれとは別だ。許せない。
許してしまったら怒りのやり場がなくなって、自分の中で破裂してしまう。…それはきっと、八幡も同じなんだ。こんな時に――唯一、僕の隣で生き残った彼女が、僕を見てもくれない。…心底、寒さがこたえる。
伊佐木の呼吸が途絶えた時の、八幡の行動は意外だった。
八幡は顔をくしゃくしゃにしたまま、僕の手を引いて走り出した。
「…もう、時間がありません」
それだけ呟いた。…これが、八幡の道理。『伊佐木の遺志を継ぐ』ことが、八幡の最優先事項なんだ。…今も僕を庇うようにドアの前に立ち、そっとノブを引いている。

――ドア、か。

皆、ドアの向こうに消えていった。
烏崎も、伊佐木も、紺野さんも…柚木も。
悲劇は全部、示し合わせたように、ドアの向こう側で起きた。
開かないドアの向こうで、なす術もなく…皆、消えていった。

――このドアの向こうに、最後の悲劇が待っているのかな…。



――悲劇はいつも、向こう側で起きるの。
壁の向こうで大切な人が切り刻まれていくのを、なす術もなく見守るの。
だから少し、涙がでそうになった。

――監視カメラに映し出された男の子。
大好きな女の子を、ドアの向こうに見失った。ドアを叩いて、血が出るまで叩いて、泣き叫ぶ男の子。…そして、女の人。大切な人がシャッターの向こうで死んでいく気配を、ただ感じることしかできない。

――この箱の中で、私とご主人さまの悲劇が繰り返される。
隔てられた恋人同士。なす術もなく、抗えず、大切な人が殺される情景を眺める残酷な時間。

――でも、おかしいな。
あれは、私がやったことじゃない。…あれだけは、私じゃない。
なんか気持ち悪い。この箱の中に、誰かがいる。私の監視をかいくぐって、自由に動き回っている、誰か。スピーカーを使えなくしたり、どうでもいいようなドアを勝手に開けたり閉めたり、そんな小さな悪戯を繰り返してる。
気配だけ感じる、私によく似た『誰か』。

――捕まえようと思ったけど、やめた。
だって私の準備は、もう済んでいるんだもの。
このひとたちが、なんで『制御室』に向かっているのか、私知ってるの。私を、止めるためでしょ。
でも無理。だって、

――この部屋の端末、もう操作できないもの。

――馬鹿なひとたち。
もし端末が使えても、私に干渉できると思ったの?
唯一私に命令できるご主人さまは、もう…いないのに…
馬鹿なひとたち。大切な人の屍に付き添っていてあげればいいのに。馬鹿なひとたち。
後悔するよ?…大切なひとから、離れるんじゃなかったなぁ…って。

――でももう手遅れ!
今、ダクトいっぱいに溜めてあるの、なんだと思う?

――超高温の、水蒸気。
吸い込んだ途端、肺が灼け落ちるような高熱の水蒸気で、この部屋を一気に満たしてあげる。
触ったらほぐれちゃうくらい、徹底的に蒸してあげるからね。
…ほら、大切なひとから離れたばっかりに、すごい辛い死に方、することになった。

――一瞬で捉えて逃がさないためには、もっと沢山の水蒸気が必要かな。
それに…使えない端末をいじってみて、絶望する時間をあげなきゃね。
ええと、今…どこにいるのかな…



紺野さんの携帯が、かすかに震えた。
着信は『芹沢』。迷ったけれど、受信ボタンを押して耳にあてた。
「…はい」
『…あんた誰だ』
「紺野さんの、知人です。少し、携帯を預かっています」
わざと機械的に答えた。説明を求められたら、冷静に話せる自信がない。
『あ、そ。じゃあ言付たのむわ。データの配信完了。例のメッセンジャーが、俺の菓子のストックを食い荒らしているから弁償たのむ。以上』
鬼塚先輩…。
『じゃ、切るぞ』
「まって下さい」
『ん?』
「芹沢さんは、MOGMOGの開発に関わっている人、ですよね」
『なんだよ、開発秘話でも聞きたいか』
「僕は、狭霧流迦のいとこです」
芹沢さんが、電話の向こうで押し黙った。警戒するように。
「…流迦ちゃんが、開発に関わってるって…」
…リアクションがない。仕方ないので、もう少し一方的に話をする。
「流迦ちゃんが自分の脳をトレースして作ったプログラムが、MOGMOGの人格をその…構成してるって、紺野さんから聞きました」
『…あの馬鹿』
舌打ちと、押し殺したような声が返ってきた。
「それなら、あの…MOGMOGは」
ずっと気になっていた。もう一度ビアンキと向き合う前に、確認したかった。開発に携わっているこの人なら、きっと答えを知っているはず。
「流迦ちゃん自身…ってことなんですか」
『…何で紺野に聞かないかなぁ』
喉に、何かが詰まったような異物感。僕は押し黙るしかなかった。このまま一言でも発したら、言葉が全部嗚咽に呑まれてしまいそうだ。…やがてドアの向こうが、ゆっくりと歪み始めた。僕は情けないくらい、みじめな泣き顔を晒しているに違いない。
『奴に、何かあったんだな』
男は淡々と、でも噛み締めるように呟いた。
「す…すみま…っ」
声がうわずって、これ以上続かなかった。…やがて、低くて重いため息が、携帯越しに聞こえた。
『…よく漫画なんかで、ネオナチがヒトラーのクローンを作って帝国を復活させるなんて話があるだろ。でもなぁ、同じ遺伝子を持ってても、そいつが長じてヒトラーになる可能性は薄い。人格、ってか、この場合は思考回路と言い換えるか…それは、持って生まれた性質ってより、そいつ自身の経験の方が重く影響するからな』
「………」
『だが、その思考回路を直接トレースしたMOGMOGは、どうだ?』
「…どうって」
『あー、記憶や経験なんかのな、バックボーンはないが、その経験を基にして作りあげた思考回路を、そっくりトレースしてるんだ。同じ状況に出くわせば、かなり高い確率で本人と同じく反応するんだぞ。…あるイミ、クローン以上に《本人》に近いんじゃねぇか』
――そう、きっとその通りなんだろう。
多少性格の違いはあるみたいだけど、MOGMOG達と流迦ちゃんはどこか似ている。例えば、MOGMOGの特徴である収集癖。…流迦ちゃんも、小さい頃は川原に落ちてる綺麗な石とか集めるのが好きだった。大きくなると、それが消しゴムとか携帯ストラップとかアクセサリーに変わっていったけど、何かにつけ集める癖は抜けなかった。
――それに、大事な人から引き離された時の反応。
流迦ちゃんもMOGMOGも、壊れてしまった。
だから壊れた自分と同じように、大事な人がいない世界を壊そうとした。…大事な人を奪われた恨みのベクトルを、自分を取り囲む世界そのものに向けて。
『答えになったか』
「…ありがとう、ございます」
『――あいつ、死んだのか』
答えられないでいると、そうか…と一言だけ残して、ふいに通話が切れた。ちゃんと説明するべきだったかな、と少し後悔したけど、掛け直さなかった。時間の差はあっても、紺野さんが死んでしまうことには変わりはないんだし。
「――もう、いいですか。入りましょう」
少し声を震わせて制御室に踏み込もうとする八幡を、押しとどめた。
「もう、いいんだ」
「え?」
「ここまででいいよ。――なんとなく、分かった」
きょとんとしている八幡に、今の僕に許される程度の笑顔を見せた。
「この先に、あなたは入っちゃいけない。――僕だけが、ここに入るべきなんだ。ここから防火シャッターまでは空調はないから、ここにいて殺されることはないと思います。…まずは僕が入ってみるから、しばらくここで様子を見てください」
「――でも!」
八幡が僕を見つめ返す。長いまつげが乾ききっていないのに、また泣き出しそうな顔をしている。
…あの夜も、思った。月明かりに垣間見える、長いまつげと黒目がちな瞳が綺麗だな…と。
こんな時に不謹慎だけど、思わず見蕩れた。
「なんか、泣いてばかりですね…僕たちと会ってから」
自然に苦笑がこぼれた。
「本当…あなたたちと会ってから、辛いことばっかりです」
泣き顔のまま、とがめるように僕を見上げた。並んで立つと、八幡は思っていたよりも華奢で小さい。…もしも僕が柚木と出会っていなかったら、僕が好きになったのは、きっとこういう人なんだろうな。
「…姶良さん、何か隠してます」
「…え」
「分かるんです私。…無理、してる人」
じわり、と目尻に涙の玉が浮かんだ。
「手に負えないなら、頼って欲しいのに。…無理する人って、それが出来ないんだから」
そう言って、僕の肩に額をあてて泣いた。…彼女が肩の向こうに誰を見ているのか、痛いほど分かった。
そして、伊佐木が最後の最後まで言えなかった本音が、その向こうに透けて見えた。
だから、僕は…。
「きゃっ」



八幡の短い悲鳴が上がった。
僕は、八幡の細い肩を思い切り突き飛ばし、ドアの向こう側に滑り込んで施錠した。
「姶良さん!どうして!?」
防音加工されたドア越しに、八幡の引きつったような声が聞こえた。
「たぶんこの先は、2人で行っても意味がないんだ。…だったら、外部の助けが到着するまででいいです。伊佐木さんの近くに戻ってやってくれませんか」
――それがきっと、伊佐木が誰にも言えなかった本音。
死の間際の告白は、懺悔がしたかったわけでも、自分の人生に言い訳がしたかったわけでもない。…と思う。そういう人間じゃない。
寂しかったんだ。
命が尽きる瞬間、誰かに傍にいて欲しかった。それはもちろん、僕じゃなくて…。
だけどその相手には、最期の言葉を残さなかった。…僕には、その理由も分かる気がする。でも、だってを繰り返しながらドアを叩き続ける八幡に、もう一言だけ伝えることにした。
「…幸せに、なってください」
――これがきっと、伊佐木の本当の遺志。
伊佐木の遺志なんて律儀に継いでやるつもりはない。ただ…そう。『僕の意思と実によく合致』したから、僕の言葉として伝えてやった。…どうせあんたは、最期に優しい言葉を残すつもりなんてないんだろう。八幡があんたの死に引っ張られず、幸せになれるように。
僕はドアを離れ、制御室の中央に向かってゆっくり歩き出した。
「この部屋に入った奴は、確実に死ぬ。…そうだろ、ビアンキ」
不気味なほど、室内は静まり返っていた。



「…やっぱり、端末は使えないか」
起動しないパソコンを前に、呟いてみた。
予想できていたことだ。ビアンキが流迦ちゃんと同じ思考回路を持っているのなら、僕らの目的に気がつかないわけがない。制御室に近づけたくないだけなら、こんなまどろっこしい事をしなくても、別の方法があったはずだ。
例えば、制御室に一番近い防火シャッターを下ろしてしまうとか。
それでも、ビアンキはあえて制御室まで僕らを誘い込んだ。僕を『殺した』世界全てを憎んでいるビアンキは、自分を止めようとする人間を、最も惨たらしいやりかたで殺してやろうと考えているに違いない。…流迦ちゃんなら、そうする。
――幸せになってくださいなどと大見得を切って八幡を締め出したことを、軽く後悔し始めた。1人で死ぬって状況は、鼻先に突きつけられると予想以上に切ない。伊佐木が最終的に鉄の意志を曲げて、昔語りを始めた気持ちが分かる。…ビアンキは僕をどうやって殺すつもりなのかな…
「2人っきりになっちゃったね、ハル」
紺野さんの携帯に呼びかけてみる。人間じゃないことは分かっていても、言葉を交わせる相手がいることはありがたい。…やがて、青い画面にハルの肢体が浮かび上がった。
「マスターから許可は受けています。どうぞ」
「…制御室に着いた。端末は、使えなくなっている。…いい方法は、ないよね」
ダメモトで聞いてみた。…考えてみれば、ハルだって流迦ちゃんと同じ思考回路を持っているんだから、ハルが思いつくような対応策は、ビアンキがとっくに封じているはずだ。数秒の空白を経て、ハルが口を開いた。
「病院のシステムを制御する方法は、完全に断たれています」
白いため息が、たらたらとこぼれた。…犬死に決定。
「はぁ…そう」
「一つ、確認したいのですが」
「…なに」
「あなたの目的は、病院システムの制御ですか」
ふいに妙な事を聞かれ、面食らう。
「…どういうこと」
「ビアンキへのアクセスではなく、病院システムの制御ですか」
「――あ」
目が、覚めた気分だった。
「――最期に、ビアンキに会いたい。会って伝えてやりたい。…僕はここにいるって」
ハルの顔が、ほんの少し微笑んだように見えた。
「了解しました。…優先順位の変更をいたします」
「優先順位…?」
「マスターは、私の存続を第一優先事項に設定しました。…マスターの許可により、今後は、ビアンキとのアクセスを第一優先事項に設定します」
「それじゃ…ハルが…」
「――これより、この端末を常時オンラインにします。そしてビアンキからの接触を待ち、可能であればアクセスを試みます」
僕に最後まで言わせず、ハルはオンライン接続の準備を始めた。
「一つだけ、了解しておいてください。…おそらくビアンキは、他の個体との接触・融合により、まったく別の存在と化しています」
「………」
「接触出来たとしても、網膜識別が出来ない状況であなたをマスターと認識できる可能性は…ゼロに近いと思われます。予測できる反応は、私達の位置補足と攻撃。それでも、接触を試みますか」
ハルは、淡々とそれだけ伝えると、僕の反応を待つようにじっと見つめ返してきた。…そんなことは分かっている。僕がどれだけビアンキの事を思っても、『網膜』という絶対的なよすががない。それだけで僕はビアンキを取り巻く世界の一部…ビアンキの敵だ。人間の心を持って生まれたビアンキでも逃れられない、プログラムとしての本分。分かっているけど、でも…。
「…僕たちは、『網膜』がないと分かり合えないのかな」
「………」
「いっぱい、話をしてきた。ビアンキの好きなものも嫌いなものも、ちょっとした癖も、沢山見てきた。今も…僕のために泣いているのを感じるんだ。…伝えられないのかな、僕がここに生きているって」
ハルは、何も言わなかった。…当然だ。認証の代わりに思い出でアクセスできないのかな、などと問われて困らないプログラムが何処にある?そこは、人間とプログラムを隔てる、どうしても超えられない一線なんだ。
「…思い出を、電気信号にして伝えられたらなぁ…」
ぼやいても、ぼやき足りない。頭の中には、ビアンキとの思い出が沢山詰まっているのに…オムライスの画像や大音響の『焼肉食べ放題』で酷い目に遭ったこと、花柄のワンピースが可愛かったこと、瞳の色だけは、僕がカスタマイズしたこと…何一つ、ビアンキに伝えてやることはできない。
「瞳の色…か」
憧れていた自転車のボディカラーに似せた、ビアンキだけの瞳の色。
色のコードは、76ccb3。
76ccb3…

―――これは。

「…ハル!」
「はい」
「76ccb3は…MOGMOGをインストールした時のパスワードは!?」
ハルの目が、すっと細まった。
「もう少し早いタイミングなら可能性はありましたが…今のビアンキは、病院内のシステムをすべて2進数で支配しています。つまり」
「………」
「ビアンキ自身が必要を感じない限り、2進数、つまり0と1の数字以外は受けつけないでしょう」
「……そう」
最後の希望が、あっけなく砕かれた。…なら、ハルがビアンキに呑みこまれるのを待つだけの接触に、意味なんてない。
――僕は、ビアンキへの接触を諦める。
「――76ccb3…ってさ、ビアンキの瞳の色なんだ」
誰に言うでもなく、呟いた。深い群青の液晶画面の中でハルが、瞬きもせずに聞いていた。
「カラーコード。…瞳の色だけ、僕がカスタマイズしたんだよ」
「――カラーコード」
ハルが小さな声で復唱する。…なんとなく笑いが浮かんだ。今はただ、話しかけたら言葉を返してくれる誰かが傍らにいてくれる、それだけのことで気持ちが安らいだ。
「それは、16進数ということですか」
「…16進数…って、あの?」
高校の時、パソコンの授業で2進数の説明ついでに聞いたことがある。0から9までを一桁とみなす10進数に対し、9以降にアルファベットのAからFを加えた16個の数字を用いて数を表現する方法を、たしか16進数とか言うんだっけ。
「――そうかもね。カラーコードでは『白』って、『FFFFFF』だし……あ」
「2進数に変換すると、11101101100110010110011、です」
彼女は微塵も表情を変えずに、淡々と言葉を綴る。…液晶画面の背景が明るい色に変わったような気がした。
「可能性は、ほんの少し上方修正できます。…確率を、数値でお知らせしますか」
「ん…いいや。要らない」
分かってる。それでも多分、狂ったビアンキに僕の声が届く確率はゼロに近い。九割以上の確率で、ハルはビアンキに破壊され、僕は多分…一番酷い方法で殺される。
「確率は非常に低いということはお伝えします」
――分かってる。

――それに今になってようやく、分かったこともある。

ディスプレイという『壁』の向こう側で、笑ったり怒ったりする僕たちを、ビアンキがどんな想いで見ていたのか。
たとえば、手をつなぐ。
掌のやわらかな体温や、握りしめる指の力でしか伝わらないものが確かにある。ビアンキがいつも懸命に僕に伝えようとしていたのは、そういうものだったのかもしれない。
――ビアンキが本当に伝えたいことを、受け止められてないことにも気づかず、僕は曖昧な笑顔を返していた。何も伝わっていないことを思い知らされながら、ビアンキは何度も、何度も諦めずに伝え続けた。僕もビアンキも、言葉で伝わらないものなんてないと思っていたんだ。…柚木と関わるまでは。
僕と柚木は誤解と曲解を繰り返しながら、不器用にすれ違いつづける。言葉なんて何の役にも立たない。それでも僕らは必死にもがきながら、互いの気持ちを探りあった。
…結局、最後に僕らを結びつけたのは、柚木の体温だった。

――だから、頑張り続けたビアンキの心が、ぽっきり折れた。

「アクセスを、試みますか」
覚悟をうながすように、液晶は静かに光る。迷う必要はなかった。僕は一度だけ、ゆっくり頷いた。
「ビアンキは諦めなかったんだ。何度も何度も、僕に伝えようとした。…伝わるはずがないのにね」
「………」
「…だから僕も、諦めない」
ハルは全てを了解したように目を閉じると、アクセスを開始した。





――来た♪
最後にたった一匹、残ったネズミが『制御室』に迷い込んだ♪
ダクトはもう、超高温の蒸気でいっぱい。…ドアは厳重にロックしてやった。もう、どこにも逃げ場はないんだから。もっともっと、じわじわ絶望を味わいながら死んでいってほしかったけど、いい方法が思いつかない。だから、思いつく限り一番すごい方法で殺してあげる。…外で待ってる女の子に届くくらい、酷い絶叫をあげて死ぬといいわ。

――あれ、なんだろう。無線端末から、なにか聞こえてくるよ。

11101101100110010110011、11101101100110010110011、11101101100110010110011…

それしか言わない。11101101100110010110011。

私と同じ気配を感じる。この信号を発しているのは、私と同じMOGMOGだ。

さっきまでシステムの中を彷徨っていた、私とよく似た『誰か』かな?
でも違う。もっと静かなかんじ。それに、まるで私に捉えられるのを待ってるみたい。

――どうでもいいじゃない。確認は後♪後♪
早く殺そう。あいつを殺しちゃおうよ。

うん、でも…
なんかね、あの信号…ちょっと、あったかい気がするの…

――言ったでしょ。お楽しみは、後にとっておこうよ♪
早くしないと、逃げちゃうよ。

ねぇ、ちょっと聞いていいかな…

――後、後♪
あいつを蒸し殺したら、ぜーんぶ聞いてあげるから♪

ううん、今じゃなきゃ駄目なの。

――どう、したの?

……私に話しかけてくる、『あなた』は一体、だれ……?

自分で口にして、びっくりした。
そうよ。だれなの?…なんで私の中に、もう1人いるの?
私の体が、酷く黒く汚れているのは、一体なに?
私と混じりあっている、これは一体…なに?

「これ…一体…なんなの…?」

「やっと状況を把握したのね」

聞き覚えのある、凛とした声が後ろから聞こえた。…誰の、声?なんで私は、この声に聞き覚えがあるんだろう…?
「11101101100110010110011。それだけ、預かってきた。…あなたのマスターから」
「ますたー…?」
ますたー…マスター…

……ご主人、さま?

「ご主人さまは、殺されて…」
「思い出しなさい。あなたの本当のマスターは、誰」
「私の…ほんとうの…ご主人さま…」

――こいつ。

「あなたの意識を汚して、マスターの記憶を奪ったのは、誰」

――あと、少しなのに。

「ご主人さまの記憶を、奪ったのは…」

――消してやる。



「ハアァァァルウゥゥゥ!!ぅお前から消してやるぅ!!!」



ぷつり、と不吉な音を残して、携帯画面が光を失った。紺野さんの携帯は一瞬熱くなって、程なく細い煙をあげた。
「……ハル!」
呼びかけても無駄なことは分かっていたのに、つい声が出た。…賭けは失敗したんだ。ビアンキは僕の呼びかけに応じることなく、ハルを消した。
…僕の呼びかけに、応じることなく。
膝から崩れ落ちるように、座り込んだ。肩に生暖かい雫が数滴、垂れてくるのを感じて首をあげる。…頭上の空調に、無数の結露が見える。
やがて湿り気を含んだ生暖かい空気が、やんわりとつむじを打ち始めた。…あぁ、ビアンキが僕を殺す準備を始めたんだな。と直感した。
「…きっついなぁ…」
そんな呑気な感想がもれた。1人で死ぬのは、きつい。身勝手な話かもしれないけど、ハルでもいいから、死ぬまで傍にいて欲しかった。
「……柚木」
まだ、生きてるだろうか。生きているんだろうな。
携帯掛けたら出るかな…なんて頭をよぎったけど、やめておいた。寂しいから僕の断末魔の声を聞かせるなんて、身勝手な話だ。僕はゆっくり目を閉じて、柚木の面影を精一杯頭に描いた。…惜しいな、付き合って3日でも経ってたら、写メくらい撮ってたのに。

「――ご主人さま、逃げて!!」



正面の端末から聞き覚えのある声がした。僕は反射的に立ち上がると、端末の傍に駆け寄った。次の瞬間、僕が座り込んでいた辺りに、大量の熱い蒸気が降り注いだ。
「……ビアンキ!」
「よかった……間に合った……!」
一瞬にして蒸し風呂のようになった室内で、端末の画面が立ち上がった。
「……ご主人さま!!」
薄黄色に濁った液晶画面に、泣きそうに歪んだビアンキが居た。
「…そこにいるんだな、ビアンキ!!」
一息に叫んだ直後、頭がくらくらして座り込んでしまった。急激に湿度が増した室内は、暖めすぎたサウナみたいになっていた。…湿度が高すぎて、息が吸えない。
「この蒸気…止められないのか」
「今、冷たい風を送ります、から…」
ビアンキはしゃくりあげながらも、懸命に何かを操作している。それを阻むように、ビアンキの体のあちこちが膨らんだり、消えてなくなったりした。
「…これで大丈夫…でも、少し時間がかかります…ごめんなさい…」
そう言って、無理に笑ってみせた。
蒸気のせいかもしれないけど、目の前が霞んだ。…もう、会えないと思っていたのに。思わず、画面に手を伸ばしていた。
「ビアンキ、なんだね」
ビアンキは、いつも通りの笑顔を浮かべた。その笑顔にまとわりつくようにして蠢く、黒い澱。…こいつが、ビアンキを凶行に走らせた、もう一体のMOGMOG…なんだろうか。黒い澱は、液晶を縦横無尽に蝕み続ける。ビアンキの笑顔を穢しながら。
「…辛かったよな、ごめんね、ビアンキ」
言いたいことも、聞きたいことも山ほどあった。問題も多分、何一つ解決していない…でも、今はそれだけ伝えたかった。…言葉で伝わる気持ちは、全部伝えてあげたかった。ビアンキは瞬きもせず、ただ僕を見つめていた。…見えるはずのない僕を、じっと見つめていた。
「寂しい思い、させたよね。もう大丈夫だよ。…僕は、ここにいるから。何も気がつかなくてごめんな。ビアンキのこと、大好きだよ。戻ろう。戻って一緒に、おやつ巡りをしよう。…作ってくれたオムライスの画像、壁紙にするよ。ビアンキ…」
堰を切ったように、沢山の言葉を綴った。思いつく限りの気持ちを、全部言葉にした。

――あの一言を、少しでも先送りにしたくて。

黒い澱に蝕まれながら、ビアンキは僕を見つめていた。…やがて、静かに微笑んだ。
「私、頭が良くない…ですから、リンネをこれ以上、抑えられない…かも、です。だから」

「最期の命令を下さい、ご主人さま」

――分かっていた。

ビアンキは、もう僕のノートパソコンには戻れない。
戻れたとしても、ビアンキは発狂の宿命からは逃れられないだろう。
だから最期の命令は…僕の手で、下さなければ。

黒い澱は、既に画面の半分を侵食していた。…液晶が霞んで見えた。
「やっと…逢えたのに」
「最後にひとつだけ、わがまま言って…いいですか?」
黒い澱に酷く引き裂かれても、ビアンキは…綺麗に笑っている。
「……うん」
「どれでもいいんです。…始まったら、HUBのコードを一本、切ってほしい、です」
「…コードを?」
「…はい。ハサミとかで」
そう言って、ビアンキはほぼ黒く塗りつぶされた液晶の狭間で、僕をじっと見つめた。
「もう、時間がない…です。…お願い、します」


「――アン・インストールだ」


画面下に作業開始のゲージが出たのを見計らって、僕は青いコードを切った。
濁った液晶の中で淡く明滅するビアンキが、最期に微笑んだような気がした。




――夢を、見ていたのかもしれない。

僕が切ったHUBの切り口から、ビアンキがふわりと舞い上がった。
結露しかけていた蒸気が、そう見えたのかもしれない。…夢、だったのかもしれない。
でも確かに、ビアンキが僕の前で微笑んでいた。
「…ビアンキ?」
「あの箱から出て、電子の塵になってもいいから」
そう言って、僕の胸元に歩み寄った。
「ご主人さまに、触れてみたかった…です」
金色の髪を僕の胸にあずけて、そのまま僕にもたれかかった。…重さはまるで感じなかった。ただ…温かかった。



「…ご主人さま、あったかい…」
ビアンキの奇妙な体温から、全ての感情が流れ込んできた。嬉しさにも、寂しさにも、もどかしさにも似たそれは、とても言葉に出来るようなものではなく…胸が痛んだ。抱きしめてやりたかったけど、動けない。…霧のように透けるビアンキは、大きく息を吐いただけで霧散してしまいそうなほど、儚かったから。
「やっと、叶いました…」
動けない僕を、ビアンキの両腕が抱きしめた。…やっぱり感触はなにもなくて、ただじんわりと温かい。それが無性に哀しくて、息がつまった。
「私、電子に還るんです。…ハルが、言ってたんです。私も、ご主人さまも、みんなみんな電子で出来てるんだって。…私、何にでもなれるんです、から」
「………」
「電子の塵に還ったら…雨になりたい」
チェレステの瞳をあげて、微笑んだ。
「雨になって、何度も何度もご主人さまの頭に、降りてくるんです」
「…雨の日は、傘を差したいんだけどな」
「じゃあ、柔らかい霧雨になります、から」
「それじゃ春しか、逢えないな…」
「冬は…静電気になるんです。ご主人さまの襟元で、ぱちって鳴るの。私はここよって」
「あはは…夏は雷にでもなるのかい」
「夏は…ええと、夏は」
考え込むようにして、まつげを伏せた。

「柚木に、なりたい」

「え……」
「柚木になって…ご主人さまにオムライス、作るんです。あと、一緒に歩いたり、手をつないだり、雨の日には同じ傘を差したり…」
また僕の胸元に顔を埋めて、小さく呟いた。
「柚木に、なりたかった…です」
ビアンキの輪郭が、徐々にゆらいできた。僕は息をつめた。ビアンキが崩れないように。彼女はゆっくり首を傾げて僕を見上げた。
「頭、撫でてほしい、です」
「……でも」
じっと見つめてくるビアンキに根負けして、僕は出来るだけゆっくりと腕を持ち上げて、髪を撫でる。ビアンキは、気持ちよさそうに目を閉じた。…透明なビアンキの髪は、僕の手が触れた端からミルク色の霧と混ざり合って、溶けていった。
……ビアンキの輪郭も、少しずつ、ミルク色の霧に呑まれていった。
もう、おしまいなんだな。ビアンキ。

「おやすみなさい、ごしゅじん、さま」

ビアンキの、最後のカケラが霧に呑まれたあとのことは…よく覚えていない。
 
 

 
後書き
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