シャンヴリルの黒猫
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32話「スレイプニル (2)」
その“馬”、魔獣スレイプニルは、食い入るようにじっと3人を――否、アシュレイを見つめていた。スレイプニルと4人を隔てるものは、木製の柵だけ。スレイプニルの後ろ脚には極太の鎖と重そうな鉄球が置いてあったが、そんなもの魔獣の前には僅かな足枷にすらならない、羽毛のようなものだ。
「なんで……あ、貴方、これがどんな存在か分かっているのですか!?」
クオリが店主に詰め寄るが、店主は飄々と答えた。
「分かってるとも。Dクラスの魔物さ。だが大丈夫。こいつは生まれてすぐ人に育てられたから、襲ったりしない。自分より人の方が強いと思っているからな」
(なるほど)
どうやらこの店主、全く気づいていないらしい。この“馬”は、魔物でなく魔獣で、人語を解す知性を持ったけものであるということに。
(つまり、親元から仔を攫ってきたというわけか。……下衆が)
当然クオリは気づいているから、真っ赤になって怒鳴ろうとしたが、それは寸でのところで止められた。ユーゼリアが店主に、今にも飛びかからんとする勢いで尋ねたからだ。ずり落ちかけたフードを、アシュレイが止める。クオリが慌てて深く被り直した。
「じゃ、襲ってこないのね!?」
「おう。だが、長年世話してる俺も、いまだヤツに懐かれていない」
(そりゃそうだ)
誰が格下に懐くものか。そもそも、本能に従う魔の者が、今までこんな閉鎖された空間で暴れださなかっただけで奇跡だ。それも【魔の眷属】ともなれば、彼らが首をたれるのは、圧倒的な実力差を持つ相手のみである。
アシュレイが元・魔ノ者として、目の前の人間に対する内心のイライラを、深呼吸でどうにか処理しようとしている間も、魔獣はじっと彼を見つめていた。
「ヤツが頭を撫でることを許したら、お嬢ちゃんの勝ちだ。兄さんたちも参加権はあるぞ」
「よぅし、じゃ、私から行くわ!」
「ッおい、ちょっと待て!」
アシュレイが慌てて止めるも、時既に遅し。ユーゼリアは柵の向こう側へいってしまった。
「リアさん!」
クオリも悲鳴をあげるが、そのとき既にユーゼリアは、スレイプニルの頭に手を伸ばしかけていた。
――手ヲ出スナ
びくりと、魔獣が震える。
――彼女ヲ襲ッタラ、貴様ヲ殺ス
そのまま、ユーゼリアの手がスレイプニルの頭に触れる――直前、スイッと頭が手をよけた。
攻撃は、しなかった。
ユーゼリアは諦めきれないのか、再度手を伸ばすが、全て避けられる。いっそ抱きついてやろうかと身構えた瞬間、ぐいっと後ろに引っ張られた。
「ぐぇっ」
乙女らしからぬ声を上げると共に、フードを引っ張られたのだの知ると、ユーゼリアは軽く咳き込みながら引っ張った犯人――アシュレイに文句を言おうとした。が、言えなかった。
「いい加減にしろ。危ないだろう」
アシュレイの目は本気だった。初めて彼に本気で怒られたユーゼリアは呆然としつつも、手を引かれ柵から抜けた。その間、まるで守られるようにして彼に肩を抱かれながら。
夢心地のまま柵を出たユーゼリアだが、そうさせた張本人の、押し殺した声で、再び現実に戻る。
「いやぁ、残念でしたね。これで兄さん方も駄目でしたら――」
「――店主」
「は、はい!?」
自分の思惑どおりに事がすすみ、良い気分でべらべらと喋っていた店主も、アシュレイの声に、悲鳴のような声で返事をする。気のせいか殺気の籠もった睨みに、青ざめた。
「……あれは、Dクラスの魔物ではない。あれは【魔の眷属】第六世代、スレイプニル」
「……は?」
「だから、あの馬は魔物じゃない、魔獣だと言っている。それも、よりによって第六世代の」
ようやく理解し始めたのか、店主の顔色が先のクオリと同様白くなってきた。
「…そ、そんな馬鹿な……だって、あの紫銀の鱗と、灰色のたてがみは…ッ!」
「まあ、分からぬのも無理はない。あれはまだ幼体だからな」
「何!?」
腕を組んで壁に寄りかかるアシュレイの言葉を、クオリが引き継いだ。
「スレイプニルの最大の特徴は、魔獣特有の単独行動の他に8の眼と8の脚を持つことですが、それは成体の特徴となります。生まれたばかりのスレイプニルには、脚は通常の馬と同様4本しかありません。成体になると、脱皮と共に脚が8本に増えます。それまでは、自分と同種でただ能力的には格下の魔物に擬態して、群に紛れて過ごします。そして偽りの母親に狩りを教わり脱皮して成体となってから、独り立ちし、単独行動をとるようになるのです。
脱皮するまでは、確かに外見で判断するのは難しいですが…これはなんとも、運がいいのか悪いのか……」
確かにその通りだが、よくここまで詳細を知っているものだと、少々感心した。
「ば、馬鹿な。なら何故今までこいつは暴れなかったんだ!? そもそも魔獣だっていうことが何故わかる!」
「……それは」
「それはわたしがエルフだからです」
アシュレイがどうかわそうか思案していたとき、クオリがフードを下ろした。浅葱色の髪を耳にかけ、それを証明する。
「エ、エルフ!?」
「これで信じていただけるでしょうか?」
店主は惚けたようにクオリを見つめたまま、夢現で頷いた。
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