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メリー=ウイドゥ

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第二幕その五


第二幕その五

「何も」
「おや、そんな筈が」
「何も思いませんが。それが何か」
「またそんな意地悪を」
「意地悪ではありませんわ」
 楽しむ感じで彼から顔を背けて述べる。
「本当ですわよ。私は何もお話することはありません」
「それではですね奥様」
 しかし彼も伊達にパリの男ではない。巧に人妻の心に入り込んでいく。彼女の耳元に近付いてきてそっと囁くのであった。
「頂きたいものがあります」
「それは何ですの?」
「思い出の品を」
 彼は言う。
「何か頂きたいのですが」
「ではこれを」
 夫人はそれに応えて自分の手に持っている淡い赤の扇を差し出してきた。そこには白く字が書かれていた。カミーユはそこに書かれている字を読んだ。
「私は貞淑な人妻です」
「そうです」
 夫人もその言葉に頷いてみせる。
「ですから」
「それではこの文字は貴女から離れました」
 こうきた。夫人もそれは読んでいる。
「これで貴女は」
「私は?」
「薔薇のつぼみが五月に咲くように愛の花が心に咲かれたのですよ」
「また御冗談を」
 またしてもその言葉を笑って否定する。
「私の心は今も」
「幸福が芽生えた筈です。これまで気付かなかった不思議な夢が。私はそれに憧れます、しかし」
「しかし」
 顔を向けたのも計算のうちであった。カミーユもそれがわかっていたのでさらに夫人に対して囁きかけるのであった。完全に狙いが当たったのだった。
「それと共に私は去らねばなりません。私の心の春の光は翳り、蕾は枯れてしまうのです」
「何と悲しいこと」
「そうです、私の心は悲しみに覆われます」
 あえて悲観的に言う。
「ですがそれを避けることもまたできます」
「それはどうすれば」
「貴女の力が必要です」 
 じっと夫人の目を見詰めてきた。夫人も見詰め返す。
「貴女の力こそが」
「私の力ですか」
「そうです。奥様」
 彼女の両肩に手を置いてきた。ドレスから露わになっている両肩に。
「ここで私と共に」
「貴女と共に」
「共に楽しい一時を。宜しいですか?」
「それでも私は」
「貞節は先程貴女から離れられたではありませんか」
 ここで先程のことを出してきた。
「ですから貴女は」
「私はどうすれば」
「ここで私と共に」
「貴女と共に」
「楽しい一時を」
 そのまま逢引に入ろうとする。しかしここで誰かが来た。
「ふむ。ここなのか」
「あの声は」
 男爵夫人は今聞こえてきた男の声に眉を顰めさせる。他でもない、自分の夫の声だったからだ。
「いけない、このままでは」
「確かに」
 カミーユもそれに頷く。
「早く隠れなければ」
「そうですわね」
「しかし間抜けな話だな」
 男爵はここにカミーユがいることはわかっていた。しかしもう一人についてはわかってはいないままであった。本当に彼が言う通り間抜けなことに。
「何がですか?」
「だからその人妻の夫がだよ」
 自分のことを何も気付かないまま秘書に対して言う。
「ここはパリだよ。フランス男がしたなめずりしている場所に自分の妻がいるのに警戒一つもしないなんて。狼に餌をやるようなものさ」
「狼ですか」
「フランス男は美女と美食と美酒に関しては狼さ」
 実に欲張りな狼である、
「だから危険なんだよ。わかるかね」
「はあ」
「しかしまあ。誰なのか」
 その人妻に対して思う。
「顔を見てみたいな」
「あれ、男爵」
 ここでハンナと踊り終えたダニロがふらりとやって来た。
「どうしてここに」
「おや、閣下」
 男爵も彼に顔を向けて声をあげる。
「どうしてこちらに」
「いや、少し涼みにね」
 そう彼に答える。
「来たのだけれど一体何をしているんだい?」
「まああまり趣味のいいものじゃありません」
 自分でもそれは自覚していた。
 
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