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くらいくらい電子の森に・・・

作者:たにゃお
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第十九章



一般病棟の受付を覗いた瞬間、惨状に足がすくんだ。
AEDで命をつなぐ病人や、暴走した医療機器に傷つけられ、頭や肩から大量の血を流して転がる病院関係者の体が、受付ロビーを満たしていた。瀕死の人がもらす呻きが、胸をえぐるようだ。時折、受付の電光掲示板が受付番号を表示してアラームを鳴らすが、誰も反応しない。
ロビーを通り抜けるあいだ、何度も助けを求められた。でも立ち止まることすら出来なかった。立ち止まっても、何も出来ることはないから。…途中、ぴくりとも動かない人間をまたいだ。死んでたかもしれない。床にまかれた血に足をとられるくらい、ロビーは血の臭いに満ちていた。
「鬼塚先輩だけでも、逃がしてよかった」
自分を慰めるように、1人ごちてみた。柚木が、軽く背中を押して同意してくれる。紺野さんが、通りすがりの看護士を1人掴まえた。
「なぁ、何があったんだ」
「…い、医療機器が、突然暴走したんです。原因は調査中みたいだけど…」
若い看護士は、しどろもどろの口調でそれだけ告げると、血溜りに足を滑らせながら足早に遠ざかって行った。右往左往する看護士の間を縫って、紺野さんは階段に向かおうとする。僕は咄嗟にその腕を掴んだ。
「…何だ」
「…さっきから、だれも上の階に行こうとしないじゃないか。それに誰も降りてこない。治療するにも、物資は全部上にあるはずなのに」
「それが何だ」
「多分…上はだめだよ。もうこんなの、僕らの手に負えない」
紺野さんは一瞬ためらう素振りを見せたけれど、すぐに袖を振り払って歩き出した。
「だったらなおさらだ。…お前らは来るな」
「何で!?こんなの…むやみに突っ込んだって死んじゃうだけだよ!」
泣きそうな声で腕を掴む柚木に、紺野さんが柔らかく視線を落として肩に手を置いた。
「ビアンキは、姶良のノーパソからモデムを経由して病院のネットワークに侵入したんだ…これが、どれだけ怖いことか分かるか?」
柚木は分かったような、分からないような顔で紺野さんを見上げている。
「…病院ってのは、急患の対応とか緊急性や重要性が高い情報をやり取りする機会が多い分、病院同士のネットワークがしっかり構築されていることが多いんだ。ビアンキがそれに気がついたら、そのネットワークを通じて他の病院にも被害を及ぼしかねない。それはこの病院を中心に、蜘蛛の巣のように広がるだろうな。100、いやもしかしたら1000以上の病院施設が一瞬でこの世の地獄になる」
…紺野さんは『病院施設』と言ったけど、多分そんなものじゃない。
数え切れないほどの『人が集まる施設』で同じことが起こる。
そして、カールマイヤーを止められる流迦ちゃんは、この病院にしかいない。下の階に逃れて助かった人がいるのは、流迦ちゃんのおかげだ。もし市役所で、学校で、会社で、テレビで、一斉にカールマイヤーが流れたら…?
一斉に始まる大量虐殺を、誰が止められる…?

――眩暈がした。

こんな…こんな酷い状況にいるのに。その中心にいるのは、間違いなくビアンキなのに。
脳裏に浮かぶビアンキは、今も弱々しく泣いているんだ。
ただ僕の姿を求めて。
「…行くよ」一瞬も、迷う余地なんてなかった。
「来るな。何かあったら、お前らの親に合わせる顔がない」
「紺野さんの言うような事が起こったら、多分3日とあけずに僕も、親も死ぬ」
紺野さんは何か言いかけたけど、鼻から息を吐いて踵を返した。僕が歩き出すと、柚木もついてきた。階段を伝うように、誰かの血が細く糸を引いて流れていた。踊り場に見える黒い塊が、多分…。



踊り場を越えて2階に辿り着くと、1階の惨状に輪をかけて酸鼻な光景が広がっていた。開け放たれた病室、暴走した生命維持装置。もう死んでいるはずなのに、病床でびくんびくん跳ねる患者の死体。その真上で死体をあざ笑うようにぐるぐる回って絡み合うアーム。全ての病室で、そんな惨状が繰り広げられていた。それでも少しでも動ける患者は、ベッドの下に逃げ込んでいつ果てるともしれない機械の乱舞に怯えている。…こんな状況だっていうのに、僕は自分の吐く息が異様に白いことに驚いていた。柚木が、同じように白い息を吐きながら呟いた。
「…すごく、寒いね」
「空調も乗っ取られたか…機械には寒いほうが好都合だからな。多分このまま、がんがん冷やされるぞ。冷やされるだけならいいけどな…」
そこまで言って、紺野さんは一旦口をつぐんだ。
「…まぁ、空調を使えるなら、俺達を追い詰める方法はいくらでもあるってことだ」
「…そうだね」
すごく嫌な想像が頭をよぎった。皆、そんな顔をしていたけど、誰も口に出して言おうとしなかった。
「姶良。中央システム制御装置がありそうな場所は分かるか?」
「分からないけど…見取り図通りなら、2階の奥のほうに『制御室』っていうのがあるよ」
「よし…別施設で管理してたらどうしようかと思った」
そんな可能性もあったのに闇雲に病棟に突っ込んだのかよ、と内心呆れたけど、そもそも別施設で管理されてたら、どのみち僕らの手に負えなかったから同じことだなと思い直す。
「でも、そこって本当に制御システムを管理してるの?」
柚木が当然の疑問を挟んだ。確信もなく病棟へ突っ込んだ事といい、制御室と聞いただけでシステム制御室と決めつけて乗り込もうとしている事といい、僕らは今、危なっかしいくらい希望的観測で動いている。
「そうだな…制御ったって色々あるからな。…よし、これは賭けだが…」
紺野さんが携帯の電源をONにした。青い起動画面が解けるように消えて、ハルが顔を出した。
「お呼びでしょうか」
「すまないな、こんな時にオンラインにして」
「ここのネットワーク環境は、とても危険な状況にあります。オフラインモードに切り替えますか」
「いや、オンラインの必要があるんだ。…この建物内部の、中央制御システムの位置を調べられるか」
数秒の沈黙の後、ハルが無表情に口を開いた。
「それには、ここのネットワーク環境に侵入する必要が生じます。再度申し上げますが、現在ここの環境は、とても危険な状況にあります。特にMOGMOGの侵入は、大変なシステム的リスクを伴います」
「そのMOGMOGっていうのは、かぼすも含まれるの?」
柚木が携帯を覗き込んで尋ねた。再び数秒の沈黙を経て、ハルが首を傾げた。
「分かりません。私に比べればリスクが少ないことは確かですが、確実な安全は保障できません。…通常の市販型MOGMOGならばビアンキは重要視しないでしょう。でも、かぼすはビアンキに面が割れています」
「…分かってる…」
柚木は少しの間、考え込むように顔を伏せていたが、やがて意を決して顔を上げた。
「ねぇ、もう一回だけお願い、かぼす。とても大事なお仕事なの」
画面の隅に、かぼすのふくふくした顔が現れた。そして相変わらず緊張感のない顔で、こくんと首を縦に振って笑った。
「いいよー、じゃ、あとはハルに頼むねー」
かぼすは、ハルに何かを確認するかのように顔を振り向けた。ハルもそれに応えるようにうなずき、再び口を開いた。
「かぼすの潜伏後、この端末をオフラインに設定します」
「えっ…それじゃ、かぼすが戻って来れないじゃない!」
「リスクを最小限に抑えるためです。定期的に一瞬だけオンラインに設定します。そしてかぼすの報告を待ち、可能であればかぼすを回収する予定です」
「可能で、あれば?」
「極めて危険な環境に潜伏するのです。戻ってきたかぼすは、何らかのウイルスに感染している可能性があります。かぼすが感染していた場合は、安全が確認できるまで、病院のネットワーク内に待機させます」
「……かぼす……」
「鈴花ちゃん、いってきまーす。ここは危ないからー、1階に戻って待ってて♪」
かぼすは再びのん気な笑顔を浮かべて、イルカのように画面から泳いで消えていった。柚木は、顔を伏せたまま僕の背中に額を押し当てた。
「……私さ、かぼすの事『便利なツール』って思ってた」
「うん…」
「でも違うね。…友達、だね」
紺野さんが、少し面映いような表情で柚木のうなじを見下ろしていた。



かぼすは考えていた。

制御システムの源流を追跡しながら、ぼんやりと思考を追っていた。MOGMOGとして「覚醒」したばかりのかぼすは、言語で思考をまとめることが出来ない。浮かんでくる思考や疑問は、0と1の配列に過ぎない。でも、確かに「考えて」いた。

1階で待ってて、と柚木に伝えた、本当の意味について。

この危険な領域で活動する以上、無傷での帰還はありえない。かぼすの帰還自体が、深刻なエラー発生の原因となる可能性が高い。ハルによるバックアップが見込めるとしても、今この領域に発生している危険なウイルスは、ハルの処理能力を上回るかもしれない。
だからかぼすは、もとより戻るつもりはなかった。
ただ、任務は果たす。その際、柚木にメッセージを伝えるインターフェースは、ハルの端末である必要はないと考えた。だからこそ、1階に降りてもらう必要があったのだ。
でも何故か、それを柚木に伝えられなかった。
先刻、かぼすの内部に発生した不思議なブラックボックス。それを通すと、思考に不合理なノイズがかかり、理解不能な結論をもたらす。その結論とは、こうだ。

柚木の悲しい顔を、見たくない。

『中央システム制御室、発見』の報告に、思考が打ち破られた。同時に、かぼすの中で警報が鳴り響いた。あの危険なウイルスが、猛烈な勢いで膨らみだしたのだ。二つのMOGMOGが融合した、そのおぞましい存在は、さらに融け合いながら狂ったように回り続け、膨らみ続ける。それはもう、かぼすの目と鼻の先だった…もう時間がない。すかさず、確保していたインターフェースに情報を流す。



そして…ほんのコンマ数秒の演算のあと、おまけに一言だけ、ずっと思考を占めていた言葉をインターフェースに流した…。

やがて、かぼすのいる領域を、黒い霧が呑み込んだ。



「かぼすの現在位置、ロストしました」
ハルの無機質な報告が、僕らの間の空気を張り詰めさせた。祈るように指を組んでいた柚木は、そっと指をほどいて掌に顔を埋める。…やがて、その指の間からため息が漏れた。気安い慰めの言葉も掛けてやれず、僕は途方に暮れる。
「…おい、見ろ」
紺野さんが上ずった声をあげた。柚木は顔を上げる気配がない。僕は柚木に遠慮するように、出来るだけゆっくりと首をもたげた。
「何を」
「総合受付の、電光掲示板だ!」
促されるままに顔を上げて、診察の順番なんかを表示する電光掲示板に首を振り向けると、不可解な文字の羅列が視界に飛び込んだ。

――2かいおく せいぎょしつ

2かいおく せいぎょしつ。
流れては消える言葉を何度も頭の中で反芻する。
「2階奥…制御室…?」
…そうだ、2階奥の制御室!僕が覚えていた見取り図の通りで正しかったんだ。そしてこのメッセージを送ってきたのは…。
「――かぼす?」
か細くて消えてしまいそうな声が、柚木の唇から漏れた。その声に反応するように、電光掲示板の言葉が切り替わった。

――すずか だいすき

その文字の羅列は、数回か細い瞬きを残し…やがてふっつりと消えた。
「かぼす……!!」
短い悲鳴と共に、柚木が膝をついた―――――



ランドナーのハンドルがふいに『かりっ』と切れて、俺は道路脇の薮に投げ出された。
半端ない坂道をノンブレーキで下ってきたのだ。60キロ近い加速がついた俺の体は、激痛を感じる間もなく地面に叩きつけられ、激しくバウンドしながら転がった。耳元で『ぐしゃり』『ごり』『しゅば』と嫌な音がした。
「…っつ…」
…痛い。しかし声は出る。腕をついて半身を持ち上げてみた。…凄く痛いが、腕も問題なく動いた。足も二、三度曲げ伸ばししてみる。打撲系の激痛が走るも、骨が折れてる感じではない。運がいいな、俺は。
――体の無事を確認すると、ふいに追っ手が気になって首をもたげてみた。ノンブレーキでカーブがきつい山道を下ってきたのだ。車相手といえど、相当距離を稼げたはず…

という俺の考えが甘かったことを知り、愕然とした。

追っ手の車は既に、最後のカーブに差し掛かっていた。俺を見つけるまで、あと10秒といったところだろう。いや、もう見つかっているのか。しかもデータを入れたリュックは、転んだ拍子に崖の向こうに落ちていった。
この坂道をあと1kmも下れば、目的地だったのだが。…呪われたランドナーは所詮、持ち主を呪うだけだ。奴がもたらすのは不運であって悪運ではなかった…。
…眩暈がした。現役受験生の頃、第一志望の受験票をなくした時に、同じような眩暈に襲われた覚えがある。これを絶望感と言うのだろうか。
すまん、姶良よ。俺はここまでだ――
ふいと視線を落とすと、リュックが落ちていった崖の下を覗けることに気がついた。
「…ありゃ」
四角いコンクリートで舗装された『崖』は5m足らずの高さだ。崖の下は、ここと同じく舗装された道路。ほぼ目と鼻の先に、俺のリュックが転がっている按配だ。
「意外と降りやすそうだな…」
…とはいえ、リュックと同じく崖下に放り出されていたら大怪我はまぬがれなかった。重畳、重畳。
ランドナーが転がっている方を伺う。丈の高い枯れ草が偶然カムフラージュしてくれて、道路からは見えなそうだ。俺も息を潜めて枯れ草の合間に体を沈める。冬だというのに、嫌な汗が腋を伝う。通り過ぎろよ、そのまま通り過ぎろ……!もう、ビリケンから実家の近所で奉ってた安産の神まで、頭に思い浮かぶ全部の神に祈りまくった。

――追っ手の車は、あっけない程やすやすと俺達の横を通り過ぎた。

肺の中の空気を一気に吐き出し、深いため息をついた。…白い。そして寒い。いや、そんなこと思ってる場合ではない。
痛む体を騙し騙し、慎重に崖を下る。そして周囲を見渡し、リュックを拾う。…ここの山道は確か、ひどく蛇行する一本道だった。ということは奇しくも近道に成功したということか。しかしランドナーがコケて、機動力は格段に落ちた。このままでは追いつかれるのは時間の問題…多分、猶予は1分もないだろう。だったらやはり何処かに隠れて追っ手をやり過ごしてから目的地に向かうべきか?

しかし、追っ手が目的地を知っていた場合は?

先回りされて拿捕されるだろう。俺が突然姿をくらましたことに頓着もせずに通り過ぎたことを考えると、多分奴らは俺の行き先を知っている。さて、困ったな。

諦め半分に目を上げた瞬間、俺の中で希望と焦りがないまぜになって膨らんだ。

ここから見える、次のカーブにさしかかる辺り…100メートルは先になると思うが、その先に、山腹を切り開いて作られた駐車場が見えた。駐車場の奥には、古びた寮のような…『少年自然の家』のような建物が見える。
間違いない、こんな山腹に不自然に建つこの建築物は、姶良が言っていた『MOGMOG開発室』とやらに違いない。
その発見と同時に、不吉な排気音が背後から迫ってくるのを感じた。…走るしかない。俺はリュックを引っつかんだまま、狂ったように全速力で走り出した。



空気が薄い。息が詰まる。…全身が痛い。
今、俺の全速力はどれほどなのだろう。たった100m足らずだというのに、一向に辿り着けない。さては距離の目測を誤ったか。苦しい息の下、軽く舌打ちをした。
排気音は確実に迫ってきていた。ああ嫌だ嫌だ、俺は追ったり追われたりする緊張感が大の苦手なのだ。ビビリだから。
こんな真冬だというのに腋の下はびっしょりだ。…後方で、車のドアが盛大に閉じられる音がした。…そうか、もう走って捕まえたほうが早いくらいに、俺は弱っているのか。
足音は、じりじりと俺に近づいてきていた。…速い。いや、俺が遅いのか。やがて耳元に、荒い呼吸が迫ってきた。…もう、駄目だ…。

突如、思わぬ方向から肩を掴まれた。一瞬心臓が大きく脈打ち、全身に痺れが走った。…やがて視界が黒い渦に巻き込まれていく。…俺は気を失うんだな。そしてデータはあいつらに…。くそ。
意識が渦に飲まれる直前、ぐいと顔を上げた。

俺のリュックに手を伸ばした奴は、二人。

黒いスーツの男と、何やら異臭を漂わせた、薄汚い髭だるまのような男。俺の肩を掴んだのは、髭だるまの方だった。俺は咄嗟に、手にしたリュックを髭だるまに押し付けた。その直後、背中に蹴られたような衝撃。渦がぐるぐる、目の前が真っ暗に…


 
 

 
後書き
第二十章は、5/3に更新予定です。 
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