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くらいくらい電子の森に・・・

作者:たにゃお
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第十四章

「お前らぁ!自分が何しようとしてたか分かってるのか!?」
紺野さんが、怒鳴っている。薄暗いようでいて意外と明るいボイラー室の床に、僕と流迦ちゃんは正座させられていた。…もう大学生なのに。何となく釈然としないけど、本気モードの紺野さんが怖くて顔を上げられない。



「や、すんません…僕もどうしてああなったのか…」
さっき、拳骨で殴られた頭がずきずきする。…本当に、なんであんなに嗜虐的な感情がむらむら湧き上がってきたのか、さっぱり分からない。本来僕はいつも、そういうのを止めに回る立場なのに。
「…あんなの、殺したっていいのに。精神崩壊で済ますなんて穏当じゃない」
流迦ちゃんはキューブを取り上げられ、すっかりむくれて、そっぽを向いてしまっている。たまに手で頭をさする。彼女も拳骨を食らっていた。24歳なのに。それでも大人しく正座してるのが意外な感じだ。
「程度の問題じゃない!…お前ら、楽しんでいたぶってただろう」
「あいつらだって!」
「怯え切ってただろうが、最初から!そんなことも分からんのか!!」
紺野さんが、さっと手をあげる振りをすると、流迦ちゃんが子供のように縮こまる。…この二人の力関係は思ったほど流迦ちゃん優勢でもないみたいだ。
「いいか、何があっても人殺しを楽しむようなことはするな!そんなことをやってる限り、俺はお前らとは一緒に行動できないぞ!」
言いたい事をひとしきり怒鳴って、少し気分が落ち着いたのか、紺野さんは少し声のトーンを落として呟いた。
「なんにせよ、お前ら二人を一緒にしておくのは危険だな。流迦は催眠にかけて洗脳しようとするし、姶良は影響受けやすいし…」
催眠と聞いて、流迦ちゃんと廊下で鉢合わせた時の奇妙な眩暈を思い出した。
「催眠て…それじゃあ…!」
「かけられる方にも隙があるんだよ!現に俺は一度もかけられたことがない。それに一緒に怒られてやるのも男の優しさだろうが!」
「そんなむちゃくちゃな!」
「まーまー、そのくらいで。…珈琲、淹れたよ」
柚木が苦笑いを浮かべながら、紙コップに注いだ珈琲を5つ持ってきた。…わざと、むくれてみせる。僕はボイラー室に戻った瞬間、彼女からも鉄拳制裁を食らっていた。
先刻僕の携帯から送信されたエロ画像の女を、僕が担いで入ってきたのを見て、ものすごい誤解をしたらしい。ちょっとまて、違う、そんなはずないだろう!とマシンガンのように放った言い訳を全て一蹴され、八幡ごと吹っ飛ぶような右を食らった。しかも捨て台詞はこうだ。
『…最っっっ低!!!』
…僕はこの一言で死ねる。そう思った。
「…まだ怒ってるの」
言いたいことは山ほどあったけど、紺野さんたちの前で痴話喧嘩を披露して面白がらせるくらい、無益なことはない。僕は力なく首を振った。僕らの微妙な気まずさを察したのか、流迦ちゃんがにじり寄って来た。…紺野さんは渋い面持ちで珈琲をすすりながらも、先刻の緊縛画像をあらためている。…相当、集中しているようだ。八幡は、まだ気絶している。
「…仲直りしちゃったんだ。つまんなーいの」
「もう、何なの!まぜっかえすつもり!?」
柚木が声を荒げた。…やめてくれ、今そういう空気になると困るんだよ…。紺野さんの方をちらっと見る。まだ、緊縛画像にぞっこんのようだ。
「私がどこから見てたか、教えてあげようか」
柚木を無視して、僕の目を覗き込んできた。頭がくらっとする気配を感じて、ふいと目をそらす。
「もう催眠術とか無駄だから。…窓から、見たんだろ」
「ヒント。…私、ぜーんぶ聞いたんだよ。姶良の言葉も、柚木のも。一つ残らず、大声で読み上げてあげようか」
「ちょっ…こいつ!!」
柚木が流迦ちゃんの両頬をむにー、と引っ張る。
「あひらー、ふひー」
「…これ以上喋ると、こうだよ、こう!!」
耳まで真っ赤になった柚木に引っ張られ、流迦ちゃんの頬はますます横に伸びる。流迦ちゃんも抵抗をしない。状況を楽しんでいるのか。
「もふいっはい、いっへー」
「もー!黙れ、こいつー!!」
もうこれ以上伸びないんじゃないかというほど、両頬が横に伸びた。それでも手元のキューブは、間断なく回転して記号めいた模様を作っては消していく。
「柚木、ちぎれちゃうから。…降参、どこから見てたの」
「あなたの、ノーパソの中」
「えっ!?」
そんな至近距離から!?さぁ…と嫌な汗が流れた。
「…それ、ほぼ、全部じゃん…!」
「うん、全部。…ビアンキも、同じものを見てた」
嫌な予感が、腹の中に渦巻いた。胸の中を赤黒いもやが満たすようなあの感じ。…やばい、やばい、やばい、絶対に、取り返しの付かないことが起こってる。
「ノーパソは…!」
「電源、落ちてるみたいね」
流迦ちゃんから半ばひったくるようにして電源を入れる。…認証してくれ、たのむ、認証してくれよ……!
気の遠くなるような読み込み時間を経て、認証画面に切り替わった。異様な雰囲気を嗅ぎつけた紺野さんが、僕の真横に滑り込んできた。…認証完了、画面が切り替わった…
「うっ……わぁああああぁぁああ!!」
思わず、ノーパソを放り出して後じさった。僕の薄暗い液晶画面が映し出していたのは、微笑むビアンキでも、不機嫌なビアンキでもなかった。

そこに映っていたのは、目玉。

何百、何千の目玉。

見間違いようがない、僕の目玉だ。僕の目玉がひたすら、液晶を埋め尽くしていた。
「なっなんだこれ…」
「認証のバグか!?」
紺野さんが僕を押しのけ、なにか色々なキーを押すが、まったく反応しない。ただふよふよ漂う、僕の目玉だけだ。やがてそれらを掻き分けるようにして『何か』が顔を出した。
「……ビアンキ…なのか……?」
千切れたヘッドドレスと、虚ろに濁った瞳が、目玉の海から『ぞろり』と這い出てきた。紫色のドレスが現れた時、全身を鳥肌が覆った。



「腕が…ない…!脚も!!」
『――届かない腕も、脚も要らない』
確かにビアンキの声なのに、何か別のものと重なり合っているような奇妙な音。自分を見ている全ての人間への憎しみが、その無機質な声から溢れ出していた。
「…謝るよ、悪かった。だから、元に戻ってよ…」
声が、震えた。こんな呼びかけが無駄だってことは、分かりきっていた。でも呼びかけずにはいられなかった。
「僕だ、わかるだろ、ビアンキ」
『ご主人さまは、死んだ』
ビアンキの首が、かくん、とおちた。
『死んだ。全身、土の色になって死んだ。手も、足も、体も、もうどこにもない』
目玉を押しのけるように、紅い画像が画面を満たした。…これ、何だ…?紅くて、紅すぎて、なんだかよく分からない。身を乗り出して、画像を凝視した……
「あ…あ……ああぁぁああぁあああ!!」
「きゃあぁああ!!」
ひ、人だ…血に染まった人の肋骨と、切り分けられた腕と…!画面の隅に、生首のようなものも転がっている。頭の中心がずぐん、ずぐんと波打って、今入ってきた情報を拒否する。
…見ていない、僕は、生首の顔を見ていない…!!
「す…杉野――――!!!」
紺野さんの絶叫が、耳朶を打った。
「杉…おまえ、いくら何でもこんな…酷い…死に方…」
よろよろ立ち上がると、紺野さんはボイラーの暗がりに消えた。…やがて、暗がりから低い嗚咽が洩れてきた。柚木は僕の背中に顔を埋めて、泣き崩れた。
『死んだ。透析、出来ずに。死んだ。そして切り分けられた』
間断なく展開されていく画像は、全部紅い。…根元から切断された四肢、生首、ポリ袋に詰められた内臓…そんなものが順繰りに、展開された。…ビアンキ、『そっち』は違う…!戻ってきてくれ、違うんだ!何度も呼びかけた。カメラに、必死に呼びかけた。…でも切り刻まれた遺体の画像は、とめどなく展開し続けた。…やがて、生首から眼球がくりぬかれる情景が、連続写真のように表示された。スプーンが眼窩にめりこんでいく…ずぶり…ずぶり…ずぶ…赤黒い血が、どぷりと噴き出す。太い男の指が、刺さったスプーンをごりごり動かす。眼窩が歪む。やがて、視神経をまとわりつかせた紅い眼球が転がり落ちた。惨すぎて、感情が追いついてこない。……これは…悪夢か……?
「…い…いやぁ…!」
「…やめろ…なにやってんだ…やめろよ…ビアンキ!駄目だ、その画像をしまえ!!」
『目、だけが、残った』
「…うあぁあぁあああああ!!!」
くりぬかれ、硝子の筒に収められた二つの眼球は、血の色に濁って透明な水の中を漂っていた。こみ上げてくる吐き気に耐え切れず、ノーパソの前を離れ、吐いた。
こんな耐え難い状況の中で、流迦ちゃんだけが、冷ややかに水中の眼球を見つめていた。
「こうなることは、目に見えていた。…だから、警告したのに」
「…最初から知ってたのか…?」
かろうじて、顔を上げた。
「『リンネ』が異常な状態にあることは知ってた。近寄るとウイルス感染の恐れがあったから、近寄らないようにしていただけ」
「違う、ビアンキの異変だ。…気がついてたのか」
「言ったはずよ、ビアンキは『欠陥プログラム』だと」
僕を哀れむように一瞥すると、再び視線をディスプレイに戻し、ノーパソに手をあてて、ぱたりと折りたたんだ。



僕らが落ち着き、紺野さんが暗がりから出てくるのを待つように、流迦ちゃんの話が始まった。僕らと、先ほどの騒ぎで目を覚ました八幡の前に、淹れなおした珈琲が置かれた。
「紺野の『ハル』や、柚木の『かぼす』は、商品として完成された、模範的プログラム。でも『ビアンキ』や『リンネ』は、少し違う」
「紺野さんから少しだけ聞いた。ハルとビアンキの間には、決定的な違いがあるって」
「MOGMOGには、収集癖を持つものが多い。これにはれっきとした理由がある」
そう言って、珈琲に砂糖の塊を3個沈める。こぽこぽと細かい泡を吐いて、砂糖は溶けた。
「食欲、睡眠欲、性欲…人の脳は、いろいろな欲求を抱えている。その欲求を満たすことで、生命を維持すると同時にストレスを回避するわ」
「でもそれは、体がないと叶えられないね」
「そう…だからMOGMOGの場合、これらの欲求は、もっと浅い欲求にバイパスするの。収集欲や知識欲なんかの、体がなくても実現できる欲求に置き換えることで、均衡を保つ」
すぐにビアンキの変な癖『おやつ巡り』に思い当たった。僕が一緒に巡ってあげると、とても嬉しそうに笑ったものだった。
「…それが、あんたがさっき言ってた『収集癖』?…かぼすには、そんな癖はないわ」
柚木が、怪訝そうに顔を上げた。
「かぼすがMOGMOGとして起動したのは、ついさっきね。いずれ発動するわ」
「ビアンキにも収集癖があった。…ならばどこが、他のMOGMOGと違うんだ」
流迦ちゃんは、一瞬遠い目をした。ずっと昔、流迦ちゃんが14才だったときに、時折見せた表情と同じ。…ずっと昔に忘れ去っていた、古い感情が疼いたような気がした。
「ビアンキとリンネ…あの子たちの欲求は、収集欲の他にもう一つ、親和欲求にもバイパスさせている」
「親和欲求?」
「誰かと一緒にいたいと願う、その人と仲良くなりたいと思う、そういう欲求。…ともすれば弱さにも繋がる、不合理な欲求よ」
冷たく言葉を切り、珈琲を一口飲む。まるで昔の自分を切り捨てるように、冷たく響いた。
「でもこれが成功すれば、高いコミュニケーション能力を持つMOGMOGが誕生するはず。人間同士のコミュニケーションが希薄な時代だから、それは高い需要が見込める。だから親和欲求へのバイパスは、一種の賭けだった」
一瞬カップから唇を離して、ミルクを流し込んだ。
「これは、とても複雑な欲求なの。誰かと仲良くなれば、その人に認めてほしい、声を掛けてほしい、それに…触れてほしい」
さっきは冷たく切り捨てたのに、焦がれるように遠い目をする。…何なんだろう、この人は。僕まで、またこの人に焦がれてしまいそうになる。
「ビアンキが言ってたよ。姶良を、抱きしめたくなることがありますかって」
柚木が、ぽつりと呟くように言った。その時、何て答えたのか気になったけど、今は聞かないことにする。
「…だから、賭けは失敗だった。複雑な欲求が絡み合う親和欲求だからこそ、『置き換え』の余地があると思ってたの。たとえ触れることが出来なくても、気持ちが通い合うことで満たされるかもしれない、と。親和欲求が満たされなかった時の保険として、収集欲へのバイパスも残しておいたけど、それも無駄だった」
そして長いまつげを伏せて、目を閉じた。
「ビアンキは好きな人と触れ合うことに憧れ、ひたすら姶良との接触に焦がれるようになっていった。そんなことは不可能なのに。…そして、マスターを目の前で殺され、全てを奪われて狂った同胞『リンネ』に触れ、その絶望に飲み込まれた…」
「リンネと接触させなければ、こんなことにはならなかったのか」
紺野さんが、ようやくのように声を絞り出した。顔は髪に隠れて見えない。
「発狂を加速させたのは間違いないけれど、このままだと、いずれこうなっていたわ。…あの子は緩やかにだけど、確実に狂っていった」
「……ビアンキ!」
こんな時なのに笑顔しか思い出せなくて、とめどなく涙が出てきた。
―――酷い。
こんな結末は酷すぎる。
『ご主人さま!』と僕を見るだけで嬉しそうに叫ぶ、ビアンキの声が耳を離れない。あの声は電子の合成音だった。姿も、合成された光の塊に過ぎなかった。

ならばその気持ちも、まがい物だったらよかったのに。

それでビアンキが苦しい思いをしなくて済んだなら、MOGMOGがまがい物でも構わなかった。…狂ったビアンキは今も僕の死に縛り付けられ、繰り返し繰り返し、この惨たらしい悪夢の中をさ迷っている。それは僕の手の届かない、電子の悪夢だ。

――怖くて、苦しいだろう。そんなの、消えてしまうよりも可哀想だ。

「僕に出来ることは、ないの」
「安らかに眠らせてあげるのが、一番だった。もう遅い」
流迦ちゃんは、淡々と事実だけを告げた。そして、自分のノーパソを開き、電源を入れて網膜認証を始めた。
「今回の件は、貴重なデータとして活用させてもらうわ。そのためにも、私はこの件を最後まで見届ける」
「…ビアンキに触れることが出来たら…僕は生きてるって、伝えてよ」
「私は見届けるだけ。修正は私の管轄じゃないし、リスクも大きい」
「そう…」
会話が途切れて、ボイラーの稼動音だけが響き渡る。柚木の掌が、ずっと僕の背中を撫でてくれていた。…ばれるの、嫌なくせに。僕は僕で嫌になるほど、元気だったビアンキの笑顔が、頭から離れない。
沈黙を破ったのは、紺野さんだった。
「……八幡」
「……はい」
「知ってたのか、杉野のこと」
「……ごめんなさい」
「そうか」
僕らを追い詰めたあの夜、八幡が言った事を思い出した。
―――私たちは、人殺しになってしまう。
「彼が死んだのは、昨日の夜なんだろ。僕らを追ってた時は、まだ死んでなかった」
「…はい。帰ったら亡くなってたんです」
「八幡。お前も、手伝わされたのか」
「最初は、鋸、持たされました。でも手に力が入らなくて…切断された手とか足を、洗って毛布で包んで…これは悪い夢なんだって、無理やり思い込んで」
息をついて、膝をかかえて顔を埋めた。
「もう終わらせたい…警察でもいい、死刑でもいいから」
声が震えていた。このまま消えてしまいたいみたいに、小さく縮こまってしゃくりあげた。
「たく…自分より馬鹿な奴見てると、逆に冷静になってくる」
冷めかけた珈琲を一息にあおって、紺野さんが顔を上げた。
「昔誰かに教わった道徳観念にがんじがらめになって、大事な決断まで人任せにして、そんなこと繰り返してりゃ、いずれ痛い目をみるに決まってるだろうが」
僕も、八幡を見ていて同じ事を思っていた。そしてそれは、八幡自身も分かっていることで、今更紺野さんが何を言っても、心をびっちり閉ざして涙ぐむだけだ。そう思っていた。
でも八幡は、意外にもゆっくり顔を上げて微笑んだ。とても弱々しく。
「どう思われても仕方ないです。…でも、一言だけ言わせてください」
「……何だ」
「あの人を信じることだけは、私が選んだ。…それだけです」
それだけ言って、また顔を伏せた。反論も、説得も受け付けないだろう。そして何があっても『あの人』とやらを裏切れない。…こういう生き方しか、出来ない人だ。
「誰なんだよ、あの人って」
空になったカップをもてあそびながら、ふんと鼻を鳴らした。八幡が答える気配はない。またこの場を沈黙が満たしそうになった瞬間、紺野さんの携帯が鳴った。着信を覗き込んだ紺野さんの表情が、険しく歪んだ。
「……伊佐木!!」



『…実に、嘆かわしいことになったね』
初めて聞くその声は、常に中くらいのトーンを保ちながらも、ひどくよく通る声だった。まるで、多くの人に聞かせる事を前提に発声しているような、そんな声だ。
「あんたがそれを言うか。誰のせいでこんな事態が起こったんだ」
『なんの話かな?』
凛とした、同じトーンで話し続ける。…とてもいやな感じがした。なんていうか、自分を覆い隠すことに慣れてしまった奴特有の、たまらなく平面的なあの感じだ。
「烏崎達、しくじったぜ」
『君が、何を言おうとしているのかは分からないが、そういえば烏崎君の姿が見えないね』
「…まぁいい。で?今更俺に何の用だ。万策尽きて、投降のお誘いか」
『まさか。…逆に、君に投降してもらっては困る。あのデータを持ったままでね』
「何が言いたい?」

『取り引きだよ。今なら、逮捕状が出ていない。パスポートは持っているんだろう?…海外への逃走経路と、一生困らない金額を提供する。…君の持っているデータと引き換えに』

紺野さんの口元に、皮肉な笑みがこぼれた。
「俺のデータと、名誉だろ」
『英語はそこそこ堪能だっただろう。英語で生活できる地域を検討する。…そうだ、支社があるインドはどうだい?これからも、わが社で君の優秀な能力を活かしてもらえる』
「ふざけるな…!だったらデータを持ったまま、警察に投降してやる。俺は無実だ、そんなことは裁判でいくらでも証明できる!!」
『そうは行かない。君が私の好意を受け取らないなら、それが君の雇った弁護士に流れる。…それだけのことだ』
「…てめぇっ!!」
紺野さんの歯軋りが聞こえた。
『タイムリミットは、逮捕状が出るまでだ。賢明な回答を願うよ。では…』
「ちょっと待って!!」
紺野さんの手から携帯をもぎ取った。…今、この男と話しておきたい。そして、確認しておきたいことがあった。
『誰、かな?』
「紺野さんの友人です。…ちょっと、聞きたいことがあるんです」
『…困ったねぇ。部外者に聞かれてしまったか』
「僕は巻き込まれただけです。どうしても気になるんだったら、口封じでもなんでも、あとで考えればいい」
『随分、悪者にされたね。…で?』
「あなたは多分、とても慎重な人ですよね」
伊佐木は、何も答えない。僕はかまわず言葉を続けた。
「僕は、亡くなった武内という人に襲われました。その時の画像もばっちり抑えた。襲撃してきたのは4人。主犯は多分、烏崎という人です」
『……憶測だね、烏崎の件は。武内はただ単に、酔ってたのかもしれない』
「ゆする気で言ったんじゃないです」
『じゃ、何かな』
「ちょっと、大雑把すぎないかと思って」
伊佐木が何も返してこないのを確認して、話を続けた。



「最初、あなたが指示してるのかと思いました。でもそれにしては、ありえない杜撰な計画だなって。拉致失敗した上に写メ撮られて、流迦さんはやすやすと奪還されて」
『………なるほど』
「――協力者の杉野さんを、バラバラにして都内15箇所に埋めたことも含めてね。しかも、僕に全部の隠し場所をバラして」
『………!!』
伊佐木の喉が鳴る音がした。膝を抱えていた八幡が、ふいに立ち上がって何か言いかけるのを、紺野さんが口を塞いで取り押さえる。…八幡が大人しくなったのを見計らって、話を続けた。
「こんなこと聞くの、無駄かもしれないけど。…これ、全部あなたの指示ですか?」
『……なんだそれは』
それはもう、さっきまでのような凛とした声じゃなかった。心拍数の高まりと呼吸の荒さを露骨ににじませた、上ずった声だ。
「訳わかんない、ですか」
『…一から十まで、分からないことだらけだよ』
押し殺したような声で答えて、最後に低い笑い声を付け足した。
「そうですね。…少なくとも思慮深い人が、こんな危ない橋を渡ると思えない。うまいこと紺野さんを海外に追い出して武内さん殺しの汚名を着せたとしても、今度は杉野さん殺しも処理しなきゃいけないんだから」
『……君は一体、誰だ?』
「紺野さんの、友人です」
それだけ言って、携帯から耳を放した。紺野さんの手に戻る頃には、携帯は切れていた。
「取り引きは、反故かな」
「願ったり叶ったりだ。あんなカレー臭い国でマハラジャとして余生を過ごす趣味はねぇ」
「えー、いいじゃん、マハラジャ。友達がインドでマハラジャやってるって自慢したーい」
柚木がマハラジャに食いついた。…なんでマハラジャの友達が欲しいんだ。そんなもん自慢したら、自分まで不思議な人種だと思われちゃうじゃないか。
「なんで君のオモシロ人脈を充実させるために、俺が人生賭けるんだ。ガンジスのおいしい水で淹れた珈琲を毎日飲めというのか」
「インド人全員がガンジスのほとりで生きてるわけじゃないよ…」
軽めに突込みを入れてから、八幡と目を合わせた。…八幡は、もじもじしながら視線を自分の膝に落とした。
「…なんですか」
「あのさ…伊佐木って人、多分、烏崎のやってること知らないよ」
「なっ…!!」
八幡が、ばっと顔を上げた。
「そ、そんな…だって…」
「大まかな指示は出しただろうね。…紺野さんのやってる事を突き止めろ、とか、MOGMOGを奪えとか。だけど烏崎が拉致や殺しにまで手を染めたことは、多分知らない」
「…なんで、そんなことが分かるの」
「杉野さんのことを持ち出した途端、簡単に動揺した。…あんな慎重な人が、この件で一番の爆弾とも言える杉野拉致について、なんの理論武装もしてないなんて変だ」
僕の言葉が終わらないうちに、八幡は背骨がぽっきり折れたみたいに崩れ落ちて、そのまま動かなくなった。…どんな顔をしていいのか、分からなかった。それはまるで、遠い昔の僕自身を見ているみたいで…。

「だから言ったんだ…これからどうするんだ。ひとまず、俺達と行動するか。…おい、大丈夫か、おい…」
紺野さんが八幡の頬を、手の甲で軽く叩いた。八幡は少し傾ぐだけで、何の反応も示さない。ただひたすら、魂を抜かれたような顔つきで床を見つめていた。
…なんだか堪らなくなって、紺野さんを押しとどめた。
「少し、放っておいてあげよう」
「…あぁ」
妙な顔をして、紺野さんは手を引いた。さっきまでノーパソと睨み合っていた流迦ちゃんが、ふいと顔を上げた。その唇には、ひどく酷薄な微笑が浮かんでいた。
「うふふふふ…楽しみね。伊佐木はどう動くかしら。あの人たちを切り捨てて、紺野につくのかしらね」
「いや…かばい続けるのもそうだが、切り捨てるのもリスクが大きいぞ。あいつが捨て鉢になれば、会社の内部事情を洗いざらいぶちまけられるからな」
「墓穴だね。策士、策に溺れるっていうやつだ」
「お前も倣わないように気をつけろよ」
紺野さんに釘を刺される。まださっきのことを根に持っているみたいだ。
「分かったよ…でも、こういう流れになったならさ、彼らをかばう旨みを排除しちゃえば、伊佐木はこっちに寝返るんじゃないか?」
「あ、でも待て」
紺野さんが、そっと八幡を振り返る。
「八幡、お前の事は俺達が証言して弁護する。とにかく今は、協力してくれ」
八幡は相変わらず床を見ている。もう、何もかもどうでもいいみたいに。柚木が八幡につかつかと歩み寄り、ぐいっと肩を掴んで顔を持ち上げた。
「私は伊佐木って奴嫌いだけど、あんたの考え方自体は嫌いじゃない」
「柚木…さん」
八幡は、ふいを衝かれて食い入るように柚木の顔を見つめていた。
「本っ当に嫌いだから、こういう事言うの、超不本意なんだけどさ。…伊佐木を守りたいんでしょ、認められたいんじゃなくて」
本当に不本意そうな口調だ。八幡は少し間をおいて、こくんと頷く。
「このままだと最悪、伊佐木は烏崎達の巻き添えになる。守れるのは、烏崎に強要されて実際に動いてた八幡だけなんだよ」
八幡の瞳に、強い光が宿った。
「…私が参ってたら、あの人はますます泥沼を開拓していっちゃいますね」
ひざを抱えていた腕を解いて、すっと立ち上がる。
「あなた達と、行動します」
「そーゆー子だと思った」
柚木が会心の笑みを浮かべて、八幡の頬を軽く叩いた。八幡のほうが年上なのに。横目で観察していた流迦ちゃんが、面白くなさそうに下唇を突き出した。

「…で?烏崎をかばう旨みを排除するにはどうするつもりなのかしら姶良大先生?」
なんか口調が意地悪だ。昔の優しかった流迦ちゃんが脳裏をよぎり、ちょっと涙が出た。
「例えば、MOGMOGの配信を終わらせれば、烏崎をかばう旨みはなくなる…」
「それには、データを開発室に届けないとな。…八幡、行けるか」
「…車のキーは、烏崎さんが持ってます」
「じゃ、俺の車を使え」
「そりゃまずい。多分、検問でひっかかるよ。それにさっきの事故の後始末で道路は封鎖されてるから、駐車場からだと出られないんじゃないかな」
「うーむ…自転車なら抜けられるか…」
「山道だし、距離も随分ある。女の人には無理だよ」
僕らが額を寄せ合って深刻に相談している時に、背後からけたたましい笑い声が響いた。
「あははははははは!イカみたい、こいつ干しイカみたい!!」
浴衣の乱れも気にせず、のた打ち回って笑っている。どんだけ干しイカが面白いのだ。
「…流迦ちゃん、さっきから何を見てるんだ」
紺野さんが身を乗り出した。
「さっき、そこで自転車で接触事故を起こした奴。病室のライブカメラに映ってるの!」
「ライブカメラ…お前、まだそんなことしてるのか!他人の病室に勝手にカメラ設置しちゃ駄目だと、あれほど言っただろう!」
…天才的頭脳に小学生の分別だ。この人と付き合っていくのは本当に大変だと思う。…でも僕もその干しイカに似ているという被害者が気になり、ディスプレイを覗いてみる。

なにやら黄色がかった不鮮明な画面の中央に、みすぼらしい風体の男が横たわっていた。さして気分が悪そうでもなく、すでに病院食をコメ一粒残さず平らげ、寝そべって漫画を読んでいる。『ラッキー、タダ飯ゲット』くらいにしか思っていない様子だ。
「画質悪いなぁ…この、独特のしなび感が干しイカ的に見えなくもないけど…」
「…わっ!!」
耳元で柚木が大声を出した。驚いて肩をすくめて振り返る。
「なんだよ!」
「干しイカじゃないよ!これ…鬼塚先輩じゃん!!」
「え!?」
干しイカの傍らには、見覚えのある色の自転車部品が数点、転がっていた。
 
 

 
後書き
第十五章は、この後すぐ更新予定です。 
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