戦国御伽草子
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弐ノ巻
かくとだに
2
僕は襖の陰でそっと聞き耳を立てた。
「瑠螺蔚さま、お体の具合はいかがでしょうか?何か召しあがられますか?兄上様が桑苺をくださったのですが、いかがですか?とっても熟れて、美味しそうな大きい粒ばかりですわよ。さぁ」
「由良、ありがとう」
落ち着いた声がして、僕は驚きで息を飲んだまま止めた。
これは、一体、どういう…。
「どうですか」
「…美味しい」
「瑠螺蔚さま、…はやくお元気になられてくださいね」
「うん。ごめんね、由良」
もしも。
そう考えることは、体の中心からじわりと凍えていくような。考えたくないけれど、確かに目の前にある現実が、僕に染みいる。
もしも瑠螺蔚さんが、意図的に僕に対してだけ他人のような頑なな態度をとっているとするのなら。
僕のことが、嫌いになったとするなら。
理由はただ一つ、俊成殿を助けようと、無謀にも燃える館に飛び込もうとしていた瑠螺蔚さんを止めたことだろう。
このことに関しては、僕は後悔していない。
何度あの日に戻っても、同じように瑠螺蔚さんを止めるだろう。例え憎まれるとわかっていたとしても。
あの時、瑠螺蔚さんは俊成殿がまだ中にいると言ってきかなかった。偶然散歩にでも行っていたのか、安全な屋敷の外にいた瑠螺蔚さんをみすみす炎の中へ行かせて見殺しにすることは、僕にはどうしてもできなかった。瑠螺蔚さんは確信を持って俊成殿が中にいると言っていたが、外にいた瑠螺蔚さんにどうしてそんなことがわかるのか。心配しすぎるが故の不安だと、僕はいやに冷静な頭で考えていた。中にいるかいないかもわからない俊成殿の為に、瑠螺蔚さんを危険に晒すことはできない。前田家は火を吹いて軋み、いつ崩れてもおかしくないのだ。確かに外にいる人のなかに俊成殿の姿が見えないようだが、それは前田家当主の忠宗殿も、妻のあやめ殿もそうだ。俊成殿の正妻の依殿はいち早く運び出されて一時的に佐々家に避難している。
広大な前田家だ。僕がいたのは正門だが、どこか安全なところにいてくれるのを願うしか…ない。人に聞いても情報が錯綜し要領を得ず、どれが正しいのか判断がつかない。
どうにもできないんだ。ここまで火が回ったら。
気を失わせた瑠螺蔚さんを抱きしめて、そう考えていた。
頭ではそう思っていたのだけれど、しかし体は僕の考えてもいない方に動いた。
火事の時の人間は無力なものだ。炎と言う強大な力に抗う術を持っていない。こんな大火事のときでさえ、人は桶や水の溜まる容器を手に、井戸や川から水を汲んできてかけるぐらいしか手がない。
なぜか僕は桶で川から水を運ぶ人のうちの一人に寄って、それを奪いとると頭から被った。驚きで固まる男のその横を急いで通ろうとしていた女の桶も同様にとると、衣が滴るまで水をかけた。
「ありがとう」
状況がつかめず茫然とする二人に空の桶を返すと僕は踵を返す。
炎が噴きあげる前田家へと。
改めて見てみれば、最早家の中まで通じる道と言える道はない。廊下は火の海だ。この中に飛び込むなんて狂気の沙汰だ。流石に背に寒いものが走る。足が竦み、束の間長いようで短い時間が過ぎる。
生きては、戻れないかもしれない。
僕は腹にぐっと力を込めた。
馬鹿なことをしている。いや馬鹿なことをしようとしている。仕方ないことだ。ここまで火が回ったらもう誰にもどうしようもないんだ。例え中に人がいたとしても、もう生きてはいないだろう。助けに行っても無駄死にするだけだ。
僕は佐々家の人間で、大きな期待や責任を負っている。戦場ならまだしも、今こんなところで死ぬわけにはいかない。
けれど、ここで行かなかったら、僕はこの先大事なものを何一つ守れない気がする。
大事なものを失っても沢山のそれらしい言い訳で固めて目を逸らす人間には、なりたくない。
瑠螺蔚さんはずっと叫んでいた。ただ一途に、兄のことを。自分の身をも顧みないその強さを、他人の為に何の迷いもなくこの炎の中に飛び込める強さを、僕は欲しいと強く願った。
瑠螺蔚さんに叩かれた頬がぴりりと痛み、棒立ちだった僕の足が前に動いた。口を開く正門ですら今にも崩れそうだ。はやく、いかないと。もはや一刻の猶予もない。
僕は多分。
僕は思った。足は確実に前田家への距離を縮める。
僕は、多分。中にいるかもしれない俊成殿や、逃げ遅れた人の為に今炎に分け入ろうとしているのではないんだろう。
勿論、俊成殿が亡くなってしまうかもしれないというのは辛い。俊成殿でなくても、目の前で苦しんでいる人や、ましてや命の危機にある人がいたら助けるぐらいの気持ちはある。
けれどそれに自分の命がかかっている、しかも死ぬとわかっていてそれでも他人を助けようとするには、僕は諦めを知りすぎているし、生への柵も多すぎる。
だから、僕が今こうして炎に向かうのは、瑠螺蔚さんの為に。
瑠螺蔚さんが一途に俊成殿を助けようとしたように、僕はただ瑠螺蔚さんの為に、こんな愚かなまねをしようとしている。
どうして俊成殿や逃げ遅れた人を助けるのが瑠螺蔚さんの為なのか、うまく説明ができないけれど、僕の中でいろんな感情が鬩ぎ合って、その中でも一番根本的で強い気持ちがそれだった。
「止めとォけ」
急に目の前に大きな掌が突き出された。
「尉高、義兄上」
「気持ちはわかるが、諦めェろ。中にいる奴は、もう生きては」
ものすごい轟音がその声を掻き消した。
僕はその瞬間を目の前で見た。ふっ、と屋敷が撓み、空気が止まったかのように酷くゆっくりと地面に落ち、そこから雪崩をうったように前田家は潰れた。拉げ潰れて瓦礫となった中に堂々と仁王立つ太い柱が轟々と燃えている。
僕は立ち尽くすしかなかった。
こうして、結局のところ僕は何もできなかったのだ。
「瑠螺蔚さま?」
由良の声が僕を現実に引き戻した。
「あ、ごめん、なんか、あたし、ぼーっとしちゃって…」
「…瑠螺蔚さま、高彬兄上様に呼ばれていたのを私思い出しましたわ。失礼いたします。くれぐれもご自愛くださいませ」
由良は瑠螺蔚さんに気を遣ってか部屋を出て行った。勿論ずっとここにいた僕は由良を呼んでなどいない。
「あに、うえ、さま…」
僕も部屋に戻ろうと腰をあげかけた時にぽつりとくぐもった声が聞こえた。僕は胸を突かれた。
それは瑠螺蔚さん本人もそう言っていると意識していないだろうというほどの小さな呟きだった。由良の言葉を反芻しただけなのか、それとも俊成殿のことを思い出しているのか僕には判断がつかなかった。
瑠螺蔚さんと、俊成殿は昔から仲が良い兄妹だった。外見も似ていないし、傍目には恋人同士にも映っただろう。ずっと瑠螺蔚さんの背中を追いかけていた僕はたまにそれを羨ましくも、妬ましくも思ったほどだった。
「ねぇ瑠螺蔚さん。今日、一緒に遊ぼうよ」と誘っても、「いやぁよ。あたしは兄様と遊ぶんだもの」と断られるのが常だった。まぁなんだかんだで優しい瑠螺蔚さんは結局僕と一緒に遊んでくれるのだけれど。
断られるたびに僕は、なんで兄の吉之助がいいのだろう、いったい僕とどこが違うのだろう、どうして僕じゃ駄目なんだろう、と飽きずに思っていた。
けれど、瑠螺蔚さんのことを抜きにすれば、僕は俊成殿が決して嫌いではなかった。人間として尊敬できる人ではあるし、瑠螺蔚さんがつい甘えて頼りたくなる気持ちも、まぁ、わか…る。
僕は自分で思っておいてついむっとした。僕もまだまだ器が小さい。俊成殿と比べると、僕にはいつも劣等感が付きまとう。瑠螺蔚さんは僕には甘えてくれた事なんてなかった。
俊成殿が瑠螺蔚さんの兄でよかった。肉親故の情であるだろうけれど、これでもし俊成殿が佐々家にでも生まれていたら、僕は万に一つも望みはなかっただろう。
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