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ホフマン物語

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第三幕その一


第三幕その一

                  第三幕 アントニア
 一羽の雉鳩が飛んでいた。その雉鳩は飛んで行き何処かへと消えてしまった。そしてっもう二度とその姿を見せることはなかった。
 それで全てが消えた。青空にはただ空と雲だけが残っていた。
 その何もない青空の下に一つの部屋があった。壁に貴婦人の豪奢な絵が掛けられている意外はこれといって何の変わりもないありふれた部屋であった。ただその絵が妙に生き生きとしている意外は。
 そこに一人の女性がいた。長い黒髪を垂らした瓜実型の顔を持つ女性である。目は黒く大きい。二重でまるで全てを見渡すかのような目をしていた。
 肌は白く赤い服と対比されるかのようにその白さを映えさせていた。彼女は今しがた空に消えた雉鳩を見上げてその細い枝の様になった身体を椅子にもたれかけさせていた。
「逃げてしまったのね」
 彼女は雉鳩が消えた方を見上げてこう呟いた。
「自分から遠くに。けれどまた戻ってくるかも知れない。その心が私にあれば」
 そう呟きながら側に置かれていた楽譜を手に取った。そしてパラパラとめくり読みはじめた。
「私にまだ歌が歌えるならば。私のこの声にまだ思うことがあれば。戻って来るかも知れない。歌えたら」
「アントニア、まだそんなことを言っているのか」
「御父様」
 扉が開いた。そして重厚な白い髭と髪を持つ立派な身なりの男が部屋に入って来た。彼女、アントニアの父であるクレスペルである。
「約束してくれたのではなかったのか」
 彼は悲しそうな声で娘に対して言った。
「もう歌わないと。違うのか」
「はい、その通りです。けれど」
「けれど。何だ」
「御母様が夢で仰ったのです」
 そう言いながら壁に掛けられている絵を見た。見れば今にも動き出しそうである。
「私に歌えと」
「それは幻想だ」
 クレスペルは娘に言い聞かせるようにして言った。
「幻想なのだよ。それがわからないのか」
「わかってはいますが」
「いいかい。御前は病気なんだ」
 娘に対して優しい声で語り掛けた。
「だから。もう歌わないでおくれ。歌うと身体に障るから」
「はい」
 娘の頭を抱いた。そして娘を守るかのようにして語り掛けるのであった。
「このミュンヘンは静かな街だ」
「はい」
「暫くはこの街で静かに病をなおすんだ。いいね」
「わかりました」
「ならいいんだ。おや」
 ここで呼び鈴が鳴った。クレスペルはそれに気付き顔をあげた。
「誰だろう」
「ホフマンさんではないでしょうか」
「あの検事さんか」
「はい。何の御用でしょうか」
「彼は作曲もやっているのだったな」
 クレスペルはそれを思い出し暗い顔になった。
「困ったことだ。音楽を愛する者は御前の声も愛する」
「けれど」
「わかっている。彼にはよく言って聞かせよう。フランツ」
「はい」
 小柄で背中が曲がり腹の出た中年男がやって来た。腹は出ているのに手足は妙にひょろ長くまるで虫の様であった。
「御客様のようだ。案内してくれ」
「わかりました。それでは」
「くれぐれも音楽の話はしないようにね」
「はい」
 こうしてフランツが客の出迎えに向かった。彼は家の中の薄暗い階段をを降りながら一人呟いていた。
「歌を歌えないってのは残念な話だよな」
 アントニアのことを思ってこう呟く。
「わしは歌は得意じゃないがステップやダンスは得意なのに」
 呟きながらステップを踏む。そして階段を降りていく。
「ダンスは何でもござれだけれど。歌はなあ。せめてお嬢様の歌が聞ければ」
「御免下さい」
「はいよ」
 扉の向こうの声に応える。若い男の声であった。
「どなたかいらっしゃいますか」
「皆いますよ。どなたですか」
 そう言いながら扉の側まで来る。そしてそれを開けた。するとそこには二人の若い男がいた。
「おや、ホフマンさん」
「はい」
 ホフマンは彼に挨拶をした。
「ニクラウスさんも」
「どうも」
 そしてニクラウスもそれに続いた。
「一体何の御用件ですか」
「お嬢様はおられますか」
「おられることはおられますが」
「どうかされたのですか」
 言葉を濁すフランツに問う。
「どうも。御身体が」
「歌えないというのでしょうか」
「そんなことはもっての他です。歌われればえらいことになります」
「そんな」
「だから言ったじゃないか」
 ニクラウスがそれを聞いてホフマンに対して言う。
「彼女はもう歌えないって。僕の言った通りだっただろう?」
「けれど」
「それでも宜しいですか?」
 フランツはまた尋ねてきた。
「それでも宜しければ御案内致しますが」
「ううん」
「どうするんだ、ホフマン」
「そうだな」
「帰るか?」
 そう友に問う。だが返事は決まっていた。
「いや、ここまで来たんだし」
「御会いになられるんですね」
「うん。いいかな」
「ええ。歌はなしで。それで宜しければ」
「わかった。それじゃあ」
「どうぞお入り下さい」
 こうして二人はアントニアの部屋に案内されることになった。だが部屋の中に入るとそこには誰もいなかった。
 
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