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くらいくらい電子の森に・・・

作者:たにゃお
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第十章 (1)

暖房の効いた部屋から一歩踏み出すと、息が白く凍る真冬の寒さがジャケットの上から刺すように伝わってきた。逃げるためにトイレとか言ったけど、本当にトイレに行きたくなってきたような。
山頂に立つこの病院は、地形のせいなのか廊下か不自然に歪んでいたり、不可解な坂道になっていたりしていて面白い。…夢とかに出てくる、無限の回廊みたいだ。右、左、右、左なんて隠しコマンドみたいに簡単に言われたけど、実際に辿ってみると、この廊下は一辺がとても長い。僕はともかく、柚木なら迷ってしまいそうだ。

…迷うか?いや、迷わないよな。右、左、右、左だぞ。

それにしても長い。一辺50mはあるんじゃないか。…雰囲気からいって、ここは例の隔離病棟とは違うみたいだけど、精神を病んだひとがこんな長くて歪んだ回廊に住まわされたりしたら、さらに不安定になったりしないのかな…
やがて、男女を示すあのマークが見えてきた。別にトイレに行きたかったわけでもないけど、ついでだからな…

「――あなたの、せいよ!」

くらり、と頭の芯がうずいた。さっき僕が曲がった廊下の角。そこから、声は聞こえた。
――忘れられるはずがない、あの声が。
「流迦…さん」
ぐっと足に力をいれて姿勢を立て直した。…倒れちゃ、ダメだ。あれはもう、『あの』流迦ちゃんじゃない。違うんだから。
「あなたのせいよ!あなたのせいよ!あなたのせいよ!!」
早口に三回叫ぶと、彼女はカラカラと笑い出した。…あの時と同じ、艶のある髪を振り乱して、桜色の唇を震わせて。…僕はそれをただ、見つめていた。
あの頃は大人だと思っていた。でも20才になった僕の眼を通してみる彼女は、こんなにも幼くて可憐で、脆かったんだ。
――僕が好きな、散り際の桜みたいに。



「……倒れないの、あなたのせいなのに!?」
彼女は小さくくっくっと笑いながら、僕に近寄ってきた。
「……僕が倒れたのが、面白かったんですね、流迦さん。ここは、隔離病棟じゃありませんよ。早く、戻らないと」
僕はつとめて優しく、冷静に彼女を見つめ返した。あの頃のまま、黒くて深い瞳。…僕らの血統を示すように、僕にそっくりな色の瞳に、僕の不安に満ちた笑顔が映った。
「ほら。そうしてても、もう倒れませんよ」
「うそばっかり。…あなたの脳は、ちくちく、うずうず、ぐるぐる回ってるわ」
――息を呑んだ。
彼女がそう言い放った途端、天井がぐるぐる回るような幻覚に襲われ始めた。止まれ、止まれ、止まれ!!そう口の中で呟いて、ぎゅっと目を閉じる。
「闇に逃げこむの?…くく、賢明じゃないわ」
くくくくくっ…くくくくくっ…繰り返される含み笑いが、脳の間に差し込んでくるようにびくびく、びくびくと響く。…止めてくれ、もう止めてくれ。僕が悪かったから…このままじゃ、僕は……
「……深淵を覗き込むとき、深淵もこちらを覗いているんだって……くくくっくく……」
「ぁぁああああぁぁああぁあああああ!!!」
自分でも信じられないような悲鳴が喉から迸った。
閉じた瞼の裏で、赤黒い闇が無数の渦を巻いて僕の意識を飲み込んだ。…小さい頃、夢の中で垣間見た、マンホールの裏側で蠕動する赤黒い肉の渦を思い出した。僕はこの渦の中に沈み込む。そして少しずつ溶かされて、あとかたもなく消えていく…そんな切ない夢だった。飲み込まれていくのに、胸を満たすのは焦りや恐怖ではなく、ただ、切なさ。
「私の『目』を覗き込むには、『準備』が足りなかった…もう、眠りなさい、ずっと、永遠に……」

……そうだ、もう眠ろう。ずっと、永遠に……

「その瞳…昏くて深い瞳。気に入ったわ。欲しいなって、ずっと思ってたの…」

……二度と目覚めない僕にはもう、必要ない……


「姶良をいじめるな!!」


――清冽な一陣の風が、赤黒い渦を吹き飛ばした。目を開けた瞬間、パァン!と快活な殴打音が廊下に鳴り響いた。その先には
「姶良、立ちなさい!!」
柚木の凛とした横顔が、視界に飛び込んできた。その向こうには、舞い散る漆黒の髪。
――流迦が、頬を押さえて呆然と立っていた。
「考えるな、振り返るな!…姶良の悪い癖だよ」
そして手を筒状にして口元にあてると、ありったけの大声で叫んだ。
「看護士さ―――ん!隔離病棟の患者さんが出てきてます!!」
しばらく呆然としていた流迦の目に、静けさが戻ってきた。流迦は、細い首を傾げて柚木の顔を下から覗き込み、薄く微笑んだ。
「野蛮なくらい真っ直ぐで、強硬な意志力ね…」
柚木は流迦の瞳を、真っ直ぐに睨み返していた。…いけない、その目を覗いたら…。
「…嫌いだわ、あなた」
「私だって、あんたなんか大嫌い!」
流迦は長いまつげを伏せてきびすを返した。
「今は、見逃してあげる。…ビアンキのマスター、姶良、壱樹」
「…!!」
何で、僕を知っている…!?
「紺野に出来ることは、私にも出来る。…痕跡も気配も、あとかたもなく…」
桜色の唇が、きれいな弧を描いて引き締まった。
「…かわいい子ね、ビアンキちゃん…ふふ…」
「ビアンキに、何をした…!?」
「私は、見てただけ…ただ、見てただけよ」
さも可笑しそうに、くっくっと肩を震わせて笑った。
「…何が可笑しいんですか」

「紺野も、罪なことをする。…何も、知らないのね。自分が、どんな厄介な十字架を背負ってしまったのか…」

くらり、と頭の芯がふらついた。僕の肩をきつく握る柚木の気配で、ふと我に返った。
「いたぞ!」
「おい、こっちだ!!」
黒い色眼鏡をかけた看護士が4人走ってきて、流迦を取り巻いた。流迦の微笑はなりをひそめ、大理石で出来た少女の仮面のように凍りついた。
彼らは武骨な腕で流迦を押さえつけ、アイマスクを被せ、拘束具でその折れそうな腕を戒めた。それはとても粗雑で、乱暴な扱いだった。…呼んだ柚木さえ、ちょっと引くほど。やがて彼女が身動きを取れなくなったころ、1人の看護士が僕らに向き直った。
「お騒がせしております。…おかしな光景に見えるかもしれませんが、この患者は『それ』を必要とする患者でして…」
「余計なことをいうな。もう何もしない」
イラついたように声を荒げ、彼女は首だけを僕に振り向けた。
「一つ、教えておいてあげる。…『ビアンキ』は、重大な問題を内包する欠陥プログラム」
「欠陥……?」
「…今すぐ、アンインストールしなさい。これ以上、情が移らないうちに…」
その唇が、きれいな弧を描いた。
…意味を問い詰める前に、彼女は看護士達に引っ立てられていった。



彼女の姿が消えた瞬間、体中から力が抜けて瘧のように震え始めた。…止まらない、柚木の呼びかける声が遠くに、とても遠くに聞こえる。何度も、何度も呼びかけられているのに、100m向こうにいるみたいだ。…寒い。寒くて気が狂いそうだ…
「なんでだろう、僕…」
柚木の声…だと思ってたものは人の声ですらなくなり、遠くで鐘を突いたような雑音にとって替わられた。床も天井も消え、上も下もない白い靄だけが、僕の現実になっていく。それは闇と変わらない、一寸先も見えない白い靄。僕だけしかいない白い靄のなかで、確かめるように言葉を紡ぐ…
「なんでだろう、殺されたのに。僕は殺されたのに」
――自分の声すら、鐘の音に飲み込まれて聞こえない。自分が何を言ってるのかすら分からない。ごぉおぉぉおおぉぉおん…ごぉおぉぉおおぉぉおん…と、耳朶を打つ遠い鐘の音だけ。
「…そうだよ、あの時だってそうだった」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん
「あのひとは僕を殺したのに…僕を、呪ったのに」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん
「なんで」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「なんで僕は…喜んでいるんだ?」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「なんで、こんなに嬉しいんだ?」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「――今度は、殺されるのに」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「嘘だ」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「信じるな」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「感情を、信じるな」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「感情を信じたから、僕は」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん
「信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、信じない、」
――ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん、ごぉおぉぉおおぉぉおん


「信じてたまるか!!」


――ごぉおぉぉおおぉぉおん……

…『体温』を感じた。そう思った瞬間、白い靄がゆるゆると薄らいでいった。薄い靄の向こうに、閉じた長いまつげが見えた。うあ、と声を出そうとして、気がついた。

僕の声は、柔らかい唇に塞がれていた。

首の後ろに回された手のひらが冷たい。首筋から、コロンの香りがする。ここは、病院の廊下…麻痺した感覚が解きほぐされ、一つ一つ認識していくにつれて、心臓が暴れ馬の足音みたいに轟く。…僕は、僕たちは何をしているんだ…?
とりあえず腰に手を回してみるか…と手を伸ばした瞬間、細い腰がすっと後ろに下がった。呆然とするしかない僕の目の前には、いつも通りの柚木がいた。
「…手間、かけさせるんじゃないわよ」
そう言い捨てて、僕の脇を通り過ぎた。すれ違う瞬間、僕の手を取って。
「あ…」
僕は引かれるままに、柚木の後を追った。靄は晴れたのに頭がふわふわして、何か考えようとすると思考にノイズが走って千々に乱れる。…ねえ、さっきのあれはどういうことで、僕をどこに連れて行く気なんだ、柚木…
やがて、トイレの前で柚木の足が止まり、するりと手が解けた。…ど、どういうことだ。まさか柚木…続きは、個室で…!?
「そ、そんな初めてなのに大胆な!!」
「馬鹿なこと言うなっ!!」
いい裏拳をもらい、ぐらりと体が傾いだ。…鼻が痛い。
「姶良、トイレに行くって言ってたじゃん!」
「へ……?」
そういえば、そんな口実で逃げてきたっけ。
「私も行こうと思ったのに、道が分からなくなって…姶良の声を辿って来たの!」
「ま、まじで?迷ったの!?…右、左、右、左だよ!?」
「えっと…途中何回曲がったか、自信なくなって…」
「と、トリだ…トリがいる!」
「…うるさいっ!いい、私が出るまで外で待っててよ!」
そう言い捨てて、柚木は引き戸を閉めてしまった。
…柚木、君はもう少し、考えたり振り返ったりした方がいいんじゃないか…



柚木の斜め45度後ろから、柚木のクセ毛が揺れるのを眺める。ただ眺めるんじゃなくて「僕のもの」という前提で、ひたすら眺める。名づけて「僕のものフィルタ」。
少し赤い『くるん』と巻いた髪が、ばら色の頬にふわりとかかって、とても可愛く見えてくる。…おぉ、この、サークル内でもちょっと評判の『くるん』が僕のものなのか…!
少し後ろに回って、ちょっと大きいかな…と思っていた尻を、ひたすら「僕のものフィルタ」で凝視する。…か、格別だ!「僕のもの」と思うだけで、この世に二つとない黄金率を持つヒップラインにしか見えない!
…思い切って、斜め30度くらいから、元々僕好みの唇を覗き込んでみる。オレンジかかったピンク色の唇が、白い息が零れる。これも…っていうかこれこそ、僕のものか…!

…だ、大丈夫だよな。今度こそ、間違ってないよな。

これはもう、付き合ってると言っても差し支えない段階だよな…!?
それなら、あのオムライスの件も簡単に説明がつく。…あれは柚木からの、ラブレター的な意味合いをもつものだったんだ…かかっていたケチャップが、3歳児が書くハートマークみたいだったような気がしないでもない!
…柚木の気持ちに応えるためには、まず僕の合鍵を渡そう。僕とお揃いのストラップをつけて。僕としてはサークルの皆に公表することもやぶさかではないが、柚木が『…でも私、恥ずかしい…姶良と毎日“あんなこと”してるって、皆に分かっちゃうよ…』と頬を染めるのならば、残り3年間、意地でも隠し通そうじゃないか!結婚は…そうだな、さすがにお互い自立してからにしよう。…しかし柚木がどうしても『卒業までなんて、待てないよ…』と涙ぐむのならば、学生結婚も辞さない構えで事に当たろうと思う!さあ柚木、こっちの準備は万端だ。僕の胸へ飛び込んでおいで!!

「…ちょっと。さっきから変な角度でついてこないでよ」
柚木が険のある口調で言った。
「なんか、落ち着かないんだけど」
「そ…そうだよね。ごめん」
さりげなく柚木の斜め後ろに回り込み、肩に手を伸ばす。
「…そっちは大分、落ち着いたみたいだね」
指先が肩に触れる直前、柚木の声に弾かれた。
「どうせ何言っても、姶良は『考える』のを止めないから」
……え
「そういう性分なんでしょ。…だったら、他に『考えるネタ』をくれてやればいいって思ったの。それだけ」
天気の話でもするように表情を変えずに言うと、僕の眼を覗き込んだ。
「…色々、考えちゃったでしょ」

……ええ、考えちゃいましたとも。

8年後に一男一女をもうけて、後楽園で笑いさんざめきながら長男を肩車してるところまでね……危うく長男の名前とか呼んじゃうとこでしたよ……

正直、君の前じゃなければ崩れ落ちてるところです……

すとん、と腕を体の横に落とし、くたり、と首を傾ける。『僕のものフィルタ』は、柚木の思いがけない発言に、あえなく砕け散った。…フィルタが砕けた今でも、やっぱり唇は腹が立つくらいに僕好みだ。
「――意外」
「なにが」
「柚木、そういうこと、誰にでも出来るんだ」
ちょっと皮肉を込めて言ってやった。すぐ怒り出すなと思っていたら、意外にも少し考えている。…そして顔を上げた。
「――誰にでも、じゃない」
一旦落ち込んだ気分に、きらーんと一条の光が差した。
「だ、誰にでもじゃないんだ…」
「和田勉は無理」
一条の光は、所詮一条…。ふっと儚く掻き消えた。
「たまに、考えるの。もし、遠泳でたどり着いた島の影に、溺れた和田勉が倒れていたら…そして、そこには私しかいなかったら…!」
「…君は余計なこと以外考えないのか」

――それは僕も同じか。

いや、心を蝕む分、僕の方がタチが悪い。ただ巻き込まれただけの柚木に、あんなことをさせて、腹立ちまぎれに嫌味まで言って。…胸の中にじんわりと、自己嫌悪が広がった。
「…柚木」
「ん?」
事も無げに振り向く。…いつもそうなんだ。柚木はいつも、何事もなかったように振り向く。僕は今までずっと、自分でも気付かないまま、それに胡坐をかいていた。
「話したいことがあるんだ」
「…ん」
柚木の唇が、ほんの少しほころんだ。
 
 

 
後書き
(2)に続きます。 
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