【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール
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グランド・カナル(上)
グランド・カナル(上)
宇宙暦794年2月1日、アレクサンドル・ビュコック中将率いる第5艦隊は、他の艦隊に先立ってイゼルローン回廊外縁の辺境星域にいる警備部隊の増援に向かっていた。前線にいる部隊は急遽かき集められた部隊であり、その総数は合わせても一個艦隊は達しなかっただろう。敵が来襲すると言っても、宇宙は広い。早晩、到着するということはなかったが、それでも援軍は早い方が良く、そして多い方が良かった。
困ったことに、昨日届いた情報によれば、補給のミスによって前線の警備部隊の食料や武器弾薬エネルギーが不足に陥っているのだと言う。これは図らずもビュコックがフロルに示唆したものであった。セレブレッゼ中将が退役し、その後継と目されたキャゼルヌ准将が過労で倒れた結果、同盟の補給線は半ば断たれてしまったということなのかもしれない。軍部だけではそれを補うことが出来ないという醜態の結果、民間から兵站を調達することになったという。なんとも情けない話だが、さらにビュコックが問題視したのは総司令官ロボス元帥の訓令だった。
「会戦を前にして貴重な軍用艦艇をみすみす敵軍の餌食せぬようくれぐれも、無理な行動は慎むように」
ロボスは大雑把なところはあるが、良き司令官であったとビュコックもその力量は認めていただろう。だがそのビュコックをして、ロボスのこの訓令は首を傾げざるを得ないものだった。軍のために使われる物資を運んでいるのは、民間の輸送船なのだ。どのような犠牲を払ってでも、民間人の犠牲なきよう守り通せ、というなら筋は通っても、被害を恐れてそのような訓令を出すのは明らかに不適と言わざるを得なかっただろう。
ハイネセンを出発した段階で、巡航艦と駆逐艦、合計10隻が護衛としてこれについていたはずだが、果たしていったい何隻が最後までその職責を果たしているのかは、甚だ疑問であった。
——儂であれば、残るであろうな。
とはビュコックの偽らざる心情であり、それこそが全将兵から絶大な人気を誇る由縁だった。ビュコックは時と場合によって慎重にも大胆にもなったが、それはすべて犠牲を最小限に抑えるため、という目的の下にあったのだ。
ビュコックの元にフロルが出頭したのは、そんな日のことである。
「ビュコック提督」
フロルの顔はこれ以上にないほど、無表情であったとラオ少佐は日記に書き記している。
「民間船からの兵站徴用の件か」
「はい、我々は民間輸送船団よりも先行して前線に向かっております。我々が逆方向に向かえば、まず合流できるかと」
「だが我々はすぐに前線に赴くように、とロボス元帥に言われておる」
「実は、一つ困ったことがありまして」
フロルはそこで笑いを浮かべた。ビュコックは目がまったく笑ってないことに気付いていたが、かといってそれを指摘することはなかった。だが理性を手放した者の目ではない。
「我々のとある部隊が物資を使いすぎまして、急ぎ補給が必要になったのです。我々が補給を必要としていれば、輸送船団と合流するのはおかしいことではありません」
「とある部隊、とはどこの部隊だね」
ビュコックは怪訝な顔をした。ビュコックとフロル自身が、第5艦隊に節約を徹底させたのである。間違ってもそんな浪費する部隊があるとは、思えなかったのである。
フロルは言った。
「|薔薇の騎士《ローゼンリッター》です」
***
時は遡る。
第5艦隊には同盟で最も勇猛をもって知られた白兵戦部隊がその麾下に加わっていた。
ワルター・フォン・シェーンコップ大佐率いる|薔薇の騎士《ローゼンリッター》連隊である。
彼らは帝国からの亡命者子弟で構成された白兵戦専門の特化部隊であり、その戦闘能力は一個連隊で一個師団に匹敵されると言われるほどである。だが、その性質上、同盟軍内部でも嫌煙されることの多い連隊であり、歴代の連隊長の半数が帝国に再亡命していることもそれに拍車をかけていた。
だが、今代の|薔薇の騎士《ローゼンリッター》はとある准将によって手厚く遇されていた。言うまでもない。フロル・リシャール准将である。彼は自ら積極的に|薔薇の騎士《ローゼンリッター》と普通の陸戦部隊との確執を取り払おうとしていた。共同訓練の実施や、部隊対抗のフライングボール大会の開催などである。それは彼が第5艦隊に戻って来た時からずっと行ってきたことであり、おかげで第5艦隊において|薔薇の騎士《ローゼンリッター》はかつてほど異質な存在とはなっていなかった。
無論、その力量差ゆえに勝敗は常に|薔薇の騎士《ローゼンリッター》に上がるのだが、彼らは彼らで同じ人間であり、気持ちのいい連中であることを冷静に理解した将兵も多かったのである。
もっとも、そのおかげでより多くの青年将兵たちが自らのガールフレンドをあ《・》の《・》男《・》に奪われたという苦情がフロルに届いてたが、彼は溜め息を吐くに留めていた。
そんなフロルが、|薔薇の騎士《ローゼンリッター》連隊旗艦を訪れたのは、1月31日のことである。
「あ、フロルの旦那、お久し——」
「シェーンコップを呼んでくれ」
ライナー・ブルームハルト大尉は|薔薇の騎士《ローゼンリッター》の若手の中でももっとも有能な人間の一人だった。連隊長であるワルター・フォン・シェーンコップ大佐、カスパー・リンツ少佐、カール・フォン・デア・デッケン大尉と共に|薔薇の騎士《ローゼンリッター》連隊の|黄金四重奏《ゴールデン・カルテット》と呼ばれている。実力ともにトップ・フォーの一人だった。フロルも名誉隊員として時折、訓練に参加しており、もちろん顔見知りである。
そのブルームハルトをして驚きを隠せないほど、フロルの形相は凄かった。目の下に出来た隈や、そのくたびれた顔は、フロルがずっと働き詰めであることを如実に物語っていた。
「フロル、その顔はどうした。夜のお務めに励みすぎたか?」
「悪いが冗談を言う気分じゃない」
それでも冗談の一つも飛ばすのが、シェーンコップという男だった。
「民間輸送船団の話は聞いているか」
「ロボスのありがたい訓令もな」
ブルームハルトは遠巻きにそれを見ていた。
むろん、彼も知っている。シェーンコップ自身がそのことを愚痴っていたのを聞いていた。|薔薇の騎士《ローゼンリッター》連隊は帝国からの亡命者である。で、あるからして帝国と同盟の長所も短所も知っている。そして誰もが多かれ少なかれ同盟軍の現状に辟易しているのだ。
「民間輸送船団の護衛部隊は、一隻を残してすべて引き返したそうだ」
「ふん、さすが民主主義の国だな。誰よりも自分が可愛いらしい」
「イヴリンが乗っている」
シェーンコップは目を細めた。シェーンコップはかつてヴァンフリートでフロルに自分の女を救われていた。そしてもちろん、フロルにイヴリン・ドールトンという美人の連れ合いがいたことも知っていた。破局したという話も聞かない。
ならば、フロルの女が危ない橋を渡っていることも理解したのだ。
「……それで、いったいどうした」
「救出する。このまま放っておけば、帝国の哨戒部隊にやられる。こんなところであいつを失うわけにはいかない」
「だから、俺たちに何をしろというんだ」
「……第5艦隊の物資、何か一種類でいい、使い切ってくれ。いや、使い切らなくてもいい、明らかに不足になるまで使い込んでくれ。理由付けや責任は俺が請け負う」
シェーンコップはその時点でフロルの思惑を見抜いた。フロルは不足物資の補給、という名目で第5艦隊を動かすつもりなのである。
そしてそのためには何かを不足させる必要がある。
だが現段階では第5艦隊は節約、というなの統制の元に何もが安定量揃っていた。それはフロルの当初の試みが裏目に出た形であるが、このまま日をおいても、不足することはないだろう。そこで頼れるのは浪費をしてくれる部隊である。これは|薔薇の騎士《ローゼンリッター》しかない。元から軍上層部にとって目の上のたんこぶである|薔薇の騎士《ローゼンリッター》なら、多少の無茶をしても怒られる程度で済む。そもそもそれくらいの不祥事なら今までに何度もしでかしているし、それを気に留めるような集団ではない。もしこれが一般部隊だったらば隊長の降格というのもありえたが、政治的意味合いの強い|薔薇の騎士《ローゼンリッター》ならその心配がないのだ。
「ふむ、それは楽しそうだな」
「何がいい。何でも浴びるほど使わせてやる。弾薬か、飯か?」
「避妊用具、とでも言いたい所だが、そもそも俺は使わんし、俺の部下も俺並みの腕前というわけじゃない。そうだな、酒にしよう」
シェーンコップは笑いながらそう言った。
「いざという時は腕を借りるかもしれん。その時は、頼む」
「ああ、帝国の人間は酒に強いんだ。二日酔いなんぞする軟弱者はいないから気にするな」
こうして|薔薇の騎士《ローゼンリッター》に大量の酒が運び込まれた。その時、|薔薇の騎士《ローゼンリッター》連隊は2500人を要していた。そして、彼らは、一個連隊で一個師団に相当する酒豪であることも証明したのである。
***
軍隊において酒、というのは重要な物資の一つである。そもそも娯楽の少ない軍隊に置いて、酒は誰もが好む嗜好品なのだ。むろん、アルコール依存症になるほどの者はいなかったが、戦いのあとに酒が振る舞われるのは軍隊の慣例であり、軍隊と酒は切っても切れない関係にある。かつて同盟において潔癖性の国防委員長が軍隊における酒の配給を禁止したことがあったが、管理できない悪酒が出回り要看護者が続出したり、酒に変わる娯楽としてサイオキシン麻薬が広まったりしたために、撤回されたということすらある。多分に、酒不足は看過できるものではなかったのだ。
「わかった、それで、いったいどうするというんじゃ」
フロルからおおまかな説明を聞いたビュコックは苦笑しながら頷く。
「この空域は、未だ同盟の支配下です。敵の大規模、中規模部隊は動けません。せいぜい哨戒部隊ですから、艦数は2、3艦程度でしょう」
「ではこちらも3艦一組で動かす。それでいいかね」
「第5艦隊全部隊は収拾がつかなくなります。チュン少将ならば上手くやってくれるかと」
ビュコックはそれに頷いた。こうして、第5艦隊は前線に向かう足をしばしとめ、彷徨える民間輸送船団の捜索を始めたのである。
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