【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール
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戦の始末
戦の始末
ヴァンフリート4=2の同盟軍基地は、戦闘後の処理に忙しかった。この後も宇宙空間では戦いが続くのであろうが、地上での戦いは終了したように見える。地上の建造物は破壊され、死傷者の数がどこまで増えたか見当もつかない。散々な終末であるが、終末がないより遥かにマシというものだった。
若いライナー・ブルームハルト中尉が、シェーンコップに向けて笑顔を作った。その角張った笑顔は、彼を包み込んだ緊張が今も解け切っていないことを示していた。
「どうやら助かったらしいですね、お互いに」
「ああ、あまり死者が多いんで、死神ども、俺たちのところへ来るまでに、馬車が満杯になってしまったらしい」
自分で口にした冗談だが、それほど笑う気にもなれず、シェーンコップは、破壊と殺戮の手が丹念に撫で回した、その痕跡を見渡した。司令部と周辺の建造物は、破損箇処に速乾性の特殊な樹脂を噴きつけ、内部では呼吸が可能になっている。各処に、ヘルメットを脱いだ兵士たちの、立ち働く姿や、呆然と座り込む姿が見えた。
その中でも、彼が一種の安心をその胸に宿していられたのは、ヴァレリーが辛うじて生きていることを知っていたからであった。彼女はどうやら危機一髪というところを、リシャール中佐によって助けられたらしい。
シェーンコップは口から苦笑が溢れるのを意識した。始めはただのエリートの道楽と思って付き合っていた彼の訓練だったが、こういう結果を招いたとなると、案外バカにできるものでもなかったのだ、ということに気付いたからである。事情はどうあれ、自分の女が助けられたというのは、彼に借りができたということに他ならないだろう。
|薔薇の騎士連隊《ローゼンリッター》の招集命令も、まさに絶妙というところだった。戦線を保ちつつ、侵入した敵に対応させたその軍事的処理能力は大したものだ。
「おい、ブルームハルト。フロルの野郎はどこへ行った?」
「さぁ」尋ねられた青年士官は肩を竦めた。「司令部の応援に行く、という話でしたが」
「よし、司令部の様子を見に行くぞ」
シェーンコップとブルームハルトの二人は、司令部に辿り着いたが、そこにあったのは死体だけであった。
「うひゃあ、こんなとこまで侵入を許したんですか」
「ああ、あの哀れな中将殿がこの混戦を生き残っていればいいがな」
死体を確認しつつ、シェーンコップは応えたが、死体の様子から、どうやら司令官は逃げ延びたであろうことを読み取った。二人は脱出口からその足跡を追って歩く。
「捕虜になってなきゃいいですけどね」
「フロルが追いかけているはずだ。まぁそんなことにはならんだろう」
シェーンコップは言葉を口にしてから、自分がフロルにある程度の信頼を寄せていることに驚いた。同盟軍の腐敗は目を覆わん限りだが、どうやら自分は信頼に足る人物を、部下以外にも見つけたらしい。
だがそんな二人の後ろから救急のロボットカーを走らせて救護班がやってきた。その中には誰も入っていなかったが、誰かを入れるために走っているのは明確だった。
「おい、どこに向かっている?」
下士官は息を切らせながら言う。
「デア・デッケン少尉に呼ばれまして」
「デア・デッケンが? 負傷したのか」
「いえ、少尉は救護班を呼ばれただけです」
そう言うと彼らは二人の横を走り抜けた。
「……おい、ブルームハルト、あれについて行くぞ」
「了解」
そしてその2分後、彼らは右胸を負傷し、意識を失っているフロル・リシャール中佐に対面するのであった。
「危ないところだったな、キルヒアイス」
敵の追撃を逃れきって、無事帰りの|装甲車《ALC》に乗ったラインハルト・フォン・ミューゼル准将は、隣りに座っているジークフリード・キルヒアイス大尉に声をかけた。ラインハルトはフロルに、キルヒアイスはシェーンコップとの死闘を繰り広げてきたのだ。勝敗はつかなかったが、何かの拍子で自分が死者の列に並んでいたとしても、不思議はないのである。
「はい、ラインハルトさま。私のせいでお手数をおかけし、すみません」
キルヒアイスは最後の不手際を謝りながらも、相手をした男のことを思い出していた。
フロル・リシャール中佐。
ラインハルトに胸を撃ち抜かれても、一歩も引かぬ形相で、味方二人を守った男である。
「あの男、リシャール中佐とか言ったか」
ラインハルトもまた、その男を思い出していた。ゼッフル粒子をブラフに使って白兵戦で彼に勝負を挑み、自分の上官であろう中将とその副官を守った男である。ラインハルトが引き金を引いた瞬間、彼の頭には後悔と驚愕と悲鳴が金切り声を上げていた。彼はフロルのブラフを信じていたが、それでもあの時、引き金を引かざるを得なかったのである。
「危ない……ところでした」
キルヒアイスはあの瞬間、女性士官のヘルメットの奥に、アンネローゼの面影を見たのだった。イヴリン・ドールトンは美人である。程度に違いはあっても、遮光板によってよくは見えなかった女性士官の顔が、アンネローゼに見えたとしても不思議はない。そして何より、自分の戦斧の前に飛び出した女性は、リシャールという男のために自分が盾になろうとしていたのであった。キルヒアイスは多くの敵を屠って来たが、未だ女性を自らの手で殺したことはなかったのである。あの瞬間、自分は彼女を斬り殺すのを躊躇してしまった。おかげであと一拍ののち、自分の命は永遠に断たれるところだったのだ。
「キルヒアイス、おまえは優しい男だ。だが、敵にまで優しくある必要はない」
「わかっては、いるのですが」
キルヒアイスの心情は、ラインハルトもよくわかっていることだった。だが、そのせいでキルヒアイスの命を落とすなどということは、ラインハルトには一層認められないことなのであった。
「あの女、どうしておまえの前に飛び出したんだ。上官を守るためか?」
「いえ、恐らくただの上官ではなかったのでしょう」
「つまり、どういうことだ?」
「男女の仲だったのかと」
ラインハルトは数多くの美点と、数少ない欠点を持っていた。その中でも好色ではないというのは彼の美点に挙げられるものだったが、女性の機微に疎いというのは欠点にも挙げられるべきものだった。
「……すると、あの男は自分の女のために戦っていたのか」
「ええ、そしてその男の危機に、女性の方も命をかけたのかと」
ラインハルトはあのリシャールという面白い男が、今どうなっているだろうか、と考えていた。ラインハルトの放った荷電粒子ビームは、確かに彼の右胸を貫いた。それは放っておけば致命傷に違いなかったが、基地の中で負傷したのだから、救護処置も迅速に行われたことだろう。なぜ、自分は止めを刺さなかったのか。ラインハルトは、あの時銃を握っていた右手を、まるで他人の手のように見つめた。
あるいは、あの男の気迫に押されたのかもしれぬ。人間の生をかけた命の光が、あの男の瞳には宿っていた。もしラインハルトが引き金を引けば、あの男も寸分の来るなくこちらを撃ち抜いていただろう。
(そこまでして、女を守るか)
だが、その点に関しては、ラインハルトやキルヒアイスも、フロル・リシャールという男とは大した差異はなかったのである。前者はアンネローゼのために命をかけており、後者は自分を愛してくれる女性のために命をかけた。シェーンコップがそれを知ればニヒルな笑みを浮かべたであろうことに、あの一瞬、両者は自分にとって大切な女性のために命を運命の天秤に載せていたのだから。
キルヒアイスはあの男が死んでいるはずはない、と考えていた。あの男はそんな簡単に死ぬような人間ではない。きっとあの男は、また私たち二人の前に、立ちはだかる日が来るに違いないのだ……。
カリンはその時、ハイネセンのフロルの自宅で、一人お皿洗いをしていた。
彼女はフロルが旅立ってからも、彼女自身と彼女の大切な友人、エリィとともに、この家を守ってきたのである。掃除や洗濯、軽い食事から皿洗いまで、彼女は自分でそれらを行った。キャゼルヌ家に頼らないで、自分で頑張ろうと決めたことだった。それでもキャゼルヌ夫人は毎日、フロルの家にやってきてくれた。可愛い赤ん坊と遊びながら、3時のティータイムを過ごしたり、フロルが残していったレシピを見ながら一緒にケーキを作ったり。彼女はフロルの不在、という大きな寂しさを、どうにかして紛らわせていたのである。
カリンにとって、フロルは兄であり、父のような存在であった。フロル・リシャールは、カリンを叱らなかった。彼はこの薄幸の少女の悪癖を窘めるとき、いつもゆっくりと理解できるように説いて聞かせるのだった。一つにフロルは、このカリンという少女が相当に頭のいい子だということに気付いていて、そしてこの少女は非常に心優しいところがあることも知っていたからである。フロルは決して、上から押し付けるようには言わなかった。フロルは自分がカリンの父になることはできないとわかっていたからである。だからこそ、彼は彼女を導く存在として、優しくそばにいてやろうとしたのだった。
カリンもまた、長い時期を一緒に過ごしたことによって、フロル・リシャールという男の優しさに気付いていった。彼女が彼と会った2年前のあの日、抱いた印象は裏切られることがなかったのである。
彼女は一人、皿を洗いながら、遠くで戦争をしている男のことを思い出していた。彼がいなくなってもう半年以上経つ。高速通信で連絡をとったこともあったが、ここ最近は忙しくて連絡もとれていない。
不安がないわけではなかった。
だが、彼の言葉と、暖かさと、笑みが、彼女を辛うじて支えていたのである。
「あっ」
彼女は食器を棚に収めようとして、誤ってマグカップを落としてしまった。
マグカップは固い床に当たって、四散した。そしてそのマグカップが、フロルの一番のお気に入りのそれだったことに、彼女は気付いた。
背中に寒気が走る。
なんの根拠もない。
なんの理由もない。
そうであるはずがない。
だが、彼女はその瞬間、彼女が帰りを待っている男に、何かがあったことを確信した。それはカリンの第六感というべきものであったろう。この後、彼女がスパルタニアンのパイロットとして名を上げた際に役立った勘の良さと、それは同じものだったに違いない。
「エリィ!」
彼女は泣きそうになりながら、エリィを呼んだ。
エリィもまた、すぐに彼女の元に駆け寄ってきた。
カリンはエリィを抱きしめた。その暖かみを感じずにはいられなかった。エリィは大人しく抱かれたままになっている。まるでそれが、今自分がすべきことであるとわかっているかのように。
「どうにかして、終わりを迎えられそうじゃな」
ビュコック提督は目の前のディスプレイで引き上げつつある敵軍の艦隊モデルを見ながら、呟いた。あのフロルからの救援要請を受け取ったあと、可能な限りの快速運動でヴァンフリート4=2に駆けつけ、その狭い宙域で混戦というべき艦隊戦の、それが終わりだった。第5艦隊の動きは、冗長に堕っしていた会戦を終わらせる、という意味においてのみ価値があったのであり、勝利やまた死傷者の数になんらの影響も及ぼしていないことをビュコックは知っていた。
もっとも、かなり早くヴァンフリート4=2に来たおかげで、地上戦はいくらか早く終ったであろうことだけが、彼の心を慰めた。だがだらだらと散発的に続く艦隊戦は、まだ続きそうである。今月中にこの宙域から全軍撤退できるかどうか、と言ったところだった。
恐らくヴァンフリート4=2の基地は破棄することになるだろう。既にこの宙域は戦略的な意味を失った。無用の長物になるだけであり、また敵の攻撃によってかなり破壊されたと聞く。問題はあの後方基地にいた人的被害の方であった。あそこには後方任務の統括者、シンクレア・セレブレッゼ中将や、同盟最強の白兵戦部隊|薔薇の騎士《ローゼンリッター》連隊、そして何よりかつてのビュコック提督の作戦参謀、フロル・リシャール中佐がいたのである。むしろその人的被害の方が、ビュコックにはよほど気がかりであった。
「閣下、ヴァンフリート4=2の同盟基地から通信が入っています」
ファイフェル大尉がビュコックに告げた。
「来たか、では繋いでくれ」
ビュコックは通信兵に指示を飛ばした。
スクリーンに映ったのは、セレブレッゼ中将であった。
「おお、セレブレッゼ中将、健在か」
ビュコックは同じ階級であるこのセレブレッゼ中将を、後方任務のプロとして高く評価していた。彼もまた、軍隊における後方任務の重要性を深く理解していたのである。前線で兵士が意気揚々と戦っていられるのは、後方で働く者たちがいるからこそ、であることを知っていたのである。
「は、ビュコック提督もお元気そうで」
「元気なものか。こんな無為で徒労感だけが残る戦いなど、疲れるだけじゃよ」
ビュコックは肩を竦めてみせた。
「それで、ヴァンフリート4=2同盟基地の被害は?」
「ほぼ半壊というところです。恐らく補修にかなりの費用と期間を要します。人的被害は70万に達するかと」
「はぁ」
ビュコックは小さく溜め息をついた。戦闘には被害がつきものである。だが半世紀戦場を駆け巡ってきたこの老提督をしても、その無情さは慣れることがないのであった。
「セレブレッゼ中将、これはまだ決定事項ではないが、恐らくその基地は廃棄されることになるじゃろう。遅くても今月中に全軍がこの星域から引き上げる。その基地の戦略的な価値は失われるのじゃ」
「は、私もそう考えていたところです」
セレブレッゼは固い表情のまま、頷いた。
「では撤退の準備をしてくれ。人員や物資の撤退の計画を立ててくれ」
「は、小官の専門ですな」
ビュコックは、そこで笑みを浮かべようとして失敗したセレブレッゼの顔に、何か大きな衝撃的な出来事があったことを悟った。あるいは今までずっと後方勤務だったため、万単位の人の死というのを見慣れてないのかもしれぬ。だが、そこに幾分かの後悔の色を、ビュコックは敏感にも見て取ったのである。
「セレブレッゼ中将、確か基地防衛のために、儂のとこにいたフロル・リシャール中佐がそちらに行っておったはずじゃが、あいつは元気にしてるか」
ビュコックはその質問が、セレブレッゼの痛覚を刺激したことに気付いた。彼の顔に隠し切れない動揺が走ったのである。
「……リシャール中佐は……敵の銃撃を受けて重態です」
「なんじゃと!?」
「小官と、私の副官が、敵の捕虜になるというところを、助けてくれたのです。私は、何もできなかった。私はだた目の前で彼が撃たれるのを見ているだけだった!」
セレブレッゼはその激情を言葉に乗せて吐き出していた。彼は目の前で自分を守ろうと命を張った部下を、基地防衛のために全力を尽くしていた有能な部下を、ただ見ているだけで何もしなかったのだ。それは後悔ではない。自分という人間が、戦場においていかに無能かを知らしめる出来事であった。自分という人間を守るために、盾になった司令部の将兵、基地を守ろうと命を散らした地上兵、そしてより直接的に私のために動いていたリシャール中佐。リシャール中佐が、本当はイヴリン・ドールトン大尉のために命を張っていたことを、セレブレッゼはもちろん知っていた。だが、彼は結果的に、自分の命と将来を救ってくれたということも、知っていた。今、こうして偉そうに中将として話していられるのは、彼のおかげなのだ。
「……セレブレッゼ中将、そういうことはたいていどうしようもないものじゃ。あの時ああすればよかった、と思うことは何も生み出さん。中将は中将の、なすべきことをするべきじゃ。儂はリシャールという男を知っている。簡単に死ぬような男ではない。ただ、あの男が助かることを祈ろうじゃないか」
セレブレッゼは震える手を必死に動かし、敬礼をした。ビュコックも敬礼をして、通信が終了する。
ビュコックは、口に、あの美味しかった紅茶の味が満ちる感覚を、思い出していた。
ヤンがアレックス・キャゼルヌ大佐の部屋を訪れたのは、4月8日のことであった。彼は今年末に計画されている第6次イゼルローン要塞攻略戦の作戦会議に来ていたのである。第8艦隊作戦参謀としてこの作戦に参加することが内定していたのであるが、正直なところ、彼はこの作戦に悲観的だった。第5次のイゼルローン要塞攻略戦でも彼は確信していることだが、あの要塞は外からの攻撃で落ちることはないだろう。
だがロボス元帥は統合作戦本部長の椅子を狙っており、そのための出兵というべきであった。あるいは低迷を続ける現政権の支持率回復が目的か。どう考えても、ヤンが積極的にこれに参加する道理はなかったのである。
「キャゼルヌ先輩、お久しぶりです」
ヤンはキャゼルヌの部屋に入って敬礼をしたが、それに対するキャゼルヌの反応は芳しくなかった。
「……ヤン、困ったことになった」
「どうしたんですか? とうとうキャゼルヌ夫人が家を出ましたか」
「フロルが、意識不明の重態だ」
「フロル先輩が?」
キャゼルヌは端的に言い放った。彼自身、さきほど届いた戦闘報告で知ったばかりなのである。
「いったい、どういう状況で?」
「ヴァンフリート4=2同盟基地での戦闘は知ってるな? 白兵戦が繰り広げられたらしいんだが、右胸部を銃撃されたそうだ」
ヤンは息を呑んだ。あの死んでも死ななそうに元気だったフロルが、死にかけているなど何かの冗談、というものだった。
「困ったことになったよ、ヤン」
キャゼルヌは頭を抱えた。何より彼の帰りを待ち望んでいるカリンに、このことを知らせる義務が彼にあったからである。彼は後悔していた。なぜ、自分はカリンをフロルに預けたのだろうと。もっとあとになってからやるべきではなかったのか、と。
そしてヤンもまた、フロル・リシャールという自分を多いに買ってくれている大恩ある先輩が、あの有能な男が亡くなった時を想像して、顔をしかめた。彼にはまだまだ自分を助けて欲しい、と思いがあったのである。恐らく、自分やラップよりもその軍事的才覚で昇進する男であると思っていたが、まさかこんなところで躓こうとは。
ヤンは軍帽を脱いで、頭をかいた。当たり前のことだが、彼にできることなど、それくらいのものだったのだ。
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