愛の妙薬
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第一幕その九
第一幕その九
(まだ笑っているわね、完全に頭にきたわ)
もう怒りが顔に滲み出ていた。
(見ていらっしゃい、死ぬ程後悔させてやるから)
だがネモリーノはやはりしれっとしている。
(明日になれば全て変わるんだ。明日には僕はアディーナと一緒なんだ)
そう思うと笑わずにはいられなかった。
(この男が馬鹿なのはわかるが)
ベルコーレは少し考えていた。
(それでもこの娘さんの様子は少し変だな。大体俺が独身かどうかすら確かめてはいないのに)
彼は幸いにして独身である。アディーナにとってこれは幸運なことであった。この場限りであるが。
(やっぱり何かあるのかな)
そう考えている時だった。ジャンネッタがこの場に姿を現わした。
「ねえ軍曹さん」
そしてベルコーレに呼びかけてきた。
「私かい?」
「はい。兵隊さん達が御用があるそうです」
見れば彼女の後ろに兵士が数人続いていた。
「御前達か。一体どうしたのだ?」
「ハッ、只今軍曹宛に大尉から連絡がありました」
「大尉からか」
「はい」
敬礼をして答える。そしてその中の一人が一通の手紙を差し出した。
「どうぞ」
「うむ」
彼は封を切り読みはじめた。それを見て彼は難しい顔をした。
「予定変更か。こういうことはよくあることだが」
だが面白くはなさそうであった。
「おい、全員に伝えろ」
読み終えると彼は兵士達に対して言った。
「明日の朝この村を発つ。そして本隊と合流するぞ」
「わかりました」
彼等はそれを聞いて敬礼で答えた。
「命令だから仕方がない。わかったわ」
「はい」
兵士達は納得しているようである。心中は穏やかではないかも知れないが彼等も軍人である。これはわきまえていた。
「お嬢さん」
ベルコーレは命令を終えるとアディーナに顔を向けた。
「こういうことだ。悪いが明日にはお別れだ」
密かに厄介ごとに巻き込まれなくてよかったと思っていた。
「それじゃあね」
(さっさと行っちまえ)
ネモリーノは厄介者が消えたと思い大喜びであった。
(明日にはあんたにとびきりのいいニュースが入るからな。それを持って早くこの村から出て行ってくれ)
かなり都合のいいことを考えていた。だがそうは問屋が卸さない。
(まだ喜んでいるのね)
アディーナが怖い顔をして彼を睨んでいたのだ。
「軍曹さん」
彼女はベルコーレに声をかけた。
「今日一日は大丈夫なのね」
「まあね」
彼は答えながら心の中でバツの悪い顔を作っていた。
(まずったかな)
舌打ちしたかったが目の前にその舌打ちの先がいるのでそれは無理であった。
「わかったわ」
アディーナはそれを聞いて満足気に微笑んだ。
「じゃあ今日結婚しましょう」
「ええっ!?」
これにはネモリーノとベルコーレ、両方が同時に声をあげた。
「嘘だろう!?」
言われたベルコーレは目を白黒させていた。
「本気なのかい!?」
「冗談でこんなことは言わないわよ」
アディーナはそれに対して微笑で返した。
「それとも私じゃご不満かしら」
「いやいや、とんでもない」
だがベルコーレは内心とんでもないことになった、と思っていた。
(逃げられんな、これは)
彼はそれでも騒ぎの中央ではまだなかった。かなり巻き込まれていたが台風の中央にはいなかった。
中央は最早大荒れであった。ネモリーノは顔中汗だらけにしてアディーナに何か言おうとしていた。だが狼狽しきっていて中々言葉にならない。
「あの、アディーナ、あの、その・・・・・・」
「何、ネモリーノ」
アディーナはそんな彼を勝ち誇った顔で見下ろしていた。背は彼女の方が遙かに小柄であったが完全に勝っていた。
「貴方も来てくれるわよね、楽しみに待ってるわよ」
ここぞとばかりに攻勢をかける。ネモリーノは顔色をくるくると変え口を閉じたり開いたりして完全に我を失っていた。
「あの、その」
「何?聞いてあげるわよ」
「その、ね・・・・・・。明日の朝まで待ってくれないかな、その、結婚を」
「あら、どうして?」
彼女は意地悪い顔で問うてきた。
「貴方に関係ないことなのに」
(関係あるのだろうな)
ベルコーレはその光景を見ながら思った。
「明日になればわかるよ、事情は。今はちょっと言えないけれど。だからね・・・・・・その結婚は明日まで待って欲しいんだよ、頼むから」
「嫌よ」
アディーナはそれに対してすげなく返した。
「貴方に指図されるいわれはないわ」
そして右手を振って彼をあしらった。
「そんな・・・・・・」
ネモリーノはそれを受けて完全に絶望した様子になった。もう酔いは完全に醒めていた。
(さてさて)
ベルコーレはそれを見ながら考え込んでいた。
(これはどうなるかな。どうもこの娘さん本当は俺のことは何とも思ってはいないようだな)
こうしたことには場慣れしている。だからすぐにわかった。
(俺は当て馬ということかな)
そう考えた。だがここは結論を避けることにした。
(乗ってみるか)
それも楽しそうだと思った。酔狂なことは好きだった。
(よし)
彼は意を決した。この騒動に巻き込まれることにした。
「ではお嬢さん、すぐに式に取り掛かりましょう」
「ええ」
アディーナはにこやかな笑顔を作って答えた。
「すぐに取り掛かりましょう」
「それは一日だけ待ってくれ」
ネモリーノはそんな彼女にすがるようにして言った。
「そうしたら全てわかるから」
「何がわかるっていうの!?」
アディーナはそんな彼をキッと睨み返した。
「貴方が馬鹿だってことはとっくの昔にわかってるわよ」
(これはまた手厳しい)
ベルコーレはそれを見てまた思った。やがてこの場に仕事を終えた村人達と荷物を整え終えた兵士達がやって来た。
「おや、またネモリーノか」
村人達は彼が慌てふためいているのを見て呟いた。
「またアディーナに言い寄って」
「いつも振られているんだからいい加減諦めたらいいのにね」
彼等はクスクスと笑いながらそう話をしている。兵士達はそれを興味深そうに聞いている。
「今度は一体何だ」
「どうせまた馬鹿なことをしてアディーナを怒らせたんだろう」
彼のことは村では有名であった。やはり何処か抜けているので村人達にも困ったものだと思われているのである。
「さあ軍曹さん」
村人と兵士達が彼等を遠巻きに見守る。アディーナはそれを背にベルコーレに対して言った。
「早速公証人のところへ行きましょう」
「わかりました」
ベルコーレは恭しく敬礼をして答えた。
「ではすぐに」
「ど、どうしよう」
ネモリーノはそれを見てさらに狼狽の色を深めた。
「そうだ、こういう時には先生だ」
ふとドゥルカマーラのことを思い出した。
「先生なら何とかしてくれる」
辺りを必死に見回す。だがここにいる筈もない。
「一体何処に」
「またわけのわからないことをしているな」
村人達はそんな彼を見て言った。
「いつものことだがあいつのあれは変わらないな」
「悪い人じゃないのにね」
「本当」
笑いながら彼を見ている。だがネモリーノには目に入らない。
「さて、どうするのかしら」
アディーナは勝ち誇った目でそんな彼を見ている。
「私を怒らせたんだから当然よ。精々苦しみなさい」
悠然と慌てふためく彼を見下ろしている。だがすぐにその目の色は変わった。
「そして反省したら許してあげる。それまで精々困りなさい」
ネモリーノは狼狽し慌てた様子のままその場を後にした。村人達はそんな彼を呆れて、そして困ったような笑いを浮かべて見送った。
「本当に困った奴だよ」
最後にこの言葉が何処からか聞こえてきた。
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