渦巻く滄海 紅き空 【上】
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四十三 影と陰
本選会場。
観客達は今から行われる試合を正直期待していなかった。待ち望む次試合の前座としてしか見做さない彼らは億劫そうに対戦場を俯瞰する。直に見入られる試合になるとは、この時誰も予想だにしていなかった。
「来ないのならこっちから行くぞ!!」
「おい、まだ試合開始とは…っ」
試験官の制止を振り切る。やる気満々で突っ込んでくるテマリをシカマルは面倒臭そうに見遣った。気怠けに溜息をつく。
武器である扇子を振り被るテマリ。彼女の背丈ほどもある大扇がシカマル目掛けて振り落とされる。
轟音。立ち上る砂塵。ナルが観覧席から大きく身を乗り出す。
「中忍なんてのはなれなきゃならないで、別にいいんだけどよ~…」
頭上から降ってくる声。はっと顔を上げたテマリの視線の先で、シカマルは不敵な笑みを浮かべてみせた。
「あいつに、かっこ悪いとこ見せられねえからな」
ナルを眼の端で捉えつつ、「ま、やるか」とやる気無さげに宣言する。
壁に突き刺した二本のクナイ。器用にその上で立つシカマルへ、テマリは素早く扇を振りかざした。
途端、強風が壁に激突する。
再び舞い上がる砂煙。だが煙が晴れた頃には既にシカマルはその場を脱していた。あるのは壁に突き刺さったままの、二本のクナイ。
目まぐるしく視線を対戦場に滑らせて、テマリは口角を吊り上げた。彼女の視線の先には木々に囲まれた影の群集。
「影の多い木の中へ誘い込む気だろうが、そうはいくか。逆に焙り出してやる……【忍法――カマイタチ】!!」
吹き荒れる、寸前の攻撃とは桁違いの突風。シカマルが隠れる木々が大きく撓り、枝が風に攫われる。同時に風で煽られた土煙が双方の間で空高く立ち上る。
刹那、テマリは大きく飛退いた。
細長い影。軌跡を描いて地面を這うソレから、彼女は仰け反るように後転して離れた。
視界を覆う煙に気を取られた瞬間仕掛けられた攻撃。グンッと動きを止めた影に安堵し、影が伸びてきた距離をテマリは即座に測った。その場で留まる。
不用意に自身の領域内へ入ってこない対戦相手を、木陰に潜んでいたシカマルは(やっぱ、そう簡単にはいかねえか)と内心褒め称えていた。空を仰ぐ。突き抜けるような青空を眩しげに見上げ、次いでシカマルは瞳を閉じた。
空は雲一つない快晴である。通常ならば好ましい天候だが、彼にとっては都合が悪い。まあなんとかなるだろ、と適当にだが正確な分析を終え、シカマルは目を開けた。
先ほどまでの呆けたものではなく険しい面立ち。対戦相手の変わり様に、ようやく本気になったか、とテマリは含み笑った。
「お前の攻撃は把握している。自身の影に他の影を加える事で、操る影の範囲が増す…」
高圧的な口調で語りつつも対戦相手の影から目を離さない。頭脳明晰であるテマリ本人もまた、なかなかの分析力で戦略を練っていた。
天を仰ぐ。除々だが着々と低くなる太陽。陽が落ちてくると影は長くなる。また障害物や遮蔽物が多ければ多いほど影も増える。持久戦は不利だ。
(…という事はチンタラやってると会場中の影が拡がって奴のテリトリーが増えていく)
口元に親指を寄せる。意外と負けん気の強いテマリは確実に勝利を掴むため、大技を繰り出した。
「―――ならば、障害物を全て取り除くまで!」
指の皮を噛み切る。ぷつりと浮かんだ血の玉を扇に一線。直後、振り被る。
「【口寄せ・斬り斬り舞】!!」
風と共に現れた口寄せ動物――鼬『カマタリ』。テマリの風攻撃に相俟って攻撃範囲が広大となる。テマリを中心として荒れ狂う狂風は会場中の遮蔽物を斬り裂き始めた。
会場全体に押し寄せる土煙。木々が大きく軋み、風の金切り声が枝葉をもぎ取った。大声で喚き散らす突風に観客が悲鳴を上げる。
突如、風が止んだ。
「なんだ?…っ、」
攻撃の手を休めていないテマリが声を上げる。驚愕が滲む言葉を遮って、鋭い風が彼女の頬を掠めた。血が一筋流れる。
滴る血をそのままに、テマリは視界を覆う土煙を睨み据えた。徐々に煙が晴れるのと共に大きく眼を見開く。
鋭い風の攻撃を放ったのは、彼女の口寄せ動物であるはずの鼬であった。
「か、カマタリの影を…!?何時の間に!?」
「無闇に俺の領域を増やすもんじゃないぜ」
シカマルの発言に、テマリは素早く地面を見下ろした。自分の攻撃により折れた枝葉があちこちに落ちている。
風が起こす砂煙で視界が覆われた瞬間、シカマルは術を発動させた。強風により舞い上がり対戦場の至る所に散漫した枝葉の影を伝い、更に影を伸ばす。それらの影と己の影を次々とくっつけ、カマタリの影と繋げる。
そしてシカマルは、対戦相手から遠く離れた場所にいながら、テマリの口寄せ動物を自分の駒にした。
【影真似の術】でカマタリを思うがままに動かす術者本人は、大木の陰に潜んでいるのか見当たらない。だがテマリはそんな事を気に掛ける余裕も無かった。味方であるはずの口寄せ動物に攻撃され、困惑する。防戦一方。
戸惑い、口寄せの術を解くのすら考えつかない。再びカマタリが一陣の風を放った。咄嗟に扇を身構えるが、弾かれる。
「チッ」
得物を遠くに飛ばされ、テマリはすぐさま対戦場を見渡した。その目線の先が背後の壁で留まる。
試合開始の際、先制攻撃を仕掛けたテマリを避けるため、シカマルが用いた二本のクナイ。壁に突き刺さったままのその内の一本を引っこ抜く。途端、カマタリの攻撃が彼女に襲い掛かった。
「くッ…舐めるんじゃない!」
視界の端で身じろぐ気配を捉え、人影目掛けてクナイを放つ。突然向かってきた刃物を避けようと、シカマルが動いた。当然シカマルと影が繋がっているカマタリも動き、風の攻撃が外れる。その隙に口寄せの術を解くテマリ。
せっかく操っていた駒が消えてしまい、シカマルが落胆の吐息を吐いた。反面、口寄せ動物を対戦相手から解放したテマリは安堵の息を漏らす。
「惜しかったね。だが此処までは影を伸ばせまい」
自身の武器である扇子が遠くに飛ばされた故に、テマリは壁に突き刺さったもう一つのクナイを手にとった。
扇を取りに行きたいのは山々だが、都合の悪いことに其処は既にシカマルの影の領域内。対して、陽の高さと影の攻撃限界距離を計算しても、今の自分の立ち位置は安全地帯。そこで先ほど同様クナイをシカマルに投擲し、彼を扇子が落ちている地点から遠ざけようと思案する。
その時、観覧席からカンクロウが叫んだ。
「テマリ!上だっ!!」
弟の忠告に導かれるまま、頭上を見上げる。何か黒いモノが太陽を背に浮かんでいた。なんだ、と目を凝らして、直後青褪める。
(…ッ、しまった…!)
テマリが敏捷な動きで飛び退くのと、地面に影が落ちるのはほぼ同時だった。
クナイと額当て、それに上着を利用した影。パラシュートに見立てたソレはシカマルの計略通り、テマリの頭上にまで風に乗ってきた。その影の表面積を細長く伸ばす事でシカマルの攻撃距離が上回る。
目測した限界範囲を超え、テマリの影を追い掛けてくる影。それを近づけまいと危うげに避けつつ、テマリは対戦相手を振り仰いだ。試合途中まで羽織っていたはずの上着を脱いでいる術者の姿に舌打ちする。
足下ばかりに注意を向けていて上のパラシュートに気づかなかった。そう自らを恥じた彼女は追い駆けてくる影が動かなくなったのを確認すると、クナイを構えた。カマタリに弾かれた扇子に視線を投げる。
(分身の術で陽動作戦をやるか。一人がクナイを投げ、それに気を取られている隙に扇子を拾いに行く。扇が手元に戻れば、こっちのもんだ)
次で決める、と意気込む。印を結ぶため一度クナイを手放そうとしたテマリの顔が強張った。
「……ば、馬鹿な…」
依然としてクナイを握り締める手。自身の意思に反して緩まない拳を愕然と見下ろす。いや見下ろそうとした瞳すら自由に動かせない。
逆に印を結び終えたシカマルがおもむろに口を開いた。
「ようやく【影真似の術】成功」
身体の支配権を奪われたテマリはこの不可解な展開に言葉を失った。何も言えずにいる彼女の疑問に答えるべく、シカマルは僅かに首を巡らす。向けられた目線の先には、前試合でナルがネジの足を引っ張った時に出来た小さな穴があった。
まだまだ未熟なものの【土遁・心中斬首の術】で掘られた穴には僅かだが影がある。その影を利用するには気づかれずにテマリを穴傍へ誘導する必要があった。
その伏線を即座に察したテマリが歯噛みするも、もう遅い。やたら緩慢な動きでこちらに歩いてくるシカマル同様、足が勝手に前へ進む。支配から逃れようと身を捩るが、クナイを握り締める手は確固として動かなかった。抗えぬ影の束縛。
不意に歩くのを止めたシカマルと同じく立ち止まるテマリ。正面で対峙する双方の動作は全く同じだ。しかしながら両者には決定的な違いがあった。
「ギブアップしてくれねえか?」
いきなり降参するよう勧めてくるシカマルをテマリは鼻で笑った。
「甘っちょろい奴だ。言うはずないだろう!?」
「言ってもらうさ」
えらく自信満々にそう言い切ってみせたシカマルが、自分の手を緩く握り締めた。
「人間ってのは不思議な生き物でな。追い詰められ、切羽詰まった時には判断力が鈍る。確実に仕留められる大物の武器より、自分に近い場所にある小物のクナイを選ぶ」
突然語り出したシカマルに、テマリを始め観客達は皆、訝しげな表情を浮かべた。怪訝な視線を一身に受けつつも、シカマルは話を続ける。
「その判断は正しいと思うぜ。戦闘は時間との勝負だからな。だが―――」
横目でちらりとテマリの手を見遣る。未だ握り締めるクナイが鈍い光を放った。
「今回はそれが仇となる」
そこでようやくテマリが気づいた。顔がサッと青褪める。無理矢理クナイから手を放そうとするが、クナイは頑なに彼女の手の内から離れようとしなかった。
試合開始直後テマリの攻撃をかわすため、シカマルは二本のクナイを壁に突き刺す事で難を逃れた。だが実はそれすらも伏線だったのである。テマリが出した口寄せ動物を操り、扇を遠くへ弾き飛ばす。己の得物を失った彼女がその二本のクナイを目にするようにする。クナイを手にしたのを確認し、次の一手であるパラシュートを用いる。クナイを握らせたまま穴まで誘導し、身体の支配権を奪う。
そして今現在、何も武器を持っていないシカマルとクナイを握るテマリ。傍目からは武器を所持するテマリのほうが有利に見えるが、実際は逆である。さながらクナイを持っているように手を緩く握りながら、シカマルは目を細めた。
「扇じゃ首は切れないが…クナイはどうだろうな?」
やけに淡々と、それも物静かに問う。テマリの手が震え、クナイがカタカタと音を立てた。
その光景を、固唾を呑んで見守る観客達。その中で試合を観戦していた山中いのは内心首を傾げた。隣の席にいるチョウジに囁く。
「シカマルの奴、今回やけに影を操る時間が長くない?いつもならとっくにチャクラ切れになってるじゃない」
「なんか、影を持続させる修行をしたみたいだよ」
「へ!?あのシカマルが~?」
一番面倒臭がる修行をあのシカマルが?と再度聞き返して、いのは対戦場に目線を戻した。幼馴染の奇行に、信じられないとばかりに目を見開きながら。
何も持っていないシカマル。クナイを手にしているテマリ。両者の決定的な違いは、武器を所持しているか否か。
「【影真似の術】の恐ろしいところはな。自分で手を下さなくても相手が自決するって事だ……意味、わかるよな?」
一言一言区切るように話す。そうしてシカマルは緩く握った手をゆっくり上へ掲げた。同様にテマリの手がクナイを持ったまま、首元へ近づく。クナイの先端が首を軽く刺す感触がして、彼女は耐え切れずに声を張り上げた。
「ま、待った…!こ、降参する…ッ!!」
テマリがそう叫んだ途端、シカマルは術を解いた。肩を解すように首を廻す。
テマリが降参するようにわざと脅したものの、もし降参しなければ自分から負けるつもりだった。加えて【影真似の術】の連発でそろそろチャクラがヤバい。やっぱ二週間ほど修行したところでそんな変わらねえかな、とボヤキながらもシカマルは安堵の溜息をついた。
既に戦意喪失したシカマルを尻目に、テマリはクナイを遠方へ投げ捨てた。忌々しげにクナイを睨む彼女の傍ら、試験官の不知火ゲンマが審判を下す。
「勝者――奈良シカマル!!」
高らかに空へ響き渡った己の名を耳にしながら、シカマルは観覧席を見上げた。自身を見下ろすナルと目が合う。満面の笑みを眩しげに仰いで、シカマルは微笑んだ。
(やっぱ、同じ空でもこっちのがいいよな)
ナルの瞳とそっくりな青い空。西へ傾き掛けた太陽が燦々と会場全体を照らしていた。
「俺を知っているか?」
唐突な問い掛け。何の前触れもなく発せられた問いに、ダンゾウは口元を微かに歪めた。
「うずまきナルト。今回の中忍試験の受験者であり、音の下忍。予選試合を通過したものの、別試合に介入し、失格となった…だが、」
まるで見てきたかのようにつらつらと述べ、一度断ち切る。一呼吸置いて、ダンゾウは猶も続けた。
「それは表。色々と裏の顔があるようだな」
常に情報通のダンゾウ。とうに自身の近辺を調べ上げている彼の話にナルトは耳を傾けていた。予想通りの答えに己の推測が間違いではなかったと確信する。
絶壁の基部。崖底から突き上がってくる風を間近で感じる。風の絶叫を耳にしながら、ナルトは彼方此方に潜むダンゾウの部下達の気配を探り当てていた。辺りには剥き出しの垂直な岩壁がそそり立っているため、身を隠すには誂え向きな地形である…ナルトを除いては。
ふと鋭い視線を感じたので顔を上げると、ダンゾウの傍で控える色白の少年が警戒心を露にナルトを睨んでいる。ダンゾウの配下であるその少年ではなく、彼の頭よりやや高い場所にある岩にナルトは目を向けた。眼前の崖上で一匹の猫がこちらをじっと見下ろしているのを眼の端に捉えてから、改めてダンゾウに視線を戻す。
背後に何の後ろ盾もないナルト。反面、『根』を周囲に配置し、傍に部下二人を控えさせ、更には岩壁を背にするダンゾウ。用心に用心を重ねる彼の慎重な態度に思わず苦笑が漏れる。
「…何がおかしい?」
目敏くダンゾウが咎める。油断なくこちらを見つめてくる複数の視線にナルトは微笑んでみせた。
「優秀な部下が多いようで」
ナルトの賛辞にダンゾウは苛立たしげに鼻を鳴らした。白々しい、と吐き捨てる。
ナルトの動向を監視するよう部下達に命じてはいたものの、そのどれもが失敗に終わった。見張られていると知っていながら今回わざとその身を自分の前に晒した、眼前の少年が腹立たしい。
「戯言はいい。本題に入るぞ」
催促する、カツンという音。杖で地を強く叩いたダンゾウをナルトは真っ向から見据えた。
「ワシに何を望む?小童」
『忍の闇』と評される男の黒い片目がナルトの瞳を覗き込む。美しい青い瞳が一瞬、彼以上の深い闇を抱えているかのように昏く澱んだ。
「俺の望みは―――」
強烈な風が両者の間を吹き抜ける。耳元で喚き散らす風の中で、凛とした声がやけに大きく響いた。
「うちはイタチの汚名返上だ」
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