故郷は青き星
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第十一話
エルシャンを引っぱたいて教室から逃げ出したネヴィラは、個人用準備室に駆け込むと自己嫌悪のどん底に居た。
「お前は教師だろう。自分の担当じゃないにしても同じ学校の生徒に……一生大事にするって言われて……はい。だなんて…………うわぁぁぁぁぁっ!」
羞恥に耐え切れず、叫び声を上げると悶えながら頭を掻き毟る。普段のクールな彼女の面影は何処にも見当たらない。
「はぁ、はぁ、はぁ~。落ち着け落ち着け。冷静になるんだ」
そう自分に言い聞かせるが全く落ち着かない。
女としての自分を、自ら否定して9年間。自分にこんな感情が残っていたなんて思いもしなかった彼女にとって、エルシャンが自分を真っ直ぐ見据えて放った「好きだ!」という言葉は心臓を貫かれたように熱く衝撃的で甘美で、その場面が頭の中で何度もリフレインされる。
「違う。そうじゃない! 相手は子供だぞ。19歳の年増が未来ある9歳の少年と……結婚なんて。どの面下げてご両親に挨拶すれば……何を結婚前提にしてるっ!」
彼女の混乱と葛藤は暫く収まりそうも無かった。
ネヴィラの心の中の女である部分は、出会って間もない良く知らない年下の少年を男として受け入れてしまっていた。
周囲から否定されて、自分までもが否定してしまった女であるネヴィラ。否定されればされるほど、心の奥底に押し込められれば押し込まれるほど強く、女として認めて貰いたい。肯定されたいという思いは、彼女自身の知らぬ間に大きく育っていた。
そんな心の狭間にエルシャンはすっぽりとはまる。人間としての理解・信頼・友誼。異性としての愛情。それらの過程を全てすっ飛ばしてネヴィラの心の中の女の部分に土足で踏み入り、そのまま居座ってしまったのがエルシャンという存在だった。
それゆえに彼女は苦悩する。エルシャンの求愛を受け入れたいと思いつつも、彼を受け入れた後の自分がどうなってしまうのかが分からないのが怖かった。そして何より自分が傍にいることで彼がどうなってしまうか考えるのが怖かった。
一方エルシャンも、やりすぎたとさすがに後悔していた。二度目のキスで舌を入れたのはやりすぎだと後悔していた……死ねばい良いのに。
気持ちが高まりすぎてコントロールを失った故の暴走だが……死ねば良いのに。
「嫌われたのだろうか……」
「…………兄ちゃんは先生の子と好きなの?」
無表情で質問を投げかけるウーク。驚きに余りにどんな顔をしたら良いのか分からなくなっている。
「好きだ。結婚したい」
「えっ! じゃあ先生は僕のお姉ちゃんになるの?」
興味があり、かつ理解できる話に食いついてきた。
「そうなると嬉しいんだけどなぁ、応援してくれるか?」
エルシャンとしては既に藁にも縋りたい心境だった。それだけ彼女に心を奪われているともいえる。
「するよ! 絶対に応援するから、兄ちゃんも頑張れ!」
どうやらウークは姉が欲しかったようだ。出来るなら弟も欲しいのだろう。
「でも兄ちゃん頑張りすぎて、ちょっと嫌われたのかも……嫌われたんだろうな、どうしよう」
「謝ろうよ。僕も一緒に謝るから」
今日ほど弟を頼りになると思ったことは無かった。
「そうしようか」
そう答えながらも、もう少し時間を置いた方が良いような気がするが、置かない方が良い気もして悩む。判断の過ちがネヴィラとの仲を決定的に駄目にしてしまう事が怖いのだ。
こんな怖さもエルシャン──田沢真治は恋愛に感じた事はなかった。
ウークに引っ張られるようにして準備室の前にやってくる。
どうやって声を掛けたら良いものかと考えているとウークがいきなりドアをノックする。
「センセー入るよ」
そう言うと返事も聞かずにドアを開けてしまった。
全く空気を読めないと言うよりは読む気が無いウークの思わぬ行動に、互いに心の準備を整える間もなく部屋の入り口を挟んで顔を会わせることになった2人は戸惑い、見詰め合ったまま動けない。
だが、そんな事などお構い無しにウークは、先生と兄ちゃんを結婚させて、先生を姉ちゃんにするという目的に向けて邁進し続ける。
「兄ちゃんも入って、入って」
まるで自分が部屋の主であるかのようにエルシャンの腕を掴むと部屋へと引っ張り込む。
準備室は教師個人に与えられる個室のためにさほど広くは無い。
僅か数メートルの距離に居る相手を2人は互いに見ることが出来ない。互いに相手を意識し始めた中学生のような初々しさ──2人の年齢の平均をとれば確かに中学生の範疇に納まるが──であるが、今この場を支配するのは空気を読まない暴君だった。
「先生に謝って」
エルシャンの袖を引っ張りながらウークが促す。
「あ、ああ、ネヴィラ先生。先程は大変失礼いたしました。えっと、何て言うか、その……あそこまでする気は無かったんです。自己紹介出来れば良いなってくらいのつもりだったんだけど……出来れば、告白したいとは思ってたんですけど……それは難しいと思ってたんだけど……ちょっと自分でも分からないくらいに気持ちが……あんな強引な真似を……でも好きだって気持ちは本当で、その……いや、言い訳ばかりしに来たんじゃなく、本当にごめんなさい」
何度も言葉に引っかかりながら言うと深々と頭を下げるが、言われた方のネヴィラも困った。
冗談や悪戯ではなく、本気で目の前の少年が自分に好意を示している事は、そんな経験がなかった彼女にも分かる。そして自分の気持ちが彼に傾き始めている事も自覚せざるを得ない。
しかし、つい先程一度面識があっただけで互いに名前しか知らないのだから、自分が彼のことを知らないように彼も本当の自分の事を知らない。一時の感情に流されるのではなく、時間を掛けて互いに分かり合う事が出来て、もしも……そう自分を納得させる。
「私もあの時はどうかしていた……それに思いっきり打ってしまったが大丈夫だったか?」
「たいした事ありませんよ」
笑って答えるエルシャンだが、打たれた右の頬は赤く腫れ上がっていた。
「すまない。こんなに腫れて……」
ネヴィラは手を伸ばしてそっとエルシャンの頬に触れようとする。
するとエルシャンは腫れてない方の頬も赤く染め、それを見たネヴィラまでも恥じらいを浮かべる。
「仲直りした?」
ウークが2人に尋ねる。
「う、ウークのおかげで仲直りできたよ」
「ああ、君のおかげだ」
「じゃあ、先生と兄ちゃん結婚するんだね」
「なっ!?」
驚きの声を上げたネヴィラは思わずエルシャンの頬に爪を立てていた。
「……ひどい」
エルシャンは四条の爪痕の走る頬を押さえて涙を堪える。
「ねえウーク君。どうして私が君のお兄さんと結婚するんだ?」
エルシャンの抗議を無視して、ネヴィラはウークに問いかける。自分をじっと見据えるその目にはさすがに無敵状態のウークも少し怯える。
「だ、だって兄ちゃんが先生のこと好きだから結婚したいって、だから僕のお姉ちゃんになってくれるんだよね?」
「け、結婚……」
確かにプロポーズとも取れる言葉は貰ったが、誤解しようが無いストレートな結婚の二文字に心が揺れる。
将来は分からない。結ばれて幸せになれるかどうかも分からない。分かっているのは困難が幾つもあるということだけ。だが好きだという気持ちだけは大きくなっていて、嬉しくて仕方がない。
「ウーク! それは兄ちゃんが直接言わないと駄目なんだよ」
「じゃあ、早く言って」
今のウークの頭の中の99%は『先生にお姉ちゃんになって貰いたい』が占めていたので、兄の抗議などどうでも良かった。
「いや、あの……」
先程は勢いに乗って強引に口説いたが、今は気持ちも少し落ち着いてしまい恋愛肉食獣も食後に寛いであくびしている状態だった。そんな状況でプロポーズなど生まれたばかりで膝がプルプルしてるインパラの子供にライオンと戦えと言ってるのにも等しい。
「兄ちゃん……言え」
だが、エルシャンの前には今サバンナなのライオンよりも無敵状態な奴が居た。
「言え」
駄目押しの一睨みがエルシャンへの最後の一押しとなり「結婚してください」の一言を腹の底から捻りだした。
「……はい」
ネヴィラは自分の気持ちを抑える事が出来なかった。この後で自分がどうなるかはわからない。だがどんな結果になったとしても、今自分に向けられている彼の愛を受け入れてみたい。一生に一度だけ女としての自分を優先させて応えてみたい。それがネヴィラの出した答えだった。
「エルシャン。もう俺はお前の事を息子だとは思わない」
プロポーズから3日後の週末。ネヴィラはエルシャンの家に招待されて彼の両親に会うことになったのだが、玄関に出迎えたポアーチは彼女を見るなりそう言った。
いきなりの親からの反対に、覚悟していたとはいえ自ら選んだ将来の前途多難さにネヴィラが軽い眩暈を覚えていると、ポアーチは続けて言う。
「これからは兄貴と呼ばせてもらいます」
そう言って自分の子供に深々と頭を下げるポアーチに、ネヴィラは意味を理解できず呆然とする。
ポアーチは『9歳にして、こんなクールビューティーを一日で口説き落としたなんてありえない。間違いなくトリマ家の歴史始まって以来の快挙……もしかしてエルシャンって神なんじゃねえ?』と思わずにはいられない。
自らの心の中に湧き上がるエルシャンへの畏敬の念に自然に跪いて頭を垂れてしまうのは必然であり、父と子である前にただ一匹の雄として完全に負けたと自覚した。
思い浮かぶは思春期を迎えて以来の負け戦の数々……それだけで軽く胃の粘膜に穴が開き腹部に痛みが走る。
ポアーチは突如自分を襲った激痛に叫び声を上げる。胃も痛いが、それどころではない痛みに、痛みの元を振り返るとユーシンが彼の尻尾を思いっきり握っていた。
「何を言ってるんですか? あなた」
本来尻尾とはとても繊細なものだ、それを力いっぱい捻りを入れて握られたら痛いに決まっている。だがその痛みを口にする事が出来ないほどポアーチには妻の笑顔が怖かった。
「父さんは冗談が好きな人だから余り気にしないで」
父を物理的にも精神的にも締め上げている母を他所に、さわやかな笑顔で婚約者にフォローするエルシャン。
「とてもユニークなお父さんで……」
「面白いでしょう。父さんは頭の中が時々面白いんだよ」
あくまでもさわやかに笑いながら言葉の刃で己の父を斬って捨てた。
「でも僕達のことで反対してる訳じゃないから、気を悪くしないで下さい」
「いや、気を悪くするなんて、私は罵られても仕方ないと思って来たのだが……」
想像の斜め上を行く展開に戸惑うネヴィラ。
「ごめんなさいね。夫が馬鹿なこと言って驚いたでしょう?」
むしろ驚くのは、泥棒猫と責めてくるのでは思っていたユーシンが自分に好意的な笑顔を向けてくることだった。
「い、いえ。こちらもまだきちんと挨拶もせずに申し訳ありません。改めて自己紹介させていただきます。私はネヴィラ・コリーです。エルシャンさんやウーク君の学校で教師をしていて、ウーク君の担任をさせていただいています」
「では私も改めて、ウークとエルシャンの母親のユーシン・トリマです」
この2人はウークの入学後の保護者会で面識があった。ネヴィラはユーシンの年上とは思えない──ユーシンは26歳。7歳のウークの母親だから20代前半くらいとネヴィラは推測していた──少女のような可愛らしさに羨ましさすら感じたのを憶えていた。
「私はポアーチ・トリマです。貴方のような美しいお嬢さんが、この家の嫁に来てくれるなんて妻が嫁に来て以来の驚くべき快挙です」
尻尾は垂れたままだが、キリっと表情を引き締めたポアーチが、ネヴィラの手をとって挨拶する。
こうしているポアーチはすこぶる格好が良い。元々整った顔立ちに渋さもあり、これでモテないのが信じられないほどだった。ネヴィラはこうして見るとエルシャンと似てるなと感じ、将来のエルシャンの男っぷりに期待が膨らむ一方で、今の可愛いさの残るエルシャンも良いと思っている。
エルシャンを愛すると決めた彼女に迷いは無いというよりも痘痕も笑窪。自分にとって生涯たった一人の男であると思えば全てが愛しいく思える。
人間として聡明な彼女であるが、それと異性関係における聡明さは別なのであった。
「ん?」
気付くと小さな二人の女の子が、足元で自分を見上げている事にネヴィラは気付く。
「ねぇ、お姉ちゃんがベーのお姉ちゃんになってくれるの?」
「お姉ちゃん。ムーもムーも!」
そう言いながらベオシカがネヴィラの足にしがみ付くと膝に額をぐりぐりと押し付けてくる。そしてそれを見たムアリも姉を真似て額を押し付け始める。
「あのね──」
あまりの2人の可愛らしさに思わず「そうそう私がお姉ちゃん」と言いそうになるのを抑え、まだ結婚が許された訳ではないからと言おうとするのをユーシンの言葉が遮って答える。
「そうよ。エルシャンと結婚してベーとムーのお姉ちゃんになってくれるのよ」
「えっ?」
必要な過程を無視したいきなりの断定についていけず頭の中が真っ白になる。
確かに、今日この家を訪ねたのは、エルシャンとの交際について彼の両親に許しを貰うのが目的ではあるが、まだ挨拶程度の軽い自己紹介しか済ましていない。
「えっ? もしかして……エルシャンとはそこまで具体的な話には進展してなかったのかしら? いやだ先走っちゃった?」
一方すっかりネヴィラを嫁に迎えたつもりだったユーシンだが、ネヴィラの様子に少し気まずそうに尋ねる。
「違うんです。将来的には結婚ということは私も彼も考えていますが、今日はご両親に私達の交際をお許し──」
「許します! だから息子と結婚してください」
ネヴィラの言葉を再び遮ったユーシンは彼女の手を取ると頭下げる。
「私からもお願いします。どうか息子と結婚してやってください」
「先生。お願いします」
「おねがいします」
「お姉ちゃんおねがいします」
続けて、家族一同ネヴィラに頭を下げて頼み込む。
「こ、これは?」
想定外の展開に困ったようにエルシャンを振り返る。
「家の跡取りに嫁いでくれるなんて奇特な女性が次に現れる保証なんて無いからさ……父さんや母さんも必死なんだ」
事前にエルシャンから「僕の立場って、結構嫁の来手が無いらしい……」とは言われていたが、むしろ自分こそ貰い手が無い立場だと思っていた為、頭を下げる事はあって下げられる事は想像していなかった。
「僕からもお願いします。お嫁さんになってください」
「こちらこそよろしくお願いします」
ネヴィラは、この家の一員になりたいと思えるようになっていた。
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