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空白期(無印~A's)
第二十三話 前
ジュエルシードを巡る事件の解決から二日が経っていた。
つまり、今日は、事件の打ち上げの次の日であり、アリサちゃんから誘われた温泉旅行の出立日である。我ながら、事件が解決してから二日しか経っていない強行軍で、しかも、事件でプレシアの使い魔にボコボコにやられていただけに母さんと親父からは心配されたが、怪我に関してはユーノくんとアースラの医務局の人からは太鼓判を貰っているし、昨日の夜にアリサちゃんからの時間などの確認のメールに『楽しみにしているね』と返信してしまったのだからしかたない。
そもそも、温泉旅行をあれだけ楽しみにしていたアリサちゃんとの約束を守らないわけにはいかないだろうし、僕だって楽しみにしていたのだ。怪我も完治している以上、行かない理由は何所にもなかった。そんな理由で母さんと親父を納得させることに成功した。
しかしながら、最大の敵がまだ我が家には残っていることを僕はすっかり忘れていた。そう、新しく家族になった妹のアリシアちゃんだ。
事件が解決してから、母さんか僕にカルガモの子どものようにくっついて回るアリシアちゃんだっただけに、僕が二日以上も家にいないというのは不安になるようだ。確かに事件が終わってから二日しか経っていないのだ。アリシアちゃんが不安なのは仕方ないのかもしれない。
しかしながら、僕が一緒に行くことすら彼女の好意によるものなのだ。それをさらにアリシアちゃんの分まで頼むことなどできやしない。父さんたちが僕と同じ場所に泊まろうにも、このゴールデンウィークの最終日に近いところで旅館に飛び込みで泊まれるはずもない。よって、アリシアちゃんはお留守番するかしないのだが、それを説明した後のアリシアちゃんの泣き顔が実に罪悪感を感じさせてくれた。
それを何とか振り切り、お土産を買って帰ってくることやかえって来た後のことを色々と約束して、何とか我慢してもらえることになった。アルフさんが僕とアリシアちゃんのやり取りを見ながら苦笑していたが、助けてくれてもいいのにと思ったのは、至極当然のことだと思う。
何にせよ、温泉に行くために問題がなくなった僕は、玄関の前でアリサちゃんの迎えが来るのを待っていた。待っているのは、僕と母さん、親父だけだ。アリシアちゃんは拗ねてしまったのか、寝室で引きこもっている。もっとも、アルフさんがいるからあまり心配はしていないが。
昨日は納得してくれたはずなんだけどな。
出る前に一言声をかけておいたが、返事はなかった。帰ってきたらフォローがかなり必要になるだろう。お土産も奮発したほうがいいかもしれない。
そんなことを考えていると約束の時間よりも五分前にピンポーンというありふれたチャイムが鳴る。おそらく、アリサちゃんたちだろう、と予想を立てながら、僕がドアを開けるとドアの向こう側にゴールデンウィークの中では久しぶりに顔を合わせるアリサちゃんが立っていた。
おはよう、とお互いに挨拶を交わす僕とアリサちゃん。昨日までは、魔法に関する事件という非日常の中にどっぷりと浸かっていたというのに、魔法とは関係ないアリサちゃんと平然と挨拶を交わせることに内心で苦笑していた。アリサちゃんと挨拶を交わした後、別に挨拶を交わす相手に少し見上げるような形で目を向ける。その相手は、アリサちゃんよりも一歩後ろに立っていた。
「おはようございます。デビットさん、梓さん」
アリサちゃんの少し後ろに立つ短い髪のアリサちゃんとそっくり―――いや、遺伝的には、こちらがアリサちゃんに伝わった金髪とアメリカ人に見られる白い肌で美青年といえるアリサちゃんのお父さんであるデビット・バニングスさんと一児の母とは思えないほどの若さを保ち、日本人の大半が持っている艶やかな黒髪を流したアリサちゃんのお母さんである梓・バニングスさんだ。
二人との面識は、アリサちゃんの英会話教室で休日に家にお邪魔したときに既にあった。顔を合わせたのは久しぶりだったが、僕が相変わらず小学生には似合わない固い挨拶をしているためか、デビットさんと梓さんはどこか困ったように苦笑していた。
「ああ、おはよう。翔太くん。今日からよろしく頼むよ」
朗らかに笑いながらデビットさんが、僕の頭を撫でるように手の平を頭の上においていた。
デビットさんは、見た目は生粋のアメリカ人ではあるが、日本語も堪能でネイティブと変わらない程度の会話ができる。最初は、僕も片言の英語で挑戦してみたものだが、苦笑と共に「日本語で大丈夫だよ」といわれたものである。
「それと、君の後ろにいるのは、ご両親かな?」
デビットさんに言われて、後ろを振り向いてみると、いつの間に来ていたのか、母さんと親父が立っていた。母さんは、既に梓さんと僕の携帯越しで話した事があるからか、にこやかに笑いながら手を振りあっているが、親父のほうはまるで未確認生命体でも見たかのような衝撃を受けたような表情で固まっている。金魚のように口をパクパクさせながら、まるで信じられないといっているようなものだ。
「……親父、どうしたの?」
さすがに様子がおかしいと思って話しかけたら、突然がしっと首に腕を回され、ヘッドロックのような体勢のまま、ちょっとすいませんね、と一言残して、僕は親父の手によってリビングの影まで連れ去られてしまった。リビングについた親父は僕を解放すると、腰を落として目線を僕に合わせて実に真剣な顔で聞いてきた。
「なあ、あの人は、本当にデビット・バニングスさんで間違いないんだな?」
「うん」
おかしなことを聞く親父だな、と思っていたのもつかの間、なぜか急に頭を抱えて蹲り始めた。
「ど、どうしたのさ?」
「……あの人は、俺の会社の親会社の社長なんだ」
「あ……」
そういえば、そうだったのを忘れていた。親父が言うまですっかり忘れていたが、そういえば、そんな話も聞いたような気がする。今の今まですっかり忘れていたが。しかし、原因がはっきりすれば、親父がこんな風に慌てるのも分かる。一平社員と社長の心の距離というのは、銀河系ぐらいに離れているらしい。アメリカなどでは距離が違うのかもしれないが、生憎ながらここは日本であり、その心の距離はそんなに間違ってはいないだろう。
そんな人が目の前に現れたのだから、それは慌てるに違いない。
「あっ、って、知ってたなら教えてくれよっ!!」
確かに知っていれば、心の準備もできただろう。だが、僕としてはあまりそれは関係ないような気がする。なぜなら―――
「大丈夫じゃない? デビットさんだって、会社の―――しかも、子会社の社員なんて覚えてないよ」
そう、親父は子会社の社員として、デビットさんの顔は知っていたのかもしれないが、デビットさんが親父の顔を知っているとは思えない。親父の地位が、子会社の幹部や社長ならともかく一部署の長程度では、知らないだろう。
慌てていた親父は僕の言葉で少しだけ落ち着きを取り戻したのか、うむ、と考えるような顔つきになってようやく冷静に戻ったようだった。それもそうか、と呟いているところから、僕の言葉で納得したようだ。
ある意味、正気に戻った親父は、僕を伴って玄関先へと戻ることになる。親父の行動に怪訝な顔をしていたデビットさんと梓さんだったが、親父が誤魔化すようなにこやかな笑顔で、近づき右手を差し出した時点で大事ではなかったのだろうと判断したのだろう。デビットさんは、親父の右手を握っていた。
「ご迷惑をおかけすると思いますが、息子をよろしくお願いします」
何所にでも見られるようなありきたりな言葉を交わしていたデビットさんと親父だったが、いつまでも玄関先で井戸端会議のように話しているわけにもいかない。アリサちゃんも何所となく不機嫌になりかけて苛立っているのが分かるから。彼女からしてみれば、楽しみにしていた旅行をこんなところで足止めを喰らっているのが気に食わないのだろう。
そんな空気をデビットさんと梓さんは感じたのか、母さんと親父と話を切り上げて、玄関先に停めてあるいつも使っているリムジンよりも一回り大きな車へと向かう。
僕も最後に母さんと親父に手を振ろうと振り返ると、母さんと親父のほかに見慣れた顔を二つ。僕を見送ることを嫌がったアリシアちゃんと彼女に付き合っていたアルフさんだ。母さんの影に隠れるようにこっそりと見送るアリシアちゃんだったが、こちらを見ながらこっそりと手を振っていた。
そんな姿を微笑ましいな、と思いながらも僕はアリシアちゃんにも手を振って家を後にした。
車へと向かった僕を出迎えてくれたのは、鮫島さんという数ヶ月前までは塾へと送り迎えをしてくれた執事さんと先に乗り込んで待っていたすずかちゃんだった。
僕たちは車の窓越しにおはよう、と先のアリサちゃんのように挨拶を交わす。ゴールデンウィーク中に会えなかった間の積もる話もあるだろうが、その時間は今から温泉地へ向かうまでに十二分にある。だから、今は出発することを優先するべきだった。だから、僕とすずかちゃんはそれ以上、何も言わずに鮫島さんがドアを開けてくれるのを待って、アリサちゃんに先に座るように道を空けた。
「なにやってるのよ? 早く乗りなさいよ」
「え?」
道を空けた僕に対して返ってきた答えは、実に怪訝なものだった。数ヶ月前まで僕たちが車に乗せてもらっている間、常にアリサちゃんの席は真ん中だった。それが規定位置とでもいうように。だから、今回もその例に違わず真ん中にアリサちゃんが来るように道を空けたのだが、意外なことに僕に早く乗るようにというお達しだ。
どうしたのだろうか? という疑問や、どうしようか? という迷いが生まれたが、ここで手間取っている時間もない。先に乗りなさいよ、と目で促すアリサちゃんの後ろには早く乗らないのだろうか? と怪訝に思っているデビットさんと梓さんもいるからだ。
しかも、考えたところで、単なる席順だ。もしかしたら、アリサちゃんも気分で窓際がいい時だってあるのかもしれない。
そんな風に自分を納得させて、僕はすずかちゃんの隣へと乗り込んだ。続いてアリサちゃんが。いつもならそこでドアは閉まるのだが、今日は一回り大きな車だ。後部座席には六人乗れるようになっている。僕たちが座っているシートと目の前の進行方向とは逆向きに座れるシートだ。そこにデビットさんと梓さんが座って、今度は本当にドアが鮫島さんの手によって閉められた。
ドアが閉められた後、少ししてエンジンがかかるような音がしてゆっくりと車は出発する。車は動き出したというのに車内の揺れは驚くほど少なかった。これは、鮫島さんの運転技術がすごいのか、この車がすごいのか。おそらく、両者だとは思うが。
「ショウくん、久しぶりだね」
「うん。そうだね」
僕の右隣から僕の顔を覗き込むようにしながらすずかちゃんが話しかけてきた。もっとも。僕とすずかちゃんが会っていなかったのは、ゴールデンウィーク中の数日でしかない。これを久しぶりというのかは甚だ疑問ではあるのだが、毎日顔を合わせていたのに、突然数日顔を合わせなかったら、確かに久しぶりになるのかもしれない。
「ショウくんは、今日までゴールデンウィークは何やってたの?」
興味津々と言った形ですずかちゃんが笑顔で問いかけてくる。しかしながら、その問いに答えられるはずもなかった。まさか、魔法事件に巻き込まれて、ジュエルシード探しながら、誘拐されて、リンチをうけて、助け出されたなんて話せるはずもない。
いや、そもそも、すずかちゃんの方にその話はいっていないのだろうか。少なくとも忍さんは知っているはずだけど。そこらへんを僕は知らない。すずかちゃんへの情報はどうなっているかを知っているのは忍さんだけだ。もっとも、すずかちゃんが知っているとしても、この場にデビットさんや梓さんがいる限り、容易に口に出すことはできないのだが。
「なのはちゃんの手伝いかな」
その答えはあながち間違いともいえないだろう。すずかちゃんやアリサちゃんに今まで言っていた内容と相違ないのだから。少なくとも嘘は言っていない。
「あっ! そういえば、ショウっ! ちゃんと片付いたんでしょうねっ!!」
僕の言葉に反応して割り込んできたのはアリサちゃんだ。すずかちゃんとは逆サイドに座っているアリサちゃんを見てみると、彼女の表情は、怒りというか、それに近い表情に染まっていた。やはり、そもそもゴールデンウィーク前に温泉旅行前の数日で、開いている日があれば、遊びに行こうという誘いをジュエルシードの件で蹴ったのが拙かったのだろうか。
「うん、大丈夫。ちゃんと片付いたよ」
そんなことを考えながら、僕は安心させるようにアリサちゃんに言う。少なくとも事件が片付いていなければ、僕はこの場にはいないのだから。
「そう、ならいいわ」
少しだけ安心したようにほっ、と息を吐くと満足したようにシートの背もたれに体重を預けていた。
「じゃあ、すずかちゃんとアリサちゃんは何をしてたの?」
一応、すずかちゃんの問いに答えた僕だったが、今度は僕の順番だった。幼くても女の子なだけあって、彼女達はお喋りが好きだ。きっと、この長いとも短いともいえる道中、面白く今日までのことを語ってくれるだろう。大丈夫、時間はたっぷりあるはずだから。
僕の思ったとおり、僕が問いかけると同時に彼女達は我先に、堰を切ったように話し始めたが、聖徳太子ではない僕は同時に話を聞くことはできない。だから、順番に、となだめながら、温泉地までの道中、彼女達の話を聞くのだった。
◇ ◇ ◇
車で揺られること数時間。すずかちゃんとアリサちゃんの話もそろそろ尽きようか、という頃、僕達は目的地と思われる温泉宿の前に降り立っていた。その温泉宿は、ほわ~、と思わず呆然と見上げてしまうほど立派なものだ。昔ながら旅館のような空気を漂わせながら、その在り方は高級感に溢れている建物だった。本当に僕みたいな人間が泊まっていいのだろうか? と疑問を抱いてしまうほどだ。
しかし、そんな僕とは対照的にアリサちゃんやすずかちゃんは平然としている。当然、デビットさんや梓さんもだ。僕以外の誰も彼もが、そこに泊まる事が当たり前という感覚を持っており、危うく僕は旅館に入ろうとしている彼らにおいていかれるところだった。
「ショウっ! 何やってるのよっ! おいてくわよっ!!」
アリサちゃんの叱るような声にようやく我に帰った僕は慌てて、アリサちゃんたちの後を追うのだった。しかも、すずかちゃんに呆然としているところを見られたのか、クスクスと小さく笑われてしまったことに気づき、少しだけ恥ずかしかった。
こういう場所に不慣れな僕としてはアリサちゃんたちの後ろをとことこと着いていくしかなく、デビットさんに先導されるように僕達は温泉旅館の暖簾をくぐった。
外見は立派だが、内装は地味だった。そんなことはなく、外見同様、内装も立派なものである。すべて木製でできており、雰囲気を大事にしているか、旅館の人たちは皆、和服だった。デビットさんが手馴れた手つきで、チェックインカウンターで手続きしている間、僕は外装を見たときと同様、呆然と周りを見渡すしかない。
「お荷物をお持ちします」
内装を見渡している僕に突然、旅館の人が話しかけてきて、思わずビクンっ! と反応してしまった。まさか、話しかけられるとは思っていなかったのだ。しかも、荷物をお持ちしますといわれるとは夢にも思っていなかった。前の世界と合わせてもこんな場所にとまったことがない。泊まったとしても普通の旅館であり、そこは自分の部屋まで荷物を持っていかなければならなかったものだ。もっとも、僕が泊まった事がないだけで、普通の旅館でもそういうサービスがあるのかもしれないが。
そう、サービスなのだろう。だから、僕は慌てることなく荷物を渡せばいいのだろうが、慣れていない僕は、よろしくお願いします、という言葉と共に肩から下げていたボストンバッグを旅館の人に渡した。僕の態度が初々しかったのか、屈んで僕に声をかけてきた旅館の人は、クスクスと微笑ましいものでも見たような笑みを浮かべて、「はい、確かに」という言葉と共に荷物を受け取り、アリサちゃん達の荷物と同じ場所に僕のバッグも持っていく。
「それじゃ、行こうか」
手続きが終わったのだろう。鍵を受け取ったであろうデビットさんが仲居さんの案内を受けて部屋へと向かっていた。
部屋にたどり着いた僕は、また驚くことになる。僕が知っている旅館というのは修学旅行程度が精々だ。十畳程度の部屋に五、六人が寝泊りできる程度の部屋だ。だが、この旅館の部屋は三部屋あった。二部屋はおそらく寝室に相当するのだろう。もう一部屋はテーブルが真ん中においてあることを考えると居間に相当するのだろう。高級旅館なのにテーブルの真ん中にミカンがおいてあるのが何ともシュールに感じられた。
しかも、驚きはそれだけではなかった。居間からは外に出る事ができ、小さな庭のような場所には、大人であれば、二人か三人程度しか入れない小さなお風呂があった。いわゆる家族風呂というやつだろうか。さらに、そこから見える風景は絶景で、山々が見渡せる風景になっていた。
どこをどうみても非の打ち所のない高級温泉旅館だった。本当にこんなところに泊まっていいのだろうか。しかも、費用はアリサちゃんの家の好意で、ただである。一般庶民的な感覚しか持っていない僕としては不安にならざるをえなかった。
もしも、僕が大人、あるいはそれに順ずる中高生なら、まだ幾分か費用について問うこともできただろう。だが、この身は未だに小学生。果たして、問う事はいささか不可解だ。ともすれば、僕の両親が問うように言われたと勘違いされても困るものである。しかし、気になってしまう。前世の経験が、僕の人生にとってプラスなのは間違いないだろうが、今、この瞬間だけはその経験が恨めしかった。
やがて、預けていた荷物を持った仲居さんが、僕達の荷物をもってやってくる。荷物の一つ一つが広くて大きな部屋に置かれる。その中でも僕のボストンバッグは一番小さいといえるだろう。しかしながら、女性の旅行は荷物が多くなると聞くから、当然といえば当然なのだろう。
それぞれが荷物を取り入れて、さて、どうしようか? というな雰囲気が流れ始めた頃、おもむろにデビットさんが切り出した。
「温泉に来てやることは一つしかないな。温泉に行こうか」
ご尤もである。温泉に来ているのに温泉に行かない道理はない。当然ながら、反対する人間は一人もおらず、満場一致で温泉へ行く事が決定した。
―――よもや、温泉に入る前にひと悶着あるとは思いもよらなかったが。
「一緒に行けばいいじゃないっ!」
「いやだっ!」
温泉の前、『男』と『女』の暖簾が靡く前で、僕とアリサちゃんが言いあっていた。いや、正確にはアリサちゃんが僕を女湯のほうへと連れ込もうとしていた。現状、僕の手首を引っ張って連れ込もうとしているのだから間違いない。
もしも、僕が普通の小学生の精神年齢であれば、大人しくアリサちゃんたちと一緒に女湯へ入っていたかもしれない。小学三年生というのは段々と異性との壁ができる年齢だから、僕のように拒否するか、安易に一緒に入るという選択肢を選ぶかは、確率的には半々ではあるが。しかしながら、僕は二十歳に近い精神年齢を持っているのだ。彼女達に欲情するようなバカな真似はないが、『女の子と一緒にお風呂に入る』という事象そのものを拒否したい。たとえ、アリシアちゃんと一緒に入った事がある事実があろうとも、自発的に入れば、それは越えてはいけない一線を越えたような気分になる。
「なんでよっ!」
「だって、僕は男だよ」
いくら性別の垣根が低いからといって、一緒に入れるのはやめてほしい。それに、数年後、この事実が発覚したときは火を噴くほど恥ずかしくなるの目に見えているのだから、僕がここで拒否することは、将来のアリサちゃんとの仲を考えれば妥当なのだ。
しかし、現状、そんな考えはアリサちゃんには通用しない。
「いいじゃないっ! ほらっ!」
不意にアリサちゃんが指差した先には一枚の注意書き。
『九歳以上のお子様のご入浴はご遠慮ください』
そんな風にかかれた張り紙。ついでに、男湯のほうは逆に『女の』に書き直されて同様の張り紙が張ってある。この旅館でのボーダーラインは九歳のようだ。
「あたしたちは八歳だから何も問題ないわよ」
そういわれると確かにそうなのだが。しかし、ここで認めるわけにはいかなかった。僕の男としての沽券にかけて。
「でも、僕の誕生日は七月だから、四捨五入すれば、九歳だからやっぱりダメだよ」
僕の年齢は、八歳と十ヶ月。そもそも、十進ではない年月を四捨五入として考えることは間違いなのだが、小学生ならば、こんな屁理屈もありだろう。中学生以上に言えば、笑われること間違いないだろう。いや、そもそも、中学生レベルになれば、一緒に入ろうという思考回路すらなくなるのだから何の問題もない。
一歩も引かない僕とアリサちゃん。どちらかに援軍が来れば問題ないのだろうが、梓さんは微笑ましいものを見るように微笑んでいるし、すずかちゃんはどっちに味方していいのか分からないようにオロオロしているように見える。
そして、援軍は思いもよらない方向からやってきた。
「アリサ、ここは翔太くんの意思を尊重してやってくれないか」
ぽんと僕の肩に置かれる大きな手。見上げてみれば、笑いながらデビットさんが僕の背後に立っていた。僕からしてみれば、想いもよらない援軍だが、有り難いことこの上ない。
「そうじゃないと、私一人で入ることになってしまうよ」
半分、からかっているような口調ながらもデビットさんはそういってくれた。確かにデビットさんが女湯に入る事ができない以上、僕が女湯のほうへ行ってしまえば、デビットさんは一人で温泉に入らなければならないだろう。
さて、アリサちゃんはどんな反応をするかな? と見守っていると、アリサちゃんは、僕とデビットさんを交互に見ながら、明らかに悩んでいた。おそらく、先ほどまでの主張を通したいが、そうするとデビットさんが一人になることを気に病んでいるのだろう。今は、天秤が揺れている状態。どちらかに少しでも衝撃があれば、そちらに振れてしまうだろう。
そして、デビットさんはその一押しを口にした。
「なに、今日はともかく、明日は一日あるんだ。明日、一緒に入ればいいじゃないか」
問題の先送りにしかならない言葉だ。だが、それはアリサちゃんをとりあえず納得させるには十分だったのか、少しだけ顎に手を当てて考えた後、明らかに納得が言っていないような声で結論を下した。
「し、仕方ないわね。パパがかわいそうだから、今日は譲ってあげるわ」
おそらく、これがアリサちゃんの精一杯の優しさなのかもしれない。父親であるデビットさんにぐらいはもう少し優しくてもいいんじゃないだろうか、と思うのだが。もっとも、僕としては日常生活の中で慣れており、そんな素直になれないアリサちゃんの態度に笑みが浮かぶぐらいだ。
それは、アリサちゃんの後ろにいるすずかちゃんと梓さんも同じなのだろう。口元を隠してはいたが、むしろ、その所為で笑っている事が、十分に分かってしまった。
「それじゃ、決まったことだし、行こうか」
この決定を逃すほど愚かではない。自分にとって都合のいい決定がなされたなら、即決行だ。僕とデビットさんは男湯へ、アリサちゃんとすずかちゃん、梓さんへ女湯へと「じゃ、また後で」と手を振りながらお互いに姿を消すのだった。
◇ ◇ ◇
「おおぉ……」
脱衣所で服を脱ぎ、室内のお風呂へと入り、そこで体を洗う際にデビットさんと分かれた僕は、体を洗った後、この旅館の自慢にもなっている露天風呂へと行ってみた。まだ時間が早いせいか、あるいは偶然か、露天風呂には誰一人いなかった。僕が感嘆の声を上げたのは、そこからの風景によるものだ。
山々に囲まれているせいか、海鳴にいるよりも若干早い日暮れ。夕日が山間に姿を消そうとする一瞬を目にする事ができた。そこは、夜と昼が入り混じる逢う魔が時。不安定な時間。消え行く一瞬だけの時間。だからこそ、この時間が尊いもので、儚いもので、美しいと思えるのかもしれない。
「いつまで、風景に見入っているのかな?」
突然、背後からそんな風に声をかけられた。その声には聞き覚えがあった。当たり前だ。先ほどまで一緒に行動していたのだから。
「早く入らないと、風邪を引いてしまうよ」
背後から近寄ってきたデビットさんは僕にそう言いながら、湯船に浸かる。デビットさんが言うことも尤もだ、と思い、僕もデビットさんに続いて湯船に入った。湯船の温度は少し熱いぐらいだが、温泉に入るのならば、このくらいがちょうどいい、と僕は思う。湯船に浸かった瞬間、思わず、はぁ、と疲れたような声を出してしまうのは僕が日本人だからだろうか。
デビットさんと僕が並んで湯船に浸かり、無言の時間が流れる。果たして、傍から見れば、僕達はどんな関係に見えるだろうか。近くで入っているのだから無関係の赤の他人とは思われないだろうが、しかしながら、親子というには肌の色が違いすぎる。デビットさんは白人なので、アリサちゃんと同じく白い肌だった。背後から近づいてきたため、少ししか見えなかったが、体つきは男としては十分に鍛えられたといっていいほどの肉体だった。細身である親父よりも男らしいというべきだろう。どちらかというと、デビットさんの体つきに憧れてしまうのは、僕が男の子だからだろう。
「さっきはありがとうございました」
僕とデビットさんの間の静寂を破ったのは僕のお礼の言葉からだった。
先ほどのアリサちゃんからの誘いに助け舟を出してくれたデビットさんには、お礼を言っておかなければならないと思ったからだ。もしも、あそこでデビットさんが助け舟を出さなければ、僕は今頃、女湯で目を瞑りながら湯船に浸かっていただろう。アリシアちゃんのことから考えても、僕の意思が弱いのは分かっているからだ。だからこそ、僕はデビットさんにお礼が言いたかった。
僕のお礼に対してデビットさんは、驚いたように目を丸くするとすぐに声を出して笑い出した。
「はははは、そんなことか。いや、あれは、私の勝手もあったんだよ」
そこまで言うと、デビットさんはまっすぐ僕の目を見て、真剣な表情で告げる。
「ありがとう」
先ほど僕がデビットさんに告げた言葉。それを今度はデビットさんが僕に告げていた。しかしながら、僕にはデビットさんが僕にお礼を言う理由を見出せない。僕が怪訝な顔をしているのが分かったのか、デビットさんはさらに補足のために言葉を続けた。
「アリサのことだよ。あの子のことについて、私は君にお礼を言おうと思っていたんだ」
アリサちゃんについて僕にお礼? 僕がアリサちゃんに何か特別なことをした記憶は特になかった。
「あの子と友達になってくれて、ありがとうと言いたかったんだ」
「それは、お礼を言われることではありませんよ」
そんなことで、お礼を言われるいわれはない。いや、むしろ友達になったことで、お礼を言われるべきではないと思う。なぜなら、友達になることは一方的な享受ではないからだ。お互いに望むことによって友達は成り立つのだから。だから、デビットさんがお礼を言うのであれば、僕もアリサちゃんにお礼を言うべきだろう。友達になってくれてありがとう、と。
だが、僕の言葉にデビットさんは首を振っていた。
「君にとってはそうかもしれない。だが、あの子の親として、私は君にお礼を言いたい。いや、君のような子どもがいることに、かな」
そういうと、デビットさんはもはや逢う魔が時というのは少し遅い時間となり、暁が二割、夜空が八割の空を見上げながら思い出すような表情をしながら言う。
「あの子は私の血が色濃くでてしまった。そのことで苦労をかけることも多くてね」
確かにアリサちゃんの容姿は、デビットさんの血を色濃く継いでいるといってもいいだろう。輝くような金髪と白い肌は、大半が黒髪、黄色人種の日本人とはかなり異なる。アリサちゃんの存在は、真っ白なキャンパスに落とされた一滴の色の異なる雫のようなものだ。いわゆる異色の存在。もっとも、外国人の容姿をしていることなんて、年齢が重なれば、あるいは、中学生や高校生になれば、まったく関係がなくなるかもしれない。しかし、子ども時代にはやや不利な側面があるだろう。他と異なるということは、容易にいじめの標的になるのだから。そこまではいかなくても排他的にはなってしまうかもしれない。デビットさんの言うことは、おそらくそういうことなのだろう。
「聖祥に入学したときも心配で、毎日夕食のときに聞いてみたものだが、数日は不機嫌そうにするだけだったが、ある日、すずかちゃんの話が出てきてね、その後は君の話も出てくるようになった。親としては君達のような子がいて安心したわけだよ」
「僕とアリサちゃんが友達になったのは偶然ですよ」
そう、偶然だ。僕が、『とらいあんぐるハート』というゲームの中で彼女の容姿によく似た子が陵辱されていたシーンを覚えており、一人にするのが拙いと思って、目をかけていたに過ぎない。もし、僕があのときに思い出していなかったら、きっと彼女に目をかけることはなく、あのすずかちゃんとアリサちゃんの諍いに割っては入れたとは思わない。
もしかしたら、僕が手を出さなくても彼女達は、友達になれたかもしれない。今となっては、あの時僕が手を出さなかったらどうなっていたか、それは分からない。僕には確認する術はない。
「だが、君とアリサの出会いが偶然としても、それが現実だよ」
そう、今が現実なのだ。僕とアリサちゃんが友達なのは変わりない。あの時、目をかけていなかったら、割って入らなければ、という『たられば』を論じたところで意味のないことだ。過去を変えることは誰にもできないのだから。
「だから、親としては、これからもあの子をよろしく、というべきだな」
「いえ、こちらこそ、色々お世話になっていますからね。僕もアリサちゃんに飽きられないようによろしくお願いしますね」
友人とは一方通行の関係ではないのだ。お互いに持ちつ持たれつの関係なのだ。だからこそ、一方的な感謝は成り立つべきではないし、一方的なお願いが成り立つべきではない。だから、僕は悪戯を楽しむ子どものように笑みを浮かべてデビットさんに言うのだ。
僕の言葉に一瞬、豆鉄砲を食らったように呆然としていたデビットさんだったが、意味を理解したのか、急に笑い始めた。そして、ひとしきり笑った後、目尻に溜まった雫を拭うを笑みを崩さずに口を開いた。
「君のような子が友人でよかったよ」
「それは恐悦至極です」
相手は、会社をまとめる社長として頂点に立つような大人だ。そんな人から認められて、恐縮しないわけがない。しかも、デビットさんは親父の親会社の社長なのだから。もっとも、そのことをデビットさんは知らないだろうが。このことは知らないほうがいいだろう。細い関係でもあるとしれば、何かしらの問題が発生するかもしれないから。
僕のかしこまったような言い方に、僕達は顔を見合わせて笑った。傍から見れば、いい迷惑だろうが、今は誰もいない。だからこそ、こうやって人目を気にせずに笑う事ができた。
「そういえば、君はサッカーをやっているらしいね」
「ええ、まあ、嗜む程度には」
クラブに入っているわけではない。お遊びだ。だが、それでも主に外で遊ぶときはサッカーだ。だから、興味があるとはいえるかもしれない。テレビでもサッカーの試合はそれなりに面白いとは思うし。マニアというほどに嵌っているわけではないのだが、それなりに話はできると思う。
だが、それでも、デビットさんには嬉しかったのだろう。先ほどよりも笑みを強めて興味津々と言った様子で顔を輝かせていた。
「おおっ! そうか。私もサッカーは好きなのだが、周りに話せる相手がいなくてね」
「そうなんですか。僕でよければ、話し相手になりましょうか?」
それが引き金だったのだろう。僕とデビットさんは、なぜか温泉の湯船に浸かりながらサッカーについて語り始めた。Jリーグについてや、効率的なフォーメーション。前回のワールドカップについてなどのサッカーの話題なら何でもござれ、という感じだ。
しばらく語ってデビットさんは満足したのか、ふぅ、というため息と共に満足げな表情になりながら一言、ポツリと零した。
「やはり男の子はいいな……」
「え?」
「いや、私はどちらかというと息子がよかったのだ。いや、もちろん、アリサは可愛いとは思うが、こういう風に息子と趣味ついて語るのも悪くないと、君と話していてそう思った」
その目はいるはずのない息子へと向けられているのか、慈愛に満ちていた。
なら、作ればいいんじゃないですか? というのは、簡単だ。僕が本当に子どもなら簡単に言っていただろう。だが、そう簡単にいえない理由もある。アリサちゃんの両親はお互いに社長という立場で忙しいはずだ。それにデビットさんが本気で欲しいと思えば、作らない理由はないだろう。お金はあるだろうし。だが、それでも未だにアリサちゃんに妹なり弟なりいないのは、それなりの理由があるのだろう。少なくとも他の家庭に口を出すことはできない。しかしながら、デビットさんの表情は、少しだけ可哀そうな気がした。少なくとも趣味を語り合える同士がいないのは、辛いことだというのは前世のことで分かっている。
だから、僕は前述の言葉を飲み込み、代わりの言葉を口にした。
「だったら、僕が話し相手になりますよ。僕もサッカーの話題は好きですから」
「おおっ! そうかっ! だったら、もう少しだけ付き合ってくれるかな?」
「ええ、よろこんで」
それから、僕達は、お互いに半ばのぼせるような時間までサッカーについて熱い論議を交わすのだった。傍から見れば、もしかすると親子に見えるかもしれない僕達の会話をすっかり日が沈んでしまい、墨を流したように広がる夜空に瞬く星空だけが見ていた。
後書き
誰のための旅行なのだろうか。
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