拝啓、あしながおじさん。 ~令和日本のジュディ・アボットより~
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第3章 高校3年生
夏休み、ワーカーホリック
――こうして始まった、高校最後の夏休み。愛美は純也さんとケンカ中のままで、葉山にある秦野さん宅でバリバリ家庭教師のアルバイトに励んでいた。今日で四日目である。
「――麻利絵ちゃん、この問題、当てはめる公式が間違ってるよ。もう一回最初からやり直してみようか」
「え~~!? 面倒くさい! 愛美先生、もう休憩しようよー」
「ダメ。この問題を解き直してからね」
仕事は主に、受験生であるこの家の長女・麻利絵の勉強を見てあげることなのだけれど。彼女の一学期の通知表を見せてもらったところ、今の成績では志望校合格は厳しいように思えた。
麻利絵は第一志望が私立高校なのだけれど、それでもギリギリ受かるかどうかというところ。愛美の指導に熱が入るのも致し方ないことだった。
「……で、香菜ちゃん。今書いてもらった英文、文法がおかしいから。助動詞の使い方に気をつけてもう一回書き直してみて」
「はーい」
そして、現在中学一年生の次女・香菜も数学と英語の成績があまりよくないので、そちらも見てあげなければならない。
この二人の学習意欲が低いことは、前もってさやかと秦野夫人から聞かされていた愛美だけれど、まさかここまで勉強嫌いだったとは……。
(引き受けたのがわたしでよかったかも。さやかちゃんが引き受けてたら、もうとっくにサジ投げてただろうな)
根が真面目で努力家で、働くのが好きな愛美だから、この姉妹の家庭教師が務まっているのだ。現に、愛美以前に来た家庭教師は三日ともたずに辞めていったそうだし。
(バイトと原稿を書くのに打ち込んでいられる間は純也さんのこと思い出さなくて済むし、わたしも実は助かってるんだよね)
あのケンカ別れからずっと、純也さんからは電話もメッセージもウンともスンとも言ってこなくなった。だから彼が今どこで何をしているのか、あのクルーズ船に乗っているのかいないのかまったくもって分からない。……もっとも、気になってもいないし、愛美からも連絡するつもりはないけれど。
(もしかして、わたしが手紙に「純也さんからメッセージが来ても既読スルーしてやる」って書いたから、向こうも意地になってるとか?)
本当にガキはどっちよ、と愛美は思う。あれだけ愛美のことを「意固地だ」「頑固なガキだ」と罵倒したくせに、やっていることは彼の方が子供っぽいというか大人げない。今年で三十一歳になる大人の男性のすることだろうか。
とはいえ、〝あしながおじさん〟宛てには手紙を出さないわけにもいかないので、この後書こうと思っているけれど。
「――愛美先生、問題解けたよ」
「愛美先生、あたしも書き直せた」
「……あ、はいはい、見せて」
二人の生徒に言われ、愛美は自分の今の仕事に向き直った。
* * * *
――バイトの時間は午前中だけで、昼食後は自由時間となる。
愛美は自分の部屋で、姉妹の生徒たちに出した課題の添削をしていた。
「……う~ん、二人共通の課題は読解力不足かな」
麻利絵と香菜、二人はどうして勉強ができないのか。どうすれば成績が上がるのか。その原因を探っていたのだけれど、何となく分かった気がする。
麻利絵も香菜も、基本的に問題を読み解く力が弱い。だから理解が追いつかないのだ。
では、どうしたら読解力が身につくのか――?
「本を読むのがいちばんのトレーニングになるんだけど。あの二人、本なんか読まなそうだしなぁ……」
二人ともいわゆるギャル系で、オシャレやメイクなど自分の興味のあることには熱心だけれど、本は雑誌くらいしか読んでいるところを見たことがない。勉強中の休憩時間には、スマホを見ていることがほとんどだ。
「せめて電子書籍でもいいんだけど、本はやっぱり紙書籍を読んでほしいなぁ」
紙の本のページをめくる動作だけで、脳は活性化されるらしい。この際、コミック本でもいいから勧めてみるべきだろうか?
――と考えに耽っていると、部屋のドアがノックされた。
「――愛美先生、外いい天気だし、散歩行かない?」
ドアを開けると廊下に麻利絵と香菜の美少女姉妹が立っていて、愛美を散歩に誘いに来たらしい。
「うん、行こう。この近くのカフェで、二人にクリームソーダごちそうしてあげるよ」
「やったー! お姉ちゃん、愛美先生誘ってよかったね」
「うん!」
というわけで、愛美は二人の生徒を引き連れて、秦野邸の近くにあるカフェで課外授業をすることにした。
* * * *
「「――いただきま~す♪」」
麻利絵と香菜の姉妹がクリームソーダを美味しそうに食べ始めるのを、愛美はいちごタルトセットのアイスティーを飲みながら眺めていたけれど。先生の顔になって課外授業を始めた。
「麻利絵ちゃん、香菜ちゃん。食べながらでいいから聞いて。――わたし、二人の課題に目を通して分かったんだけど、二人に共通して足りないのはズバリ、読解力だと思うの」
「読解力?」
「そう。問題を読み解く力。二人にはそれが欠けてるの。そこでわたしから質問なんだけど、二人って本を読むの苦手でしょ?」
姉妹は顔を見合わせた後、同時にコクンと頷いた。
「あたしは雑誌くらいしか読まないし、香菜も本読んでるところ見たことないよ」
「うん。スマホ弄ってることの方が多いよね」
「やっぱりね。そこで、愛美先生から一つ、二人に宿題を出します。この夏休みの間に一人一冊、何か本を読むこと。ただし雑誌以外で」
「「えーーーーっ!?」」
愛美の提案に、姉妹揃って盛大なブーイングをした。
「『えー』じゃないの。読むのはコミックでもいいから。最近のコミックは勉強になるのも多いからね。ホントは活字の本限定にしたいところを、これでも譲歩してるつもりだよ。読解力を養うには、読書がいちばん手っ取り早いの。特に麻利絵ちゃんは、受験にも絶対に役立つから。騙されたと思ってやってみて」
「…………はーい」
「マンガでもいいんだよね? じゃああたしも読書やってみる!」
「うん。――じゃあ、先生の時間はここまで。ここからは二人のお姉さんとして、質問に答えようかな。二人とも、わたしに訊きたいことない?」
一人の女子高生に戻った愛美に、姉妹から質問が飛んでくる。
「愛美先生、彼氏いるの?」
「お母さんが言ってたけど、愛美先生、作家だってホント?」
「彼氏はいるよ。十三歳も年上の」
麻利絵からの質問には、そう答えた。
「えっ、そんなに年上なの!?」
「うん。でも今ケンカ中でね、メッセージも既読スルーしてるんだ」
この夏だけの教え子にこんなことを言うのも何だけれど、愛美はそれも正直に打ち明けた。
「――で、わたしが作家だっていうのはホントだよ。去年の秋に、〈イマジン〉っていう文芸誌でデビューしたの」
「へぇ、スゴ~い!」
「でも、まだ本は出てないの。秋に短編集が発売されることは決まってるけど。で、今長編小説を執筆してて、もうじき書き上がる」
短編集が出版されることは、夏休み前に岡部さんから知らされた。夏休みが終わったら、ゲラチェックの仕事も入るのでますます忙しくなりそうだ。
「へぇ、スゴいスゴい! 小説書ける人ってマジ尊敬しちゃう! やっぱり愛美先生もいっぱい本読んだの?」
「そうだね、そりゃもう小さいころからいっぱい読んできたよ。わたし、実は施設で育ったの。施設ではTVを観る時間も限られてたし、ゲームもできないし、スマホも持ってなかったし。楽しみって読書くらいしかなくて」
小説を書き始めたのは小学校の高学年からだった。中学では文芸部に入り、部長にまでなったけれど、自分の書く小説の参考にと読書量も増えた。
「でも、そのおかげでわたしは小説を書く楽しさを知ったし、こうして夢も叶ったから。本を読むことって、自分のやりたいことを見つけるためでもあるとわたしは思うな」
「「なるほど……」」
読書が苦手な人に読書を勧めるのは難しいけれど、これでこの姉妹が本を読む気になってくれたらいいなと愛美は思った。
「愛美先生、作家の仕事楽しい? 学校の勉強もあって大変じゃない?」
「大丈夫だよ、麻利絵ちゃん。大変なこともあるけど、わたしは作家のお仕事も楽しいよ」
書くことが好きで、自分で選んだ道だから。どれだけ大変でも続けていこうと愛美は決めていたのだ。
* * * *
――それから二週間後のある夜。
「……やっと、やぁっと書けたぁ……!」
愛美が二人のおバカさんの教え子と向き合いながら、並行して冬からずっと執筆を続けていた長編小説の原稿がついに書き上がった。原稿のファイルを岡部さんにメールで送信し終え、愛美は思いっきり伸びをする。
学校にいる時は勉強の合間に、夏休みに入ってからは自分の夏休みの宿題や家庭教師のバイトもしつつ、毎日コツコツ書き続けていたので、思ったよりも時間がかかってしまったけれど。それでもこうして最後まで書き上げることができたことは本当に嬉しい。
「なんか思いっきり疲れたけど、でも清々しい気持ち……」
長編小説を一作書き上げると、こんなにも達成感があるのかと愛美は充実した気持ちになった。これだから、好きな仕事は辞められないのだ。
……ピンポン♪
「……ん? メッセージだ。純也さんから?」
机の上のスマホにメッセージを受信し、さやかからかなとウキウキしながら画面を確かめた愛美は、発信者の名前を見て眉をひそめた。
忙しいことを口実にして、彼のことは頭の中から排除していたけれど。原稿を書き終え、家庭教師のアルバイトも終盤に差し掛かった今、そろそろ現実とも向き合わなければ。
『俺、君が勝手にバイトをしてたこと、まだ怒ってるから。
でも、バイトが終わったら千藤農園に行くんだよな? その時は俺も行く予定だから、また去年みたいに一緒に遊ぼう。
それで許してあげてもいいよ。』
「……はぁっ!? 何それ。純也さん、いつまで拗ねてんのよ。ガキか」
メッセージの内容の大人げなさに、愛美は画面に向かって毒づいた。あれからもう一ヶ月が経ったというのに、大の大人がいつまで引きずっているのか。
「しかも、なんかめちゃめちゃ上から目線だし。ちょっとムカつく」
相手の方が十三歳も年上なので当たり前といえば当たり前なのだけれど、上から目線なのは不愉快極まりない。
「いつまでも引きずってるのはわたしも一緒か。でも、わたしはどうせガキだもん」
愛美はこの話を誰かに聞いてもらいたくて、さやかに電話をかけた。
『――はいよ。愛美、バイトはどう? 順調?』
「うん。まあ、ボチボチかな。麻利絵ちゃんも香菜ちゃんも読書をするようになったら読解力も上がったし、今日やってもらった小テストの出来もよかったから。あとね、長編の原稿、今日書き上がったの。さっき担当編集者の人にメールで送った」
『そっか、ご苦労さん。っていうか、アンタ働きすぎじゃないの? 大丈夫?』
「大丈夫だよ。疲れたけど清々しい気持ち。これだから作家家業は辞められないんだよねー」
『……あっそ。アンタさぁ、そういう状態を〝ワーカーホリック〟って言うんだよ。お仕事中毒』
「えー? そんなことないと思うけど。っていうか、さやかちゃん聞いて! さっき純也さんからメッセージ来たんだけど」
愛美は彼からのメッセージの内容をさやかにも聞いてもらった。それを、「自分の言うことを素直に聞くいい子に戻っていたら、また仲良くしてあげもいい」ということだと解釈した、と。
「……どう思う、さやかちゃん? なんか上から目線でムカつかない? そんなんで仲直りしたいって言われてもさぁ、こっちだって素直に『うん』とは言えないよね」
『純也さん、大人げないっていうかガキだね。んで、アンタはどうするつもりなの?』
「なんか、このまま千藤農園に行くのも、純也さんの思うツボみたいで癪だなぁ、って。何となく気まずいし」
『だよねー。んじゃさ、ウチにおいでよ。埼玉の実家』
「えっ、いいの?」
さやかからの思いがけない提案に、愛美は思わず声を上ずらせる。
『ウチはいつでも大歓迎だよ。お兄ちゃんはもう休暇明けて東京に戻っちゃったけど、お母さんもおばあちゃんも、もちろんお父さんと下の兄妹たちも、また愛美に会いたがってるからさ。アンタ働きすぎだし、ウチに来て息抜きしなよ』
「う~ん、でもなぁ……」
『また「おじさまに相談しなきゃ」とか思ってる? もう十八なんだし、自分で決めちゃって大丈夫だよ。だいたい、相談する相手って結局あの人じゃん。相談するだけムダだって』
「…………あ、そうだった」
ついつい『あしながおじさん』のジュディと同じことをしようとして、愛美はさやかの指摘にハッと我に返る。
〝あしながおじさん〟の正体を知らなかったジュディと違い、愛美はその正体が純也さんだということをちゃんと知っている。しかも、その彼とは現在絶賛ケンカ中なのに、その相手に「ダメ」と言われることを分かっていながら相談するなんて、そんなバカな話があるだろうか。
「……そうだよね。じゃあ、そっちに行こうかな。長野より埼玉の方が近いし」
『そうしなよ、愛美。おじさまにはこっちに来てから事後報告でいいじゃん』
「うん、それ、いいかもね」
そういえば、ジュディも〝あしながおじさん〟に相談することなく親友のところへ行き、ジャービスとの約束をすっぽかしていた。
(ふふん、だ。純也さんもせいぜい、わたしが自分の思い通りにならない相手だって思い知ればいいのよ! わたし、間違ってないもんね)
さやかの言う通り、この夏はこれでもかというくらい働いた。家庭教師のバイトもやり切ったし、初めて長編小説を一作書き上げることもできた。だから、夏休みの残りの日数くらいはさやかと遊んだってバチは当たらないだろう。
「じゃあ、バイト代もらったその足でそっちに行くよ」
『分かった。高校最後の夏休みだもん、一緒にめいっぱい楽しも!』
「うん! じゃあね。夜遅くにゴメン」
『ううん、いいよ。電話くれてありがとね』
「――さて、さやかちゃんにはああ言ったものの……。やっぱり、おじさまには手紙で知らせないとマズいよね……」
愛美はそう呟き、机の上にレターパッドを開く。反対されようと、こういうのは報告したもの勝ちだ。後からどうこう言われようと知ったこっちゃない!
****
『拝啓、おじさま。
八月に入り、わたしの高校最後の夏休みもあと半月を残すばかりとなりました。
午前中はおツムの弱い姉妹の先生をして、午後からは近くを散歩したり、ショッピングをしたり、夜には原稿を執筆して過ごしてました。
長女の麻利絵ちゃんは、最初の頃こそ「こんなので高校に入れるのかな」って心配してましたけど、最近はちょっとマシになってきました。ただ、まだ高校に入れても勉強についていけるかな……って感じですけど。
次女の香菜ちゃんに至っては、最初はもうお手上げ状態でした。まず、こっちの話が通じない。そして向こうも何を言ってるのか理解できない。まるで宇宙人と話してるみたいでした。勉強の時にもスマホを手放さず、スマホを見始めたらこっちの話なんか右から左なんだもん。
でも、わたしから読書の宿題を出したら、二人ともガラッと変わりました。二人には読解力が欠けてたみたいで、自分で選んだ本を読み込むことでそれも補えたみたい。
家庭教師として、わたしはちゃんと二人の役に立てたのかな。だとしたら、引き受けてよかった。
そして、冬から書いてた長編小説がやっと書き上がったの! 今日、編集者さんにデータを送ったところです。
夏休みが終わったら、秋にいよいよ発売される短編集のゲラのチェックもしないといけないみたいで、わたしは作家としてますます忙しくなりそう。
ところでおじさま、聞いて下さい。さっき純也さんからメッセージが来てたんだけれど、なんか上から目線で素っ気ない内容でした。彼はまだ、わたしが彼の反対を無視して勝手に家庭教師のバイトを決行したことを怒ってるって。でも、農園で会った時に素直ないい子に戻ってたらまた仲良く遊んであげてもいいよ、それで許してあげる、って。わたしはそう解釈しました。
ね、上から目線で偉そうでムカつくでしょ? だからわたし、さやかちゃんに電話して、この話を聞いてもらったの。それでのこのこ農園に行くのも、彼の思うツボみたいでシャクだし、って。そしたら、さやかちゃんが「ウチにおいでよ」って言ってくれたんです。つまり、埼玉の彼女の実家に、ってこと。この夏のわたしはハッキリ言ってワーカーホリック、つまり働きすぎだから、ウチで息抜きしなよ、って。
わたし、行っちゃダメですか? まだ自分の意思で決めちゃダメなの? ううん、そんなことないはず! めいっぱい働いたし、残りの夏休みくらいはさやかちゃんといっぱい遊びたい。で、ぶっちゃけ純也さんとの約束をドタキャンしてやりたいんです。
わたしはあなたの思い通りになんか動かないんだって、彼に思い知らせてやらないと。おじさまも同じです。
とにかく、わたしはバイトが終わり次第埼玉へGo!! かしこ
八月十日 ワーカーホリック愛美』
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――それから十日ほど後。無事に愛美の家庭教師のアルバイトは終了した。
「愛美先生、一ヶ月間お疲れさま。これ、謝礼ね」
「わぁ……、ありがとうございます!」
秦野夫人からバイト代の封筒を受け取った愛美は、失礼だとは思いつつ中身を確認した。
「……はい、確かに十万円受け取りました。でも、ホントにいいんですか? こんなに頂いちゃって。わたし、この半分でも充分ですけど」
「いいのよ。娘二人を勉強する気にさせてくれたあなたには、本当に感謝してるんだから。大変だったでしょう? だからこちらとしては、もっと増やしてあげたいくらいよ」
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