冥王来訪 補遺集
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第二部 1978年
原作キャラクター編
甘言 KGBのベアトリクス誘拐未遂IFルート
前書き
ハーメルンで書いた追加の話になります。
暁の連載だとこの話を入れると、訳が分からなくなるので、誘拐未遂IFルートとしました。
ゲルツィン大佐はハーメルンだとはっきりKGBと書いたのですが、暁だとGRUともただの赤軍大佐とも取れるようなぼかした話になっています。
台湾人読者の方が、原作ヒロインの危機を見たいというので、あえてこの話を掲載することにしました。
夕方の下りは、18禁外伝から18禁部分を除外して追加したものになります。
不適切な部分を修正し、ちょっと手直しをしました。
話としては、第87回『ソ連の落日 その2』と第97回『恩師』の間の話になります。
1978年6月28日。
ここは、早朝5時の東ベルリン。
東独の国家人民軍がソ連の対応で大童になっている一方、ソ連軍基地は静かだった。
市内にある第6独立親衛自動車化狙撃旅団本部の一室で怪しい影が蠢く。
そこでは今まさに、戦術機隊幕僚であるユルゲン・ベルンハルトに関する密議が凝らされていた。
「すると、ベルンハルト中尉を我等に引き込むと仰るのですか」
「あの男は殺すに惜しい。使いをやって我が方に迎え入れたい」
KGBの秘密工作員でもある、エフゲニー・ゲルツィン赤軍大佐は、白皙の美丈夫を欲していた。
「そこでだ。手練れを送って、ベルンハルトの私宅を訊ね、妻を拉っしてこい。
妹と一緒であれば上出来だ。さすれば奴も話し合いに応じよう」
ユルゲンたちがソ連の不審船に対応してる隙をついて、ベアトリクスの誘拐を命じたのだ。
「了解しました。同志大佐」
KGBの工作隊は、ベルリンと言う事もあって商人服(背広)に着替え、
「美丈夫の妻と妹を引き合わせましょうぞ」と大佐に語り、意気揚々と出掛けて行った。
まだ、6時にもならない時間だというのに、ベルンハルト邸の呼び鈴が、連打される。
士官学校に行く準備の為に、シャワーを浴びていたベアトリクスは、呼び鈴の音に慌てた。
大童で、士官学校の制服姿を着こみ、玄関に向かう。
髪も乾かぬ内に、ドアの隙間から、そっと覗く。
ドアの前に立つ男の仕度は、季節外れの分厚い冬外套に、ホンブルグ。
怪しげに思うも、慌てたせいか、ドアの内鍵をしないまま対応してしまった。
不気味な男は、いきなりドアを全開にして、
「奥方、御主人と妹さんは何方に……」と、ベアトリクスに訊ねるも、
「随分たどたどしいドイツ語ね。貴方、ソ連人でしょ」とロシア語で返した。
男は、出し抜けにアッハッハッハと大笑いし、不敵の笑みを湛えた。
「へえぇ、お若いのにロシア語がこんなに出来るとはね」
――東独に限らず、ソ連の統制経済の影響下にあったコメコン諸国において、第一外国語はロシア語だった――
その時、おり悪くアイリスディーナが現れ、
「ベアトリクス、誰か来たの」と、灰色の制服姿で声を掛けた。
咄嗟に振り向いたベアトリクスは、
「110番!今すぐに」と大声で、指示を出した。
――ドイツ警察の緊急通報番号は日本と同じ110番である。
1973年以降から2009年の間まで唯一の緊急通報回線だった。
今日は欧州共通の緊急通報番号112番と併用されてる――
指示を受けたアイリスディーナは、即座に、
「怪しい男が来て、姉と言い合ってるんです」と人民警察に電話を入れた。
そして、裏口から駆け出して、近くの車の中で護衛の任務にあたっているデュルクに声を掛け、
「デュルクさん、怪しいソ連人が……」と言い終わらないうちに、無線機で周辺の護衛に、
「緊急事態発生」と告げるや、チェコ製の機関銃を車のトランクから取り出し、
「アイリスディーナ様、行きましょう」と、彼女を車に乗せ、表側に回った。
ここで、ヨハン・デュルクという人物について語っておこう。
彼は、東独軍唯一の特殊部隊である、第40降下猟兵大隊の出身。
第40降下猟兵大隊は、特殊任務や落下傘降下の他に、党幹部や閣僚の護衛任務も任された。
デュルクは、軍に在籍中は狙撃手で、夜間警戒任務に優れた成績を残した。
そして、自然と『兎目のデュルク』とあだ名され、大隊の兵達から畏怖された。
身丈はそそり立つ山の様に大きく、また屈強な肉体は引き締まった痩身であった。
アベール・ブレーメのたっての願いで、ベアトリクスの身辺警護責任者の立場に就く。
10年近く、彼女の傍に仕え、全幅の信頼を得た人物でもあった。
送り込まれたKGB工作員は、そんな精鋭が護衛しているとも知らず、任務を侮っていた。
東ドイツは、昔と変わらず、今もソ連の為すがままの国家。
国家保安省の前長官、エーリヒ・ミルーケも、モスクワの許しなくば、厠に行けぬ状態であった。
だから、今回の事件もKGBがシュタージを叱れば、もみ消せる。
そう思って対応した。
だが、ソ連に阿諛追従したホーネッカーもミルケもすでに権力の座には居ない。
KGBが一から育てた対外諜報部門責任者のミーシャも、獄窓。
ミーシャとは、本名、マルクス・ヴォルフというシュタージの高級幹部である。
シュタージ対外部長を32年間歴任し、ハインツ・アクスマン少佐の元上司にあたる人物であった。
そして一番の間違いは、シュミットが鬼籍に入った事を忘れていた事である。
シュトラハヴィッツ少将が関与した無血クーデターによって、全てが変わっていたのである。
一事が万事、スローモーな、お国柄であるソ連と違って、せっかちなドイツと言う事を忘れ、
「そんなこと言わずに、どうか一緒にソ連に行きましょうよ」と説得していたのだ。
相手が、祖父の代から、ソ連と通過の仲であるアベール・ブレーメの娘。
出来れば、無傷で連れて行き、ゲルツィン大佐の前に差し出したい。
そしてあわよくば、この小娘を褒美として我が物に出来るのではないか。
そんな邪な考えが、工作員の男にあったのだ。
「さあ、どうぞ、我等が迎えの車で、ソ連軍基地へ」
男は、ベアトリクスの左手を両手で包んだ。
美しい瞳がカッと見開かれて、そのまま凍り付いた。
「嫌っ。私は人妻よ。見ず知らずの人に誘われて、そんな所などへは、行けません」
と、思いっきり、掴まれた手を振って、叫んだ。
「いや、放してっ」
「まあ、良いじゃないですか。
たしかに見ず知らずとおっしゃるが、私と一緒に行けば知らぬ場所ではありますまい。
それに、夫君も後からお呼びしますから」
「主人の客か何か知らないけど、さっさと帰って、帰って頂戴!」
込み上げて来る憎悪を隠そうともせず、ヒステリックに叫んだ。
「確かに誰しも、初めのうちは、嫌がりますが、一度、違う世界を知れば、驚くものですよ。
私が、本当のロシアというものを、お見せしますよ」
「馬鹿っ。変態」
憎悪にも似た恐怖が込み上げて、ベアトリクスは男の横面を激しくひっぱたいた。
「貴女のその美しい手で、私の頬を打つとは……では報いて差し上げましょう」
不敵の笑みを浮かべた男は、グッと力を入れて、ベアトリクスをドアから引き離そうとする。
「誰か!」
正に、近隣から軍の護衛が駆け付けた時、ベアトリクスは件のKGB工作員と言い争っていた。
デュルクは、サッとスコーピオン機関銃を取り出すと、半自動にして引き金を引いた。
――スコーピオンとは、チェコスロバキアのチェコ兵器廠国営会社で開発された短機関銃である。
東独では護衛や暗殺任務用に購入していた――
爆音が、早朝のパンコウ区に響き渡る。
KGB工作員の男は、忽ち驚いて、周囲を見渡した。
警官たちが、手に手にバラライカことППШ41機関銃やツェラ・メーリス・P1001-0拳銃――東独では、ワルサー社のPP拳銃が特許侵害をされ、違法生産されていた――を持ち、住宅街の周辺を通せんぼしている。
しかし、KGB工作員は、相手の群れに度胆を抜かれてしまった。
玄関から退いて、道路の奥に止めてあるソ連製のチャイカに逃げ込むも、あえなく御用となった。
この事件は、たちまち、早朝の官衙に広まった。
閣議を開いていた政治局員たちの耳に達するや、議長はアベールを通産省から呼んだ。
「なあ、アベール。お前さんの娘たちは、少し不用心過ぎたんじゃないか」
と、紫煙を燻らせながら、訊ねるも、アベールは、おもしからぬ顔をして、
「護衛はユルゲン君が、たっての願いで、減らしたのだがね……」と嫌味を言った。
議長は苦虫を嚙み潰したような顔をして、
「あの馬鹿者が……、手前の女房を危険に曝すとは。後で俺から叱っておく」
と、息子の様に思っているユルゲンの代わりに、頭を下げた。
夕刻、ユルゲンが、ロストックから帰ってきた。
折目も新しい将校用のレインドロップ迷彩の野戦服姿で、玄関から駆け込んでくる。
「ベアトリクス!」
彼は寄って、いきなりその花の顔を、抱きしめた。
「どうしたの」
駆けよって来た事よりも、この乱暴に似た力の方が、遥かに彼女を驚かせたに違いない。
姿態をくねらせて、彼女は救いを乞うような火の息をあえいだ。
「どうしたもこうしたもあるか。君の事を聞いて、飛んできた」
大きく襟ぐりの開いた濃紺のセーターを着た、妻の顔を見た途端、ユルゲンの胸が締め付けられた。
思い出したくないのに、早朝のあの出来事が頭をかすめてしまう。
KGB工作員に、口汚く娼婦とののしられた事に苦しんでいた。
「とにかく入って」
ベアトリクスは、ユルゲンの手を引っ張って、玄関の中にうながしてくれた。
妻の手のひらの温もりは心地よい。
こうして感じている温もりも、絆も、心を傷つけられても、一層強固なものとして感じられる。
黙って、妻に従った。
「君には怖い思いをさせた。だから……」
案外、ベアトリクスは、素直に、ユルゲンのまえへ寄っていた。
炎の様に、二人の目がぶつかり合って燃え合った。
ユルゲンはちょっと、ベアトリクスへも気がねする風ではあったが、
「だったら、忘れさせてくれる」
ベアトリクスの声はわずかに震えていた。感情を押し殺したような言葉だった。
妻の瞳に、どこか妖艶な輝きが浮かんだ。
ユルゲンは、深くはっきりと、意思を込めて、うなづいた。
ゆっくりとベアトリクスの顔が近づいて来る。ユルゲンは何も考えることも出来なかった。
視線をそらさずにいると、さらに妻の顔が近づいて来る。
鼻の頭がこすれ合ったかと思った瞬間、柔らかな唇の感触がした。
妻の顔が目の前にあり、温かく柔らかい唇の感触にどこか、陶酔していくのを感じた。
後書き
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