栄光の架橋
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第二章
二〇二三年七月を迎えた、俵はその時にそのニュースを聞いて感染症に戦争にと暗くなってしまう顔をさらに暗くさせてしまた。
「遂にかいな」
「はい、引退して闘病生活を送っていたんですが」
会社で若い子が項垂れて話した。
「それがです」
「横田選手亡くなったか」
「そうです」
「四年前やったな、引退したの」
「それからずっとです」
「闘病生活でか」
「遂に」
こう俵に言うのだった。
「そうなりました」
「人の一生はわからんな」
俵も項垂れた、そのうえで言うのだった。
「ほんまな」
「若くしてもですね」
「亡くなる人おるわ、こればかりはわからん」
人の一生はというのだ。
「ほんまな」
「そうですね、元気に阪神に入団したのに」
「和田さんの頃か。十年前か」
「高卒で入ってそれで、ですね」
「三十にもなってへん、それでか」
今度は苦い顔で言った。
「親御さん達が可哀想や、そして残された人達もな」
「岩崎さんや岩貞さんの同期でしたね」
「梅野選手ともな、同機は活躍してて」
そうしてというのだった。
「二番バッターで出て来てな」
「期待されてましたね」
「それで亡くなるなんてな」
「残酷ですね、人の一生は」
「時にな」
こう言うしかなかった、兎角だった。
俵は横田慎太郎の早すぎる旅立ちに人の一生はわからない、時として残念なものだと思うばかりだった。だが。
それと共にだ、こうも言ったのだった。
「しかし残された阪神の人等はな」
「頑張って欲しいですね」
「今度追悼も行われるそうやな」
「甲子園で」
「黙祷もするやろし」
冥福を祈ってだ。
「そうやとな」
「尚更ですね」
「阪神今年はな」
「横田さんの為にも」
「頑張って欲しいな」
「アレやって欲しいですね」
「アレをな」
こう言うのだった、実際に彼の冥福を祈ってだった。
甲子園で黙祷が行われ岡田彰信監督は彼の両親を監督室に呼び話をし追悼試合では同期をスタメンで出した、その試合でだった。
阪神は勝った、そしてこの言葉が出た。
「ヨコが打たせてくれました!」
「そやな、打たせてくれたんや」
俵は自宅でそのニュースを聞いて思った、玉造のマンションの中で。
「ほんまな」
「そうよね」
妻の音々も頷いた、若い頃は可愛かったが今ではすっかり大阪のおばちゃんでパーマを当てて派手な化粧をして太っている。
「横田さんが打たせてくれたわね」
「天国に行ったな」
「ほんまに」
「それやとな」
是非にとだ、俵はテレビを前に妻に言った。
ページ上へ戻る