信長の理想
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第一章
信長の理想
織田信長はうつけだの傾奇者だのと言われ周りの大名達も奇矯な振る舞いが目立つ変わり者と思っていた、だが。
彼をよく知る松平元康は今川家の中でよく言っていた。
「織田殿がうつけだのいうのはとんでもないです」
「そういえば松平殿は織田家におられましたな」
「二年程人質で」
「それであの御仁とも付き合いがありましたな」
「それも親しく」
「はい、確かに型破りな振る舞いが多いですが」
それでもというのだ。
「その実極めてです」
「よい資質を持っている」
「そうなのですな」
「松平殿が見た織田殿は」
「左様ですな」
「ですから戦になればご用心を」
くれぐれもというのだ。
「織田殿については」
「ううむ、左様ですか」
「この今川家でも織田殿は知られていますが」
「何しろ尾張は隣ですからな」
駿河、遠江、そして尾張の隣国である三河を領地にしているからだ。元康はその三河の岡崎の領主である。
「用心は必要ですか」
「織田殿については」
「うつけと聞いて侮ってはならぬ」
「決して」
「左様です」
信長がまだ元服して間もなかった頃に話した、だが。
今川家の主である義元は元康の話を聞いても笑って言うだけであった。
「いや、あの者はのう」
「うつけ殿でありますか」
「あれば万の石高を預かる家の跡継ぎか」
それに相応しい振る舞いかというのだ。
「麿にはとてもな」
「思えませぬか」
「そうじゃ、竹千代お主は買い被っておる」
元康にこう言ったのだった。
「それはな。それよりも三河で新たな田畑を拓くが」
「そのことについてですか」
「そなたにも働いてもらう、よいか」
「わかりました」
政の話になった、元康は義元に応えてそちらのことについて自分の考えを述べまた三河に赴いて田畑を拓くことにもあたった。
それから数年後義元は大軍を率いて上洛しその途中にある尾張にも入ったが。
桶狭間で嫡男氏真と共に捕らえられ今川家自体がなくなった、家は残ったが主と跡継ぎが同時に捕らえられてだ。
今川家は宙ぶらりんとなりその間に縁戚を口実に武田家が駿河と遠江の東を制圧し元康も独立し三河と遠江の西を領地とした。まさに義元にとっては青天の霹靂であった。
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