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魔法使い×あさき☆彡

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第三十四章 世界が変わらずあることに


     1
 六方の塞がれた、暗闇の部屋である。
 河馬を二頭並べたくらいの、巨大な塊が横たわり転がっている。
 形状的には、蜘蛛にかなり似ている。
 ただし足の数は六本。本当の蜘蛛ならば八本である。それでも腹部のごちゃっとした足の付け根は、生理的嫌悪の感情を抱くに充分ではあったが。

 それは、ぴくりとも動いていない。
 死体だろうか。
 死体なのだろう。
 普通に、考えるならば。
 首がすっぱりと切り落とされて、存在していないのだから。

 切断面はまだ赤く、熟れたトマトのようになんとも生々しい。
 普通に考えるならば、という前提のある自問回答になるのも無理はないだろう。横たわった巨大な蜘蛛の背中には、人間の上半身が生えているのだから。首が切り落とされているというのは、その、人間の方なのだから。

 これで一つの生物と考えるのであれば、人間の首の方が落とされて実際に人も蜘蛛もどちらもぴくりとも動かない以上は、死んでいると考えるのが普通というものであろう。

 首のない、そして左腕も切り落とされている、人間の上半身。白銀の服に身を覆われている。
 正確には、人間ではない。
 合成生物(キマイラ)、つまり人工天然の様々な臓器、筋肉、神経、骨格、などを合成して作られた生物だ。
 リヒト所長、()垂れ(だれ)(とく)(ゆう)が、首を落とされて死んでいるのである。

 白い衣装の少女ヴァイスに左腕を切り落とされて逃げようとしていたところを、シュヴァルツに首を落とされて絶命したのだ。

 その、巨蜘蛛と合体した至垂の死骸を、黒い服を着た四人が取り囲んでいる。

 一人は、ふわふわとした服を着ている。
 幼いながら端正な顔立ちの少女、シュヴァルツである。

 あとの三人は身体の線がはっきり出ている黒いスーツ姿で、顔は三人ともまったく同じだ。シュヴァルツを、少し崩して薄くした感じとでもいおうか。アインス、ツヴァイ、ドライである。

 なお本当は、彼女たち四人に名前はない。
 彼女といういい方も、正しくない。

 名前がないのは、呼び合う必要がないためである。
 認識において不都合であると、(あき)()(かず)()たちが勝手に名付けただけだ。
 シュヴァルツはドイツ語で、黒。アインス、ツヴァイ、ドライは、数字のいち、にい、さん、である。
 当人たちはみな、そう名付けられたことなど知らないのだが。

 彼女、ではないのは、本当に女性ではないどころかそもそも生物ですらないからだ。
 体型や声が、女性型というだけである。

 同じ顔をした三人、アインス、ツヴァイ、ドライのうちの一人が、なにか大きな塊を手に下げている。
 それは、人の首であった。
 至垂徳柳の、切断時の驚きや痛みに表情が醜く歪んだ首であった。

 黒服の一人、ドライが一歩前へ出ると、巨蜘蛛へと向けて右の手刀を斜めに跳ね上げた。
 数メートルの距離があるというのに、至垂の上半身が魔道着ごと、腹から肩に掛けて切り裂かれていた。
 至垂の肉体は骨まで断たれて、背中の皮膚の裏側が見えそうなくらいぱっくりと裂けてしまったが、血が噴き出さないどころかただの一滴すらもこぼれなかった。やはり、生命活動は停止しているということなのだろう。

 続いてツヴァイが、一歩、二歩、巨蜘蛛へと近付く。
 特に大切そうでもなく無造作に、至垂の首を髪の毛掴んで持ちながら。
 その首を、ドライが切り裂いた至垂自身の亀裂の中へと押し込むと、ぬるりと頭部すべてが切り裂かれた腹部の中におさまってしまった。
 いや……押し込まれる都度、接触面が溶けており、至垂の頭部はどろり溶けて融合というべきか吸収というべきか、小さくなって完全に消えてしまった。

 準備は整ったということか、黙って見ていたシュヴァルツが黒くふんわりした自分の衣装に手を掛けた。
 手を掛けた瞬間、するりと布地のすべてが足元に落ちた。
 両足を抜き、靴も脱ぐと、黒のハーフパンツ以外はなにも身に着けていない格好になった。
 人間の基準で考えるならば、まだ幼い、隆起のまるでない、女児の体型である。

 ハーフパンツに手を掛けると、なんの躊躇いもなく脱いで全裸になった。
 まるでマネキンである。
 あらゆる意味で。
 胸の膨らみや腰のくびれがまったくない。のみならず、股間にはなにも生えていないのは当然のこと、なんの形状すらもそこにはなかったのだから。
 生体型ロボットであり、男性でも女性でもないためだ。

 便宜上は彼女と表記するが、彼女、シュヴァルツは全裸の状態のまま巨蜘蛛の傍らに立った。
 右腕を上げて手を伸ばすと、手のひらを巨大な胴体へと当てた。

 シュヴァルツの右手が薄青く光り輝くと、手の触れている巨蜘蛛の皮膚がじくじくと溶け始めた。
 薄青い光、まとわりつく荒い光の粒子が、ゆっくりと動き始める。シュヴァルツの腕を登り、身体へと、全身へと、輝きが流れていく。
 至垂の肉体を溶かし取り込もうとしているようにも見えるが、至垂とシュヴァルツお互いの質量にいささかの変化もない。
 巨大な蜘蛛はその大きさであり続けたし、シュヴァルツも幼い少女体型のまま。

 シュヴァルツは一糸まとわぬ姿で、巨蜘蛛の胴体に手を当て、薄青く輝く光のやりとりを続けている。
 なにかを吸い取っている?
 それは魔力?
 それとも、肉体を?

 だが、消えたのはシュヴァルツの方であった。
 互いの質量も見た目も変化はなかったというのに、幼い少女の方こそが不意に消えてしまったのである。
 頭から足先、全身がふっと溶けて、脱ぎ捨てた黒い衣服や下着だけを存在の痕跡として。

 いや……
 痕跡どころか、それそのものが……シュヴァルツそのものが、そこに存在していた。
 首を切り落とされた至垂の死体に、いつの間にか新たな頭部が生じており、それはシュヴァルツの幼い顔そのものだったのである。

 その口が薄く笑みの形を作ると、その下にある巨大な蜘蛛の全身がぶるりと震えた。
 蜘蛛から生える白銀の魔道着は至垂徳柳であるはずで、実際他の誰でもないというほどに筋骨隆々であるが、その上に現在あるのはシュヴァルツの幼く小さい顔であり違和感この上ない。
 その筋骨隆々の右腕が伸びて、床をがさごそ漁るように動く。先ほどヴァイスの光弾で切り落とされた左腕に、指先が触れる。掴み、引き寄せると、無造作に左腕の切断面へと継ぎ当てた。
 押し当てた瞬間には、もう手の先指の先がぴくりぴくりと動いていた。
 人差し指、中指、薬指、確かめているかのように、指が一本ずつ折り曲げられていく。
 切り落とされて断面が土まみれになっていた腕が、ほんの一瞬にして繋がるどころか完全に機能していた。

 蜘蛛の巨体が、動き出す。
 地響きを立てながら、六本の足を器用に動かして体勢を立て直した。

 死体が、動いた?
 生き返った?
 いや、新たな合成生物(キマイラ)が誕生したというべきであろう。
 見た目としては、至垂の顔がシュヴァルツにすげ変わったという一点だけであるが。

「力を、得た」

 シュヴァルツの顔、その口元に、薄いがはっきりとした笑みが浮かんでいた。

     2
「……世界を、破壊出来る力を……得た」

 世界?
 それはこの現実世界のこと?
 それもあるだろう。
 ただし、ここまでの経緯を考えるならば、彼女のいう世界とは仮想世界に他ならない。
 喋っているのが、シュヴァルツであるならば。

 最終目的は、この現実世界だ。
 宇宙の終焉だ。
 そのためにこそ仮想世界を破壊するのだ。
 宇宙延命技術が、今後永劫に生まれることがないように、超次元量子コンピュータそのものを破壊するのだ。

 魔法世界に起きた奇跡によって転造された存在である至垂には、そうした行為を制限するためのリミッターがない。
 だからシュヴァルツは、至垂を吸収しつつ最終的には至垂に吸収されたのである。惑星AIが用意した防衛力に対して、反乱出来る力を得たのである。

 力といっても、あくまでも権限問題(パーミツシヨン)をクリアしたに過ぎず、思うことままなるか否かはまた別の話ではあるが、とにかく土俵には立った。

 と、その時である。

「礼をいおう。わたしを蘇らせてくれたことに」

 どこからか声が聞こえたのは。

 突然の声であるが、シュヴァルツも、そしてアインスたち三人の顔色も、変化がないどころか視線すら微動だにしていない。
 この声が聞こえることを、予想していたのだろうか。
 至垂徳柳の声を。

「きみたちに奪われた生命なのだから、礼というのもおかしな話ではあるが。それでも、あえて礼をいおう」

 声は、巨蜘蛛の背から生える身体の中から響いていた。
 白銀の魔道着を着た、シュヴァルツの首が乗っているその身体の中から。

 至垂の声、というより意思であろうか。
 意思は、くくっと笑い声を漏らした。

「黒の管理人としての能力、遠慮なくいただくとしよう。……踏み台として、さらに進化し神へと近付くために」

 至垂の意思は、嬉しそうにそう言葉を発した。

 シュヴァルツは、面白くもつまらなくもなさそうにふんと鼻を鳴らした。

「こちらの台詞だよ、至垂徳柳。神への弑逆のためにも、お前の肉体はわたしがいただいて利用する。遠慮なくな」
「神を弑逆? なるほど、直接作られた存在であるお前たちには、これまでは試みる権限すらも制限されていたというわけか」

 ははっ、と至垂は笑う。

「理解が早いな。理解したところで、お前の未来が変わるわけではないがな」
「黒の管理者は、お山の大将を気取るだけ。永劫の時を、ただ指を咥えて震えているだけだったわけだ。ははっ、これは傑作だ、はははっ」
「そこまでにしておけ!」

 シュヴァルツの声と共に、シュヴァルツの頬が内側から爆発した。
 槍状に皮膚が長く尖り突き出したのだが、次の瞬間にはもうなにごともなかったように幼くかわいらしい顔に戻っていた。

 今度は白銀の魔道着が、腹部が、内側から爆発して布地が張り裂けんばかり膨らんだ。

 ぐう、
 シュヴァルツの顔が苦痛に歪んだ。

「無駄なあがきを」

 シュヴァルツの口元、片端からつっと血が垂れた。

 二人が内部で戦っているのである。

 その後も、顔、目、頭、背中、胸、腹、腕、指、蜘蛛の身体まで、いたるところが柔らかなゴムを内から槍で突いたかのように長く尖って膨らんだ。
 中で小さな人間が暴れているわけではない。
 戦っているのは意思と意思。気の流れや爆発に身体が反応し、このような現象が生じているのだ。

「お前はこの身体で、こんな世界で、なにをしたいというのだ?」

 シュヴァルツの意思が問う。

「愚問。……神!」

 至垂の意思は、揺るぎなく、決意でも願望でもなく、当然にきたるべきと思う未来を声に発した。

「幼稚な夢は幼稚な夢のまま、見続けさせてあげたいよ。だが、悪く思うな至垂徳柳。お前の身体は、わたしのものだ。陽子結合式を解明し、まずは仮想世界、そしてこの惑星自体を破壊するため。いずれくる平穏な無のために、禍根は残さない」
「ヒャハ。それこそ幼稚な夢だなあ。だから永劫を生きても、そんな赤ちゃんみたいな顔なんだよ。鏡を見たこと、ないのかね?」
「分かり合うつもりはない」
「いや、仮想世界の破壊だけならば、まあいいだろう。……だがまずは、自分をこの呪われた身体に生み出した世界に、(りよう)(どう)()(さき)などを生み出した世界に、人間どもに、まずは絶望を、死以上の恐怖を……」
「令堂和咲を作ったのはお前だろうに」

 身体をぼこぼこ爆発させながら、シュヴァルツの顔に苦笑が浮かんだ。
 それを黒服の三人が囲み見守っているという異常な図が、いつまで続くのだろうか。

「であればこそ! 恐怖の後に破壊し、本物の神としてわたしはこの世界を、宇宙を、支配する」
「宇宙は、終わりたがっているぞ。滅びたいのだ」
「大昔のAIによる疑似人格風情が、勝手な解釈をしちゃいけない。……滅びるなら、お前だけが滅びろ」

 ぼそりとした至垂の低い声が、シュヴァルツの顔から漏れ……いや、違う……いつの間にか至垂の顔へと変わっていた。
 至垂の声は、至垂の口から漏れたものだった。

 と、認識をした黒服の三人アインス、ツヴァイ、ドライの行動は素早かった。至垂の上に乗る顔がシュヴァルツではなく至垂になったその瞬間に、三方から飛び掛かっていたのである。
 至垂の魂を殺そうと。
 支配権を再びシュヴァルツに戻そうと。

「やめておけ!」

 至垂の低い声と共に、その土台たる蜘蛛の巨体がくるり一回転すると、アインスたち三人はみな一様に弾き飛ばされて壁に背を打ち付けた。
 巨蜘蛛が、回りながら前足を払って三人を吹き飛ばしたのである。

 三人は、壁から剥がれてふわり真下の床へと着地した。特にダメージを受けた様子もなく、すぐにまた三方から至垂を取り囲んだ。

 至垂が、ふふっと笑った。
 いや……その顔は至垂のものではなかった。
 また、シュヴァルツの幼く端正な顔へと変わっていた。

「やめておけといっている。お前たちが束になっても、わたし()()には勝てないよ」

 顔は間違いなくシュヴァルツであるが、意思たる声は、シュヴァルツと至垂が混じり合っていた。

 アインスたち黒服の三人は、三方それぞれの位置に立ったまま、小さく頭を下げた。

「それでよい。お前たちとは、例え戯れにでも戦っている暇はないのだからな。……何故ならば……」

 微笑みながら語るシュヴァルツであるが、その顔が一瞬にして険しく歪んでいた。

「きたか……」

 蜘蛛の背から生えた至垂の身体、その上にいるシュヴァルツが部屋の端にある大きな扉へと顔を向けた。

 向けた、その瞬間、

「うおおおおおおおりゃっ!」

 どおん!

 荒々しい少女の雄叫びと共に、重機の衝突にもびくともしなさそうに見える頑丈そうな扉が簡単に破られていた。

 扉が倒れて、地響きを立てた。

 ぐしゃり歪んで倒れている扉を踏み付けているのは、白銀に青い装飾の魔道着を着た、ポニーテールの少女であった。
 その後ろには、白銀に紫装飾の魔道着を着た、肩までの黒髪をおでこ真ん中で分けた少女。

 (あき)()(かず)()と、(あきら)()(はる)()だ。

「ここにいたか。……やっぱり、生きていやがったか……」

 昭刃和美は巨大な蜘蛛を睨み付けると、扉を踏み付けたまま両手に握るナイフの柄にぎゅっと力を込めたた。

     3
 蹴り破った扉を踏み付けて、カズミと(あきら)()(はる)()が肩を並べている。

「やっぱり、生きていやがったか……」

 カズミは、取り出した二本のナイフを両手に握りながら、目の前にいるシロクマほどもあろうかという巨大な蜘蛛を睨み付けた。

「いや、間違いなく死んでいたのだが」

 ()(だれ)(とく)(ゆう)の顔に、意地の悪い笑みが浮かんだ。

「なにいってやがんだ」

 カズミは、ふんと鼻を鳴らした。
 元々、自分だけの世界で言葉をまくしたてる至垂である。会話の噛み合わないことが多く、まともに取り合っても神経をすり減らすだけだから。

 カズミは腰を低く落とし、身構える。
 隣の治奈も戦闘態勢だ。半歩引いて、カズミを援護するような斜め後ろに立って、両手に槍の柄を握った。

(りよう)(どう)()(さき)くんは?」

 至垂が尋ねるが、

「てめえらごときに、出る幕じゃねえとよ」

 カズミは、すっぱり吐き捨てた。

 すっぱり、ではあったが嘘である。
 アサキは疲労の蓄積に倒れてしまい、昏々と眠り続けるアサキを置いて、治奈と二人でここへきたのだ。
 至垂の死体がなくなっていたその理由を確かめるために、巨体を移動させたと思われる地面の跡を辿って。
 生きているなら倒すため。
 最悪、殺すため。
 アサキは追わなくていいといっていたが、そうもいかないからだ。
 神になりたいのだからこの宇宙を滅ぼすことはないだろう、とアサキは少し楽観論だったが、もし仮に自暴自棄にでもなったならばなにをするか分からないではないか。

 だから、ここへきたのである。
 朦朧とした意識の中で一緒に行きたがるアサキをヴァイスに任せて、カズミと治奈の二人で。
 どちらにしても、ヴァイスはアサキを守ることしか関心なく、アサキを置いていく以上は自分も残っていただろうが。

 カズミは、扉を踏みながら視線をさっと左から右へ走らせた。
 大きな部屋の真ん中には、巨蜘蛛の姿。背から生えるは至垂の身体に顔だ。
 三方壁際には黒服の三人、アインス、ツヴァイ、ドライ。顔がまったく同じなので、カズミには自分たちで名付けておきながらも誰か誰だかさっぱりであったが。

「親分は?」

 目を細めて油断なきよう視線を素早く走らせながら、カズミはぼそりと尋ねた。黒い衣装の少女、シュヴァルツのことを。

「ここだよ」

 その声にカズミは視線を上げ、驚きに肩を微かに震わせた。
 至垂の身体の上にはたった今まで至垂の顔が乗っていたのに、そこにシュヴァルツの顔があったのである。

「どうなってんだよ……うわっ!」

 驚き叫ぶカズミ。
 巨体が突然、地響きを立てて突進してきたのである。

「くそ」

 カズミと治奈は咄嗟に左右に散って、かろうじて突進をやり過ごす。
 だが巨蜘蛛は異常な素早さでくるり身体を回転させると再び、治奈へと狙いを付けて飛び掛かった。

 治奈は、今度は逃げず、両手に握り構えた槍を、

「うおおおりゃ!」

 雄叫びと共に、突き出した。

 ぶんと唸りを上げて、先端が巨蜘蛛の胴体を貫いた……かに見えたが、そうなる寸前に中足で穂先を振り払われてしまう。
 巨蜘蛛の反撃を、頭を低くしてかわすと、ほとんど同時に蜘蛛の背から至垂が握る長剣を振り下ろす。
 がちり、長剣を槍の柄で受けると、治奈はさっと後ろへ跳躍して距離を取った。

「逃さない」

 シュヴァルツの声だ。六本の足を素早く動かして、巨蜘蛛は距離を詰めようと治奈へと迫る。

 だがこれは、治奈の仕掛けた罠だった。

 治奈へと突進する巨蜘蛛へと、なにかが急降下していた。
 青い魔道着の魔法使い、カズミだ。

「地獄に行きやがれ!」

 二本のナイフを束ねて、叩き付けるように振り下ろした。
 だが、せっかくの連係による奇襲も通用しなかった。
 至垂の寝かせた長剣に、こともなげに受け止められていたのである。

「てめえ、至垂か? 黒いやつか? どっちだ!」

 巨蜘蛛の背上に着地したカズミは、奇襲には失敗したが勢いそのまま長剣をナイフで押し込みながら怒鳴った。

 なお、黒いやつとはシュヴァルツのことだ。そう呼ばないのは、自分たちの中で勝手に名付けただけだからだ。

「どちらでもある」

 短い返答の声。
 二人の声が混じっているが、口調からすると至垂の意思であろうか。

「いつまでという期限はともかく、仮想世界の破壊までは利害が一致したんでな。戦線協定を結び、お前らを滅ぼすことにしたわけだ」

 内容から、こちらはシュヴァルツの意思ということだろうか。

「お前ら雑魚を生かしておいても、もうこの至垂徳柳にとってなんの差し障りもない。だが、令堂和咲の心の支えとしては、これほど邪魔な存在はないからな」

 また至垂の意思か。
 それを聞いた途端カズミが激高した。

「抜かしやがれ!」

 怒鳴り足を激しく踏み鳴らすと、二本のナイフを小さく放り上げ、掴み取ってくるくる回し、あらためて柄をぎゅっと握った。

「差し障りがあるか、ねえか! ……アフテウェングアタッケヴァイゼルム」

 小声で素早く呪文を唱えると、足元に五芒星の魔法陣が浮かぶ。
 魔法陣は青白く輝き出す。

「これを受けても、まだそんな余裕をぶっこいてられるのか!」

 カズミの全身が、魔法陣同様に青白く輝いた。

「超魔法! ポリサ・ラツィオ!」

 叫びながら床を蹴った。
 高く跳躍しながらくるりと前転、天井を蹴ると巨蜘蛛へと急降下。
 カズミの身体が増えていた。二人、五人、七人、身体がぼやけぶるぶる震えながら分裂していた。
 先ほど、アサキが至垂を圧倒した技である。
 舐められてたまるか、そう思いあえて同じ技を使ったのだ。

 七人のカズミが急降下し、一つの雄叫びのもと十四のナイフが振り下ろされた。

 そして、一人のカズミが腕を掴まれていた。
 至垂? シュヴァルツ? の左手にぎゅうっと強く右腕を。

「ぐ」

 痛みに、カズミが顔を歪める。
 蜘蛛の背中へと着地したと同時に、身体をよじって掴まれた腕を振り払おうとする。
 だが至垂が……融合しているため「至垂シュヴァルツ」とでも名付けた方が的確か。至垂シュヴァルツが、離さなかった。離さないばかりか、カズミの腕をさらにぎゅいとねじ上げた。

「うあ!」

 ナイフが落ちた。

 べぎりという不快な音と、カズミの絶叫が響くのは、ほとんど同時だった。

 カズミの右肘が、本来は曲がらない方向に曲がっていた。
 へし折られ、直角に曲がっていた。

 それでも左のナイフで切り付けたのは、さすがと胆力を褒めるべきなのだろうが、当然そのような攻撃が通じるはずもなかった。
 通じはしなかったが、そのため至垂シュヴァルツの締め上げが僅か緩んで、今度こそカズミは身を捻って逃れ、蜘蛛の背から転がり落ちた。

 だがしかし、落ちた瞬間に踏まれていた。
 巨大な蜘蛛の前足に体重を掛けられて、また、ぼぎべぎと骨の折れる音が響いた。

「なにか、勘違いしていたのかな? 令堂和咲の強さを、さも自分の強さであるかのように」

 至垂シュヴァルツの現在の顔は、至垂徳柳だ。
 その顔には、苦笑と嘲笑の混じった、いずれにせよ質の悪い笑みが浮かんでいる。

 至垂シュヴァルツは、踏み付けていた蜘蛛の前足を持ち上げると、

「滅びろ」

 再び落とした。

 いや、落とそうとしたところへ、

「これ以上はっ!」

 治奈が巨蜘蛛へと飛び込みながら、前足へと槍を突き出した。
 だが穂先がまるで立たずにつるり滑って、飛び込もうとした勢いで巨蜘蛛の胴にぶつかって、ぐっと呻く。

 結局、治奈はいないも同じで友を守ることが出来ず、巨蜘蛛の巨大な足はカズミの身体へと落とされたのである。

 べぎり、また骨の砕ける音が響いた。
 大きな骨は、もうすべて折れているのではないか。そんなぐしゃぐしゃに潰れているカズミの身体を、蜘蛛は前足で掴み放り投げた。

「死ね!」

 朦朧とした表情の、受け身の姿勢もなにもなく重力に引かれて落ちるカズミの身体を、長剣の刃が断っていた。
 ガツッと固い音は、背骨が砕かれたものであろうか。
 カズミは、もう悲鳴すらも上げず、ただ床に落ちて転がっただけであった。
 胴体が、深く横一文字に切断されている。おそらく背骨も断たれて薄皮一枚で繋がっている状態だ。
 無理に立ち上がろうものなら上下の半身が別れ別れになるだろうし、そもそも立ち上がることなど不可能だろう。

「に……げろ、はる……な」

 ごぼり 
 大量の血がカズミの口から溢れてこぼれた。

 至垂シュヴァルツ一体に対して二人で挑んだというのに、まるで歯が立たなかったのである。
 会心の超魔法が児戯同然に扱われたのである。
 さらには、なお三人の黒服がいる。
 普通に考えて、治奈一人で勝ち目があろうはずがない。
 逃げて、アサキやヴァイスに助けを求めるしかない。

 だが、治奈は逃げなかった。
 槍を構えたまま、逃げなかった。
 く、
 と躊躇いがちに呻くと、意を決した表情で跳んだ。
 巨蜘蛛の背、白銀の魔道着を着た至垂シュヴァルツの上半身へと、槍の柄を振り下ろした。

 攻撃のためではない。
 受けさせて、鍔迫り合いの体勢に持っていくためである。

 逃げはしなかった。
 治奈は、逃げはしなかったが……

 小さく開く彼女の口、そこから発せられた言葉は、

「うちらの負けじゃ」

 降参宣言であった。

 重症のカズミを連れては逃げられない。
 そう判断したためかは分からないが、とにかく治奈は敗北を認めたのである。

     4
 巨大な蜘蛛の背中に、女性が二人。
 その背中から上半身を生やしている、()(だれ)(とく)(ゆう)
 紫の魔道着を着た少女、(あきら)()(はる)()

 二人は、剣と槍の柄とで押し合っている。

 生える至垂の身体は上半身のみであるが、非常に大柄であるため二人の体長差はあまりない。僅かに治奈の方が高い程度だ。

「うちらには、大切な世界なんじゃ。うちらには、仮想なんかじゃなく、現実なんじゃ。都合のよい願いかも知れん。残しておいては、くれんかのう?」

 ぎりぎりと、槍の柄を押す。
 せめてもの力を誇示しようというわけではない。一剣のもと殺されていては、降参も出来ないというだけだ。

「わたしにとっては、邪魔なだけなんだよ。恨み一杯だ。こんな、わたしのような生き物を、生み出した世界だからな」

 至垂の顔が、いやらしい笑みに歪んだ。

「悪いが、宇宙は滅びたがっているんでね」

 至垂の上半身に乗っている至垂の顔が、シュヴァルツの幼く端正な顔へと変わっていた。
 不意のことに驚く治奈であるが、そのまま柄を持つ両手両腕に力を込める。話し合いのためにも押し合いを均衡させて……いや、圧倒的に形勢不利な力比べでいつしか押される一方になっていた。
 逃げ出そうにも無防備の一瞬に背後を狙われそうで、こらえ続けるしかなかった。

「誰が、いっておる……そがいな、ことを……」
「だから、宇宙だって」

 話をしても無理なのか。
 でも、話すしかない。
 少しでも有利に、交渉をするしかなかった。

 するしか、なかったけれど……

「辛いことがあっても、頑張れる。強くなれる。そんな、心の支えなんじゃ。妹も生きておる。うちらの、世界なんじゃ。大切な、もう一つの現実なんじゃ」

 堪えるに精一杯で、交渉の言葉などなにも浮かばなかった。
 世界を大切に思う気持ちが、無意識にぽろぽろとこぼれるだけだった。

「どこが?」

 シュヴァルツの顔に、薄い笑みが浮かんでいた。

「強くなれる、って、どこが?」

 その薄い笑みに、治奈は戦慄を覚えていた。

「嘘ばかりだ。なってなんか、いないだろう。……お前、もう死ねよ」

 よ、の声と同時に、治奈の身体は真横へと転がっていた。
 透明な、巨大な拳に殴られたかのように。
 いつ、いかなる攻撃をしたというのか。魔道着の上に装着されている強化プラスチックによる防具が、すべて粉々に破壊されていた。魔道着の布地も、胸や腹がズタボロに切り裂かれており、皮膚がえぐられ、ぐちゃぐちゃになっていた。

 踏み潰そうと巨蜘蛛が突進するが、治奈は呻きながら間一髪ごろり横へ転がってかわす。かわしながら、その勢いを使って起き上がった。
 だが膝に力が入らず、よろけてしまう。
 必死に踏ん張りながら、ちらり後ろにいるカズミへと視線を向けた。

「はや、く、逃げろよ。お前、だけなら……」

 カズミは青い魔道着ごとほとんど胴体を両断されいる。だというのに自分のことを心配してくれる、その優しさに治奈は泣きそうな微笑を浮かべた。
 毅然とした顔で槍を構え前へと向き直ると、眼前には巨大な蜘蛛。

 蜘蛛、至垂シュヴァルツがゆっくりと近付く。
 蜘蛛の背から生える、白銀魔道着を着た至垂徳柳の上半身。男性のような、筋骨隆々とした肉体、その上には幼いながら高慢な、整いながらも歪んだシュヴァルツの顔。

 治奈の、槍を持っている手がだらりと下がった。
 がくり、頭を落としていた。
 きっちり二つに分けている黒い前髪が、ばさり顔を覆い隠す。

「……じゃ」

 なにかを、呟いている。

「お願いじゃ……」

 微かに聞こえるその声に、シュヴァルツの唇が喜悦に歪んだ。

「世界を助けて? それとも命乞い? はっ、バカは死ね!」

 巨蜘蛛の身体が不意に治奈へと突進する。
 至垂の逞しい肉体に、長剣を持ち振り上げて、突進する。
 上に乗ったシュヴァルツの顔が、喜悦に歪む。

 治奈は動かない。
 動かない。
 ただ呟き続け、いや、顔を上げ叫んだ。

「お願いじゃ! みんな! フミ! うちに力を! 強い気持ちを!」

 魂からの絶叫がなにを呼んだか、地が揺れた。
 治奈の身体が、青白いを突き抜けてただ真っ白に、光り輝いていた。

「うあああああああ!」

 真っ白な輝きが大爆発、その輝きは散り消えることなくむしろうねりながら彼女の身体を大きく包み込んでいた。

「悪あがきのコケ脅しかあ!」

 蜘蛛の巨体が突進する。
 至垂の肉体が剣を振り上げ、シュヴァルツが怒鳴り声を張り上げる。
 ただしというべきか、目の前の小癪に怒鳴りながらも口元には笑みが浮かんでいる。己の優位を微塵も疑っていない、絶対強者としての笑みが。

 ぴたり。
 巨蜘蛛の突進が止まっていた。
 絶対強者の笑みが、一瞬にして凍り付いていた。
 焦り、疑念の、表情へと変わっていた。

 治奈が受け止めていたのである。
 突進を。
 巨蜘蛛の頭部を、左腕一本で。
 巨体による猛烈な勢いを片手で止めておきながら、治奈のその身体はしっかり両足を着いてふわりともぴくりとも揺らがなかった。

 治奈の全身を、ゆらゆらとした炎にも似た白い輝きが包んでいる。髪の毛が逆だって、白い炎に合わせて微かに揺らめいている。

 シュヴァルツは舌打ちしながら剣を振り上げた。いや、そうする素振りを見せつつそのまま治奈へと突き出していた。

 至近距離からの不意打ちに、治奈は動かなかった。
 反応出来なかったのではない。
 反応したから、避けなかったのだ。
 突き出される剣の切っ先が、治奈の額を捉えた。だが、その瞬間、切っ先は見るも簡単に折れていた。

 どう、
 と鈍い音。
 嘔吐をこらえるような、声。
 シュヴァルツの持つ、先の折れた剣が床に落ちた。
 治奈の槍の柄尻が、至垂シュヴァルツの魔道着に包まれた腹部へと深々めり込んでいた。

 柄を素早く引いた治奈は、巨蜘蛛の背に柄尻を立てて軸にし身体を回転させ、シュヴァルツの顔面へと蹴りを見舞っていた。
 鈍い衝撃音。

「ふぐっ」

 呻き声。

 魔道着を着た上半身が、蜘蛛の背からもげて落ちそうなほどの、重たい音であった。

     5
 まだ(はる)()の攻撃は終わらない。 
 続いて、槍の柄を振り下ろし頭部を殴り付けた。
 込められた力に耐えきれず柄が真ん中から折れたが、未練なく投げ捨てて、両手が自由になった治奈は、

「おおおりゃ!」

 右の拳を突き出した。

 シュヴァルツの顔面が、ぐしゃり歪んだ。
 背から吹き飛びそうになる上半身であるが、巨蜘蛛と完全に融合しているためそうはならず、それはつまり今度は左の拳を顔面に受けるということであった。
 右、左。
 どおん、どおん、
 遥か遠くにまで聞こえそうなほどに、破壊の音が鈍く低く響く。

 治奈は小さく飛んで、巨蜘蛛の背中から降りる。
 巨蜘蛛の前足を手で払ってこじ開けると、隙間に自らの身体をねじ入れて、そして蹴った。巨蜘蛛の腹部を、蹴り上げた。

 象ほどもある巨体が、軽々と舞い上がっていた。

 床に落ちている折れた槍の穂先を、治奈は拾い上げると目にも止まらぬ速さで腕を振った。
 穂先は、投げられたその瞬間に巨蜘蛛の胴体を貫通し、突き刺し突き抜けて天井に深々刺さっていた。

「ふがう!」

 シュヴァルツの、呻き、悲鳴。
 巨体が、床に落ちた。魔法や科学による速度緩衝や姿勢制御が出来なかったのか、受け身の取れない真っ逆さまの体勢で。

 床が砕け、爆発し、噴き上がるが、その瞬間にはもう治奈は巨蜘蛛へと拳を打ち込んでいた。その下敷きになっている至垂の身体や、シュヴァルツの顔を蹴り付けていた。

 どおん、
 重たい音が、()()()に響く。
 勢いがあり過ぎて、巨蜘蛛の姿勢が横回転して戻ってしまうが、治奈はすぐ背中に飛び乗ると、潰れ掛けている至垂の身体を殴り、ハイキックでシュヴァルツの顔面を打ち抜き蹴り砕いた。

 どおん、どおん、
 凄まじい破壊力を感じさせる鈍く低い音が響く。
 伝って周囲が震える。

 崩れていた……
 殴りながら、治奈の右手が、左手が。
 ぼろぼろと、崩れていた。
 骨から皮膚が剥がれて、消失していく。
 構わず骨で殴り続けていた。
 拳だけではない。
 肩、頭、胸、腹、足……
 骨だけになった拳が重たい衝撃を放つ都度、ぼろぼろと、治奈の肉体が溶けて崩れていく。

「はる、な!」

 カズミが、叫んだ。
 胴体をほぼ両断された、半死半生の身で横たわっていた彼女であるが、この状況に、この、不自然な状況に、悲鳴に似た叫び声をあげていた。

「カズミちゃん……」

 治奈は、骨のむき出しになった拳をだらり下げて、カズミの方を向いた。
 そして、浮かべるは安堵の微笑。
 鬼神の勢いとは裏腹に、その顔は優しかった。
 カズミの、薄皮一枚繋がっているだけだった胴体がかなり治癒していたからである。
 戦いを見ている間に、自分で自分を治療していたのだろう。

 それよりも……
 と、友の無事に安堵した治奈はシュヴァルツの顔へと視線を戻して睨み付けた。

 すると不意に、
 ぶるぶるっ、立つ足元である巨蜘蛛の背が激しく震え、治奈はたまらず振るい落とされていた。

「貴様などはいつでも倒せる」

 切っ先の折れた長剣で威嚇牽制しながら、巨蜘蛛は全力で走り出したのである。
 明らかな捨て台詞であった。
 焦りと屈辱の滲み出た負け台詞であった。

 だが、治奈には相手に合わせる義理などない。

「ここで逃がすわけにはいかん」

 まるで瞬間移動といった素早さで巨蜘蛛の前へと回り込むと、再び胴体へと拳を叩き付けたのである。

「守るために!」

 どおん!
 蜘蛛の巨体が揺れた。
 治奈の剥き出しになった指の骨が何本か、砕けて散った。

「託すために!」

 どおん!
 さらに手の骨が砕ける。
 全身の皮膚が、肉が、ぼろぼろと崩れ、削げ落ちる。

「やめ、ろ、治奈あ! その力、なんかおかしい!」

 カズミが叫ぶが治奈は聞かず、さらに一撃を巨蜘蛛の胴体へと打ち込んだ。
 治奈の右腕が、なくなっていた。肩から、ぼろりと崩れて地に落ちて砕けていた。

「ほじゃから、託すんじゃ!」

 どおん!

「がふ」

 シュヴァルツの悲鳴。
 代償に、治奈の左拳がなくなっていた。

 託すんじゃ!

 治奈は心の中でも思いを叫ぶ。
 もう、この身体はボロボロだ。でも、降参するしかないと思っていたのに、反撃する力を自分は得た。
 どこから沸いてくる力なのか分からないけれど、守るための力を得た。
 ならば、戦わなければ嘘じゃろが。
 現実世界を消滅させるためにまず仮想世界を滅ぼそうとしている。至垂の肉体を得てそのような力を身に付けたシュヴァルツを、ここで逃しては大変なことになってしまう。ここで、必ず倒さんといけん。
 自分の身体はもう、過ぎたる力にボロボロじゃ。
 ほじゃけど、ほじゃから託すんじゃ。
 アサキちゃん、カズミちゃんへと。
 すべては明日のために。

 どおん!
 治奈の左腕が砕けて吹き飛んでいた。
 殴る拳がもうないから腕を振り回して巨蜘蛛の足を一本砕いたのだが、代償に左腕が肩からなくなった。

「思ったより手強いとは思ったが、しかしお前には手に余る力だったようだな。であれば、やはりここで殺しておくか」

 至垂シュヴァルツの顔が変わっていた。
 シュヴァルツから、白銀の魔法使い至垂徳柳の顔へと。

 殴られ続けて肉は弾け飛んで、全身がひしゃげた巨大な蜘蛛。その背中から生えている、やはりぐしゃぐしゃに潰れた白銀の魔道着を着た上半身が、両腕を高々と上げた。

「リヒクーゲル・イーゼヒ」

 至垂の口が、呪文を唱え始める。
 彼女はアサキと同様に非詠唱の使い手であるはずだが、念には念を入れようということだろうか。
 いや、そうではないようだ。高く上げた両手の間に生じた真っ白な球形は、見た目そのままであるがどんどん濃密なものになっいく。エネルギーが、どんどん練られ凝縮されている。
 超魔法だ。
 膨大な魔力と、制御するための精神力が必要であり、確実を期すために有声詠唱をしていたのであろう。
 すっと両腕を広げると、広げる動きに合わせて光の球は大きくなった。

 両肩から先を失った治奈は、その前に立ち、なすすべなく、でも逃げるわけにもいかず、はあはあと息を切らせている。
 なおボロリボロリ全身を崩しながら。

 巨蜘蛛の上の、至垂の上の至垂の顔が、喜悦の笑みに歪む。

「死ね!」

 と、叫んだ瞬間、笑みに歪んだその顔の、目が驚きに大きく見開かれていた。

「待っとった!」

 紫色の魔法使いの、怒鳴りにもにた叫び声。
 彼女の足元を中心に、巨大な五芒星魔法陣が青白く輝いていた。
 巨蜘蛛の身体も、その中にあった。
 輝きの伝播を受けた治奈は、身に纏う真っ白な炎をさらに真っ白に燃え上がらせて魔法陣を蹴った。
 雄叫びを、張り上げながら、
 肉を、骨を、ぼろぼろと崩壊させながら、
 自らの身体を、巨蜘蛛、至垂、シュヴァルツへと、突っ込ませたのである。

 大爆発。
 大激震。
 彼女たちを捉えている大きな魔法陣から、柱状に輝きの粒子が噴き上がる。
 その真っ白な炎にすべては包まれて、すべては溶けて、消えた。

     6
 浮かんでいる。
 重力のまるでない中を飛んでいる。

 身体、なのか。
 心、なのか。
 自分という存在は。

 たくさんの、高層ビルが見える。
 その上に、浮いている。
 遥か眼下には、ごった返す、人や、自動車。

 懐かしい世界。
 自分の世界。
 でもここはどこ?
 東京?

 方向転換し、ちょっとある場所を意識をしてみると、もう風景が変わっていた。

 自分の暮らしていた町に、戻っていた。

 目の前にあるのは、駅近くにあるお好み焼き屋。
 戸をするり通り抜けて中へと入る。

 そんなにお客さんは入っていないようだけど、でも、まあまあ入ってはいるのかな。
 よかった。

 ヘラを持ち、汗だくで鉄板と具材と睨めっこしている父。
 妹、(ふみ)()もいる。小さな身体でテーブルの間を縫って、お皿を運んだりしている。

 フミ、ちっちゃいくせにしっかり働いておるな。
 いつか焼きを覚えて、お婿さんでもとるのかな。
 ああ、常連客も何人かおる。

 ほっとした。
 みんながいることに。
 世界が変わらずあることに。

 うち、守ったよ。
 みんなを。
 世界を。
 これからも、守り続けるよ。
 いつまでも。
 ほじゃから、安心してね。

 笑いながら、
 いや、笑えているのかは分からないけど、とにかくそおっと手を伸ばした。
 フミ、世界で一番大切な、妹へと。

 重ねた皿を持って厨房へ戻ろうとしている史奈の背中へと、伸びる手があとほんの僅かで触れそう、というところで、

 (あきらぎ)()(はる)()の意識は、光の風にさらさらと粉になって、吹き飛んでいた。
 妹のいる世界を守ったのだという満足の中、魂の粒子は風に溶けて消えた。

     7
 ぜいはあ、息を切らせている。
 激しい疲労感の他に、驚きや悲しみ、怒り、様々な負の色がごっちゃとひしめきあった、やつれた顔で。
 そんなどっと寄せる感情を全然処理出来ず、赤毛の少女、(りよう)(どう)()(さき)は、ただ茫然自失といったふうに立ち尽くしていた。

「アサキさん、そんなに急いで。無茶したらいけないと、いってるでしょう」

 背後から、幼くも落ち着いた声。
 扉を抜けてこの大きな部屋へと入ってきたのは、ふんわりした白衣装を着たブロンド髪の少女ヴァイスだ。

 掛けられた声に気付いているのかいないのか、アサキは正面を向いたまま汗ばんだ拳をぎゅっと強く握り締めた。

 まるで体育館、といった高い天井の広大な部屋だ。
 一方の壁の下には、青い魔道着姿のカズミが倒れている。
 意識はあるようだが、生死に関わるようなかなりの痛手を受けているのが分かる。全身傷だらけどころか、骨という骨が折れていそうな酷い状態だ。

 アサキの正面には、床が大きくえぐられて地面が露出している。
 直径が三十メートル以上はある、巨大な円状だ。魔法陣を使っての、魔法の痕跡であること、ひと目で明らかだった。

 アサキは陥没した淵に立つと、ゆっくり滑るように降りていった。まだ体力がまるで回復しておらず、ふらふらと頼りなく。

 傾斜の途中に、焼け焦げてほぼ炭化した物体があった。
 反対側の斜面にも、そのすぐそばにも。
 僅か残った衣服の切れ端から、おそらくアインス、ツヴァイ、ドライの三人、その死骸であろう。魔法陣の結界機能に封じ込められ 破壊の魔法から逃げ出すことが出来なかったのだ。

 降り続けて、円状にえぐられた中心部へと立った。
 目の前に、異様ともいえる巨大な塊がぐしゃぐしゃに潰れて、やはり炭化した状態で横たわっている。
 確かめるまでもない。
 巨蜘蛛である。
 その背中から生えるのは、炭化した()(だれ)(とく)(ゆう)の上半身である。

 そして、その傍らには……

 アサキは肩を震わせると、ぎゅっと目を閉じて顔をそむけた。
 傍らにあるそれは、アサキが正視に耐えられずそむけてしまったのは、ぐちゃぐちゃに溶けて崩れている物体である。
 この世界において(あきら)()(はる)()を形作っていた、しかし現在はもう原型を微塵も留めていない、溶け潰れてアメーバ状に広がっているただの肉塊であった。

「核が、もう存在していません」

 ヴァイスも降りて、アサキの斜め後ろに立っていた。

 抑揚の乏しい小さな声に、びくりアサキの肩が激しく震えた。

「それは、どういう……」

 尋ねるまでもないことなのに。
 誰かにはっきりと、いってほしかったのかも知れない。
 現実は現実なのだということを。

 でも、

「端的にいうなら、死んだということです。もう決して復活はしないということです」

 それでショックがやわらぐものでは、なかった。
 涙が出た。ぼろぼろと、涙がこぼれ頬を伝い落ちた。

「治奈ちゃん……」

 差し違えたのか……治奈ちゃんは。
 世界を、宇宙を、守るために。
 仮想世界を、フミちゃんたちを、守るために。
 守って、死んでしまったのか。

「治奈ちゃ……」

 震える唇でまた名を呼ぼうとした、その時であった。
 邪気の濃密に孕まれた、白く輝く球体がアサキを背後から襲ったのは。
 だが、その球体は弾かれていた。弾かれた瞬間、遥か上にある天井が爆発した。
 襲い掛かる光球を、アサキが弾き飛ばしたのである。横へステップを踏みながら、振り向きざま右の手刀で。

 振り向いたアサキの前には、巨大な蜘蛛。
 六本足の、全身が真っ黒に焼け焦げた。背中からは、やはり焼け焦げた人間の上半身が生えている。

 至垂シュヴァルツである。
 ぐしゃぐしゃに潰れて、皮膚という皮膚は炭と化していたはずなのに、死んではいなかったのだ。
 治奈と刺し違えたはずなのに、滅んでいなかったのだ。

 ぐふ
 それは至垂なのか、それともシュヴァルツなのか、ぐじゃり潰れて真っ黒焦げになっている顔から、笑い声が漏れた。

 ぶるっ、ぶるるっ、
 巨蜘蛛が身震いすると、皮膚に亀裂が入っていた。
 ぼろり、ぼとり、焦げた皮膚が落ちる。
 割れて、剥がれて、次々と、地へ落ちる。
 新たな皮膚が再生しているのだ。
 巨蜘蛛の部分は、以前と変わらぬ状態にまで戻っていた。

 背から生える人間体の方は、構造が複雑であるためかまだ再生が追い付いていないようで、ぐちゃぐちゃな形状のままだ。
 だが、焼けた皮膚そのものはかなり再生が進んでいる。ところどころ、肌色が見えている。
 皮膚が再生しようとも、形状としてまだあまりにぐちゃぐちゃであるため、それが至垂なのかシュヴァルツなのかは分からなかったが。
 魔道着はさすがに、切れ端すら残らず消し飛んでおり、上半身は完全な裸である。至垂徳柳の、古代彫刻然に筋骨隆々とした、女性の裸体である。

 ぐふ
 至垂か、シュヴァルツか、また笑い声を漏らすと、巨蜘蛛の足が動き出した。

「お前も死ね!」

 突進する。
 アサキへと、巨体が突っ込んでいく。

 腰を軽く落として身構えるアサキであるが、ぐらり足元をふらつかせてしまう。
 嫌な予感に寝ていられず、急ぎここへ駆け付けたものの、疲労はまったく回復していないのだ。
 だが、よろけながらもきっと顔を上げると、猛烈な勢いで飛び込んでくる蜘蛛の巨体を両手で受け止めていた。

 ずしゃっ、
 アサキの靴が地面へ深々めり込んだ。
 受けた衝撃の、あまりの重さのために。

「明木治奈のあとを……己の度量も把握出来なかった無能な女の、あとを追うがいい!」

 ぐいぐいと、巨体が押す。
 重量、勢いを込め、アサキを潰そうと押し込んでいく。

 肉体の疲労も魔力も回復していないアサキは、力比べとしては完全に劣勢であった。
 毅然とした表情で踏ん張りはするものの、魔道着も着ていないとなればその関係はより明らか。
 ずざりずざりと、足元のえぐれがどんどん伸びていくばかりであった。

「う、あ」

 踏ん張るアサキの、顔が苦痛に歪む。
 骨が軋んでバラバラになりそうな痛みに歪む。

 そばに、白い衣装の少女ヴァイスが立っている。
 アサキが危険だというのに、心配そうなそぶりはまったく見られなかった。無表情に近い落ち着いた顔で、ただ様子を見守っている。
 先ほどは、アサキを守るために一人で巨蜘蛛と戦ったというのに。いまの彼女は、ぴくりとも動かなかった。

 何故?
 すべて、分かっていたのかも知れない。
 彼女、ヴァイスは。
 これから起こることを。

「治奈、ちゃんの……ためにも……」

 巨蜘蛛の突進を、両手で食い止め踏ん張っているアサキは、必死な、懸命な、くしゃり潰れた表情で口を開いた。
 ぶるぶると、足が、膝が震える。
 足元の土がえぐれ、アサキの靴がめり込んでいる。

 負けられ……ない!

 口を閉じ、歯をぎりり軋させながら、心の中で叫んだ。
 全身が、痙攣したかのように震えた。 

 どくん!

 なにかが、入り込んでいた。
 入り込んで、脈動していた。
 なにか、
 これは、なんといえばいいのか、
 エネルギー、としかいいようのない、なにかが。
 自分の、アサキの、中に。

     8
 弾けていた。
 入り込んで、脈動した瞬間、弾け、巡っていた。
 体内を、一瞬で、精神の、隅々まで。

 アサキの全身が青白く輝いた。いや、輝き突き抜けて真っ白な光を放っていた。
 真っ白な輝きが、爆炎と化して自らを包み込むと、輝きの揺らめきの中、赤い髪の毛がすべて逆立っていた。
 逆立ち、輝きに合わせ揺らめいていた。

「な」

 至垂? シュヴァルツ?
 どちらの声であろうと、関係なかった。
 驚きの声が発せられた時にはもう、巨蜘蛛の身体は逆さまになって漆黒の空の下を飛んでいた。
 アサキが無言のもと、巨体を高く投げ飛ばしたのである。

 巨体が逆さまのまま落ちて、地が爆発する。土砂が噴き上がり、激しく揺れた。
 落ちた物体の質量を考えれば揺れも大噴火も当然であるが、しかし巨蜘蛛はそれほどのダメージは受けた様子もなく、すぐに胴体に勢いを付けて回転し体勢を元に戻した。

 既に、背中の上にいる魔法使いの、唇が動いている。

「トゥートデッヒ・スイヒアレイヒ」

 呪文の有声詠唱だ。
 顔だけ見ると、潰れているためどちらなのか分からない。だが、詠唱するからには、現在の顔は至垂ということなのだろう。
 白銀の魔法使いの呪文詠唱により、巨蜘蛛の足元に青白く輝く五芒星魔法陣が生じていた。
 魔法陣は一瞬にして大きく広がって、アサキの足もその中にあった。

 すぐさま飛びのこうと、足に力を入れるアサキであるが、ただ顔に違和感が浮かぶのみ。下半身が呪縛されて、まったく動くことが出来なかったのだ。

「死ね!」

 何度目であろうか。
 巨蜘蛛の、アサキへのこの言葉は、巨体の突進は。

 白銀の魔道着を着た肉体、その右手には長剣が握られている。
 駆る巨体を、赤毛の少女へと突っ込ませながら、魔力に輝く左手を剣身の根から先へと滑らせていくと、魔力の伝播に剣身が輝きを放つ。
 エンチャント魔法の施されたその長剣で、宿敵である赤毛の少女を一撃のもとに葬りさろうというつもりだろう。

 だが……

 赤毛の少女、アサキの頭上から回りながら剣が落ちてくる。
 見もせず腕を高く上げて掴むと、両手に握ってひと振りする。ただそれだけの仕草に、いったいどんな魔法や技が発揮されたのか、アサキの足元を呪縛していた魔法陣が、一瞬にして無数に砕けて散っていた。まるで、薄いガラス細工でもあったかのように。

「けえええええい!」

 呪縛の魔法陣が破られたこと、至垂も理解したのであろう。なればこそ、この一撃で仕留めようと雄叫び張り上げながらエンチャントに輝く長剣を振り上げた。
 そして、赤毛の少女の脳天を叩き潰すべく振り下ろされたが、だがその切っ先は、空を切っただけだった。
 突然、突進の勢いがぴたり静止して、そのため剣撃の目測が狂ったのである。

 狂わせたのはアサキであった。
 床には広く、五芒星魔法陣が輝いている。中心に立つのはアサキだ。至垂の技を打ち破った瞬間、今度は自らが呪縛魔法陣を発現させて、巨蜘蛛の動きを封じたのである。
 
「さっき、治奈ちゃんを悪くいったこと、謝って」

 爆炎に身を包みながら、赤毛を逆立たせながら、アサキが口に出した言葉は、友の尊厳を守るための言葉であった。

 通じなかったが。

「誰が謝るかあ! 無能だから無能だといったん……」

 至垂が叫びながら、上半身の呪縛を力任せに断ち切った。
 そして、長剣の柄を両手に持って、赤毛の少女へと振り下ろした。

 至垂の握る長剣が、身の真ん中から折れていた。
 アサキが自分の剣を下から振り上げて、叩き砕いたのである。
 
「うわあああああああああああああ!」

 アサキの、地をも揺るがす絶叫が響くのと、巨蜘蛛の胴体が斜めに切り裂かれ真っ二つになるのは同時であった。

 血を噴きながら巨体が崩れると、その背から生えている至垂の身体へと返すアサキのひと振りが打ち下ろされた。

「そ、バカなあ……お前などに、我が……野望があ……」

 ずるり、至垂の上半身が斜めにずれて、頭のある方の半々身が蜘蛛の背へと落ちた。跳ねて、さらに地へと転げ落ちた。
 両断され、崩れている巨蜘蛛。
 そこから生える至垂の上半身も、両断されている。
 それらがすべてまとめて砂と化して消えた。

 残るは、静寂ばかりであった。

 どれくらい、時間が過ぎただろうか。
 既にアサキを包んでいた白い炎の揺らめきは消えて、彼女はただうなだれて立ち尽くしていた。
 ばさりと垂れた赤い前髪から覗くその瞳は、どこにも焦点が合っていない。完全に生気を失った、アサキの表情であった。

 アサキのすぐ背後には、白い衣装を着た幼な顔の少女ヴァイスがいる。
 もちろん喜んでなどいないが、さりとて悲しんでもいない。内面のことは分からないが、そうとしか見えない普段通りの涼やかな表情だ。

「アサキ!」

 青い魔道着、カズミの声だ。
 アサキのいる傾斜の底へと、後ろ重心でゆっくりと降りてくる。
 ほとんど胴体分断に近い大怪我を負い、魔法で自らを治療していた彼女であるが、ようやく最低限の処置が済んで、いてもたってもいられなくなったものだろう。

「アサキ……」

 ゆっくりと降りながら、もう一度、声を掛けた。

 アサキは、声の方を見上げると寂しげな微笑を浮かべた。

「カズミちゃんだけでも、無事で、よかった」

 無事、というわけでもなさそうだけど、生きてはいる。お腹がぐちゃぐちゃで、あと少し強いダメージを受けていたらどうなっていたかは分からないけど。
 応急処置なのかまだまだ酷い痛々しい状態だけれども、生きてはいる。そこにしか安堵を見いだせないことは、悲しいことかも知れないけれど。

「すぐに、わたしが治癒魔法を掛けるから。……でも、ごめん、ごめんね、ちょっとだけ待ってて」

 アサキは申し訳なさそうにそういうと、足元にどさりごろり転がっているものを見下ろした。先ほどまで明木治奈であったはずの、消し炭のような黒い塊を。

「なんの、ために……」

 ぼそりと口を開いたが、だけどすぐに、うっと込み上げてしまう。まぶたの涙を袖で拭うと口を閉じて、胸の中で言葉を続けた。

 なんのために生きて、なんのために死んだのか。
 いや、分かる。
 分かるよ。
 治奈ちゃんは、大切なものを守るために戦い。
 きっと、わたしに託して笑って消えた。
 後悔なんかなく、きっと、笑って。
 分かる、けど。

「……悲しいな。……それでも、悲しいな」

 再び口を閉ざし沈黙を続けていた赤毛の少女であるが、やがて、あぐっとしゃくり上げると、もう止まらなかった。
 涙が。
 嘆きの言葉が。
 自分を責める言葉が。
 慟哭が。
 幼子のように左右の拳をぎゅっと握り締めたまま上を向いて、アサキはいつまでも泣き続けた。 
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