燈無蕎麦
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第一章
燈無蕎麦
江戸の本所には七つの不思議な話があるという、その話の一つに橙無蕎麦というものがある。これはどういったものかというと。
「真冬の夜遅くにか」
「そうだ、屋台が出ていてな」
本所にとだ、火消しの丹次が力士の大雷に述べた。丹次は小柄であり猿の様な顔をしており大雷は力士らしく巨体で牛の様な顔をしている。二人は今は日本橋の近くの蕎麦屋で共にざるそばを食いながら話している。
「大きな行燈に書いてあるってな」
「何て書いてあるんだ」
「二八手打ちそば切うどんってな」
「書いてあるのか」
「ああ、それで屋台が出ていてな」
それでとだ、丹次は蕎麦をすすりつつ話した、蕎麦はすすっても噛んではいない。喉越しを味わう江戸っ子の食い方である。
「それでな」
「誰もいないか」
「そうだ、それで待っていてもな」
「誰も来ないんだな」
「わかるか」
「この話の流れならそうだろ」
まさにとだ、大雷は丹次に返した。彼も蕎麦を食べているが力士だけあっていい食べっぷりでどんどんおかわりをしている。
「やっぱりな」
「察しがいいな、そうだよ」
その通りだとだ、丹次は答えた。
「誰も出ないんだよ」
「怪談だといつもそうだな」
「落語でも講談でもな」
「本当にな」
「ああ、それでもう誰も来ない店はやってないってな」
丹次は蕎麦の喉越しを味わいつつさらに話した。
「帰ったらいいけれどな」
「それでもか」
「火があったら危ないと思ってな」
「ああ、冬は風が強いしな」
尚更とだ、大雷はすぐに応えた。
「それじゃあな」
「もうちょっとした火の不始末でだろ」
「お前さん達の出番になるな」
「そうさ、迷惑なことにな」
その通りだとだ、丹次は答えた。江戸は兎角火事の多い街でこれまで何度も大火事が起こって大勢の者が死んでいるのだ。
それでだ、丹次は火事についてはこう言った。
「あんなのはな」
「ない方がいいな」
「そうだよ、皆そう思ってな」
それでというのだ。
「火を消すとな」
「それがよくないんだな」
「消した奴の周りで悪いことが起こるってな」
「祟りってやつだな」
「それが起こるらしいな」
「成程な、しかしな」
大雷はここまで聞いてまた述べた。
「面白いな」
「その屋台がか」
「その寒い中で俺達はざるそば食ってるな」
「江戸じゃざるそばは何時でも食うさ」
そうした土地柄だというのだ。
「だからだろ」
「それはそうだな」
「それは昼だからまだ出来るさ、しかし夜はな」
「ああ、やっぱり熱いのではないとな」
「駄目だろ、だったら一度本所に行ってな」
今は真冬だ、それで丁度いいとも言った。
「その真夜中にな」
「そうしてか」
「ああ、そのうえでな」
「その屋台を見付けたらか」
「試しに入ってな」
そうしてというのだ。
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