緋弾のアリア ──落花流水の二重奏《ビキニウム》──
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
秘めた想いと現実と
神崎・H・アリアは、つい今しがた目前を去った如月彩斗のことを思い返しながら、小さく溜息を吐く。そうして胸臆で「ごめんね」と謝りながら、向かいに座る少女──文を見据えた。
彼女が零した返事が迂闊のものだったことを、アリアは内心で確信している。彩斗が自分のことをどう思っているのか、という話に微塵の興味が無いわけではない。むしろ前々から気になっていた。不意に現れたその答えを前にして、彼女は虚構の平然を装うだけで精一杯だった。
彩斗が自分のことをどう思っているのか──その内容を推し量るには、推し量りきれない。彼がいつも自分に告げる言葉と彼の真意とが、別であったならば……。そうでなくても、釐毫の否定を耳にしただけで、アリアは自分の精神が衰弱してしまいそうな、そんな予感を抱いていた。
それ以前に、その答えの是非を聞いた自分自身の態度を、彩斗には見せたくない──そんな考えから、彼に対して見え透いた演戯をはたらいてしまったことを、何より悔いていた。
けれども、今はもうここに彼は居ない。その事実をもう1度だけ反芻してから、膝の上に置いている紙袋を、抱き抱えるともなく抱き抱えた。そうして目前に座っている少女に問いかける。
「……それで、どういうことなの」好奇と鬼胎とが綯い交ぜになったアリアの声は、平生の気位に満ち満ちたそれとは遥かに掛け離れていて、対峙した鬼胎を前にして震えていた。
文はそんなアリアの態度を見て、作業の手すらも止めてしまっている。それが黙考しているだろうことは、誰の目にも明々白々だった。アリアはそうした文の態度を黙視しながら、彼女がいつ口を開くのか、そうして何を吐露するのか、ということだけを脳裏に巡らせるきりだった。
「……質問に質問で返すのも悪いと思うけど、これだけは訊かせてほしいのだ。神崎さんは、如月くんのこと、どういう風に思ってるのだ? まずはそこからお話を始めたいのだ」
文はいつになく毅然とした表現で、アリアに告げた。平生とは変わらない口調の裡面には、無邪気で穏和な文の性格とは少し離れたものがある。そんな調子を感受したアリアの胸臆に、ちょっとした躊躇と焦燥とが沸き起こってきて、今の今まで平然としていた脈搏が段々と早鐘を打ち始めたことまで人知れず感受してしまったのは、彼女にとっては是非のない次第だろう。
「そっ、それは……」そう言い淀みながら、アリアは自分の頬が紅潮しているのを自覚した。
如月彩斗は自分のパートナーであれば、同棲するいわば身内でも、気心が知れた親友でもある。だからこそ彼に向ける感情も、それ相応であることには相違なかった。ただ、その感情もまだ成熟しきっていない、不明瞭で泡沫のように曖昧模糊な、そんな概念として存在していた。
「彩斗、は……印象だけ言うなら、いつも穏やかで落ち着いてる。たとえ何かが起きても、アタシみたいに感覚じゃなくて、自分の論理を軸にして動いてる気がするの。それに、ずっと一緒に居て分かったけど、彩斗の交友関係ってそんなに広くなかった。その中での付き合いとかを見てると、数年来の親友の遠山キンジと、パートナーのアタシに対する接し方は、他の子との態度とは違って見えるの。特に優しいみたい。勝手にそう思ってる。……本当に優しいんだもん」
最後に零した言葉が自分の衷心であることは、彼女自身がいちばん分かりきっている。
「普段から優しいっていうのは、その通りなんだけど──彩斗の優しさって多分、そういう普段からのじゃなくて、また別のところで本当の優しさが分かる気がする。……アタシが彩斗の前で泣いちゃった時も、絶対に指で涙を拭ってくれるの。泣いてる理由も彩斗は分かってるし、慰めてくれる。アタシの性格とか考えとかが分かってるから、絶対にそれを否定しないでくれるの」
降り始めの雨みたく、アリアの口調は細々と、或いは淡々としていた。けれども奥には、少なからず秘めている感情がある。想起した彼の優しさというものを、そっと傍らに添えながら──。
背中を撫でてくれた手や、或いは目元の紅涙を拭ってくれた指の感触を、アリアはまだ覚えている。そうして彩斗の零した自分に対する深慮、換言すれば優しさに彼女は惹かれていた。
「……彩斗みたいな人のことを、お人好しって言うんだと思う。普段から優しい上に、パートナーのアタシのことを第一に考えてるような、そんな感じの人。アタシが頼りにできる人が居れば、それが自分じゃなくても構わないって平気で言える人。全部、アタシのことばっかり。……だから、不思議だなぁって思うのよね。どうしてこんなに優しくしてくれるのか、って」
「でもね」とアリアは照れ隠しの微笑を浮かべながら告げる。
「寝る前に考えると寝付けなくなっちゃうし、授業中に考えると上の空になっちゃうし、なんだか答えが出ないままアタシだけ1人で悩んでるのも馬鹿みたいで、なんかなぁ……って。けど、普段から一緒に隣でいると、どうしても、その……優しくされたら、意識って、しちゃうから」
彼女はそこまで零してから、今の自分の体温が、ちょうど入浴を済ませた後の上気した時と同じくらいであることを察知した。頬の紅潮がこれほどであることを、改めて自覚させられていた。
そうして細めた目から赤紫色の瞳を覗かせながら、視線を何処に落とせばいいのか彷徨する。ある種の想いの吐露から出た羞恥に当てられて、伝えた当の本人を見つめることは出来なかった。
逃げるような心持ちで脚元に視線を落としてから、そのままアリアは両腕に抱えている紙袋に顔を埋める。紙袋に独特の乾いた音色がこの部屋の一帯に響き渡って、古紙のような匂いが彼女の鼻腔の奥の奥にまで漂流してきた。この羞恥と脈搏を静められるなら、何でも構わなかった。ただ、いつにも増して死に急ぐような脈搏の吐息だけを、一心に聞き入っているのみだった。
何畳かも分からないこの部屋の一帯に聞こえるのは、少女2人の脈搏と吐息とで、他にはただ、通風口を吹き抜ける外気の音とか、換気扇の回る音とか、たったそれぎりだった。
けれどその音の中に、アリアはまた違ったものを耳にしたらしく、おもむろに伏せていた顔を上げた。つい先刻までの感情も忘れて、怪訝そうな面持ちをしながら文に問いかける。
「なんで、笑ってるのよ」
アリアの目から見た文は、歳頃の少女らしくたいそう楽しそうに笑っていた。口角の上がったそれを手で隠しながら、なんとか声を出さないように噛み殺しているらしい。けれども堪えきれなかった一部が彼女の咽喉のあたりを鳴らしていて、アリアが聞いたのはそれのようだった。
「あははっ、神崎さんもやっぱり女の子なんだなぁ──って思っただけですのだ」文は奔放に笑いながら、赤紫色の瞳を見つめ返す。「『恋愛なんて』って言いながら恋バナは反則なのだ!」
咽喉が鳴るほどに息を詰まらせたアリアは、明らかに唖然としていた。そうして何かを口の中で言い淀みながら、吐きたくても吐き出せない、ぶつけられた正論に対する返事を留めていた。組んだ両手を揉むことが羞恥の示唆だという事実を、自覚する以上に自覚しながら……。
またしても戻り起こった森閑の音色を耳で聴きながら、彼女は羞恥に黙然させられていた。
その最中に、 「如月くんは」と文はやにわに話を切り出す。作業の手はとっくの前に止めていて、お互いに訊きたいことを真剣きって聞くだけの恋愛談義──要するに恋バナに、歳相応ながらに夢中になっていた。「神崎さんのことを護りたい──って、そういう風に言ってたのだ」
「『両親の居ないアリアにとって、他に頼れる人なんて限られているだろうから』、『気位に満ち満ちた彼女の性格からしても、あの子は1人で抱え込んでしまうタイプじゃないのかな』──って。『そうなった時に介抱してやれるのは、彼女のことを少なからず分かっている人じゃないと駄目でしょう』って言ってたのだ。ちょっと恥ずかしそうにしてたから……本音だと思う」
そうした彼の零した本音は、アリアにとって多分に納得のいくものだった。なにより数日前、あの時あの部屋で自分が紅涙を絞った時の、彼の口から洩れた安慰の権化に酷似していた。
『──抱え込んでしまうのが、君自身にとって最悪なんだからね。その相手がいない君じゃないでしょう。気位の高い君のことだから、弱気は見せたくないって言うでしょうけれども……。隣に身を置ける相手がいることも必要だよ。別にそれが如月彩斗でなくても構わないし、他にそういう人がいるのなら、その人は大事にしてね』その言葉が、幻聴みたく張り付いてくる。
「それに、如月くんはこうも言ってた。『彼女を支えてやれるのは自分しか居ない』、『パートナーになってやれるのも自分しか居ない』って。だから『彼女の悲運めいた境遇に同情している』、『その悲運から逃がしてやろうという気ではいるよ』って言ったことは、如月くんの本心で、神崎さんに対する想いじゃないのかなって。その後に、『そうでなければ、あの子が何のために自分をパートナーにしたのか、分からなくなっちゃうでしょうからね』って言ってたから、如月くんの神崎さんに対する想いっていうのは、生半可なものじゃなくて、本気なのかな……」
文はそう言ったきり、言い淀むようにしてから口を噤んだ。如月彩斗について何かを続けようとしたものの、すんでのところで押し留めたような、そんな感覚をアリアは刹那に感受する。
彼女が噤んだそれこそが彩斗の真意であるのだと、そう考慮を行き着かせるまでに時間は要しなかった。むしろ文がそれを秘したということは、彼に対する体裁とか、そういうものを少なからず保守しようとしたことの示唆なのではないか。自分に向けられた想いに、名があるならば。
アリアはその想いとやらに、思い当たるだけの仮初の名前を与えてみた。けれど、たった2つ3つぎりの言葉でしか、その仮初は形を持たなかった。その仮初もしょせん仮初に過ぎなくて、仮初という字面のごとく曖昧模糊な存在であることを、彼女は悟る。隣に居続けても、結局は他人──そんな彼の胸臆を見澄ますことなぞは容易ならないことを、頭の隅で理解し始めていた。近すぎて見えないものならば、いっそ離れてしまおうか──それだけは、絶対に、したくない。
アリアにとって、異性を意識するとか異性に惹かれるとかいうことは、今までの経験の中から見ても、そんなに多くはない。そういった点、文に零した独白というのは例外的だった。
何故だか如月彩斗という人間は、既にパートナーという名の掛かり合いが出来てしまったからか、愛おしく思えてしまって、どうにも嫌うことは適わない。やはり、優しさに惹かれていた。
これほどなまでに意識し、惹かれた異性に対する感情──自分が如月彩斗に向けている『意識』の裡面に秘された、その想いとやらに、思い当たるだけの仮初の名前を与えてみた。それは、たった1つきりの言葉でしか、その仮初は形を持たなかった。こともあろうに、その想いは受動的なものではなくて、自分から意識した能動的なものに相違なかった。だからこそ、誤魔化しが効かない。彼に向けている想い──感情に付ける名前というものを、頭の隅で理解し始めていた。
たった2文字。言葉にすれば5文字。けれども羞恥が咽喉を締め付けている。幸か不幸か、胸の内でそれを勘繰るだけの余裕は、まだ蕩け始めた脳髄にも残されていた。お互いに出逢って1ヶ月と少しだ。対峙した名前をこれだと独り決めするのには、あまりにも時期尚早だろう。
それでも、彼に対する接し方というのに、アリアは改めて疑惧の念を抱かずにはいられなかった。どんな風に彼の隣に居て、話をして、パートナーの片翼を担えばいいのだろうか──。
綯い交ぜになった胸臆の感情が、黒煙のようにして眼前を覆っていく様を幻視した。
──『 』は盲目。
たとえ盲目になろうとも、彼の深慮に抱かれてしまえば、それはそれで、良いのだろうか。
ページ上へ戻る