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緋弾のアリア ──落花流水の二重奏《ビキニウム》──

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幽香、前梅雨に香る

白雪は触れるベッドシーツの感触を心の何処かで楽しみながら、見舞いに来た幼馴染の顔を見上げて(たお)やかに笑んだ。その幼馴染──キンジも微笑して傍らの椅子に腰掛ける。
時計の短針は7を指していた。換気のためか開かれた窓硝子からは、前梅雨の暖かな朝方の空気が流れ込んできている。東京湾の潮風も、仄かに香っていた。


「調子はどんな感じだ」
「あの後、すぐに救護科の人たちが解毒剤とか打ってくれて……。とっても行動が早かった。もう大丈夫です。致死性のものじゃなくて、一時的に五感に異常をきたすものだって」


そこまで言い終えると、白雪は言葉を次いだ。


「ねぇ。なんでキンちゃんは今、平気なの?」
「……分からない」


白雪の告げた言葉の中に含まれた意図を察しながら、キンジは仕方なく頭を振る。嘘ではなかった。本当に分からないのだ。
確かに毒を受け、一時は敗北やら死やらをも覚悟した。ただ今は、救護科や衛生科の有望者はおろか、医者でさえ首を捻る様を目の当たりにして、キンジは自分の身に起きた異変が、どれほど異変足り得るのかを改めて自覚したわけでもある。

とはいえやはり、あの時の感覚──単なる拍動とはまた別の、あの妙な脈打った感覚に、何かしらの違和感を覚えてはいた。体感的にはあのあたりからHSSが発動された、と類推している。βエンドルフィンのおかげで鎮痛作用が成されたのかもしれない。だが、その巡り巡ったはずの毒が殆ど無毒化されていたその理屈については、誰も分からなかった。

しかしキンジにとって疑問なのは、その引き金を介していないにも関わらずHSSが発動された、その事実だった。身体能力はいつもより増加していた。それは分かる。反面、思考力が僅かに低下しているようにも思えていた。何故……?

HSSに派生系があるというようなことを、キンジは生前の兄から聞いていた。もしかしたら、それなのかもしれない。兄亡き今、果たして誰に聞くことが出来ようか。実家の祖父に聞くしかないのだろうか。巡り巡る考えを纏めながら、溜息を吐く。


「まぁ、白雪さえ無事なら俺はいい」


その言葉の裏で、一概に無事とも言えないな──とキンジは目を伏せた。何しろ、自分は白雪を護るために赴いたのだから。
『せいぜい毒に侵されるがよい。死にはしないが、苦痛の対価として自分の無力さを知ることができる』
そう告げたジャンヌの声が、脳裏に張り付いていた。

自分は無力、なのか……? 相手が《魔剣》だから、武偵は超偵に勝てないから、無力ではない。そんな理屈を罷り通すようなことはしたくない。免罪符に縋って生きる人間なんて、結局はこの世俗の最下層、寄生虫のような人間ではないのか。俺は寄生虫にはなりたくない。自分が弱かったから、護れなかった……。


「キンちゃん、どうしたの? ……そんなに怖い顔しないで」


わざわざ上体を起こしてまでして、白雪はキンジの顔を窺った。瞳に映るその事実がとても情けなくて、浅ましい。
とはいえこのまま、白雪を護れなかったという事実からも目を逸らして生きたくはない、ともキンジは思った。だから──と決意し、ベッドの上で足を崩している幼馴染の瞳を見据える。


「お前に、謝らなきゃいけないことがある」
「……謝らなきゃいけないこと?」


白雪はさも不思議そうに小首を傾げた。婉美な黒艶の髪の毛が、虚空を掻き分けて撫でてゆく。描いた稜線が彼女の胸中を暗に告げていた。示唆されたそれに、キンジは見向きもしない。
ただ、自分の思いの内をどうにか伝えようとすることだけに躍起になっていて、その他はどうでもよかったのかもしれない。


「勝手な俺の独断でついて行った上に、あの時、《魔剣》からお前を助けてやることすら出来なかった。本当に申し訳ないと思ってる。……俺が弱かったから、白雪を護れなかったんだ」


途切れ途切れだけれど、思いの文句と一語一句違わずに、確実に、伝える。そうして、白雪の反応がどうであろうと、伝えることは出来た──この充足感を抱いた途端、締め付けられていた胸の苦しみが、少しだけ和らいだような気がした。
白雪はそれを聞くなり、キンジにも分かるか否かのところで、そっと目を伏せる。前髪に隠れた瞳がどんな感情を含んでいたのか、果たしてキンジに分かったろうか。そうして、いつもの風体とは異なった──凛とした目付きになると、諭すように告ぐ。


「キンちゃん、そんなこと言っちゃダメ」
「……?」


おっとりした声は普段と変わらない。ただその中には、キンジの何かしらを案じるような、或いは何かしらを正すような意図──慈愛にも似たような色が、混じっていた。


「完璧な人間なんてこの世に存在しないはずだよ。ちょっとした取っ掛りで人の心を傷付けちゃうことは誰にだってあるよ。それと同じ。何であっても絶対に失敗しない人なんて、いません。
キンちゃんはキンちゃんでいいんだよ。遠山キンジでいいの。別に完璧じゃなくたっていいし、最強じゃなくたっていいの。別に背伸びする必要なんてないんだよ。失敗を悔やんでるだけじゃ、きっと、どうにもならないから……。……完璧な人よりも、最強の人よりも、本当に価値のある人はね、失敗してもそれを糧に立ち直れる人だと私は思うんです。それが出来ないキンちゃんじゃないもん。失敗の1つや2つ、気にしないでいいんだよ」


一語一句を噛み締めながら、キンジの瞳をじっと見据えて、白雪は思いの丈を全て吐き出した。気恥しそうな笑みを零しながら、
「私なんかがこんなこと言っちゃって、ごめんなさい」
と慇懃に頭を下げた。前髪に隠れる寸前の白雪の目は、心做しか笑っているように、キンジには思えた。


「そう、か……」


今まで胸の内に燻っていた靄は、同じものだったのかもしれない──そうキンジは思い至った。《魔剣》と相対していた時に見付けたあの怨嗟という感情が、靄の原因だったのだろう。
白雪を傷付けたことに関する、怒り怨み。果たしてそれが彼女だけに向けられたものであるのかと自問すると、自分にも向けられたものに相違ないと自答した。

そうして、白雪の言葉を反芻した。それが不思議なくらいに自分の荒んだ胸の内に浸透していって、見る間に治癒していく。
これは愛情とはまた違った、慈愛めいたもの。自分にも存在価値があるんだということを、真っ向から肯定してくれたもの。
この言葉は、星伽白雪しか言い得ない。まさに唯一無二だ。そう自覚した途端に、何故だか笑みが込み上げてくる。


「何だか説法で救われた気分だ」
「説法だなんて、そんな……畏れ多い……。うふふ……」


照れ隠しに手を振って否定する素振りを見せながら、白雪もつられて笑みを零した。自分のちっぽけな言葉でさえ人を救えるのなら本望だ──ましてやそれが恋慕している幼馴染なら──と思いながら、2人で顔を見合わせていた。


「本当は、かなり気に病んでた。でもお前がこう言ってくれて少し安心した。ありがとな。もうこの事は気にしない。事件も一段落着いたことだし、反省するところは反省して前を向く。それでいいんだろ? 俺にとっても、白雪にとっても」
「うん……、うんっ。そうだねっ!」


ご機嫌そうに何度も頷く白雪を見ながら、これで良かったんだな──とキンジは安堵した。憂慮があるとすれば親友の安否だが、彩斗なら大丈夫だろう、と即座に結論を下す。キンジが小耳に挟んだ限り、どうやらアリアがずっと付きっきりのようで、改めてあの2人の関係の深さを思い知らされた。

……ふと、葛西臨海公園で花火をした日のことを思い出した。
『……あと。あと、1つだけ。お願いしても、いいですか?』
この時の幼馴染の声は、震えていたように記憶している。
『……これからも──私だけを、見ていてください』
あの時は、これが意味するものは1つだけだと思っていた。いま思えばそれは、迫り来る《魔剣》の恐怖に耐えかねた、星伽白雪という小鳥が零した本音でもあったのかもしれない。

《魔剣》無き今は、果たして自分に何が出来るだろうか。それでも、白雪のあの言葉に応えてやることくらいは出来るはずだ。
気恥しさを堪えながら、目の前に座る彼女を見遣る。


「だから、これからは──お前のことだけ見ててやる」


前梅雨とも潮風とも違う幽香が、頬を擽っていった。 
 

 
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