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五人といない

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第一章

                五人といない
 リヒャルト=ワーグナーの知人の一人はミュンヘンに入った彼に対してその鋭い目と顎の下全体を覆う短い髭と広い額が目立つ顔を見つつ話した。
「君の役、特にテノールだが」
「独特だというのだね」
「もっと言えば困難だ」
 こうワーグナーに言うのだった。
「それも極めて」
「自覚はしているよ」
 自分自身でもとだ、ワーグナーは知人に答えた。
「何しろ私が作曲して脚本も書いている」
「全て自分が創作したものだから」
「わかっている、リエンツィからだ」
 彼が最初に名声を得たこの作品からだというのだ。
「私は自覚している」
「役特にテノールが困難であると」
「そう、私のテノールは違う」 
 ワーグナーは確かな声で言い切った。
「ヘルデン=テノールは」
「英雄か」
「私のテノールはそうだ、これまでにない役だろう」
「不思議だ、テノールと言うが声域はバリトンに近い」
 そこまで低いというのだ、テノールと一口に言っても声域は広く低音であるバリトンに近い場合もあるのだ。
「低いドラマティッシャーよりもだ」
「そうだな」
「近いのはイドメメオのタイトルロールか」
 知人は腕を組みモーツァルトのこの役の名前を出した。
「そうだろうか」
「そうかも知れない、しかし」
「君のテノールはだな」
「よりだ」 
 さらにというのだ。
「重い筈だ」
「そうだな、しかも歌は輝かしい」
「その様にしてある」
「尚且つ出番は常だ」
 つまり歌う時間も長いというのだ。
「おまけに君の作品の上演時間は長い」
「全てわかったうえでだ」
「テノールも創り上げているか」
「そう、そして私の作品はテノールに軸を置いている」
 今困難だと話しているこの役にというのだ。
「先程挙げたリエンツィもだが」
「その前の妖精や恋愛禁制も主役だな」
「あの二作は習作と思って欲しい」
 ワーグナーは知人に今名前が出た二作品はそれだと返した。
「私はあまり上演したくない」
「その二作はかい」
「実はリエンツィもだ」
「つまりさまよえるオランダ人以降がか」
「私の作品のはじまりだ、オランダ人ではテノールに軸を置いていないが」 
 それでもというのだ。
「タンホイザー以降はな」
「まさに君の作品はテノールが軸か」
「そうだ、ローエングリンもそうであり」
 タンホイザーの次の作品であるこの作品もというのだ。
「そしてようやく上演出来るな」
「トリスタンとイゾルデでもか」
「あの作品でもトリスタンが軸だ、今作曲と脚本を進めているニュルンベルグのマイスタージンガーもだ」
 そしてここではワーグナーは言わなかったがニーベルングの指輪でもというのだ、バイエルン王の庇護を受けてようやく完成させられると目途がついたこの作品も。
「私の作品は全てだよ」
「テノールがだね」
「軸だ」
「それはわかった、だがまた言うが」
 知人はワーグナーの言葉を聞いてからあらためて彼に話した。
「やはりな」
「私のテノールは困難な役だな」
「歌える歌手がどれだけいる」
 一体、というのだ。
「テノールの中でもな」
「そうはいない」
 ワーグナー自身が言い切った、他ならぬ彼が。 
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