呉志英雄伝
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第十話~代償~
射干玉(ぬばたま)の闇が明るく照らされる。
それは、これからゆっくりと顔を出そうとしている朝陽のせいでも、ましてや寒々と地を照らす月光のせいでもなかった。
四勢力が包囲し、そして睨みをきかせていた荊州における黄巾党の本拠・宛城は、まだ暗い大地を照らす焚火のようになっていた。
「先遣隊は城内の敵を東西へと追い出せ!我ら本隊は敵総帥を討ち果たす!」
既に三門が開放され、東西の門には黄色い布を身に付けた将兵が、文字通りに降りかかる火の粉から逃れるべく殺到していた。
対照的に南門には桃蓮の号令を受け、意気軒昂たる孫呉の精兵が雪崩のように押し寄せる。城内はまさに混乱の極みへと達していた。
「っ!東西に兵舎を置くあの家屋は…伝令!『敵本拠を発見した』と本隊に伝えよ!」
前をひた走る孫策、凌操の部隊は眼前に敵総帥の住まいを見出すとすぐさま伝令を走らせ、行動を開始した。
ただでさえ速かった進軍の速度をまた一段階引き上げ、またたく間に迫っていく。この時点で戦の趨勢は決していた。否、勝敗など火計が成功した時点で決着していた。
劫火に巻かれた城内、逃げまどう雑兵共を無視し、進軍を続けていた部隊はついに本拠への侵入を果たした。
そして東より陽がすっかり顔を出した頃には、宛城内には勝鬨が響き渡っていた。
敵総帥・趙弘は雪蓮の手によって打ち取られた。
荊州黄巾党には他にも孫夏、韓忠と主だった将がいたのだが、孫夏は朱儁の手勢により、韓忠は袁術の手勢により、それぞれが討ち果たされたのだ。
当初の目論見通り、差はあれども手柄を見事に分け合った形である。
20万いた雑兵も、大半は城内で焼死、仮に外へと逃げ出すことに成功しても待ち受ける討伐軍に例外なく抹殺された。
「撤退ですか?」
しかし孫呉の陣内に流れる空気は決して大勝した直後のそれではなかった。
君主たる桃蓮が撤退を宣言したのだ。
確かに戦が終わった今、この地にとどまることに利点と言うものはまったくと言っていいほどなく、むしろ不利益を被る可能性の方が高い。
まず一つは地勢。
陣を構えた博望は谷と言うべき土地。見通しが利かないのだ。
第二にこの地の支配権。
南陽に関しては、既に正規の太守が殺されているためにまた新しく王朝から新任が派遣されるだろう。そのことにはまるで問題がない。
しかし、この地に至るまでの土地に関しては大いに問題がある。
荊州南部と荊州最北端である南陽を結ぶ線の中途には、襄陽、江陵が立地する。つまりは怨敵・劉表の支配都市の中を行軍せねばならないのだ。
こちらが向こうを敵視しているのと同様に、向こうもこちらを目の敵にしている。その道は間違っても交わることがない。
そんなこんなで桃蓮は一刻も早く本国へと戻ろうと考えたのだ。
「お待ちください」
しかしそんな彼女の言葉に異論を唱える者がいた。
江でもなく、冥琳でもなく、ましてや祭ですらない。
「何だ、黄祖」
桃蓮の視線の先には武人の姿があった。
そして彼は堂々と自分の考えを桃蓮へと告げた。
「戦を終えたのは今朝のこと。また将兵は夜通し作戦にあたり、その表情には疲労が見えています。少なくとも一日はこの地にて休息を取るべきではないかと」
「うむ、確かにのぅ…」
祭は黄祖の言葉に肯く。
彼の言う通りであった。今朝の作戦は昨日の昼には決まっていた。そこから今朝実行するという電撃作戦を展開するためには、かなり急速に準備をする必要があったであろう。
またそこまで無理を推してでも準備をしなければ、相手の虚を突くこともできなかった、ということも紛れもない事実である。
戦の最中は気分も高揚し疲労など感じることはないが、戦を終え、緊張の糸が切れた今ならばその限りではない。
「確かにそうではあるが…」
それでも桃蓮の答えは歯切れの悪いものだった。
その胸には一抹の不安を抱いていたのだ。その不安も漠然としたもので形を成さない。だからこそより一層不安を煽ることになっているのだ。
しかし桃蓮のような飛び抜けた直感を持たない者たちには、その不安を感じることもできなければ、桃蓮の焦りも理解できるものではない。
天幕内は黄祖の案に賛同する意見が大半を占めた。
もしここで桃蓮が反対意見を押し切ってでも撤退を宣言したならば、将兵はそれに倣っただろう。しかし桃蓮はそれをしなかった。せっかくの戦勝の雰囲気を台無しにすることは、彼女とて避けたかった。
結果的に黄祖の案が採用され、長沙への凱旋は一日遅れることとなった。
江には一つ疑問があった。
奇襲作戦が成功し敵総帥を討ち取ったころには、孫呉の陣近くに布陣していた一つの勢力が撤退を開始していたことだった。
普通自らが出し抜かれたと悟れば、無理にでも挽回しようと軍を動かすと思うのだが、劉表は城内から上がる火を見るや、将兵に撤退を指示した。
そして昼過ぎである今には、この地からはとうにその存在は確認できなくなっていた。
それでもこれは都合の悪いことではない。こちらが撤退を始めた時に彼の勢力が背後にいたとなれば、それだけで気を遣わなくてはならない。
そういった心配がないだけでも、孫呉にとっては好都合だった。
江の持つ『では何故劉表は背後から牽制するという手段をとらなかったのか』という疑問を除けば…
それから5日が経過した。
一晩休みを挟んだ孫呉の軍勢は、かなり体力を回復し帰国の途に着いた。
戦における一番の手柄をあげた故か、行軍中の雰囲気はなるほど和やかなものであった。ある一つの報せが来るまでは。
「孫堅様は何処(いずこ)に!」
それは突然のことであった。
行軍する軍勢の前方から馬にまたがった一人の兵卒が駆けてきたのだ。その鎧は返り血を浴び、背中には幾本かの矢が突き刺さっている。
「何事か!」
桃蓮は声を張り上げ、自らの存在の場所をその兵卒に示す。
兵卒は息も絶え絶えにそこまで駆け寄ると、すぐさま下馬し、桃蓮の前に跪く。
「報告いたします!安昌の港が劉表の軍勢により襲撃を受けました!その数およそ一万五千!」
「っ!?…先手を打たれたか」
桃蓮の不安は的中してしまった。
江の疑問は負の方向でその答えを得てしまった。
「古狸め…やってくれるっ!」
今は見えぬ怨敵相手に揶揄の言葉を口にするが、それも虚しく空へと消える。
すぐにそのしかめっ面を引き締めると、桃蓮は指示を出し始めた。
「周泰、孫策、凌操、黄蓋、朱治!至急一万の兵で安昌へと向かえ!…周瑜!ここから最短の道筋は分かるか」
「ここからだと一度白河沿いに出るのが妥当でしょう。直進すれば丘陵地が多く、進軍の妨げになりかねません」
「黄蓋!お前が大将として軍を率いよ!古狸の手勢に戦というものを教えてやれ!」
「承った!」
返事をすると祭はすぐに動いた。
そして一刻と経たず、軍を編成し南方へと駆けていった。
「我らも悠長に行軍するわけにはいかん!全軍駆けるぞ!」
先遣隊が出発して少し経ち、今度は桃蓮率いる本隊が全速で行軍を再開した。
本隊の将兵の表情には、ただ一人の例外を除いて焦りの感情が刻々と刻まれていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
白河沿いの荒地を赤い軍勢が疾走する。
歩兵にとっても騎兵にとってもその行軍は常軌を逸したものだったが、弱音を吐くような兵はこの孫呉の中にはいなかった。
彼らは先頭をひた走る彼らが主君の背中をただ必死に追いかけていた。
軍勢が河岸段丘を右手にした時、不意に何かが桃蓮の頬を掠めた。
「うぐっ!」
苦悶の声をあげ、背後で何かが地に落ちる音を聞く。
慌てて進軍を停止し、背後を見れば、そこには物言わなくなった己が将の姿があった。停止していた思考が再開される。
「チッ、伏兵か…!総員、崖の上に伏兵だ!全速力で駆け抜けろ!」
足を止めていた軍を再度走らせる。
そんな中で桃蓮は自らの甘さを悔いていた。
頭のどこかに、劉表から仕掛けてくるという可能性を否定する考えがあったことを。
先手を打つのは自分たちだと信じて疑わなかったことを。
降り注ぐ矢の雨に味方が次々と命を散らせる中、桃蓮は悠長にもそんなことを考えていた。
それは油断に他ならなかった。
トスッ
軽い音がした。
少なくない衝撃を感じた。
現実に無理やり意識を引き戻された桃蓮は自分の腰に目を遣る。
「………抜かったか」
そこには一本の矢が深々と突き刺さっていた。
激痛が襲う中、彼女の意識ははっきりとしていた。しかしそれは意識だけであり、体が言うことを聞くということとはまた別問題。
グラリと彼女の体は傾き、落馬の様相を呈する。
筋を傷つけたのか、それとも痛みにより麻痺したのか、あるいは毒を仕込まれていたのか。答えは定かではないが、下半身が言うことを聞かない。
「桃蓮様!」
体が重力に逆らえず、落下しそうになったところで、桃蓮の名を呼び、その体を支える者があらわれた。
「ッ…江、か」
流れ出る血により、白い顔になりつつある桃蓮は、自らを支える者に声をかける。
そして自嘲気味に言った。
「これは、抜かった、わ。…完全に、してやられた。自分の、甘さ故よ」
痛みに堪えて、桃蓮は言葉を紡ぐ。
そんな桃蓮を江は叱咤する。
「自分を省みることなど、あとで幾らでもできます!今はただこの場を生き抜くことをお考えください!」
「ほ、報告!」
その時、後方の兵が全速力で寄ってきた。
江は無言のまま、その兵に先を促す。
「軍後方にて黄祖将軍が造反!それに伴い三千の兵が寝返り、軍勢は背後から追撃を受けております!」
「なっ!クッ…」
「桃蓮様、落ち着いてください」
江はそう諭すように言う。桃蓮を支えるために速度を落としていた江たちを、背後から攻撃を受けている兵たちは次々に追い越していく。
そうした中で、寝返った黄祖相手に殿を務めていた思春とその手勢がようやく追いつく。
「桃蓮様!ご無事ですか!?」
慌てて駆け寄る思春に、桃蓮は首肯を以て応える。
最早声をあげる余裕もなくなっていた。そして思春の後方には既に黄祖の軍勢が迫っている。
と、ようやく右手に崖、左手に白河という地形の出口が見えてきた。
「出口が見えました!全員全速力で駆け抜けてください!」
江の言葉に従って、殿を務めていた軍勢は一気に、この不利な地形を駆け抜ける。
そして出口に差し掛かった時。
「………」
無言の江は馬を止めた。
突然の不可解な行動に桃蓮も思春も、そして兵たちも驚く。しかし加速のついた兵たちは容易には止まることが出来ず、結果江たちを追い越すこととなってしまう。
「…皆さん、殿お疲れ様でした」
そう言って桃蓮たちの方を振り返る江の顔には、いつものように穏やかな笑みが浮かんでいた。
そして先ほどまでの怒号とは打って変わって、これまた穏やかな口調で話す。
「皆さんは、このまま南下し、先遣隊と合流してください」
「…江様はどうするのです」
江の言葉は『江』のことについて触れられていなかった。
思春は江に問うた。
「私は…」
そう言うと、馬蹄を踏み鳴らし、追撃せんとこちらに迫る軍勢のほうを振りかえり、そして言った。
「彼の者たちを引き受けます」
「し、しかし」
「こ、江、お前、な、にを…」
多勢に無勢とはまさにこのこと。
あまりの言葉に思春だけでなく、桃蓮でさえも声を上げる。
「桃蓮様、これは極めて適切な判断です。まず君主であるあなた、そしてそれを護衛する思春、最後にその周りを固める兵士たち。そう考えると、ここで足止めのために捻出出来るのは私一人です」
「足止めならば私が」
江の言葉に更に反対の意を示そうとした思春。
しかしその言葉は最後まで言われることはなかった。
「聞き分けよ!!!」
江の言葉が遮ったから。
「お前では足止めにすらならない!お前よりもはるかに強く、場数を踏んだ私が適任だと言っているのだ!孫呉の将たるお前が自身の実力を見極められないでどうする!」
「っ!」
叱咤は幾度となく受けてきた。
それでもここまでの、怒号とも言えるものは思春にしても、桃蓮にしても初めての体験だった。江が怒りを顕わにしている。そのことに気を取られていると、江は馬上から降り、そして大剣を振るった。大地に一筋の線が引かれている。
「今この瞬間より、何人たりともこの線を跨ぐことを禁ずる」
そう言うと江は、桃蓮とそれを支える思春が乗る馬へと歩み寄る。
「桃蓮様、あとでまたお会いいたしましょう。そして思春、しっかり桃蓮様を護衛してください」
笑いかけると、馬の尻を蹴り上げる。
急な衝撃に慄いた馬は飛び上がって、前方へと駆けだす。
「さあさあ、皆さんもしっかり護衛をお願いしますよ。………ではまた」
踵を返し、江は追撃部隊の方へと歩いて行った。
背後から聞こえる、遠ざかる馬蹄の音に、江はもう耳を傾けなかった。
「茶番は終わったか?」
「はい、わざわざお待ちいただいてありがとうございます。…黄祖殿」
眼前にはいつしか顔を合わせたきりの副官の姿があった。
その副官の表情は狂喜の感情に彩られている。
「俺の目的はもとより貴様だ、朱君業。あの日の屈辱、片時も忘れたことはないぞ」
「ふむ、私も罪な男ですね」
「…そう、それだ。その余裕、その表情、その振る舞い、貴様の何もかもが俺を苛立たせる!」
狂った笑みを浮かべながらも、その眼には憤怒の感情がこもっている。
黄祖は手にした偃月刀を振るうと言った。
「語らいはこれで終わりだ。…者共かかれぇ!!!」
合図とともに、黄祖の配下たちが江に襲いかかる。
しかし、江の刻んだ線を越えようかというところで、その配下たちの首から上は消し飛ぶこととなる。
「な、何をした!?」
何が起きたのか理解できない黄祖は声を荒げて、江に問いただす。
対する江は、あくまでも余裕の態度を崩さない。
「おやおや、いけませんね」
「何をしたのかと聞いている!」
「私は言ったはずですよ?」
何人たりともこの線を跨ぐことを禁ずる、と。
1対3000。正に多勢に無勢、絶望的な状況下で、江の戦いは始まりを告げた。
―――――――――――――――――――――――――――
一方、安昌を取り戻そうとする孫呉の先遣隊は港の目前へと迫っていた。
襲撃の報を聞いてより無理な行軍を進めていたが、それは既に宛から安昌への行程のほとんどを消化していたことが幸いした。
故に兵士たちの表情には疲労というものは見られなかった。無論焦燥は散見されたが。
ふと、焔は後方を見やる。
不自然な挙動に、祭が反応を示す。
「どうした、焔」
「………祭、兵を少し借りていくわよ」
何をする。
その言葉を口から出す前に、焔は反転し、今来た道を引き返していた。そして一言二言大声を挙げると、数百の騎兵が彼女に追従した。その中には…
「…全く策殿も行ってしまわれたか」
しかし、祭も責めるつもりはない。
背後には孫呉の王がいる。宝がいる。
故に彼女は視線を港へと戻した。
「………古狸の弱卒に戦を教えてくれるっ!」
港を落とすのは自分たちだけで十分だ。だから主を救ってくれ。
言外にこめられた思いを胸に、祭たちは港へと吶喊を開始した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
自身に殺到する兵を薙ぎ、穿ち、砕き、斬る。この単純ではあるが至難の業を、江は幾度となく繰り返している。江は周囲を取り囲んでいた兵士たちを全力で吹き飛ばした。
そして彼方を一睨みする。その頬に付着した血痕が、彼が修羅であると錯覚させる。
「どうしました?宴はまだまだこれからでしょう」
桃蓮を連れた一団がここから出立したのは既に一刻前。
その後、江は河と崖の狭い出入り口を巧く使い、一兵たりとも逸することはなかった。無論向こうが本気でここを抜けようとすれば、その目的は達成できたかもしれない。
しかし、黄祖の目的はあくまでも江の抹殺。この状況もある意味では黄祖によって作り出されたものであると言えよう。
「…化け物が……」
黄祖の配下の一人がボソッと呟いた。
端的に言えば、目の前の少年は異形だった。前後左右には所々が欠損した死体がばらまかれ、それでいて彼自身は返り血以外、つまりは手傷を負っていないのだ。
既に数百は討たれたであろう。
彼我の被害の差が、そのまま生命の格の差を示すようで、目の前の存在の異常性をより際立たせる。
「化け物ですか…。なるほど、それはいい表現です」
戦慄する兵士たちを意に介することなく、江はからからと笑い声をあげる。
黄祖側からしてみれば、妖の類が浮かべるそれにしか見えない。
「我らの主君が、将が、兵が、御身らに傷つけられ、奪われたのです。化生の身になろうと」
ここで貴様らを掃滅する。
未だ余力を残す黄祖たちに、江は怒りを込めた啖呵を切った。
ガッ
それと同時に江は大地を蹴り、吶喊する。
その速度は目で追うにも難く、故に自分の命の灯が燃え尽きたことにも気付かない。
「はぁあああああああああああああああ!!!!」
それなりに保たれていた彼我の距離を瞬時に踏み越え、敵前へと肉薄した江は大剣を振るう。
弱い者は首から上を根こそぎ刈り取られる。
それなりに強い者は、凶悪な一撃を防ごうと得物をかざした結果、得物ごと砕かれ、物言わぬ肉塊となる。
一振りで5つの命を
二振りで10の命を
あっさりと奪う。
それでいて彼は未だ満足していない。
「せいっっっっ!!!!」
振りおろした大剣は、一人の兵卒を左右に捌く。
尚あまりある勢いは大地を深く抉る。
修羅は怒りを滾らせ、残り2000近くとなった獲物を丹念に潰していた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……化け物が…」
先ほども出た呟き。
しかし今度は統率者である黄祖の口から漏れていた。
「忌々しい賎民風情が………」
既に孫堅は死地を脱しただろうことは予測できている。それはいい。劉表にとっては重大なことでも、彼にとっては些事以外の何物でもない。
彼が望むのはただ一つ。
目の前で怒り猛っている憎き少年を殺すことだ。
「………おい、貴様ら」
苦々しい表情を浮かべる上官の声にビクッと肩を震わせた兵卒たちは、声の主へと向き直る。
「もうアレは放っておけ。貴様らは100の騎兵で以て、敗走した孫堅を追え」
「し、しかしそのためには奴を越えねばなりませんっ…」
「だから数で押すように言っているのだ。何、100いれば50騎くらいは押し通れるだろう」
こうは言っているが、その実黄祖はその可能性を微塵も考えていない。
彼が考えているのは、もっと、仄暗いこと…
「聞こえたのならば直ちに行動に移せ。それとも俺が殺してやろうか?」
鬼気すら覚える上官に、兵卒は諾の意以外に示すことはかなわなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ふと、彼方の動きに変化が生じる。騎兵が隊列を取っているのだ。
精々4列くらいの幅しかないこの場において、その行為の意味するところは…
「ここで力押し…ですか」
江が最も恐れていた力ずくの吶喊。
いくら個人の力量が上回っていようと、これを覆すのは難しい。
「それでもやるしかない…のか」
それでも彼は後退しない。
孫呉の大黒柱になる。
それこそが彼の存在意義であり、ならばこれくらいの事態、跳ね返せなくてどうする。
自分を叱咤し、激励する。
やがて隊列を組んだ騎兵たちは江の左右を掻い潜ろうと行軍を開始する。
江はそれを許すことなく、力の限り得物を振り回す。
最早防御など度外視した全力の迎撃。それが功を奏したのか、未だ敵を通してはいない。
立ち込める土煙りの中、ようやく騎兵たちの最後尾が見えてきた。彼はそれを打ち砕くことに注力する。
彼は勘違いをしていた。
かつて生母が自らに言って聞かせた言葉の意味を。
『孫呉の大黒柱となりなさい』
その言葉の意味を履き違えていた。
もし正しく理解していれば、このような蛮勇とも言える行為をしなかったであろう。
故、報いはすぐに訪れた。
「………えっ?」
腹部に感じる激痛。
痛みを訴える部位を見れば、突き立っているのは偃月刀。
攻撃の出所は何処だ?
何故今自分は攻撃を受けたのだ?
江の脳裏にそんな疑問がよぎる。
「ごふっ…」
口から血があふれ出る。
そしてその偃月刀を辿っていくと、そこにはいつか見た男の姿があった。
狂喜に支配された声が聞こえる。
「油断したな、朱才」
膝をつく江を見下すのは黄祖。
そう、黄祖は騎兵の上げる土煙りに隠れ、江を串刺しにしたのだ。その表情は下卑た笑みに歪む。
「ようやく、ようやく果たせた!俺をここまで追い詰めた男への復讐を!!!」
そう言って、跪く江の顔を蹴り上げ、そして頭を踏みにじる。
「っ!」
「ハハハハハハ!!!ほら、どうした。いつもの余裕は何処へいった?無敵の朱才様よぉ!」
ひたすら江をいたぶる黄祖。
しかし江は何の反応も示さない。
「…最後まで気に入らない奴だ。……………死ね」
黄祖の得物が振り下ろされる
ガキッ
ことはなかった。
突如前方から飛んできた矢を、黄祖は偃月刀で防ぐ。その隙に、何者かが江を抱えて走り去った。
偃月刀の向こう側には見知った顔があった。
「なっ、朱治!何故貴様がここに!」
「あら、酷いわね。焔だけじゃないのよ?」
「!?」
とっさに飛びのいた黄祖。
そして少し前までいたあたりには得物が振りおろされていた。
「さっきぶりね、黄祖」
「孫策…だと…安昌の港はもう制圧されたのか」
「ええ、あっという間よ」
安昌の戦況など彼女は知る由もない。だが彼女は自信を持って是と言い切る。
雪蓮の背後には孫呉の兵士が並ぶ。予想外の事態に混乱する黄祖。
しかし数瞬のうちに結論を出した。
「者共、撤退だ!」
言うや否や、馬にまたがり、駆けだした。
「…逃がさないわよ」
身から溢れる憤怒を隠そうとしない雪蓮は追撃を開始しようとする。が、それを焔が制する。
「雪蓮ちゃんっ!!!」
「っ!そうだったわね!」
血濡れの江を抱えあげると、雪蓮と焔は馬にまたがり、兵を従えて南方へと駆けていった。
両軍が撤退し、誰もいなくなった、名すらない河沿いには両軍の兵の屍が無数に横たわっていた。
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