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呉志英雄伝

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第七話~蒼~

家臣団での会合からは二十日ほどの時が過ぎ、雪蓮は頻発する賊の討伐のため、桂陽に赴いていた。
敵本隊は荊州の中でも北端に位置する宛、南陽付近に駐屯している。しかし当然本隊以外にも、この乱に乗じた小さな賊集団が各地に存在する。
敵本隊の規模はおよそ二十万。
それらを相手取るには、孫呉ははっきり言って力不足であった。単独での攻略が不可能である以上、孫呉が取るべき手段はただ一つ。
他勢力と足並みを揃えた上で本拠地を叩くことだ。
しかし何事にも時機というものがある。時勢はまだ敵に傾いている。したがって今は領内での被害を最小限に抑えるべく、多少後手に回ったとしても、地道に賊の討伐を繰り返すしかなかった。





「まったく手ごたえがないわね」


そんな彼女も今は帰途に着いている。
元々今回の敵の絶対数が少なかったこともあるが、練度で勝る孫堅軍が同数以下のただの賊に遅れを取ることなどあり得なかった。
雪蓮が戦場を駆ける間もなく、敵の悉くは鎮圧され、桂陽の平和は保たれた。しかし雪蓮にとっては不完全燃焼もいい所。内に秘める業火をただただ燻らせるのみだった。


「とは言え桂陽の平和は維持された。敵が弱いに越したこともないのでは?」

「そうは言ってもつまんないのよねー。これから天下を狙うのにこんなことばかりでいいのかしら」


馬に跨り、ムスッとしている雪蓮に、同じく賊討伐に従軍していた蒼―徐盛―は諭すように言葉をかける。ただその言葉も雪蓮の不満を解消させるだけの効果を示すことは出来なかったが。


「江殿も今は雌伏の時と仰られたのだ。それは雪蓮殿も了承したではないか。それにあの方が言うには黄巾も一年と持たず瓦解するとのことだ。ならば私はそれを信じるのみ」


蒼は江の言葉を根拠に雪蓮を諭そうとする。


「………」


しかし雪蓮は何も言わない。何も言わず、ジッと蒼の顔を見つめているのだ。
最初は考え事でもしているのかと放っておいた蒼だったが、さすがにずっと見つめられていると居心地が悪くなる。
たまらず声を荒げて切り出した。


「私の顔がそんなに珍しいか?」

「そんなんじゃないわよ。…ただね」


そこまで言って言葉を切った雪蓮の表情は、先ほどまでの膨れっ面とは別のものとなっていた。
まるで新たな玩具を見つけた童のような笑顔。
否、そんな純粋なものではない。正しくは玩具は玩具でも、弄ぶといった意味での玩具を見つけた悪餓鬼のような笑み。
この瞬間、蒼は遅れながらも悟った。自分から切り出したのは失敗だったと。


「なぁんでそんなに江に肩入れするのかなぁ、なんて思っちゃったのよね」

「そ、それは…」


自らまさしく虎穴に飛び込んだ蒼は狼狽する。しかし焦ったところで時既に遅し。獰猛な虎は慌てふためく獲物を見逃したりはしない。


「その辺をゆっくり聞かせてもらおうかしらね」









今から三年前のことだ。
揚州のとある村が賊に襲撃された。当然村人は抵抗したが、悲しいことに武の心得のない者ばかり。救援を求めようにも、その土地には領主がいなかった。結果早々に村は制圧された

男は皆殺しにされ、女子供は野蛮な者共の慰みの道具として扱われ、心が壊れた者は畜生のように殺されていった。

慰み者となった女子供が次々に精神を病み、一人一人余興として殺される中、ある一人の女は、例え身を犯されようとも屈さず、正気を保っていた。
死にたくない一心で。 毎日のように嬲られようとも、女は屈さなかった。

そして村が落とされてから二月が経過した朝、女は異変に気づいた。
誰も来ないのだ。そして外では喧騒と剣戟が響いているのだ。どうやら賊は何者かと戦っているようだった。
監視もいず、好機だと察した女は、もう襤褸切れとなっていた自らの衣服を被って必死に逃げ出した。逃げる途中、賊と赤い鎧の兵が戦っているのを見た。
赤い鎧の兵士たちはたちどころに賊を切り捨て、突き殺し、蹂躙していった。
断末魔を上げる賊たちを尻目に女は必死で走った。赤い鎧の兵士たちが味方である確証がなかったから。

と、突然女は肩を掴まれた。振り返るとそこには賊の頭領がいた。その傍らには馬があり、それが逃亡するためのものであることは容易に想像できた。
賊の頭領は暴れる女を縄で縛りつけ、乱暴に馬に乗せると自分も馬に跨った。女は覚悟した。もう終わりだと。
馬は走り出し、根城の景色がどんどん小さいものへとなっていく。女は最早茫然自失であり、絶望していた。


ふと賊の頭領は叫び始めた。
先ほどまでの下卑た笑みが、恐れおののいた表情へと変わっている。そして前方に向かってしきりに罵声を浴びせているのだ。
女は無気力に下げていた頭をもたげ、前方を見やった。

そこには一人の男が立っていた。
ただ赤い直垂を着、鼻まで赤い布で覆い、赤い髪を風になびかせたその者は馬の進路上に悠々と佇んでいた。
肩には身の丈以上の大剣を担いでいる。


馬がその者を蹴り殺そうとした刹那、女の体は宙に浮いた。一瞬のことなのにやけにゆっくりに見えた。
馬の首から上が宙を舞い、体躯は後方へと仰け反っていた。そして女はもちろん、賊の頭領もその身を投げ出されていたのだ。
賊は受身を取れぬまま、大地に叩きつけられ、女も同様になると覚悟し、来る痛みに備えた。
しかし痛みを感じることはなかった。代わりに何かに抱きとめられる感触がした。赤い髪の男が受け止めてくれたのだ。
一瞬の出来事に唖然とする女。そんな女に、その者は目で示した。

もう大丈夫。
もう安心していい。

言葉は交わさないのに、そう言い聞かされているような気がしてならなかった。
男は女の縄を解くと、やさしく大地に下ろし、大剣を担いで、賊のほうへと歩み寄る。
腰を抜かし、後ずさることしか出来ない賊は失禁し、ひたすら命乞いをしていた。
涙と鼻水で顔面を濡らしたその顔は醜悪そのものだった。
すると男は背を向けた。その行動に呆気に取られた。

見逃すのか。
許すのか。
両親を、友を殺した、自分を慰み者としたその賊を野に放つのか。

怒りがこみ上げる。信じた瞬間に裏切られた気がした。
賊は男の行動に歓喜した。生きながらえたと喜んだ。その顔には品性の欠片もない醜い笑みが浮かんでいた。


しかし、男の担いでいた大剣がぶれた。
次の瞬間にはその笑みの鼻から上はなくなっていた。
男の担いでいた大剣がぶれた。
その次の瞬間には首から上がなくなっていた。
主を失った賊の体は、切り口から泉のように血を飛び散らせて力なく横たわった。
女は直感した。
賊に背を向けたのは、決して許すというためではない。その醜悪な死に顔を見取ることすら拒絶したのだと。

一部始終を見届けた女の下に歩み寄ると、男は泣きそうな声で言った。ただ一言。

申し訳ございません


最初何故謝られたのか分からなかった。しばらくして、その場に彼の配下と思しき兵士たちが集まり、近くに築かれた賊の根城まで行軍した。
女は腰が抜けたようで、終始赤い髪の男に背負われていた。

賊の根城には賊や、慰み者となった女子供の惨たらしい亡骸が多数横たわっていた。
彼は配下にすべてを埋葬するように伝えると、女に向き直った。そして口を開いた。

これら全ては、自分たちが遅かったが故に引き起こされた惨劇です。どう罪滅ぼしをすることも出来ません。

ようやく謝られた理由が理解できた。
しかし得心は行かなかった。救援も何も要請していなかったのだから。
それだけ言い残すと彼は配下と共に埋葬に取り掛かった。その背中はやけに小さく見えたのは、果たして女の気のせいだろうか。

しばらくして、女の下に一人の兵士が駆け寄ってきてこう言った。

どうか彼を悪く思わないでほしい。彼の本来の任務は呉郡の掌握であり、呉にたどり着いたのは三月前のことなのだ。
そして情報収集のために各村々を回っていくうちに、この会稽付近に巣食う賊のことを聞くに至った。
彼は悔やんでいた。あと少し来るのが早ければ、と。
今ここにいることは本当は命令違反だ。それでもこうしてやってきた。知るものすべてを殺されたことを承知で言う。どうか彼を悪く思わないでほしい。


もとより女は彼らを、彼を責めるつもりなど毛頭なかった。
しかしこの話を聞いていると、女は彼に興味を持った。一体どこの誰なのだろうかと。
それを兵士に聞いたが、彼らは命令違反をした上官のうわさが広がらないようにしようと、徹底して正体を明かすことを避けた。
しばらく後、彼女は呉の曲阿にある村に預けられ、やがて自分を救った部隊が孫堅軍のものであるということを知った。
それから二年と数月、孫呉の軍に憧れ、また恩人との再会を夢見て、彼女はひたすら武芸を磨いた。時には寝食を忘れ、月と陽が二度通過することもあった。
幸い女にはわずかながらにも武芸の才があったのか、修行を始めて二年でそこらの賊には負けないほどの力を手にし、孫呉への仕官のため、意気揚々と本拠地長沙へと向かった。




「その女が無事に恩人に会えたかは知らないが」


長い話を終え、蒼は一息つく。
隣の雪蓮はというと、要らぬことを聞いた自分を責めているのか、押し黙るのみ。




「……蒼、悪かっ」

「でも」


謝罪の言葉を述べようとする雪蓮。
しかしその言葉に被せて、蒼は再び口を開く。


「女はきっと後悔していないだろうさ。生き残ったことに。そして武芸を鍛え、孫呉へ仕官したことに」

「…そう」


明るい笑顔でそう言い切り、蒼は馬を雪蓮の先へと進めていく。
悲しみを背負う強さ、そして憧れへとまっしぐらに進める強さ。その二つを兼ね揃えた女性の後姿に、雪蓮はただ頭を垂れる他なかった。 
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