八条荘はヒロインが多くてカオス過ぎる
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第二百十一話 紅葉が見えてその八
「そうね」
「そう思ってくれたら嬉しいよ」
「義和って長崎に行った時から思ってたけれど」
「蝶々さんが好きだって?」
「あの作品自体が好きよね」
「大好きだよ」
その通りだとだ、僕も答えた。
「音楽も好きだよ」
「ある晴れた日とか」
「プッチーニの音楽もね」
柔らかい、優しい、そんな音楽だ。ヴェルディの様に強力な合唱や雄々しさではなくそれがプッチーニの味だと思う。
「好きだしね」
「それでなのね」
「うん、大好きなんだ」
「それで蝶々さんへの思い入れも強いのね」
「自分でも思うよ、悲しい結末だけに」
あの自害の場面も思い出した、最後のあの場面を。
「子孫の人達にはね」
「幸せになって欲しいのね」
「さもないと浮かばれないっていうか」
蝶々さんの魂がだ。
「幸せになって欲しいから、子孫の人達だけでも」
「蝶々さんは幸せになれなかったけれど」
「それでもね、人は誰だって幸せにならないといけないってね」
「よく言われるわね」
「そう、だからね」
それ故にだ。
「蝶々さんは魂だけでもね」
「死んだけれど」
「子孫の幸せを見てね」
「魂だけでも幸せになるべきなのね」
「そう思うから」
僕はそうなって欲しいと心から思っている、そのうえの言葉だ。
「だからね」
「子孫の人達にはなのね」
「当時は差別とか色々あったよ」
歌劇でもよく扱われる問題だ、蝶々夫人は人種差別の問題を扱っている。そして士官と芸者という身分差別もある。
「けれどね」
「今はなのね」
「そんなね、戦争も終わったし」
そして日系人への迫害も過ちだったと判断され差別を行ってきた人達は間違っていたと糾弾される立場になっている。
「人種の違い、そんなものもね」
「関係なくよね」
「うん、幸せになって欲しいよ」
「日本人とアメリカ人の血が流れていても」
「そんなのどうでもいいよ」
僕はこうも言った。
「まずはね」
「幸せになることね」
「蝶々さんがどんな人でも」
人種の問題がなくても当時身分が低いとされていた芸者さんあがりでもだ。
「それで宗教もあるけれど」
「そういえば蝶々さんは改宗したわね」
「仏教からね」
士官さんと結婚する為にだ。
「キリスト教徒になったよ」
「そうだったわね」
「けれどそうしたこともね」
「超えてなの」
「幸せになって欲しいよ」
「ううん、宗教を超えては」
イタワッチさんは僕のその言葉にはどうかという顔で答えた。
「それはね」
「イタワッチさんはだね」
「絶対だから超えることはね」
「そうだよね。イスラムだと」
「そこからはじまってそこで終わるから」
だからだというのだ。
「そこは頷けないけれど幸せになることはね」
「誰だってだね」
「そうなるべきね」
僕のこの指摘には頷いてくれた。
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