ソードアート・オンライン 穹色の風
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アインクラッド 後編
――だから、今は。今だけは。
「イッツ・ショウ・タイム」
男の言葉が、降りしきる雨粒を瞬時に凍りつかせたかのようにマサキには感じられた。しかし、オレンジたちは男の言葉に浮かされたように咆哮を上げ、我先にと飛び込んでくる。マサキは蒼風を構えようとしたが、かじかんだ指先を動かすまでにほんの僅か生じたラグによって反応が遅れた。
「マサキ!」
声と共に大剣が振り上げられ、一番槍を狙った湾刀使いは衝撃で草原と森の境目まで吹き飛んだ。
「油断するなっつったのはそっちだろ?」
「……ああ。分かってる。助かった」
「お、今日は素直だ」
「喧しい!」
からかって笑うトウマを怒鳴って走りだす。ちょうど正面にいた短剣使いを見据えると、体を沈みこませて力を溜め、フルスロットルで回転するスクリューの如く土の上を覆っていた雨水を弾き飛ばして加速する。
「え? ……って、ぐあぁっ!?」
それまでも十分高速で走っていたのだ、更に上があるとは相手も思っていなかっただろう。その意表をついて一瞬の隙さえ生まれれば、マサキにとっては十分だった。リーチの差も利用して短剣使いの肩口に蒼風を突き込み、胸板を踏みつけて飛び上がる。空中で腰を捻り、力一杯横薙ぎに蒼風を振るいながらその刀身を敵の集団へぶつけるようにイメージ。すると蒼風の刀身が解れ、暴風となって頭上から《ラフィンコフィン》と名乗った集団に襲い掛かった。風刀スキル《神渡し》。ダメージこそないが、雨粒を伴った暴風を真正面から叩き付けられた集団の動きが一様に止まる。
マサキの眼下を黒い弾丸が翔けた。姿勢を低くし、オレンジの尾を引いて敵の中心に突っ込んだトウマは、次の瞬間己の力と運動エネルギー全てを大剣に乗せ叩き付けた。両手剣重単発技《レディアルクラッシュ》。ずしんと地が震えると同時に土煙が巻き上がり、何人ものプレイヤーが放射状に吹き飛んだ。このソードスキルの長所は威力や範囲だけではなく、吹き飛ばした相手を確率でスタン状態にできるところだ。事実吹き飛ばされたプレイヤーは一部が立ちあがることすらままならず、スタン状態に陥らなかった者も空中を何回転もしながら飛ばされた果てに地面に叩き付けられたため、酩酊感でまともに動けてはいない。
これで少なくとも下っ端であれば複数を同時に相手しても優勢以上で立ち回れることがはっきりした。ならば、次は頭を狙う。この狂った集団を瓦解させるには、あの中心にいるポンチョの男を撤退に追い込む以外にないとマサキは考えた。
着地したマサキは、黒ポンチョの脇に控えるように立つエストックを持った男に踊りかかった。そして細身の刀身同士が打ち合わされる寸前に身体を捻り、横のポンチョへ刃を向ける。しかし、流石にこの男はそこいらの下っ端とは腕が違った。フェイントからの急襲を、男はさも予期していたかのように最低限の動作で得物を蒼風の軌道上に割り込ませて防いでみせた。男の武器は大振りなダガーで、リーチこそ短いものの、下手をすれば蒼風よりも重量がありそうだった。形こそ特別なものではなかったが、軽さと取り回しのよさを第一に挙げるダガー使いたちからは敬遠されそうだとも思える。
「チッ!」
舌を打つマサキの肩を手のひらが強い力で押し下げる。マサキの僅かな筋力値では到底耐えられず膝をつくが、決して取り乱しはしない。これまでに何度も経験しているのだから。
「オラァッ!」
肩に置かれた手が一際強く押し付けられ、マサキの身体をブラインドにして接近していたトウマが前向きに空中で一回転しつつマサキの前に出、着地と同時に大剣を振り下ろした。次に聞こえた舌打ちはポンチョ男のものだ。男は大剣の一撃をかわしバックステップで距離を取る。
「テメェ、調子付いてんじゃねぇぞコラァ!」
その瞬間、左右から先ほどのエストック持ちと、もう一人、髑髏のようなマスクを被ったダガー使いが同時に襲いかかってきた。マサキは瞬時に左へ跳び、勢いのまま髑髏マスクに飛び膝蹴り。衝撃で反り返った胸板を蹴って逆方向に跳ぶ。身体を捻りながら眼下を見ると、大剣で器用にエストックを弾き上げたトウマが右手の拳を握り締めたところだった。
「――せいッ!」
「うらァッ!」
マサキがエストック使いに、トウマが髑髏マスクに、相手を入れ換えてそれぞれ蹴りとパンチを見舞うと、二人のオレンジは逆方向に転がっていく。それを横目に、マサキたちは頭目の黒ポンチョに追いすがった。
「ヒュゥ、こいつはExcellentだ。まさかここまでの連携ができる二人組がいるとはな」
「お前如きの冥土の土産には過ぎた品だがな!」
マサキが飛び込んで突きを放つが、ポンチョはそれをひらりとかわし更に交代。その時にフードから覗く口角をあからさまに持ち上げるのが実に憎たらしいが、そんなことで苛立ってはいけないと己を諌めつつ更に追いかける。いつしか草原を外れ、戦場は針葉樹林に変わっていた。
トウマとスイッチを繰り返し、手を休めることなく攻撃を加え続ける。その中で、次第にマサキの脳内では「この戦闘をどのように終わらせるか」という思考が徐々に比重を占めてきていた。こちらとしては、別にわざわざ敵を全滅させる必要はない。足の遅いトウマを連れての離脱が難しかったために今までは戦闘で相手を撤退に追い込むという手段を取っていたが、ここまでの戦闘経過で敵の集団からは離れつつあり、目下の敵はポンチョの頭目一人だけ。であれば、どこかのタイミングでトウマを結晶で離脱させられればいい。マサキが一人で逃げるだけなら、マサキの足があればどうとでもなる。
そんな時、トウマが繰り出した斬り上げをかわすため、ポンチョ男がおあつらえ向きに大きく後ろへ跳んだ。
今しかない。マサキはそう決断すると、振り上げた勢いのままトウマの右後ろに着弾した大剣の刃の上を駆け上がり跳躍、空中で前方に一回転しつつ伸ばした右足をかかとから振り下ろす。空中でのみ使用可能な《体術》スキル単発技《逆月》。マサキの踵は男の鼻先を掠めて地を叩くが、マサキはそのまま前方へ倒れこむように一歩進み。続いて大きく踏み出した二歩目と同時に後方へ振りかぶった蒼風を走らせた。風刀スキル重単発技《春嵐》。まだスキル熟練度が低い風刀スキルの中で、現段階で最も威力が高い大技であり、攻撃しながら刀身の長さを変化させられるという特徴を持つ。辺りの空気を根こそぎ引き千切る暴風のような音を発しながら文字通り相手の体に向かって伸びる刃が、遂に男の体を捕らえた。
「……Wow」
驚いた風な声を漏らした黒ポンチョだったが、やはり技量はそこいらのプレイヤーとは一線を画すものを持っているようで、想定外のはずの一撃に対してもリーチの短いダガーできっちりと受け止めて見せた。しかし衝突のエネルギーまでは如何ともし難く、両の踵を浮かせて滑るように後退していく。
「トウマ、転移だ!」
「っ……分かった!」
返答までに一瞬の間が存在したが、マサキの思考を正しく理解してくれたのだろう、トウマの答えは肯定だった。
これでいい、とマサキは安堵した。これでトウマは無事に安全圏へ脱出し、後は足の速い自分が適当にこいつらを撒けば全てが終わると。
フードがはためき、獰猛に歪められた口元が仄かに照らされるまでは。
「え……?」
カーペットの上にスプーンを落としたようなのっぺりとした声が、滝のような雨音の中でいやにはっきりと耳に届いた。振り返ると、トウマの左肘から先が消え、掴んでいた転移結晶諸共地面に落下していた。
「な……っ!?」
馬鹿な! とマサキの全脳細胞が理解を拒んだ。黒ポンチョの男は攻撃を仕掛けられる状況にない。しかし他にトウマへ攻撃できるような存在もない。トラップか? しかし、トウマは奴等と戦いながらこの場所へ逃げてきた。いわばこの場所は中立地であり、向こうのホームグラウンドではない。事前にトラップを張った場所に誘導されたということもないだろう。そのつもりならもっと早くに罠にかけていたはずだ。
ならば何故、と再び最初の疑問に戻ろうとしたマサキの思考回路をハンマーで殴るように、今まで遠巻きに見守っていたオレンジたちがトウマへ殺到した。
彼が万全の状態だったならば、これしきの襲撃は撃退してみせただろう。しかし、今は片腕を失っている。これは彼のような両手武器を専門とするプレイヤーにとっては特に大きな問題だった。何故なら両手に装備する武器を片手で持った場合、イレギュラー装備状態となりソードスキルが使えなくなるからだ。戦闘を目的とせず、ただ持ち歩く時ならばそれでも構わないだろうし、あくまでソードスキルが使えなくなるだけだから、片手で力任せに振り回すこともできる。しかし、この世界でソードスキルを使えないまま戦うというのは、例えるならレーシングカーに自転車で勝負を挑むようなものだ。ペダルを踏む足の筋力で勝っていたとしても、エンジンが生み出す馬力には勝てない。
ではどうすればいい? マサキはそれのみに集中する。最早戦闘続行は不可能。だがマサキが今から救援に向かったとして確率は五分だ。ポンチョとトウマを引き離すことを優先しすぎた弊害で、マサキとトウマまで分断されてる。その上、マサキは今技後硬直の真っ只中だ。トウマが落とした転移結晶を拾い直して再び転移するよりも、男たちの刃が彼を貫くほうが早いだろう。
そうしている間にマサキの硬直が解ける。マサキは一目散に駆けた。
「止めろォッ!」
マサキが叫んだと同時、トウマは右手に握っていた大剣を放り投げ、人差し指と中指を揃えて振った。ウィンドウを呼び出す動作だ。
何を、と問いかける暇もなく、四方八方から刃が迫る。濡れた鈍色の刃の隙間から垣間見えたトウマの唇が、最後に「わり」と軽々しく動き、止まった。
肌が水色に光り始める。
マサキはHPバーを見た。既にトウマのHPは尽きていた。
両脚が走ることを放棄し、平坦な地面に躓いた勢いそのままに倒れこむ。腐葉土のジュースに顔面を擦りつけながら滑り、転がって、トウマを刺し殺した男たちの目前で停止した。
地面から何本も足が生えていて、その向こうに青い紙で包装された二十センチ四方くらいの箱が落ちていた。
手を伸ばしかけた時、地面から生えた足が動いたためその頂上を見上げると、男たちの目と口が全て、不気味な三日月型に歪んでいた。
それを見た途端、マサキの四肢に力が流れ込む。理屈ではなく、子供が人形の関節を無理矢理捻って動かすような、暴力的なエネルギー。
「……お前か」
無数の三日月のうちから三つを選別して睨んだ。それは、最後にトウマを刺した男のものだった。
「お前があぁぁぁぁッ!!」
マサキはその顔の中心を蒼風の切っ先で殴りつけた。その次は、そいつから一番近くにいた奴を刹那のうちに切り刻んだ。そうすると、今まで恍惚としてさえいた男たちから血の気が引いて、震え上がって逃げ出した。しかし、男たちの中にマサキより速く走る者はいなかった。マサキは一人、また一人の背中に追いついては蒼風を突き立てた。いつしかマサキが走った跡には、マサキに殺されたプレイヤーの青白い破片がキラキラと浮遊するようになった。それは吸い寄せられるようにマサキの背後を追走し、やがて溶ける。ブラックホールが星を飲み込む際に太陽よりもずっと明るく輝くのに似ていた。
「穹色の、風……」
最後の男が消える間際、そんな風に形容した。
「穹色の風、か。中々ネーミングセンスのある奴だったな」
感心したように言ったのは、あの黒ポンチョだった。面白そうに手を叩く彼の横には、側近らしき二人も控えていた。
「折角だし、今ここでテメェも殺っちまうつもりだったんだが……気が変わった。お前はもっと『寝かせた』方が美味そうだ。精々死なずに頑張れよ、《穹色の風》」
最後にニヤリと見せ付けるように笑った黒ポンチョは、側近と共に結晶を掲げ転移した。マサキは三人に飛び掛って斬りつけたが、蒼風の刃が切り裂いたのは三人が消えた後の残光だけだった。
腕がだらりと下がり、雨音が一段と強くなった。そんな中を、どれくらい佇んだだろう。数十年が過ぎ去り、この浮遊城から一人残らず消え去っているのではとさえ考えた。それでもいいとも思った。
視界の端に、自分以外の唯一の不自然な物体を見つけた。トウマが死んだ場所に落ちていた箱だ。拾いに行こうとしたが、両脚がろくすっぽ動きやしない。この長い時間を過ごすうちに、地面に根を張ってしまったようだった。それを力ずくで引き千切るように片足ずつ踏み出して箱まで行き、我が子への愛情と親の仇への憎しみが入り混じったような複雑な感情と一緒にそれを持ち上げてラッピングを解いた。
中に入っていたのは黒のスラックスと、薄い青色の長袖ワイシャツ。ハーフフレームの眼鏡もあった。そういえば、彼が以前、こんな服装が似合いそうだと言っていたか。
ワイシャツの上に眼鏡を重石にして一枚の紙があった。引き抜き見てみると、小学生がクレヨンで書いたような安っぽい字体で「HAPPY BIRTHDAY」とだけ書かれていた。
「ふざけるなっ」
マサキはそれを片手で握りつぶし、投げ捨てた。そのメッセージカードは水の浮いた地面に落ち、弾みもせずに動かなくなった。蹴飛ばして、踏みつけてやろうとも思ったが、結局何もしなかった。
そのうちに紙の耐久値が切れて、青白のポリゴンになって砕けた。書かれていた字体と同じ、安っぽい色だった。
その約九ヵ月後、二〇二四年の元旦に行われたギルド《ラフィンコフィン》結成宣言で、マサキは黒ポンチョのプレイヤーネームが《Poh》であることを知った。
マサキが全てを話し終えるまでの間、エミは一度も口を開くことはなかった。ただ、胸の前で重ねられた白い両手が開いたり、閉じたり、彷徨ったりした。
「今でも鮮明に覚えてる。あいつが死ぬ時の、最期の顔。口の動き。何人に囲まれて、体の何処に、どんな武器が、どんな角度で突き刺さったか。オレンジたちの顔から、森中に響いてた雨の音の大きさまで、全部な」
マサキは死体のように項垂れた。この後エミがどうするのか見たくないからだろうなというのが自己分析だ。それならそれでさっさと逃げ帰ればいいものを、それをせずこの場に留まっているのが何より自分の情けなさを晒している。
「マサキ君……ごめんね」
何に対しての謝罪なのか、と考えるよりも早く、すぐ目の前からエミの声。右肩が大きく跳ね、それを誰かに押さえ込まれた。少し経って、ああ、エミに抱き締められたのだと分かった。分かった瞬間に叫んだ。
「止めろ! 俺は……!」
「うん。ごめんね。わたし、知った気でいた。マサキ君が友達を亡くして、その辛さはこのくらいなんだろうなって、勝手に分かった気になってたんだ。でも、わたしが思ってたこのくらいは、そんな、マサキ君にとってみたら、全然だったんだね……」
拘束が少し緩んで、エミの顔が目の前にスライドしてきた。
白い肌は真っ赤に腫れていた。
見ていると引き込まれそうになる大きな瞳は瞼とまつ毛に挟まれて見えない。ただ、その裂け目から、間違いなく彼女のものだと納得できる綺麗な透明の涙がとめどなく流れていた。
「だったら!」
「出来ないよ」
目の前でエミは小さく頭を振った。表面張力の限界まで涙を溜め、頬を何度かつり上げて無理に笑おうとした後、そんな笑顔が決壊しそうになると、今度はマサキの頭を肩口まで抱き寄せた。
「離れるなんて、出来ないよ。だって、マサキ君、辛そうなんだもん……大好きな人が目の前でこんなになってたら、無視なんて出来ないよ……!」
再びエミの両腕が万力のようにマサキの細い体を締め上げた。エミの腕の中でマサキの背が僅かに反り返り、それと一緒に両手がほんの僅か上昇した。
「覚えて」
耳元でエミが囁いた。
「忘れられなくていいから、覚えて。ううん、ずっと忘れないで。わたしがここにいるって。マサキ君のことが大好きで、助けになりたいって、支えになりたいって願ってる人が、あなたのすぐ目の前にいるんだって」
痩せ我慢の限界はそこだった。あるいはとっくに限界なんて過ぎていて、今までのやり取りは、例えるなら浴槽の栓を抜いてから水が無くなるまでの間に横たわる優しさのようなものだったのかもしれない。それがあるから子供は栓の上に渦を作って遊ぶことができるし、それがあったから、エミの体に爪を立ててしまう前に彼女のブラウスを握り締めて抱き寄せることができた。
聞いたことも無い呻き声が腹の奥から聞こえた。泣いたかもしれない。マサキは涸れ果てた砂漠のように、目の前に一粒だけ降ってきた雨粒に、ただただ強く縋りついた。
最初は拘束具のようにマサキを縛っていたエミの手は、いつしか優しく、そして柔らかくマサキの背中を撫でていた。
「エミ……」
名前を呼ぶ。何か言葉を掛けたかったわけでもなく、気を引きたかったからでもない。ただそうすることが重要だった。彼女との繋がりを求めているという意思表示さえできるなら、手を握るでも、キスでもよかった。しかし女性にキスするような度胸も、手を握るために今彼女の背中に回されている両手を解くだけの我慢強さも自分にはなかった。
「うん」
だから、エミからの返事もおおよそそれだけでは会話として成り立たないようなただの肯定で。しかしそこには、マサキの全てを受け入れるという意思のこもった深い温かさがあった。
マサキがエミの顔を見ると、彼女は蕾が花開くように笑った。
「やっと、もう一回わたしの前で笑ってくれたね」
「もう一回……?」
以前に一度でも彼女に笑いかけたことがあっただろうか。疑問に思っていると、エミは耳たぶと頬に赤みを残したまま楽しそうに息を漏らし頷いた。
「シリカちゃんと知り合った時……そう、初めてマサキ君のコーヒーを飲んだ時と、ピナが生き返って、マサキ君ちにお礼を言いに行った時。それでわたし、『ああ、この人本当はとっても優しい人なんだな』って思ったの」
エミの微笑が、愛しい我が子を抱く母親のような色を帯びた。反射と意識の中間くらいのタイミングで口が開いたが、意味のある音は出てこなかった。
ハイタッチを空振った後の右手みたいにふらふらしていた唇が閉じると、世界から音が消えた。
探り合うような沈黙が流れ、エミが目を瞑り。同時にその顔が近づいてきて、マサキの体が電気ショックを受けたかのように跳ねた。
このまま動かなければいいのか。それとも、こちらからもアクションを起こすべきなのか。計算を試みたものの、数字が代入できるような問題ではなく、もうどうにでもなれとマサキも目を瞑った。
吐息を肌で感じる。すぐ目の前にエミの顔があるのだ。そして、ああ、もう触れ合うなと、視覚以外のセンサーで敏感に感じ取った瞬間、突然強い力で地面に押し倒された。
「おい……?」
後頭部を強かに床へぶつけたマサキが片目を瞑ったまま抗議と疑問が入り混じった声を上げると、エミの頭はマサキの肩口に当てられていた。それだけならば理解もできたが、それまである程度自力で自重を支えていたエミの体から一切の力が抜けてしまったかのように、エミは全体重をマサキに預けてきていた。
「何が……ッ!?」
あった、と尋ねる寸前、マサキの手がエミの背中から生えた物体に触れた。薄い刃状で、硬い。先に行くと円形の薄いパーツが垂直に組まれていて、その向こうは緩やかなカーブを描いた円柱形。
「エ……」
ダガーだ。そう確信した瞬間に、何か鋭いものが腿に突き刺さり、マサキは体のコントロールを失った。麻痺毒だ――それも、相当高ランクの。
一瞬の間にマサキは幾千、幾万の言葉で己の危機感の無さを罵った。一体何故自分はこんな敵陣のど真ん中で、こんなにも悠長に昔話などしていたのか。しかしいつの時代にも、先に立つ後悔なんてものはなく。直後、パチ、パチ、と拍手の音が通路に何度か反響しながら聞こえてきた。
「いやぁ……感動したぜ。中々良いラブロマンスだった」
大げさに抑揚を付けた声。そしてどこか異質なイントネーションは、記憶を探るまでも無く誰のものか明らかだった。
「Poh……!」
「ハハ。そう邪険にすんなよ、《穹色》。確かに水を差しちまったのは認めるが――」
おどけた声を響かせながら、Pohは初めて見たときから変わらぬ黒ポンチョ姿でマサキの視界に入ると、その上に重なって倒れているエミを足でひっくり返し、右手を振り上げた。そこには彼の得物である魔剣《友斬包丁》が握られていて、鮮血色のライトエフェクトを纏っている。
「やめろ――!!」
「すぐにあの世でイチャつかせてやるからよ!」
Pohはそのまま、一切の躊躇すら見せずエミの無防備な首筋に向かって振り下ろし。
「……なんてな」
友斬包丁は、エミの首筋からほんの僅か離れたところで、ライトエフェクトを維持したまま停止した。
「《大道芸》スキルってんだ。中々面白いだろ? ……ま、ジュンの野郎は上手く使いこなせなかったみてェだが」
Pohの口ぶりからするに、その《大道芸》スキルとやらが先ほどの戦闘でジュンが見せた「硬直のないソードスキル」のタネだったらしい。マサキはまだエミの首が繋がっていることに安堵したが、それを嘲笑うようにPohは四肢から力の抜けた彼女の襟を掴むと、そのまま持ち上げて友斬包丁の背で顎を持ち上げた。
「さて、どうやって遊んだもんかね」
上手く動かせないだろう表情筋でPohを睨みつけ、最大限に抵抗の意を示しているエミの顔を、Pohが面白そうに覗き込む。
その間も、マサキの脳はこの窮地を脱するための方策を生み出すべく、必死に回転を続けていた。マサキとエミの耐性を容易く貫通して麻痺状態に陥れたということは、相当な高ランク毒のはずだ。推測ではあるが、毒が効果を失うまで少なく見積もっても九百秒はあるだろう。逆に言えば、このままでは九百秒以内にエミは死ぬ。
しかし余命の推測はできても、この状況を逆転させられる起死回生の一手は一向に思い浮かばない。
マサキの中で焦りが増大し、集中の阻害をもたらすと同時にマサキが必死に目を逸らし続けていた「不可能」という単語を直視させた。
――やはり、こうなるのか。
マサキの脳裏に、かつての親友が死んだ時の映像がリフレインした。それも何度も。その連続再生がようやく終わったと思ったら、今度は別人の死亡シーンが流れてくる。マサキが怒りのままに手に掛けたオレンジであったり、五十層のフロアボス攻略戦で死亡した、先ほど戦ったジュンのギルドメンバーたちであったりと人物像は様々だが、辿った過程は皆一様だった。
アインクラッドで死亡したプレイヤーは、まず人形が生者に成り代わってしまったみたいに表情が動かなくなる。その後身体中にノイズが走り、全身がアクアマリンで出来た彫像のようなポリゴンの集合体になって、最後は砕けて消える。これからエミもそうなるのだと考えたら、もう全てがどうにでもなってしまえばいいと思えた。いっそ、現実世界で天変地異が発生して、SAOのサーバーが丸ごとオシャカにでもなってしまえば諦めだってつくのかもしれない――いや、それも無理か。
そら見ろ、と、自分に笑われたような気分だ。トウマが死んで、繋がりを失うことの恐ろしさを知ったはずなのに。五十層のボス討伐戦で、繋がりを求めることの愚かさが身に染みたはずなのに。また性懲りもせずに手なんか伸ばすからだ。記憶力の良さが聞いて呆れる。
ああ……そうだ。最初にもっと強くエミを拒絶していれば、彼女は今こんなところにいなかった。彼女の容姿と魅力なら、友人も恋人も、幾らだって作れただろう。それが自分である必要なんてないし、そうなりたいとも思っていなかった……少なくとも、最初のうちは。しかし好意を寄せられる心地良さに負け続けたから、エミはここで死ぬのだ。その後にマサキも殺されて、それで全てが終わる。もう、誰かを求めることもないだろう。
「……マサキ、君」
頭上から声が降って来た。何度も聞いた、美しいソプラノ。しかし、もうその出所へ顔を向ける気力もなかった。次は何と言うのだろう? 罵倒だろうか。それとも、こんなにも無様な自分をまだ信じて、助けを求めるだろうか。
ああ……。どちらも嫌だな。このまま耳を塞げたら、きっと、それが一番楽だ。麻痺毒で手が動かないからそんなことさえできない。これが因果応報ってやつか。
「わたし……、後悔、してないよ」
「え……」
彼女の放つ言葉がマサキには良く分からなかった。勿論単語の直接的な意味は理解できるが、それらを繋ぎ合わせて彼女が何を伝えようとしているのかが分からない。日本語に類似した全く別宇宙の言語を聞いているような感覚。
マサキは反射的にエミの顔を見上げた。言葉だけでは分からないことも、相手の表情を見ればより細かいニュアンスが伝わりやすくなるだろうからという理屈。その途中でマサキは、エミがこの窮地を脱する秘策を持っているのではないかという希望的観測を抱いたのだが、そんなものは彼女の顔を一目見て間違いと分かった。
「マサキ君を好きになったことも、ここに来たことも……何も、後悔してないから。もし来世とか、そういうのがあったとしても、わたしは同じようにマサキ君を好きになるよ。だから……ね? そんな顔、しないで……?」
エミは笑っていた。優しげに下がった両の目尻から涙をさめざめと流し、いつも楽しそうに弾んでいる口角を震わせながらつり上げて笑っていた。
怖がっている。そう直感した。当然だろう、死が間近に迫っているのだから。死を恐れない生物なんて存在しない。だというのに、彼女は……泣くでもなく、もがくでもなく、ただ我が子を抱く母親のように笑ってみせた。途端に、頭の中で冷凍保存されたままになっていた先ほどの言葉がナイフのように鋭く尖り、脳みそをぐちゃぐちゃに突き回して暴れた。
「……るな……」
見ていられなくなって再び頭を垂れると、今にも身体が爆発しそうな感覚に襲われた。マサキの胸に堆積した感情は未だ頭の中を切り裂いて飛翔し続けるナイフから飛び散った破片のようなもので、小さく動き回っているせいで一つ一つ並べ上げ区別することができない。しかしその怒りとも、悔恨とも、決意とも取れないエネルギーの奔流ははある時遂に臨界点を超え、その瞬間ぴくりともしない四肢へ一気に流れ込んだ。
「ふざけるな……ふざけるなよ……! ふざ、けるなァッ!」
握った小枝が折れずにそのまま落ちる程、マサキは右手を強く握り締め、一センチほど振りかぶって、アリ一匹も潰せないほど勢い良く、地面を繰り返し殴った。
全てが腹立たしかった。エミを手に掛けようとしているPohも、できない理由ばかり並べ立てる自分も、死の縁から手が離れそうになりながら、そんな自分に最後まで微笑みかけようとするエミも。
「離せよ……」
「Huh?」
荒い吐息の波間で、疑問のような、嘲るような、そんなPohの声が、まるで自分が発声したもののようにさえ思えた。おいおいバカなこと言うなよ。まだ苦しみ足りないのか? とんだマゾヒストだな。とか、そんなニュアンス。
その通りだ。どうせエミはもうすぐ死ぬ。身体さえ動かない状況で、一体何ができると言うのか。ただ助けようとした事実が、助けたかったという慕情が、失った悲しみを乗算するだけ。もし……もし、何らかの奇跡が起こって生還出来たとして、その後は? また同じことが起きない保証が何処にある? だったら、見ないのが一番楽で、堅実だ。夏場腐った弁当みたいなもの。中を開けて食べることはできずとも、ロッカーにでも突っ込んで目を合わさないことくらいはできるだろう。
それでも。
「離せと言っている……!」
淀みきった空気の中で、ふと、ほんの少しだけ流れを感じた。その感覚刺激がマサキの脳内でスパークを散らして、神経系を通じて末端に届けられた。両手を開き、地面について、力を込めると、上半身が持ち上がった。膝を上げ、片足を起こす。母趾球にありったけの筋力値をかけて壁伝いに肩を擦りながら立ち上がる。エミが泣きながら驚いて口を開け、Pohは面白そうに口笛を一つ吹いた。
それでも? それでもって、何だ?
それでもは、それでもだ。
だから、今は。今だけは。
「そいつに、薄汚い手で触るな……!」
捨て去ると決めた。
彼女を護らない理由なんて、全部。
後書き
57話目にして初めて主人公っぽいムーブをしたマサキ君でした。かつてこれほど恰好つけるまでに時間がかかる主人公がいただろうか。
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