整備員の約束
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5. 残煙
今日の仕事を終え、今日も店に足を伸ばすかと、小料理屋『鳳翔』の引き戸を開いた。
「や。いらっしゃい」
洗い物だろうか……提督さんが、手に持つ大きな皿を拭きながら出迎えてくれたのだが……店内にちょっとした違和感を覚えた。いつも提督さんの隣で優しそうな笑顔を浮かべていたはずの、彼女がいない……
「提督さん。あの、『鳳翔』とかいう艦娘の人は?」
「……」
軽い気持ちで質問した途端、提督さんの手が止まった。その様子を見て、昼間に出撃していった艦隊の参加人数と、戻ってきた奴らの艤装の数が合わなかったことを思い出した。
帰還したやつらの艤装の数が合わない……ということは……
「……鳳翔は、もうここには来ない」
俺がここに鳳翔がいない理由に気付いたのと、提督さんが辛そうに口を開いたのは、ほぼ同時だった。途端に、そんな無神経な質問をしてしまったことに、ひどい罪悪感を感じた。
「……すみません」
「キミが謝ることじゃない」
瓶ビールとコップ、そしてお通しの紅白なますを俺の前に出しながら、提督さんが俺にそう答えてくれたが、胸の罪悪感は消えない。自分の無神経さが嫌になる。
胸の嫌な気持ちを紛らわせたくて、視線の先の灰皿に手を伸ばし、胸ポケットからライターを出したその時だった。
「あ! 今日も徳永さんいますね〜」
「よう徳永」
引き戸がガラガラと開き、まるゆと木曾の声が店内に響いた。俺はポケットから出しかけていたライターを慌てて戻し、灰皿も遠くへと追いやる。まるゆがいるなら、タバコは吸わないほうが良い。
「なんだお前ら、今日も来たのか」
「徳永も人のこと言えないだろ?」
「最近はホントによく会いますね!」
そう言ってこいつらは、俺の両隣に座りやがる。こいつらとも付き合うようになってだいぶ経つが、最近は特に示し合わずとも、不思議とこの小料理屋で会うことが増えた。
特に、まるゆが一緒にいるときなんかは、俺も自然とタバコを吸うのを止めたし、さほど気にならなくもなっていた。割とヘビースモーカーの部類に入る俺がそんな風に考えるなど、まるゆと知り合う前には考えられなかったことだ。
二人が俺の両隣に完全に腰を下ろしたところで、提督さんが二人の前に、いつものメニューをトンと置いた。まるゆは『隊長、ありがとうございます』と笑顔で礼を言っていたが、木曾の顔はなんだか複雑だ。
「……なぁ提督」
「ん?」
置かれた徳利からおちょこに酒をついだ後、木曾がいつになく真剣な声色で、口を開いた。
「ここ、どうするんだ?」
「……」
「続けるのか?」
思わず『何をだ?』と口を挟みそうになり、慌てて口をつぐむ。おそらくは、この店のことだろう。言われた途端、提督さんの顔が曇ったからだ。
しばらくの沈黙の後、提督さんが重い口を開いた。その間、店内にはアナログ時計の針の音だけが鳴り響いていた。
「……続けるよ。それが彼女の望みだから」
「そうか……」
喉の奥底から絞り出すようにそう答えた提督さんの笑顔は、今にも大声を上げて泣き出してしまいそうな……そんな、歪んだ笑顔だった。
そんな印象的なことがあって数日後のことだ。その日俺は昼からのシフトで、昼飯を食った後、整備場へと出勤したのだが……その整備場に、ちょっとした異変が起こっていた。
「……なんだこれ」
仲間の整備員の人数が、どう考えても普段の半分以下になっている。元々ここの鎮守府は激戦区にも関わらず、整備班の人数がかなり抑えられていた。ギリギリの人数でなんとか回していた仕事量だっただけに、人数が半分以下では仕事が回らない。
インフルエンザか何か……もしくは新手の病気でも流行したのかと思い、いつもの同僚に事の次第を聞いてみるかと、そいつの作業スペースに足を運んで見たところ……
「……なんかさ。人員削減するってさ」
と、にわかに信じられない事実が突きつけられた。
「……マジか」
「そうらしい。ここの鎮守府、艦娘の轟沈が頻発してる割に補充はないだろ? そのせいで規模が段々小さくなってる」
「……」
「それで、規模に合わせて整備員の人数も縮小するそうだ。今いないやつらは大体他の鎮守府に行ったか……もしくは辞めてる」
「妖精もいないだろ? その上俺たち整備班まで縮小されて、ここ回るのか?」
「知らねーよ……俺にも異動の辞令が下りたし、身の振りを考えなきゃ……」
そう言いながら艤装の汚れを磨き落としている同僚の顔には、なんだか憤りに近い感情がにじみ出ていた。なんだかんだこいつもこの鎮守府に慣れ親しんでいた。ここを離れるのは、納得がいかないようだ。
「……でもお前は大丈夫だろ。艦娘からご指名されてるんだよな?」
「ああ。二人からだけだが……」
誰にも言ってないはずの木曾とまるゆからの指名をなぜこいつが知っているのか……と不思議に感じたが、考えてみれば、あいつらの艤装は必ず俺のところに回されてくるし、あいつら二人は必ず艤装に一言手紙を残してくれている。それを見てれば、俺が二人に指名されていることも分かるか……と考え直した。
自分のスペースに向かうかと俺が振り返った時、俺のスペースに置かれている艤装が、一人分足りない事に気づいた。
「なぁ。そのご指名のやつの艤装が一つ足りないんだが。まるゆは昨日の出撃は損傷なかったのか」
そう。木曾の艤装はいつものように俺の作業スペースにポンと置いてあるのだが……もうひとつ、まるゆの主機と艤装が足りない。遠目からでも、その違和感は分かる。
「なんだお前、聞いてないのか」
「何をだよ」
次の同僚のセリフを聞いた時、俺は、あの日提督さんが泣きそうな笑顔を浮かべていたときの気持ちを、初めて理解出来た気がした。
「あいつ、昨日の出撃で轟沈したぞ」
仕事が手につかないながらも、木曾の艤装の調整だけはなんとか終わらせたその夜。俺はいつもの小料理屋に作業着のまま足を伸ばした。特に示し合わせはしていないし、今日は顔すら見ていない。だが、今日は確実にあいつがいる。そんな確信があった。
引き戸を開き、店内に入る。カウンターにはいつものように提督さんが一人だ。そして……
「……よぉ徳永」
やはりいた。木曾はカウンター席に座ってこちらに背を向け、俺の方を振り返るでもなく、まっすぐ前を向いていた。木曾の前にあるのは、いつもの徳利とおちょこではなく、コップに注がれた牛乳と、大皿に盛られたポテトチップス。あの小僧が、いつも頼んでいたやつだ。
何も言わず、無言で木曾の右隣に座る。俺の視界に入る木曾の横顔は、目が眼帯で隠れて、こいつが今どんな表情をしているのか、まったく分からない。
「徳永、今日からタバコは気にしなくていいぞ」
タバコを吸う俺からしてみれば嬉しい言葉のはずなのだが……木曾からのそのセリフを聞いた途端、不思議と俺の心に、埋め難い穴のようなものが開いたことを感じた。
「うるせぇ。禁煙中だ」
「ククッ……身体がタバコくせぇぞ徳永」
「今から禁煙なんだよクソ」
「そうかい」
心にもない軽口を叩く。提督さんがビールとコップを出そうとしたが、俺はそれを右手で制止した。
「……提督さん、牛乳もらえるかな」
「わかったよ」
俺は特に牛乳が好きというわけではない。わけではないのだが……
―― これ美味しいんですよ? ポテチには牛乳です
今日は牛乳とポテトチップスを食べなければならない……そんな気がした。きっと木曾も同じ気持ちで、ポテトチップスと牛乳をチョイスしたのだろう。
ほどなくして、俺の前にコップ一杯の牛乳が置かれた。あの小僧がいつも飲んでいた、ごくごく普通の牛乳だ。
「お前もまるゆの真似かよ」
「同じことやってるお前にだけは言われたくねぇ」
「言えてんな」
木曾が、ポテトチップスの大皿を俺の方に動かした。これで俺も、手を伸ばせばこいつのポテトチップスに手が届く。それを一枚手に取り、口に運んだ。
「……」
「……」
木曾も手を伸ばし、ポテトチップスを数枚、口に運んだ。提督さん手作りと思われるポテトチップスは塩味が効いていて、とてもうまい。
そのまま牛乳を煽った。ポテトチップスの強い塩気のせいだろうか。口の中の牛乳はほんのりと甘く、いつもよりも美味しく感じる。ポテトチップスと牛乳は合う。……目の前で何度も見てきたはずなのに、そんなことに、今更気づいた。
「……うまいな」
「だろ。俺も今日気付いた」
「お前もかよ。まるゆと付き合い長かったくせに……」
「ああ。付き合い長かったくせにな。あいつがこんな美味い組み合わせを知ってたってのは知らなかった」
「……」
「あいつのこと、何も知らなかったんだな俺は……」
「んなことはないだろ」
「……」
俺の言葉に返事をせず、木曾は再びポテトチップスに手を伸ばし、それを口に運んでバリバリと食べ始めた。そして喉を通す前に再び手を伸ばし、口に運ぶ。
俺も同じく、大皿のポテトチップスに手を伸ばした。今度は数枚一気に鷲掴みで手に取り、それをまとめて口に運んだ。店内に響く音は、俺と木曾がポテトチップスを噛み砕くパリパリという音だけだ。
「キソー、まだ食べるか?」
「ああ頼む。いつもと同じ量で」
「わかった」
提督さんが気を利かせ、さらにポテトチップスを揚げていく。シュワシュワと油の音が鳴り響き、その間にもパリパリという咀嚼音は止まらない。
「……」
木曾の手は止まらない。俺の手も止まらない。やがて大皿の上のポテトチップスがなくなった頃、俺達の前には新たな大皿が代わりに置かれた。まだジジジという音が鳴り止まない、揚げたてのポテトチップス。少し塩が多めに振られた、あの小僧が……まるゆが大好きだったメニュー。
「……なぁ徳永」
「あ?」
そんな揚げたてのポテトチップスをジッと眺めながら、木曾は口を開いた。相変わらず木曾はこちらに顔を向けない。おかげで眼帯のせいもあって、木曾の表情は読めない。
「俺は、あいつがこんなうまいものを好んでいたことすら、知らなかった」
「……」
「そんな俺だが……俺は、あいつにとって良い相棒だったのかな」
「知らねぇ。本人に聞け」
「聞けねぇからお前に聞いてんだろうが」
表情が読めないまま、再び木曾はポテトチップスの山に手を伸ばした。鷲掴みされたそれは木曾の口に運ばれ、バリバリと食べられていく。
俺もポテトチップスに手を伸ばした。さっきまで揚げたてだったポテトチップスはすでに冷えていて、さっきのものよりもキツめの塩味が、口の中にじんわりと広がっていった。
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