ソードアート・オンライン 穹色の風
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アインクラッド 後編
血路にて嗤う
前書き
今回の話には少々過激な表現が含まれるため、小説情報にR-15タグを付け加えました。お気に入り小説の最新話からいらした方でそういった表現が苦手な方につきましては、大変申し訳ございませんがブラウザバックを推奨いたします。
二つの背中が目の前でぼんやりと揺れている。先を行く二人の速度はマサキからすればジョギング程度のスピードで、その気になればいつでも置き去りにできるのにも関わらず、マサキの足は回転数を上げる素振りさえ見せなかった。何度かそれを考えたことはある。しかし、結局のところ毎回実際に脳から指令を出すには至らなかった。
こんなことに付き合わされて辟易しているから? クラインが言ったように、彼らを壁にすれば効率がいいから? 幾つかの理由をでっち上げては自問し、半笑いで投げ捨てることの繰り返し。バラエティのクイズ番組みたいなものだ、答えなんて誰の目にも明らかなのに、分かっていない道化を演じ続ける。だから嫌なのだ。エミが無事であってほしいという祈りも、それに反発して逃げ帰りたいと叫ぶ嗚咽も、逃げ帰ったところでより強い後悔と自己嫌悪が待っているだけだと悟った諦観も、全部滑稽ったらない。
「……見えてきたな」
思考の独り相撲を取りつつも、マサキの脳は聴覚野に届いたエギルの小さな声を逃さず拾い上げた。無駄な思考ばかりしたがる脳内回路を意識的に切断して目に映る情報に思考のリソースを割り振ると、はっきりと焦点の合った世界に、洞窟の入り口らしき窪みが見えた。そんな分かりきったことをエギルがわざわざ発言したのは、緊張故か、或いは緊張による沈黙を少しでも緩和しようとしたのか。どちらにせよ、声色同様に彼らの表情も硬いのだろうとマサキは推測した。
「《索敵》と《隠蔽》、もう一度確認しておけよ」
マサキは二人を追い抜きざまに声を掛けた。戦闘の気配が色濃くなったせいか、自然と頭の中が整理されていく感覚。何て都合のいい脳みそだろうと、マサキは歪めた口からふっと息を零した。
洞窟入り口の近辺まで来たところで、一度岩陰に身を隠し周囲を索敵。嗤う棺桶の連中も、攻略組のメンバーも見えないということは、まだ中にいるのだろう。無事作戦を終え後処理に奔走しているのか、それとも今まさに血みどろの決戦を繰り広げているのか――ここからは知る由もなく、知らずに終われるならばそれに越したことはないインフォメーションだ。
マサキは声を発する前に、小さく息を吸い込んだ。
「行くぞ」
「ああ」
「おう」
二人の返事を聞き届けると、マサキは振り返ることなく、そのスピードからは考え付かないほど小さな足音だけを残して洞窟の中に身を投じた。
じめじめとした湿気と淀んだ空気。一見すればただの洞窟タイプのダンジョンでしかない穴倉を進む。《蒼風》の柄頭に手を乗せ、それまでと同じように次の一歩を踏み出して、マサキはコンマ数秒躓いたように静止した。
「……何かあったのか?」
「……やってるらしい」
洞窟の奥から響く、キィン、キィンという金属同士がぶつかり合う音に、幾十にも混ざり合ってさざ波の音のように形を変えた、恐らくは声や雄叫びの集合体。この先で、今まさに戦闘が行われているという証拠だった。マサキはこの先で戦っているはずのキリトとアスナをほんの一瞬だけ思い浮かべ、口と鼻から空気を吐き出して再び歩き出し、数メートル先で歩を止めた。そこには高さ一メートルほど、幅八十センチほどの穴があり、その先に奥行き十メートルほどの空間が存在する。碌な使い道もない、マップデザイナーのミスがそのまま製品版まで残ってしまったような構造だが、アルゴが見つけたというメモにはマサキを連れて来い、との一文の他に、この穴をくぐれ、という指令も書かれていたのだ。敵の指示通りに行動するのはリスクもあったが、今はこれ以外にエミの居場所が分からない。行くしかない、と結論を出し、マサキはその穴を潜り抜けた。
穴の向こう側に広がっていた空間は、メインの道から外れたにしては広々としていた。今まで通ってきた穴よりも少し横幅は狭いが、二人が並んで得物を振るうこともできそうだ。と、軽く周囲に目をやったマサキが慎重に進もうとしたその時、マサキの目に何かキラリと光る物が見えた。その部分に意識を集中させ、ディテール・フォーカシングシステムが視線の先を鮮明に映し出し――マサキは足音を消すことも忘れ全速力で前方に跳んだ。
「お、おいマサキ!?」
クラインの慌てた声すらマサキの耳には入らない。一足で一番奥まで突っ切り、行き止まりになった壁の亀裂に刺さっていた濃紺色の結晶と、それに引っかかっていた、白地に黒の水玉模様が描かれたシュシュを手に取った。見間違えるはずもない、エミが普段着けているものだ。
「おいマサキ、これってよ……」
「……ああ。エミのだ」
「もう一つは回廊結晶か……普通に考えりゃ、これで移動しろってことなんだろうが……」
エギルがマサキの手から結晶を取ると、マサキはもう片方の手に持ったエミのシュシュを強く握り締め、空いた片手で頭をガリガリと掻き毟った。回廊結晶で飛んだ先に、エミが無事な姿でいてくれればいいが、それだけを望むのは楽観的すぎる。相手はあの嗤う棺桶なのだ、どんな罠が張り巡らされているか分かったものではない。いや、罠だけならいい。こちらには、エミが今生きているという確証すら無いのだから。
周囲の音が遠くなり、自分の呼吸が煩い。地に足が着かない、どこまでも自由落下しているような浮遊感を覚え、マサキの両脚から力が抜けかかる。そんなマサキが我に帰ったのは、急に頭を地面に押さえつけられた瞬間だった。
「あぐっ!?」
「マサキ! ……馬鹿野郎! こんな時に呆けてる場合かよ!!」
受身も取らず地面に頭を叩き付けた衝撃で若干クラクラする意識を必死に繋ぎとめ、地面から離れた方の目を半開きにして様子を窺うと、太い腕でマサキの頭を押さえつけたエギルとクラインが、それぞれ得物を抜き放ち振り下ろされた武器と鍔迫り合いを演じていた。クラインが止めている曲刀の先端はマサキの頭を捉える軌道上にあり、エギルが押さえつけていなければ、あるいはクラインが刃を止めていなければ、間違いなくマサキの頭は両断されていただろう。そしてその瞬間、マサキは今自分達が奇襲を受けたことを理解した。
それからはマサキの行動も迅速だった。一瞬のうちに身を起こし、蒼風を抜き放つ。敵の数は二人。奇襲さえ凌いだ今なら、数で押せると判断したためだ。
「お前はいい! 早くエミのところに行け!」
しかし、それを押し止めたのは敵ではなくエギルだった。
「な……」
「俺たちはエミちゃんを助けに来たんだろ! こんな場所で雑魚に構ってる時間なんてねェだろうが! ……癪だけどよ、こん中で一番強いのはお前だろ、だったらお前がエミちゃんのとこに行くべきだ。マサキ、お前ならそんぐれぇ分かるだろ!?」
クラインとエギルが共に敵の得物を弾き、猛然と斬りかかる。筋力値にものを言わせた攻めの意図するところが、マサキが転移するための時間と空間を作ることにあるのは明白だった。マサキは一度何かを言いかけた唇をぎゅっと引き絞り、地面に転がっていた回廊結晶を拾い上げ胸の前に掲げた。
「……コリドー・オープン!」
二人に対して何か声を掛けようと思ったが、いい言葉を見つけるよりも早く、青い光の渦巻く転移門が出現してしまった。マサキは雄叫びを上げて戦意を昂ぶらせている二人の背中をもう一度見、光の門に飛び込むのだった。
麻痺毒に侵され、身動き一つできずに別の場所へ運ばれていく。実際に計測してみればきっと五分と経っていないであろう道中が、わたしにはそれだけで何時間にも及ぶ拷問に感じられた。浅い呼吸を何度繰り返しても酸素を取り入れられている気がしなくて、頼んでも動いてくれない身体が勝手に震えて、足元から背中へと這いずってくる死の恐怖に押し潰されそう。
「何でこんな目に……」って、我が身の不幸を一通り嘆き終わったら、次に始まるのは遅すぎる後悔の連続だ。
討伐隊への参加を断っていれば。
安易にPohを深追いなんてしなければ。
足元の罠に気が付いていれば。
マサキ君、マサキ君と、縋るように頭の中で繰り返す。何て都合がいいんだろう。恋に夢中になって自分の実力を見失い、ピンチを大きくして自分の手に負えなくなったら泣きつく。無知で足を引っ張るだけのヒロインにはなりたくないって、あの時思ったはずなのに。
「着―いーたー、ぜっと!」
少年のような甲高い声が響いたのと同時、わたしの身体は宙を舞い、苔むした石畳に叩き付けられた。麻痺毒に侵され身体の自由が利かないわたしはその衝撃をまともに受け、肺から空気と一緒に呻き声を漏らす。頭に受けた衝撃で火花が散り、視界がぐらぐら揺れる。目を見開いてそれを必死に安定させると、少しずつその場の光景が頭に入ってきた。所々苔が生えた石のブロックで組み上げられた、十メートル四方くらいの直方体の空間。壁の四つ角部分に煤汚れたランタンが掛けられていて、オレンジ色の光が部屋の中を薄暗い程度に満たしている。その造りから、わたしはこの場所が何処かの遺跡系ダンジョンではないかと推測した。
「っつ……や、めて、よっ!」
襟首を掴まれて壁に投げつけられ、背中を強かに打ちつける。強いショックで再びわたしの意識が朦朧としている隙に背後に回された両腕を縄で縛り上げられ、壁に付いた金属製のフックに通して固定された。肩を揺らして引っ張ってみたが、縄が手首に食い込むばかりで緩む気配はない。
「こん、なっ、縄なんて……!」
「Wow、威勢がいいな、『モノクロームの天使』さんよ」
なおも必死にもがき続けていたわたしの顔を覗きこむ男の存在に気がついたわたしは、ビクッと大きく身体を震わせ全身の力を失った。
「『Poh』……」
うわごとのように呟いた途端、わたしを見下ろす口元の右半分がにやりと持ち上げられた。それだけで、心臓をぎゅっと握られるような恐怖を感じる。逃げるように視線を彷徨わせると、わたしを捕らえここまで運んできた残りの二人が目に映る。そのうちの一人にも見覚えがあった。全身を黒の皮装備で覆い、目の部分だけが丸くくりぬかれた頭陀袋のようなマスクを被っているのは、「笑う棺桶」幹部の一人である《ジョニー・ブラック》。彼のことは、事前の会議でも重要人物として名前が挙がっていた。もう一人は部屋の入り口に、わたしに背を向けて立っていて、足元までをねずみ色のフード付きコートで隠しているため人相や性別までは分からない。この人物はもしかしたら下っ端なのかもしれないが、今のわたしにそれを喜べる余裕なんてなかった。どの道、この浮遊城で最も恐ろしいギルドのトップと幹部一人に囚われているのは確定しているのだから。
顔を上げ続ける力もなくて、馬鹿みたいに笑い続けている自分の膝をぼんやりと眺める。
生唾を飲み込むゴクリという音が、やけに大きくわたしの脳裏に反響する。心臓がバクバクと跳ね回る。この世界に空気なんてないのに、過呼吸で意識を失いそうなほど苦しい。
「では、僕はこれで」
意識の端っこで、そんな風な声を聞いた。やや高めの、少年を想起させる声。恐らくはロングコートの人物のものだろうが、顔を上げてそれを確認するだけの気力もなかった。
「いいんすかヘッドぉ?」
それから少しして、ジョニー・ブラックのものと思しき甲高い声。
「何が」
「あんなやつに『穹色』の処理を任せちまって。つか、あいつ本当に殺れるんスかねぇ?」
「ハッ、そんなことか。いいんだよ別に、どっちが死んでもな」
「なーるほどぉ、さすがヘッド!」
「……マサキ……君……?」
どこか和気藹々とした雰囲気さえ感じられるやりとりの殆ど全てがわたしには聞こえていなかったが、微かに聞こえた『穹色』が、マサキ君を指していることだけは理解できた。
「もう少し待ってりゃ、お前のPrinceが現れるかもな? ま、だとしてもここで殺すんだが」
「うひゃひゃ! ヘッドの鬼―!」
「馬鹿、こういうのはDirectorって言うんだよ。苦労してでっかい餌まで取って来たんだ、ちったあ頑張ってもらわねぇとなァ?」
その言葉で、わたしがマサキ君をおびき寄せるための存在であることを知った。
怖くて。悔しくて。でも、それなら本当にマサキ君が来てくれるんじゃないかって希望が胸のうちに広がって。そんな自分が、何よりも憎らしいと思った。
「っ……」
だから。
「っ、残念でした! わたしにそんな価値はありませーん! 大体、わたしがどんなにアピールしても振り向いてくれなかったのに、命かけてまで助けにくるわけないでしょ? バカなの!?」
「ンだとこのクソアマァ!」
助けを求める声を押し殺し、胸の奥に残った出涸らしの勇気と意地を振り絞って叫んだ。それに激高したジョニー・ブラックの膝がわたしの鼻筋を正面から捉え後頭部が壁に直撃。濁った呻き声を上げて反動で顔をだらりと伏しつつも、わたしの胸には小さな達成感が渦巻いていた。
「止めろ。……ッハ、中々Movingな啖呵だったぜ。気の強い女は嫌いじゃあない。……ところで、睡眠PKは知ってるよな? アレは単純な手口だが、だからこそ色々応用が利く。例えば――」
この瞬間までは。
「『倫理コード解除設定』とか、な」
その言葉までで、わたしはPohの言いたいこと全てを完璧に把握した。倫理コード解除設定とはオプションメニューの奥深くに存在する項目であり、その名の通り倫理コード――即ち普段倫理コードで禁じられている他人との深い接触を解禁するためのオプションだ。そしてプレイヤーの睡眠中にウィンドウを操作しデュエルを受諾させることでPKを行う睡眠PKの応用ということはつまり、プレイヤーが眠っている間にウィンドウを操作し、倫理コード解除設定を操作する、ということ。言い換えれば、わたしの女性としての尊厳の全てを握ったと、そういうことだ。
そしてその一言で、わたしに残されていた僅かな勇気も砕け散った。
「い、や……嫌ぁ……っ」
かつて経験したことのない恐怖が背筋を駆け巡り、震える奥歯が擦れてカタカタと音を鳴らす。
「嫌……助けて、マサキ君……っ」
マサキ君、マサキ君――もう、誰の声も聞こえない。わたしには、この世で一番安心する名前を念仏のようにひたすら唱え縋りつくことしかできなかった。
SAOに存在するメジャーなPK方法の一つに《ポータルPK》というものがある。回廊結晶の転移先が固定であることを利用して事前に罠を張り巡らせたり、大勢で待ち伏せたりして行うPKだ。これに引っかかるのを避けるため、信頼できる人間が設定したもの以外の回廊結晶を使用することはご法度というのが今のSAOでは常識となっている。当然マサキもその知識は持っていたし、エミを餌におびき寄せて大勢で嬲り殺すなんてことは奴等にとって大好物だということも少し考えれば分かることだったが、その可能性を考慮する前にポータルへ飛び込んでしまった。それはひとえにマサキの死に対する危機感が欠落しているからであり、マサキというプレイヤーだけが持つ、その他のプレイヤーとの明確な相違点だった。
一瞬漂白された視界に、再び色が戻る。
苔むした石のぬるりとした感触が足の裏に伝わり、マサキは滑らないよう膝を折って着地した。完全に静止したのを確認してからゆっくりと立ち上がる。人二人が肩をくっつけてようやく通れるほどの狭い通路で、上下左右が綺麗な平面で構成されていることから人工物であろうことが想像できる。
幸いなことに、罠が発動する気配も、大勢のレッドプレイヤーが襲い掛かってくることもなく、エミの姿もそこにはなかった。ただ一人、ねずみ色のフード付きコートを着た人物が、幽鬼のように佇んでいた。
「来ないかと思いました」
マサキよりも幾分高く、幼さの余韻を残したような声。その声をマサキは聞いたことがあった。
「ジュン、だったな」
「……驚きました。覚えてたんですね」
五十層のフロアボス戦で仲間を失った最後の一人。マサキに憧れていたと子供のように言った少年は、皮肉ではなく本当に驚いたという風に言って、顔にかかったフードを取り払った。マサキの記憶にある姿よりも前髪が伸びていて、身にまとう雰囲気も大人っぽく変わっていた。擦れた、と形容した方が正確かもしれない。
「『血盟騎士団』に入ったと聞いた」
「ええ、その通りです。ひたすらレベルを上げて、技を磨いた。今日この日の為にね」
ジュンがコートを脱ぎ捨てると、その下から血盟騎士団のユニフォームである紅白の鎧と、背中に背負われた彼の身長ほどもある大太刀が現れた。マサキの記憶ではもっと短い刀を使っていたが、あの後で新調したのだろう。
ジュンは瞳孔を目一杯開いて、狂気に侵されたように顔の左半分だけを歪ませた。
「攻略組最強だとか言われていても、所詮はアマちゃん集団ですよ。副団長も、『僕のような人間を増やしたくない』って直訴したら、二つ返事で僕を討伐隊に入れてくれました。僕がラフコフと通じているとも知らずに」
堰を切ったように言葉を飛ばし続ける。自分で自分の管制が効かなくなってきたのか、徐々に身振りが大きくなり、抑えきれず滲み出した強い感情を孕んだ声が狭い通路に反響する。
「奴等は愚かにも勘違いをしてるんだ。『俺たちはまともだ、俺たちは殺人者とは違う』ってね。馬鹿馬鹿しい。人間なんて、ただ一つ、ただ一度のきっかけだけで変わってしまうものなのに!」
「御託はいい。エミは、どこにいる」
「……やっぱり、彼女は助けたいんですね。僕の仲間たちは見殺しに――いや、自ら手を下したのに」
トーン・ダウンしたジュンが面白そうに目尻を下げる。今にも涙が零れ落ちそうだ。
「別に皮肉を言ってるんじゃないですよ。むしろ感謝してるんです。苦労して捕まえた餌に興味を示されなかったら悲しいですから」
「質問に答えろ」
「この奥に居ますよ。ただ、一緒にいるヤツは子供みたいな奴なんで。欲望に忠実って言うんですか、あれだけの美人を前にして、どれだけ『待て』が出来るか分かりませんね」
「お前……!」
沸騰するような怒りがマサキの全身を支配した。右手が脳の指令を待たずして蒼風の柄を握る。視界いっぱいに広がったジュンの顔が、心底面白そうに歪んだ。
「その程度じゃない。そんな程度じゃないんだよ、僕らが受けた苦しみは……!」
ジュンが背負った大太刀を抜き放つ。この世の闇全てを吸い込んだような黒い刀身がぎらりと光り、ジュンの顔から感情がすぅっと消え失せる。しかしマサキを射抜かんとする鋭い眼差しと、襲い掛かろうとする自分を必死にその場に止める深く長い呼吸から、仮想の空気さえビリビリとひりつくような怒気が滲む。
マサキは一度ぎゅっと瞼を閉じ、改めてジュンをレンズ越しに睨み付けた。小さなガラスの片隅にエミの顔が浮かんだような気がして、柄を握る右手に力が入る。
「殺してやる……!」
零れるようなジュンの呟きを合図に、マサキは地を蹴った。
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