月夜のヴィーナス
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第四章
うちの会社からは僕に部長が出てそして相手先の部長さんも出た、本当に全てはビジネスの話だった。
僕と部長と二人で待ち合わせ場所に行くと程なくして相手も来た、僕達二人と向こうの部長さんはスーツだったけれどその人は。
桜色で白い牡丹と赤い鳥をあしらって赤い帯の見事な絹の振袖だった、髪もセットしていて簪もさしてだ。
足も草履で足袋は白い、その身なりにだ。
僕はびっくりしてだ、部長に囁いた。
「あの」
「うん、わしもだよ」
見れば部長も仰天している顔だった。
「あちらさんのことは聞いていたがね」
「それでもですよね」
「いや、着物とはね」
「流石は京都の旧家のお嬢様ですね」
「そうだな、あれがな」
「あれが?」
「極端な清純だな」
それだというのだ。
「この前わしが言ったな」
「タンホイザーを観た時の」
「それだよ」
まさにというのだ。
「清純だよ」
「極端な」
「それを見ることになるとはね」
「凄いですね、ですが」
「もう一つのだね」
「女性の顔はないですね」
僕はその人を見つつ部長に話した。
「流石に」
「妖艶はだね」
「ないですね」
「そうだね、そういえばね」
ここでこうも言って来た部長だった。
「夜はディナーだったね」
「はい、最高級のフランス料理の」
「それだね」
「何か能の舞台もそのレストランも」
両方共だ。
「あちらさんのです」
「あのお嬢様のだね」
「関係があるっていうか能を演じるお家は家族ぐるみのお付き合いで」
「京都でだね」
「はい、そしてです」
そのうえでというのだ。
「レストランも馴染みのお店だとか」
「恐ろしい話だな」
「そんな世界本当にあったんですね」
「わしも聞いてはいたけれどな」
部長も僕も普通の庶民の家だ、だからこうした旧家のお金持ちの世界なぞ知らない。聞いてはいてもだ。
「これはな」
「何ていいますか」
「想像を絶する世界だな」
「そうですよね」
「しかしな」
部長は僕にあらためて言ってきた。
「これからだ」
「はい、能にディナーを通じて」
「仕事の話を進めていこう」
「大きな仕事ですしね」96
「是非な」
こうした話をしてだった。
僕達はまずは能を観た、その人は僕の隣の席から能のことを何かと話してくれたがその話よりもだ。
その人の清純さと上品さに驚いたままだった、振袖姿でしかも香がしてそれでだった。能どころではなかった。
それでだ、僕は能が終わった後で部長に言った。
「あの、とてもです」
「能はだね」
「頭に入らないで」
「それだな」
「何かもうあの人にですよ」
何度も会っているけれど今日は特にだ。
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