月夜のヴィーナス
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第一章
月夜のヴィーナス
住んでいて勤務先の会社がある大阪のある劇場でワーグナーの歌劇タンホイザーを観た、たまたま奥さんが急病でチケットが一枚空いたとかで部長にどうかと誘われてだ。
それではじめて歌劇というものを観たがその帰りに部長は僕に笑って言ってきた。
「歌劇もいいものだろ」
「いえ、何ていいますか」
僕は部長に戸惑いを隠せない顔で述べた。
「正直に申し上げますと」
「わからなかったかい」
「ドイツ語ですよね。あの歌劇」
「ワーグナーはドイツ人だからね」
「そのことは知ってますし」
クラシックに疎い僕でもだ、これはもう一般常識だと思う。
「ドイツ語わからないですし」
「しかし音楽やバレエはどうだったかな」
「それはですね」
僕はここでも正直に話した、劇場を出た夜の道を男二人で歩きながら。
「凄かったですね」
「そう思ったか、君も」
「最初の曲から」
「序曲だね」
「そしてその後のバレエの場面も次から次に出て来る歌も」
それこそその全てがだ。
「舞台もよかったですし」
「あれは古典的な演出だね」
「不思議な楽園やお城の中や森の中は」
「演出によっては現代劇みたいになったり抽象的になったりね」
「そうなるんですか」
「歌劇の演出も色々でね」
それでというのだ。
「ワーグナーは特にそうなってね」
「ああした中世の騎士の世界とはですか」
「限らないんだよ」
「そうなんですか」
「そう、そしてね」
部長は僕にさらに話してくれた。
「あの舞台はね」
「古典的で」
「タンホイザーは中世ドイツに実際にいたという騎士であり詩人だけれど」
吟遊詩人だのミンネジンガーだの言う言葉がパンフレットにあった。吟遊詩人は高校の授業で習ったけれどミンネジンガーは知らない。
「その時代のドイツをね」
「忠実に再現してますか」
「そうした舞台だったね」
「そうでしたか、じゃあヒロインも」
二人いたのはわかった。
「清純なお姫様と妖艶な女神も」
「エリザベートとヴェーヌスだね」
「あの二人もですね」
「中世のイメージだね」
「そうなんですね、一人二役でしたけれど」
その両方の役を一人の歌手が演じていた、声の高さまで変えて随分と頑張っている歌手だと思った。
「あれもですね」
「あれはあの作品でよくある演出だよ」
「タンホイザーで」
「清純と妖艶がね」
部長は僕にここぞとばかりに話してきた、ひょっとして歌劇そしてワーグナーが好きなのはこの人じゃないだろうかと思った、奥さんじゃなくて。
「女性にはあるってね」
「同じ女性に」
「そう、女性の二面性をね」
女の人が同時に持っているというのだ。
「それを表した演出でね」
「一人の歌手がですね」
「両方を歌うんだ」
「そうなっているんですか」
「そう、面白いね」
「はい、かなり独特で」
それでとだ、僕はまた部長に応えた。
「驚きました、ただ」
「ただ?」
「人間は多面的なものですし」
僕もこのことはわかる、大学は経済学部だったけれどこうしたことも一応わかっているつもりである。
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