いたくないっ!
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第六章 オールアップ
1
上手い。
定夫は、沢花敦子の技術力に感心していた。
動画に、ピタリ一発で声を当てはめてしまう、その技術力の高さに。
先ほど、無声のまま一通りを見せてはいるが、だからといって誰でも簡単に出来るものではない。
タイミングだけでなく、演技力も完璧だ。
抑揚もしっかりしており、キャラの表情に頼ることなく声だけで喜怒哀楽とその度合いが分かる。
定夫は常々、いわゆるジャパニメーションにおいて声優の抑揚こそが一番大切なものであると信じている。
大袈裟過ぎるほどのメリハリを付けて喋らないと、むしろ違和感はなはだしいものになってしまうものなのだ。
素人声優に対して常々そうした不満を感じている定夫であるが、しかし沢花敦子に関しては、そのような心配はまったくの無用であった。
プロ顔負けの演技力。
この部屋にもついにじょじょじょっ、とかそういうこと関係なしに、純粋清らかな感動が、定夫の胸に生じていた。
まあ、そういうことに関係ある感動も、あるにはあったが。
ともかく、「これは」と間違いなくいえること、
それは、
「うるさいぞ、惚笛! 全然反省しとらんな! 次の関《せき》先生の時間も、ずっと立っとれ!」
「えーーーーーっ」
「惚笛、手、大丈夫か? 重いだろ」
「ありがとうございます。なんとか、まだ、耐えられそうです」
「しかしお前なあ、ほんと最近遅刻が多いぞ。そりゃあ怒られるって」
それは、
定夫たちの、高揚感。
自分たちの演技は相変わらずの酷さであったが、主人公の声が決まったことにより、そしてその声優が抜群の演技力を発揮してみせたことにより、定夫の中で張り合いが生じていた。
おそらくトゲリンたちも、同じ気持ちでいるのだろう。
同じネチョネチョ声でも、なんかよりツヤがかかっているとでもいえばいいのか。
沢花さん、凄いな。
声優志望、卵、というだけで、ここまでハイレベルの演技が出来るものなのか。
それとも反対に、そういう方面への能力がもともと高く自信があるからこそ声優を目指すことになったのか。
分からない。
分からないけど、
分からないけどっ……
「お前たちって、なんでそう三人集まると、どうでもいい話しかしないの?」
「どうでもよくない話って、なんですかあ」
「例えばさあ、進路のこととかあ。恋愛の話とかあ。えっと、あとなんだ」
ユニヴァァァァァァス!
これこそ、アニメの声だ!
そう、アニメとはかくあるべし!
愚民どもよ、聞けい。
心して聞けい!
アニメ声というのは、アニメがあるからアニメ声か?
否である!
千年前、一万年前、一億年前に生まれていようとも、アニメ声はアニメ声なのだ!
ビッグバンで宇宙が創生された時からの、永遠の法則なのだ!
「告白しちゃえば、いいんじゃないですかあ?」
「んな正直にいえるわけないだろ」
「いつもひねくれているんだから、こういう時くらい素直にならなきゃあ。わたしが伝えてあげますから」
しかし凄いな、沢花さん。一人で何役もの演じ分けが出来ているし、一役一役にしっかり魂が込められているのが分かる。
素晴らしい演技だ。
見習えい!
優れてもいないのに声優などといわれているバカ者ども!
見習う気が毛頭ないのなら、せめて声劣といいかえろ。
……などと心に吠えてみるものの、自分たちがまさにその声劣なわけだが。
定夫は、ちらと沢花敦子の横顔を見た。
台本を片手に、完全に入り込んでいる彼女の真剣な顔を。
黒縁眼鏡に、ちょっとニキビやソバカスが目立つという程度の、他に特徴という特徴のないどこにでもいそうな、ごくごく地味なその顔が、なんだかちょっぴりほんのりほんわか天使に思えてきた山田レンドル定夫、十七歳の秋であった。
2
「沢花さん、やっぱり別録りにする?」
休憩の最中に、八王子が不意に敦子へと尋ねた。
「ああ、はい、それでお願い出来ますか? まだまだ修行の身。感情移入には、妥協したくないですから」
なんの話かというと、もちろん吹き替えの話であるが、複数キャラを同時に吹き替えてしまうのか、それともキャラごとに一回ずつ吹き替えて重ねていくか、どちらにするかということだ。
先ほどは担当全キャラ並列で器用に吹き替えていた彼女であるが、本番ではもっとしっかり魂を込めたいということなのだろう。
野菜のような名前の宇宙人が主人公の格闘冒険アニメの担当声優のように、まるで混乱することなく楽々と複数キャラを演じられる神のような人もいるが、彼女にはまだそこまでの経験も自信もないし、別録りにすることで、しっかり感情移入をしているんだという自覚を持ちたいのだろう。
沢花敦子のプロ顔負けのこだわりに、地味ながら清々しい感動が熱く全身の血管をめぐる定夫であった。
その清々しい感動を、興奮したようなネチョネチョ声がすべて吹き飛ばした。
「さ、さわっ、あ、敦子殿っ! これ、このイラストの声っ、なんかっ、アドリブでっ」
がさごそバッグから取り出したノートを広げると、なにやら鉛筆描きの女性のイラストが。
水着アーマーを着て、大刀を背中に佩いた女戦士が、荒野の中、巨岩に腰掛けている。すぐ横には、ボールのような毛むくじゃらの妖精。
沢花敦子は難しい顔になって、うーんと考えたが、整いましたとばかりすぐ笑顔になると、抑えた低い声で語り始めた。
「わたしの名前はオーロラスカイ。アリフェルドを旅する女剣士だ。このもさもさしているのが、相棒のモーラ。神にいたずらしてこんな姿だが、もと人間、わたしの幼馴染だ。今日ここに……しっ、モーラ、どうやらきたみたいだぞ。覚悟? とっくに決めているさ。神殺しになるか、神に殺されるか。サイはもう投げられている。いい目が出ていると信じて、進むだけさ」
「おーーっ!」
拍手喝采の三人。
ただ定夫はそれよりも、トゲリンが沢花さんを下の名前で呼ぶことにチャレンジしてみていることの方が遥かに気になっていたが。青春、一歩リードされたみたいで。
「魂入ったああああ!」
トゲリンは自筆イラストを高く持ち上げてネチョネチョ声で絶叫した。
「では敦子殿っ、これはどうだっ」
八王子も、トゲリンの真似をして敦子殿。
床に置かれているアメアニ最新号を手に取り広げると、豹の毛皮を着たぼさぼさ髪の野生少年キャラを指差した。
深夜の五分アニメ「ともアニマ」の、ギャチンパだ。
「あーあーだ、あーあーっ暇だ。おっ、これはなんだっ。おいっ、ムイムイ、なんか落ちてるぞ。人間世界の、ガラスとかいうのの入れ物に、赤い砂が入ってる。綺麗だな。食べ物かなあ。オラちょうど腹ァ減ってたから丁度い……ウギーーー、口の中が焼けたアアアア!」
少年役もかなり器用にこなす敦子であった。
先ほどは、声を低くすることで渋い女性キャラを演じたが、今度はもっと声は高く、少しガラガラさせることで男の子であることを上手く表現している。
なるほど、声が低いから男の子、ではないのである。
「おーーーっ」
トゲリンと八王子が拍手をしている横で、山田レンドル定夫は一人ドギマギ焦っていた。
順番からして、次は自分がお題を出さなければならないのではと思って。
な、なにを出せばいい。
というか、どう喋りだせばいいんだ。
迷っていても仕方ない。
くそっ、やってやる。
「ではっ、あ、あつ、あつ、あつっ、あつ、あつ、ちょっちゅ、ちょっちゅ」
トゲリンや八王子のように冗談ぽく敦子殿と呼ぼうとするが、つっかえつっかえで言葉にならず。
焦りが焦りを呼んで、すっかり頭は真っ白。
適当に床を這わせていた手が、ベッドの下にある本のようなものに触れた。
「これはどうでござる!」
何故かトゲリン語で叫びながら、その表紙を敦子へと突き出した瞬間、手にしたそれが女子に見られてはいけない類の雑誌であることに気付き、びっくりして目玉が飛び出しバリンと眼鏡レンズを突き破った。
「まおおーーっ!」
定夫は必死に隠そうと雄叫びをあげながら、手にした本を身体の中に巻き込むようにして回転レシーブよろしくごろり床に転がった。
ボギリ。
「手ギャハイヤアアア!」
以前に不良生徒に蹴られねじられ、バレーボールのスパイク直撃を受け、ようやく治りかけていた手に、肥満した自らの全体重をかけてしまったのであった。
3
落ち着かない。
落ち着きがない。
そわそわ、そわそわ。
パソコンに繋がっていないマウスのボタンを、意味なくカチカチ押したり。
肩を左右に揺らしたり。
落ちたフケを下敷きで集めたり。
鼻毛を抜いて数えたり。
逆でもなんでもないのに、言葉の頭に「ぎゃ、逆にいうとっ」などと無意味に付けてしまったり。
なぜ落ち着かないのかというと、理由は明白。
沢花敦子と二人きりだからである。
女子と二人きり、しかも自分の部屋、という生まれて初めての体験に、定夫は興奮し、緊張し、すっかり落ち着かない精神状態に陥ってしまっていたのである。
ここはアニメ制作本部である、山田定夫司令官の自室。
沢花敦子が声の収録のために仲間に加わってから、はや数日が経過していた。
八王子は池袋の本屋へ行くため、今日はここへこられない。
トゲリンは、用事を済ませてからくる予定。
つまり、現在この部屋にいるのは、定夫と敦子の二人だけ。
壁を破壊して部屋を拡張して構わないなら、その壁の向こうに現在もう一人いるはずだが、代わりに定夫が地球の果てまで吹っ飛ばされることになるだろう。
つまり、やはりここには二人きりで、そうである以上は興奮緊張してしまうのも仕方ないのである。
仕方ないといっても、対する敦子の方はそんな心の機微とは一切無縁のようで、先ほどから学校の制服姿で床に正座して、パソコンモニターに映るアニメ動画をじーっと観ている。
彼女にお願いされて定夫が再生したものだが、なんでも自分の演じるキャラをもっと理解したいためとのことである。
これで何度目の観賞であろうか。
その都度、定夫はびくびくしてしまうのだが。
敦子が仲間に入ってからまだ日も浅く、役割としても声のみの参加。他人、という関係では既にないものの、少し離れた存在であることに違いはない。
という関係性の彼女に、自分たちの作ったアニメをじーっと観られているということが、どうにもダメ出しされているような気がしてしまって、つい緊張してしまうのである。
まあ定夫の場合は単に、じょじょじょっという緊張の方が大きいのかも知れないが。
さて、パソコンに映っていた動画の本編部分が終了して、黒い背景にスタッフ紹介の字幕が表示されている。
音は無い。
完全な無音である。
「うーん」
敦子は正座したまま、腕を組むと首を小さく捻った。
「ど、どどどむっ」
作画や演出のダメ出しでもされるのか、と、焦る定夫。
敦子はハッと我に返ると、笑みを浮かべ、
「あ、あ、すみません、また、あたしの中のほのかが、少し変化したなあと思って。でも、どこが変わったのか、言葉に出来なくて、考えてしまってたんです。……マイクを前にすれば分かるかも知れないので、後で録り直してみてもいいですか?」
「わ、わ、わかっ、分かたぬん」
ダメ出しでなくてよかった。定夫は脂肪まみれの胸をなでおろし、頷いた。
「ありがとうございます。ああ、それと、一つ気になったことがあるんですが」
「な、なな、なな、なにがでしかっ」
「もしかしたら、失礼なこと聞いちゃうかも知れないんですけど。……オープニングは、曲も歌もしっかりしてて、作画もキャラは可愛らしく演出も凝ってて、とても力が入っているのを感じるんですが、どうしてエンディングはこのように地味なんでしょうか?」
「んぬ? あっ、ああ、ああ、ももっ、そそっ、そるは単に、うう歌をっ作る能力が、我々に、ないから。……オップ、オプニングは、人から貰えたものだし、きょく曲へのっ感動がアニメをつつつる作るきっかけ、原動力になり、ひっ必然、気合の入った出来になったのだが」
「ああっ、そういえば以前に教えてもらいましたね、その経緯」
音がない以上は、なにか小細工をするよりは、開き直ってあえて地味にすることで、手作り感、アマチュア作品としての味が出るのではないかと定夫たち三人は考えた。
要するに、苦肉の策なのである。この、無音でテロップのみというのは。
「つまり、ちゃんとした歌があるなら使いたい、ということですか?」
「ま、まあ、まあっ、そそそそそそそれはっ」
エンディングテーマがあった方が、より作品は引き締まるに決まっている。
OVAなども黎明期を除いては、わざわざ三十分ものの尺で分割して話を作り、それぞれにオープニングにエンディング、アイキャッチ、次回予告、とわざわざテレビアニメ風に仕立てているくらいなのだから。
「だったら……」
敦子は顔を赤らめ、ちょっと恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
「こ、こんな歌はどうかな、というのがあるんです。たまたま、ほのかのエンディングとして合いそうな歌が」
「え。うっ、うっ、うた?」
豚といわれたと思ったわけではない。
聞き取れていたが、返す言葉が浮かばず聞き返しただけだ。
「はい。……あたしが中学生の頃に、作ったものなんですが」
なおも恥ずかしそうな顔の敦子、自分の携帯電話を操作してメモ帳アプリで自作の歌詞を表示させると、定夫へと渡した。
「べったべたの、クサい歌詞なんですけど」
敦子は照れたように笑う。
「でで、でではでは拝見」
携帯画面に表示されている歌詞に、目を通していく。
女子の携帯に触っていることにドキドキしながら。
『そっと目を閉じていた
波音ただ聞いていた
黄昏が線になって
すべてが闇に溶け
気付けば泣いていた
こらえ星空見上げる
崩れそうなつらさの中
からだふるわせ笑った
生きてくっていうことは
辛く悲しいものだけど
それでも地を踏みしめて
歩いてくしかないよね
笑えるって素敵だね
泣けるって素敵だね
もう迷わず
輝ける場所がきっと
待っているから
星は隠れ陽はまた登る
暖かく優しく包む
永遠の中
出会えたこの奇跡に
どこまでも飛べる きっと』
確かに、本人のいう通りクサさい。
クサいというか、単なる直球ストレートというべきか。
内容としては、人生の応援歌であろうか。
ひねていない。
敦子殿らしい、嫌味のまったくない素直な詞だ。
我々の作るアニメは、古く懐かしいものを最新のセンスで作る、ということを目指している。そう考えると、これは確かに良いかも知れない。
この歌詞が、一体どんなメロディに乗るのだろうか。
「あ、あのあのっ、きょ、曲はっ、どどっ、どどっ」
「ああ、そうですね。……ちょっと恥ずかしいけど、ここで歌ってみてもいいですかあ?」
「ど、どっ」
定夫は頷いた。
「メロディは繰り返すだけなので、一番だけ歌います。……では、行きます」
そういうと敦子は、腕を小さく振ってリズムをとりながら、歌い始めた。
敦子っぽくない、ちょっと低めの声で。
定夫は、携帯電話に表示されている歌詞を見ながら、その歌声を聞いた。
なんといえばいいのだろうか。
この懐かしい感覚を、なんと表現すればいいのだろうか。
バラードはバラードなのだが、昔のアニメ的というよりは、
なんだろう。
そうだ、合唱コンクールの歌のような、とでもいえばいいだろうか。
ゆったりとして、奇をてらわない、シンプルなメロディライン。
普段は高くほんわかした声の敦子であるが、この歌に合わせてということなのか低く抑えており、それがメロディに深みをもたらしいてる。
うっとり聞き惚れている間に、歌が終わっていた。
「お粗末でしたあ」
アカペラが終了し、高い地声に戻って恥ずかしそうな笑みを浮かべ頭を下げる敦子であったが、すぐその顔に疑問符が浮かび、小首を傾げた。
「あ、あのっ、どうかしました?」
ガタガタブルブルと震えていることに対してであろう。定夫の肩が、全身が、そして黒縁眼鏡のフレームが、傍目にも分かるくらい激しく。
敦子の問いに、ようやく定夫は口を開き、震える声を発した。
「すすっ、すっすっ、すっすっ、凄いっ。ぎゃ、逆にっ、逆に凄いっ」
なにが逆なのかは分からないが、感動に打ち震えていることに違いはないようである。と、そんな彼の反応に、敦子は改めて照れたように笑い、頭を掻いた。
「いやあそんな、ただ自分で歌を作ってみたというだけで、ええと編曲っていうんですか、カラオケみたいな、ああいうのはないんですけど」
「かっ、きゃっ、かっ、構わないっ! つつっ作ろう、このこの曲きょくっ、絶対にいい! つつっ使いたい! ……どっどどどどうにかして、へへ編曲を、したいところであるが」
「こんな感じかなーという伴奏の音色は、頭の中にはしっかり入っています。譜面に起こすことくらいなら、出来ると思います。以前に、ちょっとだけかじっていたことあるので。といっても楽器は全然ひけませんけどね。小さい頃にピアノを習っていたくらいで」
「なら、う、う、打ち込みで、やろう。あ、あつっ、あつっ、あう敦子殿にががが楽譜だけ、作ってもらっれ、うち打ち込みじぇ。八王子が、コンポーザーソフト、もも持ちてるっ」
「なんですか、それ」
「かっ簡単にいうとっ、るいるいっ、音楽を、プログラム演奏させさせるソフト。八王子、『はにゅかみっ!』のパッションエブリデイとか、みっ耳で聞いてコピーして打ち込んで、かっかなり忠実だったし、そ、そ、そ、それだけでなく、きっ器用にアレンジなんかも、していたし。ああ後でほほっ本人に相談して、みるけど、おっおそらく技術的には問題ないかと」
「うわ、凄いんですねえ、八さんって」
「たたたた確かに。パ、パッコン使わない創作系は、おれ同様に、てんでダメだけど、パソコン使ってのての作業だと、一人でなななんでもハイレベルでこなしてしまうところはある」
「期待大ですね。引き受けてくれるといいなあ」
「それで、歌は、あ、あつっ、あつ、あつっ、あつっ、敦子殿っががっ歌う、と」
「え? あ、あ、あたしがですかあ?」
曲を提供するだけのつもりだった。ということなのだろう。
「さっきの歌、上手だったし、もっ問題ない、思うけど。主人公の、声優でも、あっあるわけで」
「うーん。それじゃあ、挑戦してみようかなあ。ちょっと緊張しちゃいますね。……あのお、実は曲だけじゃなくてえ、エンディングの映像も頭に浮かんでいるものがあるんですよね」
「映像?」
「はい。モノクロ水彩画の止め絵で、なにか着ているのか裸なのか分からないような、シーツにくるまったほのかが丸くなって眠っているんです。でも最初はアップで、なんの映像か分からなくて、ゆーっくりカメラが回りながら引いて、だんだんと全体が映っていくような。あ、あの、は、裸といっても、全然いやらしい感じじゃないですからね」
敦子は顔を赤らめ、笑った。
「かか、かか、かなり合う気がっ、するな、さ、さっき聞いた歌の、イメージにっ。でででは、では、その絵は、トゲリンに依頼しよう。水彩で美少女をかか描いてみたいとかとか以前いってたたら、きっとやってくめるかとっ」
「はあ、凄いんですねえ、トゲさんも」
「まっ、まっ、まっ、まっその」
八王子とトゲリンばかりが褒められて、ちょっと傷つく定夫。だから田中角栄の真似をしているわけでもないが。
「労力的にも、お二人には大変な作業を強いることになっちゃいますね。あたしに画力とか楽器ひく才能とかあれば、あたしがやっちゃうんだけどなあ。残念ながら、そういうのさっぱりなんで」
「へ、へけっ、編曲はっ、コピープーストも多いし、作業が波に乗ってしっしまえば早い、とか以前に八王子がいてたっ。絵も絵で、止めだから、い、一枚描いてもらえればいいし。とは、とはいってもっ、トゲリンのことだから、相当にきっ気合を入れたもの描いてしまいそうな気も、す、するするけどっ」
「監督のレンさんと、三人組とも凝り性だから、あそこまでの作品が出来たんですものね」
「いや、おれなんか、ぜ、全然で。‥‥でも、でも、エ、エンディングの、アイディア、出してくれたことは、た、たつ、たたっ、助かたっ。確かに、字幕だけのエンディングの味気なさ、いいのだろうかという、複雑な気持ちもあったから。な、な、な、なんか、これで、すべてのピースがかっ噛み合いそうな、気が、するよ」
定夫は脂汗いっぱいの顔面を、ティッシュで拭った。
「そういっていただけて、ようやく少しだけお役に立てた気がします、あたし」
敦子はちょっと嬉しそうな表情で、ふふっと笑った。
4
いっちにっ、
いっちにっ、
いっちにっ、
いっちにっ、
ふぁいとっ、
ふぁいとっ、
いっちにっ、
河川敷沿いのサイクリングコース兼散歩道を、四人はジャージ姿でジョギングしている。
このような程度の運動負荷をジョギングといえるのならば、であるが。
定夫、
トゲリン、
八王子、
へとへとばてばて、ぜえはあぜえはあ、数秒後にでも死んでおかしくない苦しそうな表情。
酔っぱらいのような千鳥足のため余計に体力を消耗しているようにも見えるが、さりとてどうしようもないのだろう。
しかし酷い走りである。
疲れているということは鍛えられている。とでも思わねば、とてもやっていられないレベルだ。
唯一まともなのは、先頭を走る沢花敦子だ。
一人元気に、大きな声を発している。
先ほどの掛け声は、ほとんどが彼女によるものだ。
十メートルほども先行した彼女は、くるり後ろを振り返ると、もも上げをしながら、
「いい作品、作りたくないんですかあ!」
ぶんと両腕を振り上げた。
「そ、そりゃあ……」
ふらふらひらほれ朦朧とした意識の中で、定夫は口を開こうとした。
しかし口の中が粘っこくなっており、疲弊しきった現在の筋力で開ききること容易ではなかった。
普段は、誰に聞かれずともアニメの話をぺらぺらぺらぺら、ゾンビ並みに口の筋力だけは発達しているのではないかという定夫なのだが。
そ、そりゃあ、作りたい。
口が開かない代わりに、心の中でツィッター。
作りたいけど、
しかし、死んだら作れない。
休まねば。
せめて少しだけでも休まねば、多分そろそろ心臓が止まる。間違いなく、カウントダウンは始まっている。
心臓が止まったら、たぶん、死ぬ。「気づいたらゾンビになってましたザデッド」の中条雪麻呂でもない限り。
「すっ、少しっ、休ませて、くれ、敦子殿っ」
定夫は、はあはあひいひいの中、なんとか懇願の言葉を絞り出した。
「敦子殿」が出たついでに説明しておくが、
定夫の言葉がつっかえつっかえ聞き苦しいのは、疲労に息切れしているからであり、敦子に対してのお笑いメガトン級な喋りの固さは、この一週間でかなり取れていた。
トゲリンたちのように敦子をなんとか下の名前で呼ぶことが出来るようになってからというもの、好きなアニメを語り合うなど雑談も増え、とんとん拍子とまではいかないもののわずか数日間で普通に喋れるようになったのだ。
普通に喋る、といっても一般人健常者的な普通ではなく、あくまで素の自分を解放出来るようになったというだけのことであるが、出会ったばかりの時の喋り方を思えば格段の成長であろう。
だが、
しかし、
同じ高校に通う女子生徒と話せるようになったことによるわくわくライフなどは、これっぽっちも待ってなどいなかった。
最初はちょっぴり期待したけど、その期待は一瞬にして蹴り砕かれた。
声の担当になった敦子の指導が、かなり厳しいのだ。
鬼コーチなのだ。
演技指導は勿論のこと、なにより辛いのがこの体力作り。
腹から声を出すためにも、そして息切れしない声を出すためにも、最低限の体力はなければならない、という考えのもと、その最低限の体力をつけるのが目的だ。
最低限、であり、敦子にしてみればそれほどのことはしていないのだろう。
だがそれ以上に、定夫たちに元々の体力がないのだ。
だからこその体力作りなのであるが。
しかし、
ほんの一分走っただけで死にそうなのに。
自宅から遥々と川まで行って、土手を走って、戻ってくるなど、正気の沙汰じゃない。
休ませてくれ……
でないと、死ぬ。
いっちに、
いっちに、
いっちに、
いくぞお、おーっ
相変わらず、元気よく声を出しているのは敦子だけで、残る三人は、
ひっひはいいあああ、
いっひひゃっひ、
いっひりっひゃ、
親が見たら泣きたくなるであろう、実に情けない有様だった。
「があ、あ、あつっ」
敦子殿はっ、はしりる、走れる、から、いいけど……
くそ、喉が焼ける……
敦子は、声優を目指すためにジョギングと筋トレを日課にしているくらいだから、しっかり走れるのは当然というものだろう。日々の努力が偉いわけであり、ズルイとは違うのは定夫にも分かるが。
とはいえ別に彼女もアスリートを目指しているわけでなし、やはり定夫たち三人があまりにも酷いというのが、この能力差を生み出している主要因だろう。
酷いのも当然である。なにせ定夫たち三人は、CDケースを持ったり、USBメモリを挿し込んだり、リモコンのスイッチを押したり、せいぜいそんな程度にしか自らの筋肉を使ってこなかったのだから。
苦しいのも、走れないのも、千鳥足なのも、当然なのである。
敦子の指導による体力作りを始めてから、もう一週間。少しくらいは体力がついているのかも知れないが、回復しないうちに翌日のトレーニングを迎えるものだから、ぱっと見には日々酷くなってさえ行く有様であった。
「しょうがないなあ」
また敦子は振り向いて、しばらくもも上げを続けていたが、三人が右に左にふらふらしているだけで一向に近寄ってこないことに、諦めたか動くのをやめた。
「じゃあ、ちょっと休憩しますか。それから、ついでというわけじゃないけどここで発声練習をしましょう」
と、女神様から救いの言葉が投げ掛けられた、その瞬間である。
三人の男たちは同時に、路上にぶっ倒れていた。
頭から。
ごちっ、と凄まじい音を立て、額をアスファルトに打ち付けていた。
受け身を取る体力すらも、残っていなかったのである。
痛みを感じる体力すらも、残っていなかったのである。
定夫はごろり上を向くと、大の字に寝転がった。
トゲリンも、八王子も、同じようにごろり。
ぜいはあ、
ぜいはあ、
はあ、
はあ、
はあ、
広がる空を見上げ、いつまでも苦しそうな表情で酸素を求める定夫たち。
はあ、
はああ、
ぜいぜい、
ぜい、
……そして十五分の時が経過した。
ぜいぜい、
うおお、
はあ、
はあ、はあ、
がああ、
ぜいぜい、
ぜい、
「いい加減、回復してくださあい!」
青空の下に、敦子の怒鳴り声が轟いた。
「いつまでぜいはあやっているんですかあ。三人とも、体力なさすぎですよお」
「あ、あ、あと、三十分」
「ダメですっ。あと三十秒にしてください!」
鬼であろうか。
三十秒間、精一杯ゼイハアした定夫たちは、観念し、よろけながらなんとか立ち上がった。
相変わらず足元ふらふらで、肩を大きく上下させている状態であるが。
「ここまで回復しないほどスタミナがないのに、よく最初の一分で倒れませんでしたね。というか、よく最初の一歩を踏み出すことが出来ましたね」
「ア、ア、アニメ作るんだ、って、頑張って、しまったから。後さき考えず」
息切れ切れ八王子。
「あ、あ、後さき考えて、ささ、最初の一歩で、倒れておけばよかったでござる」
ト、ト、トゲリンも息切れ切れだ。
「だから、そうならないよう、しっかり鍛えて下さあい!」
というと敦子は気を取り直した様子で、道路脇にあるコンクリートの階段を降り始めた。
散歩道から河川敷へ入り、舗装路を歩いて川の方へ。
ふらふらと、三人も続く。
舗装路を外れ、草を踏みつけ、川の流れぎりぎりのところで、敦子は立ち止まり、くるり振り向いて定夫たちと向き合った。
「それじゃあ、発声練習を始めます。お腹に両手を当てて。はい! フフフフフ!」
フフ フフフ、
フフ フフ フー、
フー、
疲労が抜けておらず、へろへろだ。
「もっとしっかりと、お腹から声を出す! フフフフフ、はい!」
敦子はぽんぽん手を叩きながら、三人の前を行ったりきたりしていたが、
不意に定夫の前で、足を止めた。
「はい、続けて、フフフフ」
いいながら、ゆっくりと手を伸ばして、定夫のむにょんむにょんのお腹に手のひらを当て、ぐっと押した。
ゆっくりと手を引いた、その瞬間に、拳を突き出していた。
腹にズブリめり込んで、ぐほごほっ、と定夫はむせ返った。
「お腹が全然動いてません! レンさんお腹を使っていないから、跳ね返せなくて、そうなっちゃうんです! 声は腹式で! これ出来ると、出る声がまるで違ってきますから。しっかり意識していきましょう! 分かりましたか?」
「イーーッ!」
定夫は右腕振り上げ奇声を張り上げた。
なお、いまさらではあるが、レンさんとは定夫のことである。山田レンドル定夫、のレンさんだ。
「トゲさんもっ!」
ズドッ!
「グハでござるっ!」
「八さんもっ!」
ズドン。
「ぐぶう!」
「みんな、もっとお腹を使って! じゃあ次は、ハッヒッフッヘッホッ、でやりましょう。ハッヒッフッヘッホッ! はい!」
ハッヒッフッヘッホッ、
ハッヒッフッヘッホッ、
ハッヒッフッヘッホッ、
「お腹をよおく意識して。ハヒフヘホは腹筋使いますからね。自宅でもよおくトレーニングして、自分の身体に覚えさせて下さい。考えるんじゃなくて感じて下さい!」
ハッヒッフッヘッホッ、
ハッヒッフッヘッホッ、
ハッヒッフッヘッホッ、
「終了! では次、あめんぼあかいな。はいっ!」
あめんぼあかいなあいうえお
うきもにこえびも……
「舌自体はだいぶ柔らかく、回るようになってきましたね。滑舌、とてもよくなってきましたよ。……あとは、やっぱり腹式呼吸かなあ。……はい、では腹筋運動しましょう。みなさん、寝っ転がって下さい。あたしの真似をして、こんな感じに」
四人、川に足を向けて、横ならびに寝っ転がり、後頭部で両手を組んだ。
「開始っ! はい、いーち!」
ぐいー、と上体を起こすのは、敦子だけであった。
定夫たちは、顔を真っ赤にしてうんうん唸っているばかりで、ぴくりとも上半身を起こすことが出来なかった。
敦子にしてみれば、冗談なのか、というところであろうか。
しかし、冗談ではなかった。
いくら待てども、彼らはただの一回すらも上体を起こすことが出来なかったのである。
「うーん。……どうしても起き上がれないのなら、うつ伏せになって腕立て状態を維持、でもいいです。では、やってみましょう。あたしの真似をして下さい」
敦子は、仰向けに寝転んだ姿勢から、くるり身体を反転させて、腕立て状態を作った。
三人も、真似をする。ただ身体を反転させるというだけでドタンバタンかなり大変そうであったが、なんとか腕立ての姿勢になった。
「そう、そのままそのまま。こうしているだけでも、少し腹筋を使うでしょう?」
「ぐおおお!」
「ぬはあっ!」
「ぐーっ、ぐうーっ」
少しどころか、相当腹筋にくるようで、五秒ともたず潰れてしまう三人であった。
「みなさんしっかり! 千里の道もなんとやら。もっともっと鍛えて、立派な腹式呼吸を身につけましょう! それでは腕立て腹筋もう一回っ、行っくぞおおお!」
「ぐむおおおううう」
「ぎゅぎゅるりぎゃあああ!」
「ひびいいい!」
定夫は、ぎゅぎゅるりぎゃあなどと意味不明の絶叫を放ちながら、そして疲労と苦痛に半ば朦朧としながら、残る意識の中、考えていた。
これは果たして、有意義な時間の使い方なのであろうか。
ここまで肉体をいじめ抜くことに、なんの意味があるのだろうか。
分からない。
それは分からないけれど、
でも、
やらなければ、始まらない。
始まらなければ、始めなければ、なにも成せない。
だから、やるしかないんだ。
やるしかないのならば、やるぞ。
おれは、やるぞ。
それがきっと、夢へと繋がる。
ザ・アニメ!
「レンさんっ! 表情だけなんだか満足げになってて、お腹ついて休んじゃってますよ! さぼってる罰で、レンさんだけあと三十秒!」
ぎゅぎゅるりぎゃあ!
現実に戻され悲鳴絶叫の定夫であった。
5
それからさらに二週間、
沢花敦子コーチによる過酷なボイスアクタートレーニングは、一日の休みもなく続いた。
小学校四年生程度の運動負荷のどこが過酷か、と思われるかも知れないが、もとがあまりに軟弱なので。
三途の川を渡る寸前といった必死の形相で特訓を続けた割には、三人の体力はさしたる向上を見せなかった。
しかし、多少はよくなったことと、発声のコツをそこそこ掴めてきたこともあって(少なくとも最初よりは格段の進歩)、いよいよ本格的な吹き替えを開始することになった。
何日かけてでも納得行くものにしたいということと、慣れ親しんだ環境の方が緊張しにくいだろうという理由で、スタジオは借りずに定夫の部屋での収録である。
声が反響しやすいよう改良した部屋で、積まれた段ボール箱に置かれたマイクを四人で取り囲み、パソコンモニターに映るアニメの動きに合わせて、声を吹き込んだ。
何日も、何日も、かけて。
敦子は、主人公を含め自分の担当するキャラの音声を一日で完璧に録り終えていたが、男性声との掛け合い部分は、みんなに付き合って何回も新たに録音をした。
収録を続けていくうちに、敦子の中でキャラへの新たな気付きも生じて、彼女だけのパートを録り直しすることもあった。
音響監督は定夫のはずであったが、いつしか敦子が完全に監督。妥協を許さぬ姿勢でリテイクの嵐。
リテイク、リテイク、演技指導、リテイクという日々を、彼らは送るのだった。
学校の休み時間には、みんなで生徒の観察をしてリアルな学生を追求し、アニメにも共通する感覚についてを話し合って、
学校帰りには、神社を見学して、神社の空気を感じ、
そしてついでに必勝祈願。
素晴らしいアニメが完成しますよーに!
定夫の部屋で、あらためて反省点や勉強したことを話し合い、本日の吹き替えに挑み、リテイク、リテイク、演技指導、リテイク。
一つの台詞について、五百回以上は録り直しをしたであろうか。
同時進行でもう一つ大切な仕事が、エンディングテーマ曲の作成である。
敦子が作詞作曲し楽譜に起こしたものを、八王子がパソコンに打ち込み、オケを作り、敦子が吹き込む。
納得いかず、二人で何度、曲の修正や歌い直しを行っただろう。
そんな日々を送るうちに、さらに二週間、三週間、と時は流れ、
ついに、
オールアップの日を、迎えたのである。
6
定夫の部屋で、作品を観ている。
完成した、作品を。
四人で作り上げた、映像も、声も、効果音も、オープニングも、敦子が作って歌ったエンディングも(打ち込みは八王子)、すべてが仕上がった、技術的には拙いかも知れないがこれ以上に込める魂はないという作品を。
もう一回観ると、続いて作品をDVDに焼いて、ポーブルプレイヤーを持って外へ出て、河川敷の土手で四人、顔を寄せ合った。
場所を変え、駅前の喧騒の中で、
場所を変え、住宅街の公園ベンチで、
彼らは作品鑑賞を続けた。
作品はいつ誰がどんな環境で観るか分からないので、様々な環境で視聴チェックするのだ。という名目であるが、実際のところ、気分を味わいだけであった。
色々な場所で観ることで、初めて気分を、何度でも。
飽きるほど観ても、飽きはこなかった。
飽きはこないが、しかし空がすっかり暗くなってしまったので、再び定夫の自宅へ戻……と、その前にコンビニに寄って、サンドイッチや、唐揚げ殿、ポテトチップス、烏龍茶、ジュースなどを買い込んだ。
映像を観ながら、製作完了の打ち上げをするためだ。
7
レジ袋をそれぞれ両手に提げて、定夫の家に到着。
玄関から入ったところで、「じょじょ女子っ!」と一向に敦子の存在に慣れない山田幸美の驚く顔を尻目に、二階の部屋へ、いや血と汗と涙の染み込んだ制作本部へ。
これまでずっとマイク置き場として段ボール箱を置いていた部屋の中央に、ちゃぶ台をセッティング。
コンビニで買ってきた物をレジ袋から取り出して、片っ端から置いていった。隙間もないほどぎっちりである。
「実は拙者、先ほどこっそりノンアルコールビールなど購入してしまったでござる!」
トゲリンが、嬉し恥ずかしといった表情で、金色の缶を四本、ちゃぶ台の隙間にねじ込んだ。
「おおーっ、大人っ!」
八王子が、なんだかハイテンション気味に激しく拍手し、両腕を万歳のように振り上げた。
「あたしっ、あたしもっ、シガレットチョコ買っちゃいましたああ!」
大人といえばという対抗意識か、敦子もハイテンション気味に声を大きくし、がさごそ袋から取り出した物を高く掲げてみせた。
「うおおおおお」
と、トゲリンがネチョネチョ声で雄叫びをあげる。
そこまでハイにはなれないが、定夫も内心かなり興奮していた。
そして、やっと完成したんだなあ、と嬉しいような寂しいような気持ちをしみじみ胸の奥に味わっていた。娘が結婚する時の、父親の心境であろうか。
「そろそろ始めますか」
という八王子の言葉に、みなは顔を見合わせ恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
それぞれ、ノンアルコールビールの缶に指かけぷしゅり、
一応、紙コップにもオレンジジュースを注いで、
パソコンモニターに、自分たちの作ったアニメを再生させ、
そして、
「ほら、総監督っ」
と八王子に背中を叩かれ、定夫は口を開いた。
「ででではっ、こるまでの長い間、お疲れ様でした! 『魔法女子ほのか』の完成を祝して、そして成功を祈って、乾杯!」
「乾杯!」
一応の総監督である定夫の音頭に、トゲリン、八王子、敦子は、手にした缶をぐいと突き出した。
定夫は、缶に口をつけ、一口含んだ。
ぐびりごくごく大人の世界。
ノンアルコールだというのに、なんだか酔いが……
定夫と同様みなも気持ちに酔ったのか、誰からというわけでもなく敦子の選んだシガレットチョコを手に手に、肩を並べて片足をベッドに乗せて、霧笛が呼んでるぜポーズ、ぷはーーーーっ。
うわ恥ずかしい。我に返って、笑い合い、宴会再開。
みな、これまでの苦労や、作品への夢、はたまた関係ないアニメの話などで、大いに盛り上がったのだった。
8
一時間ほどが経過したであろうか。
「おのおのがた、そろそろ……」
トゲリンの声に、みなの表情がきりり引き締まった。
定夫は、こくと頷いた。八王子と敦子も続く。
なにをするのか?
これから、ついに作品をアップロードするのである。
彼らの作成したアニメ、「魔法女子ほのか」を。
インターネットという名の無限の荒野に、解き放つのだ。
「あー、なんかドキドキするう」
敦子が希望と緊張のない混ぜになった笑みを顔に浮かべながら、両手で小さな胸を押さえた。
「もも、もれも」
真似したわけではないのかも知れないが、定夫もそっと手を胸にあてた。敦子より遥かに脂身たっぷりの、お相撲さんに匹敵するようなむにょんむにょんの胸であるが。
ごくり。
定夫は、唾を飲んだ。
……既にネットで一定以上の反響は得ている。
そもそも、その反響こそが本格的制作への原動力になったのだから。
従って、そこそこはイケる気がする。
だが、どうなのだろうか。
果たして、世の反応は。
それは分からない。
でも、だからこそ、やるんだ。
分からないからこそ、やるんだ。
これまで頑張ってきたんだ。
そうだ。
きっと素晴らしい結果に繋がる。
などと心に呟きながら、定夫はパソコンのマウスをカチカチ、データアップロードの準備を進める。
準備は完了。
後は、送信ボタンを押すだけだ。
あらためて、定夫はマウスにそっと手をかぶせた。
その手の上に、トゲリンが自分の手を重ねる。
さらに八王子が、
最後に敦子が、そおっと小さな手を置いた。
無言で、頷きあう四人。
定夫は、指先に軽く力を入れた。
カチリ、という微かな音が、しんとした部屋に響いた。
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